好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

11節~それぞれのテーブル~ 4

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「お~、頑張った! 天内ちゃん飲める子だねぇ」

ももが四杯目のグラスを空にした瞬間、テーブルがわっと沸いた。
賑やかな声に囲まれて、ももはグラスを置き、ふぅと長い息を吐いた。

「えへへ……ふぅ、ちょっと休憩しますね」

火照った頬を両手でぱたぱたと仰いで冷まそうとする。
美味しいとは言いがたい酒を何杯も流し込んだせいで、頭の奥がふわふわと浮くように軽い。

気を付けていたつもりだった。
飲みすぎないように、隙を見せないようにと、どこかでブレーキをかけていたはずだったのに、いつの間にか、いつもの軽やかなペースはどこかへ消えてしまっていた。

きっちり閉じていたはずの浴衣の胸元は、気がつけば少し緩んでいる。
視界もわずかに滲んで、目の焦点が合うまでに一拍遅れる。

自分でも分かるほど、無防備だった。
その危うさに気づかないまま、テーブルのあちこちから、男たちの視線だけが静かに集まっていた。

「はい、休憩終わり~」

冗談めかした声とともに、立て続けにグラスが卓上へ並べられていく。
ガチャン、と氷のぶつかる音が重なり、ももは「うへぇ」と情けない声を漏らした。

「にしても、天内ちゃんはいい子で羨ましいよ。同じチームなら仕事もしやすいだろうなぁ」

「ホントホント。なんで営業部に来てくれなかったんだよ~」

笑い混じりの声。
この場に流れているのは、あくまで和やかなムードだった。
差し出されるグラスは多いけれど、今のところ、無理やり飲ませようとするような圧はまだない。

……この空気を、自分が壊すわけにはいかない。

胸の内側で、そんな言葉が静かに根を張る。
ももは、差し出されたグラスのひとつに、そっと指先を伸ばした。

自分は、空気が読めなければいけない。
周りが求める「感じのいい後輩」を、ちゃんと続けていなきゃいけない。

ここにいる男たちは、一応みんな会社の先輩だ。
ここで変に断って空気を重くすれば、今後の仕事がやりづらくなるかもしれない。
それでチームに面倒が降りかかるくらいなら――多少無理をしてでも、笑っていた方がいい。

それが、長い時間をかけて、ももの中に染みついてしまった考え方だった。

「そういえば、いい候補は見つかった? 彼氏募集中のももちゃん?」

軽い調子の声とともに、井口の手が肩へ伸びてくる。
ももはにこりと笑いながら、ほんの自然な動きで半身をずらし、その手を触れさせない。

「う~~ん……彼氏は、また今度にしようかなぁって」

冗談めかした言い方に、「えぇ~っ!」と残念そうな声が一斉に上がる。

「何で~? いいじゃん、今から自己紹介とアピールタイムにしようぜ!」

「バカ、そんなことしてたら飲み会終わるだろ」

わっと盛り上がる声に紛れて、井口が肩をすくめた。

「まぁ、焦ることもないんじゃない?」

助け舟のような言葉に、ももは作り慣れた笑顔で頷く。

「……ですよねっ、焦らなくても――」

「焦らなくても、まだ時間はいくらでもあるでしょ。ほら、今日……泊まりなんだし」

言葉の終わりだけ、妙にねっとりと湿っていた。
舐めるような視線が、もものはだけた胸元や、投げ出した膝から覗く素肌へと滑る。

その視線を肌が先に察したように、ももはびくりと肩を揺らし、慌てて浴衣の乱れを押さえた。

「え~、ダメですよぉ。部屋に戻らないと、せんぱいたちに心配されちゃいますもん」

努めて明るい声で返す。
空気を壊さないように、冗談の延長のように。

「あはは、真面目だなぁ、ももちゃんは」

口では褒めている。
けれど、その声音には温度がなかった。
軽く笑う言い回しの奥に、どこか底意地の悪さのようなものが混ざっていて、ももの背筋にぞわりと冷たいものが走る。

ここは宿泊施設。
部屋だろうが、廊下だろうが、目が届かない場所はいくらでもある。

大丈夫。
酔い潰れるようなヘマさえしなければ、いくらでも逃げ道はある――
そう、自分に言い聞かせる。

「まぁまぁ、先のこと話しても仕方ないしな! ほら、今はこの時間を楽しまないと!」

別の社員が手を叩いて、話題をぐいっと元の方向へ戻した。
さっきまでじわじわと熱を帯びていた空気が、ふっと冷めたように感じられて、ももは胸の奥でほっと小さく息を吐いた。

「あんまがっついてると、天内ちゃんに嫌われるぞ~」

軽口に合わせて、テーブルのあちこちで笑い声が弾む。
ももも同じように口元だけで笑みを作り、胸のざわつきを誤魔化すみたいに、そっと手元のグラスを傾けた。

唇が縁に触れた瞬間、舌の上を鋭い刺激が走る。
炭酸だけじゃない、アルコールの辛さと、やたら濃い苦みが丸ごと押し寄せてきた。

「んんっ……!?」

反射的に吐き出しそうになったところで、どうにか堪える。
焼けた鉄を流し込んだみたいな熱が喉を通り抜け、そのまま胸の内側を荒く撫でて、重たく胃の奥へと落ちていく。

お腹のあたりから、じわじわと火がつくように熱が広がった。
それなのに、頭の芯だけがふわりと宙に浮いたみたいに心許なく揺れて、視界の輪郭が、ほんの少しだけぼやけていった。

「こほっ、こほっ……!」

「ちょ、天内ちゃん大丈夫!?」

大きな手が、ももの背中を何度もさする。
薄い浴衣越しでも、その掌の重さと生々しさははっきり分かった。
けれど、今の彼女には、その感触を気にしている余裕はなかった。

「これ、すごく濃くて……けほっ……!」

かすれた声で訴えると、すぐさま野次が飛ぶ。

「おいおい、誰だよこんなの混ぜたやつ!」

「あの、お水を……」

自分の声が頼りなく揺れる。
体はぽかぽかと火照っているのに、胸の内側では冷たい焦りだけが膨らんでいく。

「水、水……? この席、酒しかないよな?」

「あっちにあるんじゃね? ほら、前の方の」

「つか、ももちゃん倒れそうじゃん。横になった方がいいんじゃない?」

井口の声が、遠くと近くを何度も行き来する。
耳の奥でぐわんぐわんと反響し、うまく言葉として拾えない。

身体が自分のものじゃないみたいに重くて動かない。
揺れる視界を無理やり持ち上げるようにして、周りをちらりと見渡す。

水は、確かに見当たらない。
そして、自分が座っているのは、出口に一番近い席。

もし、最初から――そうなるように並べられていたのだとしたら。

ぞくっ、と背中に冷たいものが走った。

「あの、お水飲めばだいじょーぶなので……」

何とか絞り出した声は、頼りなく空気に散っていく。

「水だって。部屋にあったっけ?」

「ああ、確か冷蔵庫にいっぱい入ってたような」

「い、いえ、その――」

そこまで言いかけた瞬間だった。

「ひゃああっ!?」

頬に冷たい塊が当たって、ももは飛び上がりそうになった。
思わず上がった悲鳴が、テーブルの喧騒を一瞬だけ止める。

「ほら、水。いつまで盛り上がってるんだ、お前ら」

低い声が落ちてきた。
ペットボトルを片手に、浴衣姿のヒロトが無表情で立っていた。
握ったままのボトルの底を、そのままももの頬にぐいっと押し当てている。

冷たさが、じわりと火照った皮膚に染み込んでいく。
その感覚と同時に、胸の奥から何かがほどけるように安心感が押し寄せた。
安堵と嬉しさが一気に混ざり合い、喉の奥で熱くなる。

そこでようやく、自分の手が小刻みに震えていたことに気づく。

「聞こえなかったのか? 席替えだってよ」

ヒロトの言葉に、はっとして周囲を見回す。
あちこちでグラスを持った社員たちが、ぞろぞろと立ち上がって移動を始めていた。

「なんだよ、もう移動かよ~」

不満げな声が飛ぶ。
ヒロトはそれを聞き流すように、すっとももの傍らにしゃがみ込んだ。

「ほら、立てるか?」

差し出された手に、反射的に体が伸びる。

「えへへぇ、せぇんぱぁ~い!」

ももはぱっと腕を伸ばし、そのままヒロトにしがみついた。
浴衣越しに伝わる体温が、現実の感触として胸に広がる。
触れた瞬間、ヒロトの指先がわずかに強ばった気配がした。

「おま、顔真っ赤じゃねぇか! どんだけ飲んでんだ、バカ!」

呆れたような声と、額に落ちる短いため息。
それでも、彼はその手を振り払おうとはしない。
むしろ、ももの体を支える腕に、少しだけ力を込めた。

「だってぇ、みなさん面白かったから、つい……」

ももは甘えた声で言いながら、さらにぎゅっと腕に絡みつく。
その指先だけが、ひどく冷え切っていることに、ヒロトは気づいていた。

ももの隣に腰を下ろしていた井口のほうへ、視線を送る。

「いつもいいところで来ますね。中町さんは」

「そりゃ、申し訳ないことをしたな」

淡々とした声。
けれど、ももを支える腕に込められる力は、さっきよりはっきりと強くなっていた。
その変化が、ももの胸の内側に静かに沁みていく。

「せんぱい、せんぱい、早くお水飲ませてくださいよぉ」

とろんとした声で甘えながら、ペットボトルを指先でつつく。
その調子があまりに普段どおりで、ヒロトは一瞬だけ目を丸くした。

「……やだよ。自分で飲め」

毒気を抜かれたように苦笑しながら答える。
ももは、はだけかけた浴衣も直さないまま、彼の腕にしがみついて「いじわるぅ」と笑った。

笑ってはいるのに、その奥でほどけていく何かがあった。
彼の腕から伝わる体温と、そこに込められた静かな力が、胸の奥のこわばりを少しずつ溶かしていく。

「……悪いな、遅くなって」

ふいに落ちた小さな声は、宴会場の喧騒に埋もれてしまいそうなくらいだった。
それでも、ももにははっきりと届く。

一瞬だけ、顔を上げる。
視界に映る横顔を見て、言葉にならない感情が喉の奥まで込み上げた。

けれど、代わりに選んだのは、いつもの調子だった。

「え~? なにがですかぁ?」

とぼけるような甘い響きでそう言って、彼の浴衣の袖にそっと額を押し当てる。

その声には、「ありがとう」という言葉が、柔らかく滲んでいた。

もう一段、確かめるように体重を預けて歩き出しながら、ももは胸の奥に残る苦い味ごと、ゆっくりと飲み込んでいった。
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