好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇3章【秘密とマグカップ】

1節~始動~ 5

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「あっ、中町くんと――天内ちゃんも、ちょうどよかった」

背後からかかった声に、ヒロトは振り返った。

会議室から戻ってきた麻衣が、資料の束を胸に抱えたまま、ふたりのほうへまっすぐ歩いてくる。ヒールの音がカーペット越しにやわく伝わってきて、近づくにつれて周囲の雑談が少しだけ細くなった。

彼女の視線が、ももの机の上に並べられたポップでカラフルな雑貨たちにふと留まる。
ミニ観葉、動物の付箋、ピンクのマグカップ。

一瞬だけ目を見開いたような素振りを見せたが、次の瞬間には、すぐいつもの「リーダーの顔」に戻っていた。

「……引っ越し、ご苦労様。天内ちゃん」

「はいっ!」

ももは、通知表を褒められた生徒みたいに嬉しそうに返事をする。椅子から立ち上がりそうな勢いのまま、背筋までしゃんと伸びた。

麻衣は困ったように笑って、すぐに仕事の顔に切り替える。

「それで──再来週の出張の件、詳細出たから先に伝えておくね」

麻衣は手にしていたスケジュール表を一枚抜き取り、ヒロトへ差し出す。
紙の端が、指先から指先へすべる感触がやけに現実的だった。

「最初のヒアリング先、桜の杜商店街。木金の一泊二日で仮押さえ済み」

「現地での聞き取りと写真撮影、SNS導線の導入支援が中心。観光通りにも近いから、客層分析も視野に入れて見てきて」

「いきなり出張か……了解」

ヒロトがスケジュールを目で追いながら頷くと、麻衣はももの方に向き直った。

「天内ちゃんは中町くんに同行ね。営業チームから高森さんも参加してくれるけど、現地でのSNS支援と、商店主さんへの取材、あと空気づくり、よろしく」

「はいっ! がんばります♡」

ももは、ひときわ明るい声で答えた。

椅子の背もたれからぐっと上体を起こし、膝の上で両手をぎゅっと握る。
その笑顔の奥に、少し照れたような、浮き立つような色が混ざっているのを、ヒロトは横から見ていても分かった。

視線を少しずらすと、その向こう側でキリカがタブレットの画面からほんの一瞬だけ目を離していた。

ももとヒロト、出張――そんな言葉が並んだあたりで、ペンを持つ指先がわずかに止まる。
表情は変わらないのに、胸の前で重ねていた手の力だけが、目に見えないところでぎゅっと強くなる。

そのささやかな変化を拾った瞬間、ヒロトの胸の内側で、小さなざらつきが広がった。
うまく名前をつけられない違和感だけが、そこに残る。

キリカは、ゆっくりと視線をタブレットへ戻した。

画面には『社内の資料作成』『提案構成』といった文字列が並んでいる。
自分に割り当てられた役割を、確かめるようにもう一度目でなぞり、その下の余白を指先でそっとなぞった。

顔にはほとんど何も出していない。
ただ、机の端に置いたペン立てを、無意識のうちにくるくると回してしまっているのが、横からでも分かる。

ヒロトはスケジュール表から視線を上げた。

そのまま反射的にもものほうを見ようとして――途中で、横から刺さるような視線に気づく。

そっとそちらへ向けると、ちょうど同じタイミングで、キリカもタブレットから顔を上げていた。
盗み見るつもりだったのか、視線の軌道が途中で止まり、空中でヒロトの目とまともにぶつかる。

一瞬だけ、時間が薄く張りつめる。

ヒロトは、何も見ていないふりをして、すぐに視線を外した。
キリカも同じように、何も聞かれなかったかのような顔で、タブレットへと目を戻す。

さっきまで画面の中にしかなかった「役割」の文字列よりも、その一瞬の視線の重さのほうが、よほど強く胸に残った。

「あー……よろしくな。現地での動きは、基本全部見せるから」

そう言ってしまってから、少しだけ言い方が硬かったかと内心で苦笑する。
ヒロトの言葉に、ももはぱっと顔を輝かせた。

「はいっ! いっぱい勉強させてください!」

その反応は、素直でまっすぐで、上司としてはありがたいものだ。
だからこそ、横でそれを見ているキリカの気配が、余計に気になった。

キリカは、タブレットに視線を落としたまま、わずかに眉を寄せていた。
口元はきゅっと結ばれているが、強く噛みしめているわけではない。
何かを言いかけて飲み込んだときによく見せる横顔だった。

ほんの少しの沈黙のあと、その口元が動く。

「──楽しそうですね、現地って」

ぽつりとこぼれた声に、テーブルの上の空気が一瞬だけ止まった。

責めるでも、拗ねるでもない。
ただ、事実を述べたような調子なのに、耳に届くその音には、言葉の量より多くのものが混ざっていた。

「あ~、明坂ちゃん、寂しいんでしょ~?」

一拍遅れて、ちひろがにやりと口角を上げる。

「な、何がですかっ!」

キリカはピシッと背筋を伸ばして反応した。
声がわずかに高くなり、耳のあたりがほんのり色づいていくのを、斜め前からでもはっきりと確認できる。

「私には『本当は一緒に行きたい』って聞こえたけど」

すみれがからかうように目を細めると、しおりもお茶を口に含みながら相槌を打つ。

「わかるわかる。明坂ちゃんって、顔はツンツンしてるのに、心はポヤポヤしてるんだよね」

「ぽ、ぽや……!? 私は別に……」

キリカは言いかけて、そこで言葉を飲み込んだ。

代わりに、胸元のネームプレートを指先で直す仕草をして、視線を少し外へ逃がす。
その横に置かれたボールペンが、小さな音を立てて転がった。

すると、すみれが腕を組みながら軽く笑った。

「ツン成分が薄まってきた証拠だね。前なら『関係ありません』って突っぱねてたでしょ」

「そ、そんなこと……」

声は出たものの、語尾は頼りなかった。
ちひろが「ね~、かわいくなったよねぇ」と重ねると、キリカはついに机の上のクリップをいじるふりで黙り込む。

けれど、頬の赤みはごまかせていなかった。

その様子を見ながら、ヒロトはコーヒーを一口すする。
ぬるくなりかけた苦みが喉を通り過ぎたところで、カップをそっと置き、口を開いた。

「──たった二日だけど、頼むな」

誰に向けた言葉か、はっきりさせるように、キリカのほうを見る。

「お前が社内でしっかり見ててくれると、正直安心できるから」

唐突と言えば唐突な言葉だった。
けれど、ヒロト自身としては、そのとき頭に浮かんだことをそのまま口にしただけだった。

「っ……わ、わかってます」

キリカは少しだけ背を正し、息を整えるように返した。

頬の赤みはまだ引いていない。
それでも、視線だけはまっすぐにこちらへ向けられている。

ヒロトの声には、余計な飾りもごまかしもなかった。
からかいでも、お世辞でもない。

ちゃんと自分を頼ってくれている――そう感じたのだろう。
キリカの肩から、さっきまでとは違う重みが、少しずつ溶けていくのが見えた。

「じゃあ、明坂せんぱいは留守番代表ですねっ。おみやげ期待しててください♪」

ももが無邪気に笑いながら、くるんと指で自分の髪を巻く。

「……期待してないですけど」

キリカはそう言いつつ、わずかに口元をゆるめた。

それはほんの一瞬の、けれど、見逃せない微笑みだった。
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