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三日後に控えた婚礼を前に、城内はさながら沸き立った蜂の巣のような喧騒に包まれていた。
廊下を忙しなく行き交う腰元たちの足音は絶え間なく、運び込まれる祝い品の数々は蔵に収まりきらぬほどだ。厨からは隣国の使者をもてなすための、贅を尽くした料理の匂いが漂ってくる。だが、その華やかな祝祭の気配のすべてが、透月にとっては自身の魂を弔う葬列の準備のようにしか感じられなかった。
「……これではない。もっと地味なものに取り替えろと言っているのが、分からぬのか!」
透月は、玄が恭しく差し出した婚礼用の帯を乱暴に払いのけた。 金糸と銀糸をふんだんに使い、瑞兆の鳳凰が鮮やかに刺繍された見事な帯が、畳の上を虚しく滑り、鈍い音を立てて転がる。
「殿下、これは隣国への敬意を示すためのものでございます。先方の姫君も、殿下の凛々しきお姿を心待ちにされていると聞き及んでおります」
玄は眉ひとつ動かさず、床に落ちた帯を拾い上げた。指先で細かな塵を払い、丁寧に折り畳むその動作はあまりに落ち着き払っている。それが、透月の苛立った神経をさらに逆なでした。
「姫、姫と……お前まで、俺の耳を汚すのか! 会ったこともない女の機嫌など知るものか。俺はただの飾り物ではない!」
「……ですが」
玄の声は、どこまでも澄んでいて、同時に酷く冷たかった。
「殿下は、この国の平和を背負っておいでなのです。一時の感情で、民を戦火にさらすような真似は、聡明な貴方様にはできぬはず。……さあ、こちらへ」
抗う隙を与えぬ静かな威圧感を持って、玄が一歩踏み込む。 透月を促す玄の手が、迷いなくその腰へと伸びた。帯を締め直すために至近距離まで近づいた玄の体温が、着物越しにじわりと伝わってくる。
透月は反射的に身を強張らせた。逃げ場を塞がれた籠の鳥のように、肩が小さく震える。
至近距離で見つめる玄の長い睫毛は、感情を遮断するように伏せられている。影を落としたその瞳に、いま、惨めに動揺する自分がどう映っているのか。透月には、それを確かめる勇気さえ持てなかった。己を型に嵌め、隣国へ送り出すための準備を淡々と進めるその献身が、何よりも恨めしかった。
玄にとっては、これも「皇子を美しく飾り立てる」という、数ある公務のひとつに過ぎないのだ。
そんな張り詰めた空気の中、透月のもとへ一通の親書が届けられた。 差出人は――隣国・蒼嶺(そうれい)の姫君、深雪(みゆき)。
「……ふん。丁寧なことだ。余計な真似を」
透月は文机に置かれた桜色の紙を、忌々しげに睨みつけた。 紙は指先が吸い付くような上質な和紙で、そこには仄かに香が焚き染められている。その優雅で甘い香りでさえ、今の透月には心を掻き乱す不快な異臭にしか感じられなかった。
震える指で文を開くと、流麗で柔らかな筆致が目に飛び込んでくる。
『――殿下が慣れぬ国へお越しになるにあたり、ご不安も多いこととお察しいたします。 少しでもお心が安らぎますよう、殿下がお好みと伺った茶葉と書物を揃えてお待ちしております。 お会いできる日を、心より楽しみにしております。』
そこに綴られていたのは、混じり気のない純粋な善意だった。 慈悲深く、聡明で、まだ見ぬ夫となる男をどこまでも思いやる心。文字の端々に、彼女がこの婚姻を平和の象徴として、そして一人の女性の幸福として、心から歓迎していることが痛いほど伝わってくる。
だが――読み進めるほどに、透月の胸は鉛を流し込まれたような冷たい痛みで満たされていった。
深雪の清らかさは、透月にとって救いではなく、研ぎ澄まされた刃だった。 彼女に非がないほど、彼女が慈愛に満ちているほど、透月は逃げ場のない檻に追い詰められていく。
自分は彼女を愛せない。一生、その微笑みに応えることはできないだろう。 心はとうの昔に、自分を「務め」としてしか扱わないあの男に奪われ、無残に繋ぎ止められているのだから。
それなのに、彼女は何も知らず、奈落の縁に立つ自分へ向かって無邪気に手を差し伸べてくる。
「……勝手に、期待していろ」
透月は吐き捨てるように呟き、逃げるように文を乱暴に伏せた。 だが、伏せられた桜色の紙の下で、深雪の書いた「楽しみにしております」という文字が、呪縛のように脳裏に焼き付いて離れない。
向けられる無垢な光が強ければ強いほど、透月の心に落ちる影は、より深く、よりどす黒く濃くなっていく。その逃げようのない優しさが、今の彼には世界で何よりも残酷な暴力だった。
「殿下。蒼嶺の姫君は、類稀なる美徳の持ち主であると聞き及んでおります。きっと殿下を良き夫として、生涯の支えとなってくださるでしょう」
背後から、静寂を裂くように玄の声が響いた。その一糸乱れぬ調律のような響きが、透月をさらに追い詰める。
「支える、だと? 笑わせるな。私はあちらへ行けば、国を繋ぐためのただの種馬か、棚に鎮座する飾りの人形だ。それを支えるも何もあるものか…!」
透月は弾かれたように立ち上がり、玄の眼前にまで詰め寄った。至近距離。だが、玄はわずかに視線を伏せ、壁に映る影のように微動だにせず、主を直視しようとはしない。その「分をわきまえた」態度が、透月の焦燥に火を注いだ。
「見てみろ、この文を。この女は、俺がどんな男かも知らずに、『楽しみにしております』などと抜かしている。浅ましいとは思わないか。お前も……こんな見え透いたおべっかを使う女のところに俺が行くのが、そんなに喜ばしいのか!」
「……お言葉ですが、殿下。姫君の御心は、その迷いのない筆跡からも誠実さが伝わります。殿下が新天地で幸せになられることを、私は……何よりも」
「幸せ? お前が言うか、それを……!」
透月は激情に任せ、玄の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。玄の装束が、力任せに握り潰されて無惨な皺を刻む。 掴み上げた拳から、布地を通して玄の鼓動が伝わってくる。
「お前にとっての幸せとは、俺がこの国から消え失せることだろう? そうすれば、お前はもう『皇子の道具』という惨めな役目から解放される。自由になったお前は、どこか適当な女でも見つけて、平穏に暮らすつもりなんだろうな!」
透月の言葉は、相手を傷つけるためというより、自分自身を切り刻む呪詛だった。 玄が自分以外の誰かを愛し、自分の知らない場所で誰かと結ばれる。自分を縛り付けていたすべての制約から解き放たれ、自分という存在を忘却の彼方へ追いやる。その光景を想像しただけで、透月は肺の空気がすべて引き抜かれたかのような、窒息しそうな嫉妬に狂いそうになる。
「答えろ! 俺がいなくなって嬉しいと言え! 清々すると笑ってみせろ!」
透月は狂おしい叫びをぶつけ、玄を激しく揺さぶった。 だが、玄は抵抗せず、その力をすべて受け止めている。ふと、伏せられていた玄の睫毛が震え、その瞳がゆっくりと持ち上げられた。
映し出されたのは、いつもの冷徹な理知ではない。 鏡のような静寂の中に、一滴の墨を落としたような、悲しげに揺れる深い深い暗香色の瞳。 その揺らぎは、あまりにも静かで、あまりにも絶望的で、透月は掴んでいた拳の力をふっと失いそうになった。
「……私は、この身を、一生を殿下に捧げると決めております。たとえ殿下が異国へ行かれようとも、その事実は揺らぎませぬ」
「……っ!そんな目に見えない、不確かなものに価値などない! 俺が欲しいのは、そんなものでは……!」
俺が欲しいのは、お前の形なき忠誠などではない。 お前のその頑強な体、自分を包み込む大きな手、耳元で名前を呼ぶ低い声。皇子という殻を剥ぎ取った、ただの「透月」という一人の男として自分を求め、焦がれ、焼き尽くすような熱なのだ。
喉元まで出かかった本音を、透月は血を吐くような思いで飲み込んだ。 それを口にしてしまえば、最後の一線が崩れ去る。玄を、自分と一緒に救いのない地獄へ引きずり込むことになってしまう。主従という鎖で辛うじて繋ぎ止めているこの均衡が、永遠に壊れてしまう。
透月は掴んでいた玄の衣を、己の未練を断ち切るように乱暴に突き放した。
「……もういい。下がれ。その文は捨てろ。蒼嶺の国も、姫も、そしてお前も……すべて吐き気がする」
透月は机の上の文を、払いのけるように床へぶちまけた。桜色の紙が、羽の折れた蝶のように畳の上を舞い、散らばる。 玄は反論ひとつせず、ただ無言で膝をついた。散乱した紙を一枚一枚、汚さぬように丁寧に拾い集めるその指先までもが、透月には酷く冷徹に映った。
「……失礼いたします。明朝、改めてお召し替えに参ります」
玄が静かに退出していく。その背中から、自分を繋ぎ止めていた最期の糸が、ぷつりと音を立てて切れるのが分かった。 独り取り残された部屋で、透月は崩れるように机に突っ伏した。
深雪姫が、救いようのない悪人であればよかった。 性格が歪み、醜悪で、誰もが眉をひそめるような女であれば、どれほど救われただろう。そうすれば自分は「不幸な結婚を強いられる悲劇の皇子」として、正当な憎しみを抱きながら、世界を呪って死んでいけた。
けれど、現実はどこまでも無情で、美しい。 用意されたのは、両国にとって最良の縁。民が待ち望む平和への架け橋。そして、慈愛に満ちた非の打ち所のない妻。 城内の誰もが、透月の門出を祝い、彼の「幸福」を疑わずに願っている。
ただ一人、その幸福という名の檻を「最悪の地獄」と感じている自分だけが、この世界で決定的に間違っているのだ。
「……あと、三日か」
透月は、刺されたように疼く胸を自らの手で強く押さえた。 肋骨の奥、心臓が悲鳴を上げている。
静まり返った部屋に、押し殺した嗚咽が漏れる。 初めて直面する、逃げ場のない現実の圧倒的な重さに、透月は子どものように肩を震わせ、声を殺して慟哭した。
廊下を忙しなく行き交う腰元たちの足音は絶え間なく、運び込まれる祝い品の数々は蔵に収まりきらぬほどだ。厨からは隣国の使者をもてなすための、贅を尽くした料理の匂いが漂ってくる。だが、その華やかな祝祭の気配のすべてが、透月にとっては自身の魂を弔う葬列の準備のようにしか感じられなかった。
「……これではない。もっと地味なものに取り替えろと言っているのが、分からぬのか!」
透月は、玄が恭しく差し出した婚礼用の帯を乱暴に払いのけた。 金糸と銀糸をふんだんに使い、瑞兆の鳳凰が鮮やかに刺繍された見事な帯が、畳の上を虚しく滑り、鈍い音を立てて転がる。
「殿下、これは隣国への敬意を示すためのものでございます。先方の姫君も、殿下の凛々しきお姿を心待ちにされていると聞き及んでおります」
玄は眉ひとつ動かさず、床に落ちた帯を拾い上げた。指先で細かな塵を払い、丁寧に折り畳むその動作はあまりに落ち着き払っている。それが、透月の苛立った神経をさらに逆なでした。
「姫、姫と……お前まで、俺の耳を汚すのか! 会ったこともない女の機嫌など知るものか。俺はただの飾り物ではない!」
「……ですが」
玄の声は、どこまでも澄んでいて、同時に酷く冷たかった。
「殿下は、この国の平和を背負っておいでなのです。一時の感情で、民を戦火にさらすような真似は、聡明な貴方様にはできぬはず。……さあ、こちらへ」
抗う隙を与えぬ静かな威圧感を持って、玄が一歩踏み込む。 透月を促す玄の手が、迷いなくその腰へと伸びた。帯を締め直すために至近距離まで近づいた玄の体温が、着物越しにじわりと伝わってくる。
透月は反射的に身を強張らせた。逃げ場を塞がれた籠の鳥のように、肩が小さく震える。
至近距離で見つめる玄の長い睫毛は、感情を遮断するように伏せられている。影を落としたその瞳に、いま、惨めに動揺する自分がどう映っているのか。透月には、それを確かめる勇気さえ持てなかった。己を型に嵌め、隣国へ送り出すための準備を淡々と進めるその献身が、何よりも恨めしかった。
玄にとっては、これも「皇子を美しく飾り立てる」という、数ある公務のひとつに過ぎないのだ。
そんな張り詰めた空気の中、透月のもとへ一通の親書が届けられた。 差出人は――隣国・蒼嶺(そうれい)の姫君、深雪(みゆき)。
「……ふん。丁寧なことだ。余計な真似を」
透月は文机に置かれた桜色の紙を、忌々しげに睨みつけた。 紙は指先が吸い付くような上質な和紙で、そこには仄かに香が焚き染められている。その優雅で甘い香りでさえ、今の透月には心を掻き乱す不快な異臭にしか感じられなかった。
震える指で文を開くと、流麗で柔らかな筆致が目に飛び込んでくる。
『――殿下が慣れぬ国へお越しになるにあたり、ご不安も多いこととお察しいたします。 少しでもお心が安らぎますよう、殿下がお好みと伺った茶葉と書物を揃えてお待ちしております。 お会いできる日を、心より楽しみにしております。』
そこに綴られていたのは、混じり気のない純粋な善意だった。 慈悲深く、聡明で、まだ見ぬ夫となる男をどこまでも思いやる心。文字の端々に、彼女がこの婚姻を平和の象徴として、そして一人の女性の幸福として、心から歓迎していることが痛いほど伝わってくる。
だが――読み進めるほどに、透月の胸は鉛を流し込まれたような冷たい痛みで満たされていった。
深雪の清らかさは、透月にとって救いではなく、研ぎ澄まされた刃だった。 彼女に非がないほど、彼女が慈愛に満ちているほど、透月は逃げ場のない檻に追い詰められていく。
自分は彼女を愛せない。一生、その微笑みに応えることはできないだろう。 心はとうの昔に、自分を「務め」としてしか扱わないあの男に奪われ、無残に繋ぎ止められているのだから。
それなのに、彼女は何も知らず、奈落の縁に立つ自分へ向かって無邪気に手を差し伸べてくる。
「……勝手に、期待していろ」
透月は吐き捨てるように呟き、逃げるように文を乱暴に伏せた。 だが、伏せられた桜色の紙の下で、深雪の書いた「楽しみにしております」という文字が、呪縛のように脳裏に焼き付いて離れない。
向けられる無垢な光が強ければ強いほど、透月の心に落ちる影は、より深く、よりどす黒く濃くなっていく。その逃げようのない優しさが、今の彼には世界で何よりも残酷な暴力だった。
「殿下。蒼嶺の姫君は、類稀なる美徳の持ち主であると聞き及んでおります。きっと殿下を良き夫として、生涯の支えとなってくださるでしょう」
背後から、静寂を裂くように玄の声が響いた。その一糸乱れぬ調律のような響きが、透月をさらに追い詰める。
「支える、だと? 笑わせるな。私はあちらへ行けば、国を繋ぐためのただの種馬か、棚に鎮座する飾りの人形だ。それを支えるも何もあるものか…!」
透月は弾かれたように立ち上がり、玄の眼前にまで詰め寄った。至近距離。だが、玄はわずかに視線を伏せ、壁に映る影のように微動だにせず、主を直視しようとはしない。その「分をわきまえた」態度が、透月の焦燥に火を注いだ。
「見てみろ、この文を。この女は、俺がどんな男かも知らずに、『楽しみにしております』などと抜かしている。浅ましいとは思わないか。お前も……こんな見え透いたおべっかを使う女のところに俺が行くのが、そんなに喜ばしいのか!」
「……お言葉ですが、殿下。姫君の御心は、その迷いのない筆跡からも誠実さが伝わります。殿下が新天地で幸せになられることを、私は……何よりも」
「幸せ? お前が言うか、それを……!」
透月は激情に任せ、玄の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。玄の装束が、力任せに握り潰されて無惨な皺を刻む。 掴み上げた拳から、布地を通して玄の鼓動が伝わってくる。
「お前にとっての幸せとは、俺がこの国から消え失せることだろう? そうすれば、お前はもう『皇子の道具』という惨めな役目から解放される。自由になったお前は、どこか適当な女でも見つけて、平穏に暮らすつもりなんだろうな!」
透月の言葉は、相手を傷つけるためというより、自分自身を切り刻む呪詛だった。 玄が自分以外の誰かを愛し、自分の知らない場所で誰かと結ばれる。自分を縛り付けていたすべての制約から解き放たれ、自分という存在を忘却の彼方へ追いやる。その光景を想像しただけで、透月は肺の空気がすべて引き抜かれたかのような、窒息しそうな嫉妬に狂いそうになる。
「答えろ! 俺がいなくなって嬉しいと言え! 清々すると笑ってみせろ!」
透月は狂おしい叫びをぶつけ、玄を激しく揺さぶった。 だが、玄は抵抗せず、その力をすべて受け止めている。ふと、伏せられていた玄の睫毛が震え、その瞳がゆっくりと持ち上げられた。
映し出されたのは、いつもの冷徹な理知ではない。 鏡のような静寂の中に、一滴の墨を落としたような、悲しげに揺れる深い深い暗香色の瞳。 その揺らぎは、あまりにも静かで、あまりにも絶望的で、透月は掴んでいた拳の力をふっと失いそうになった。
「……私は、この身を、一生を殿下に捧げると決めております。たとえ殿下が異国へ行かれようとも、その事実は揺らぎませぬ」
「……っ!そんな目に見えない、不確かなものに価値などない! 俺が欲しいのは、そんなものでは……!」
俺が欲しいのは、お前の形なき忠誠などではない。 お前のその頑強な体、自分を包み込む大きな手、耳元で名前を呼ぶ低い声。皇子という殻を剥ぎ取った、ただの「透月」という一人の男として自分を求め、焦がれ、焼き尽くすような熱なのだ。
喉元まで出かかった本音を、透月は血を吐くような思いで飲み込んだ。 それを口にしてしまえば、最後の一線が崩れ去る。玄を、自分と一緒に救いのない地獄へ引きずり込むことになってしまう。主従という鎖で辛うじて繋ぎ止めているこの均衡が、永遠に壊れてしまう。
透月は掴んでいた玄の衣を、己の未練を断ち切るように乱暴に突き放した。
「……もういい。下がれ。その文は捨てろ。蒼嶺の国も、姫も、そしてお前も……すべて吐き気がする」
透月は机の上の文を、払いのけるように床へぶちまけた。桜色の紙が、羽の折れた蝶のように畳の上を舞い、散らばる。 玄は反論ひとつせず、ただ無言で膝をついた。散乱した紙を一枚一枚、汚さぬように丁寧に拾い集めるその指先までもが、透月には酷く冷徹に映った。
「……失礼いたします。明朝、改めてお召し替えに参ります」
玄が静かに退出していく。その背中から、自分を繋ぎ止めていた最期の糸が、ぷつりと音を立てて切れるのが分かった。 独り取り残された部屋で、透月は崩れるように机に突っ伏した。
深雪姫が、救いようのない悪人であればよかった。 性格が歪み、醜悪で、誰もが眉をひそめるような女であれば、どれほど救われただろう。そうすれば自分は「不幸な結婚を強いられる悲劇の皇子」として、正当な憎しみを抱きながら、世界を呪って死んでいけた。
けれど、現実はどこまでも無情で、美しい。 用意されたのは、両国にとって最良の縁。民が待ち望む平和への架け橋。そして、慈愛に満ちた非の打ち所のない妻。 城内の誰もが、透月の門出を祝い、彼の「幸福」を疑わずに願っている。
ただ一人、その幸福という名の檻を「最悪の地獄」と感じている自分だけが、この世界で決定的に間違っているのだ。
「……あと、三日か」
透月は、刺されたように疼く胸を自らの手で強く押さえた。 肋骨の奥、心臓が悲鳴を上げている。
静まり返った部屋に、押し殺した嗚咽が漏れる。 初めて直面する、逃げ場のない現実の圧倒的な重さに、透月は子どものように肩を震わせ、声を殺して慟哭した。
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