4 / 6
4
しおりを挟む
婚礼の二日前。城内は明朝の出発を控え、いよいよ極限まで膨れ上がった嵐のような慌ただしさに包まれていた。
廊下を駆ける足音、積み上げられる行李の山、そして国境を越えるための輿の最終点検。誰もがこの大規模な移動の準備に追われる中、その中心人物であるはずの透月は、重苦しい装束を脱ぎ捨てていた。
彼は身軽な着流しに袖を通し、飾り気のない一本の脇差だけを帯に差して、主人の居ぬ間に部屋を抜け出すようにして廊下へ出た。
「殿下、どこへ行かれるおつもりですか。これより儀式の最終確認と、宿老たちとの謁見が控えて――」
背後から追いすがってきたのは、やはり玄だった。その声には、珍しく微かな動揺の色が混じっている。 透月は歩みを止めず、振り返りもしないまま短く言い放った。
「最後だ。もうすぐ俺は籠の中に入れられ、他人の敷いた道の上を行くことになる。最後くらい、自分の足で行きたい場所へ行かせろ」
その声は低く、だが鋼のような硬い決意を帯びていた。
玄は立ち止まり、一瞬だけ戸惑うように眉を寄せた。その切れ長の瞳に、一瞬だけ「忠臣」としての義務と、「個人」としての衝動が火花を散らす。だが、それも瞬きほどの間だった。
「……承知いたしました」
玄は深く一礼し、それ以上は何も言わなかった。 ただ、吸い込まれるような夕闇の中へ踏み出した透月の背に、音もなく、影のように寄り添う。主の歩幅を完璧に理解している、そのいつもの距離感で。
二人は人目を忍んで裏門から城を抜け出し、黄昏時の市井へと繰り出した。
そこには、城内の息詰まるような緊張感とは無縁の、生身の人間たちの営みがあった。 威勢のいい魚売りの呼び声が空に響き、路地裏からは追いかけっこをする子どもたちの甲高い笑い声が聞こえてくる。どこかの軒先からは、味噌を焼く芳ばしい匂いや夕餉の支度の匂いが漂い、人々の生活の熱気が肌を撫でた。
皇子として生まれ、重い御簾や塗り重ねられた籠の中からしか外の世界を覗いたことのない透月にとって、その光景はあまりに眩しく、そして手の届かぬ遠い出来事のように感じられた。
「見てみろ、玄。誰も私が、どこの誰に売られていくかも、どこで死ぬか生きるかも、気に留めはしないのだ」
透月は、雑踏の中をすり抜けるように歩を進めた。 本来であれば、玄が先回りして民を退け、道を開けさせるところだ。だが今日は、透月がそれを厳しく禁じた。「今日だけは、ただの人として歩きたい」という、切実な願いを、玄は無言のまま深く汲み取っていた。玄は主の数歩後ろ、雑踏に紛れつつも、万が一の際には即座にその身を盾にできる絶妙な距離を保って付き従う。
家々の灯りがぽつぽつと灯り始める頃、二人は街外れにある小高い丘へと辿り着いた。
頂に立つと、自分たちが生まれ育った城下町が一望できた。 西日に照らされ、燃えるようなオレンジ色に染まる幾千の瓦屋根。家々の隙間から細く立ち上る炊煙が、夕闇に溶けていく。そのすべてが痛いほど穏やかで、優しかった。
もうじき、自分がこの国を去り、異国の地で心を殺して生き始めることなど何事もなかったかのように、世界は明日も同じように続いていく。その残酷なまでの日常が、逃げ場のない現実を透月に突きつけていた。
透月は、眼下に広がる景色を、まるで今生の見納めであるかのように目に焼き付けようと、じっと見つめ続けた。
「……玄。お前は子どもの頃、何になりたかった?」
透月は湿り気を帯び始めた草の上に腰を下ろし、暮れゆく街の灯を見つめたまま問いかけた。 玄は数歩離れた場所に立ち、背後の木立に意識を向け、周囲の気配を警戒しながらも静かに答えた。
「考えたこともございません。私は、殿下の影として生きるために拾われた身ですので。私の過去も未来も、すべては殿下をお守りするためにございます」
「……ふん。どこまでも、つまらない男だな」
透月は鼻で笑い、自嘲気味に口角を上げた。その笑みには、玄の誠実さに対する愛おしさと、それを「忠義」という言葉でしか受け取れない己の境遇への諦念が混じり合っていた。
「私はな、鳥になりたかった。雲の切れ間を縫って、国境などという見えない線を知らずに飛び回る鳥に。……あるいは、この街の片隅に住まう、しがない職人でもよかったのだ。朝から晩まで汗を流し、その日暮らしの銭を稼ぐ。そうすれば、好きな時に好きな場所へ行き……」
そこで言葉を切り、透月は震える吐息とともに、心の奥底に沈めていた言葉を掬い上げた。
「好きな者を、好きだと言えたかもしれないな」
玄の背中が、わずかに揺れた。
透月は膝を抱え込み、自分の指先をじっと見つめた。 この指で、何度あの背中に触れたいと願っただろう。皇子という身分も、国と国との盟約も、すべてを放り出して、ただ一人の人間として「行きたくない。お前と一緒にいたい」と縋りたかった。
だが、この指が掴めるのは、自分の膝の布地だけだ。 言葉にすればすべてが崩れる。けれど、言わなければ心は腐り落ちていく。沈黙と告白の狭間で、透月の指先は白くなるほど強く、自らの脚を締め付けていた。
城へと戻ってきた頃には、夜の帳が完全に下りていた。 庭園は骨身に染みるほど冷え込み、中天に掛かる月が青白く凍てつく木々を照らし出している。
透月は、かつて玄に危ういところを救われたあの池のそばまで来ると足を止めた。
その時、背後の茂みがカサリと不自然に揺れた。
「……玄? もういいだろう。ここからは一人にしろ…」
苛立ちを隠さずに振り返るが、返事はない。代わりに、夜の静寂を切り裂くような、冷たい金属が擦れ合う鋭い音が鼓膜を打った。 透月が目を見開いた瞬間、黒装束を纏った二人の男が、闇の底から獣のような速さで飛び出してきた。
「第三皇子、透月だな。……和平の礎など、この場で砕いてくれる!」
男の手には、月光を反射して青白く光る刺突用の短刀。 両国の和睦を良しとしない反対派の刺客――婚礼を阻止し、再び戦の火種を煽ろうとする者たちが放った刺客に違いなかった。
「あ……」
喉が震え、声にならない悲鳴が漏れる。 恐怖で、一歩も動けない。
死を覚悟し、透月が強く目を閉じたその時。
「――殿下!」
突風が吹き抜けたかのような衝撃とともに、分厚い黒い影が視界に割り込んできた。 玄だ。彼は鞘に入ったままの刀で刺客の腕を骨が砕けんばかりに強かに打ち据え、透月を大きな体で包み込むようにして背後へ庇い入れた。
「お逃げください! 早く!」
玄の声は、先ほどまでの穏やかな静寂が嘘のように低く、剥き出しの殺意を帯びていた。 刺客は忌々しげに舌打ちし、左右に分かれて波状攻撃を仕掛ける。玄は多勢に無勢という不利な状況にありながら、透月という守るべき「芯」を決して手放さず、一歩も引かずに応戦した。
「ぐっ……!」
鈍い音が響き、玄の肩から温かい飛沫が舞った。 刺客の一人の刃が、防御を掻い潜って彼の肩を深く抉ったのだ。鮮血が夜の闇に散り、透月の頬をかすめる。
「玄! 傷が……!」
「早くお逃げください、殿下!」
玄は負傷した左腕の痛みを、奥歯を噛み締めて押し殺した。 直後、彼は右手の刀を一閃させた。目にも止まらぬ速さの旋回。急所こそ外したものの、刺客の脚と腕を正確に切り裂き、その場に崩れ落ちさせる。
戦意を喪失した刺客たちは、遠くから聞こえてくる衛兵たちの喧騒と足音に気づき、闇の中へと逃げ去っていった。
「玄! ……ああ、血が止まらぬではないか!」
透月は地面に膝をつき、肩を押さえて座り込む玄のもとへ、なりふり構わず駆け寄った。 青白い月明かりの下、玄の黒い衣をさらに染めていく鮮血が、透月の視界を恐怖で塗り潰していく。
「……掠り傷にございます。それよりも、殿下にお怪我は……? どこか、痛みはございませんか」
「俺は何ともない! お前こそ、自分の心配をしろ!」
透月は震える手で懐から絹の端切れを取り出し、玄の傷口を力任せに縛り上げた。 夜の静寂の中、二人の距離は、吐息が重なり合うほどに近づく。玄の肌から放たれる熱、鼻腔を突く鉄のような血の匂い、そして二人だけの荒い鼓動。
「どうして……どうしてお前が傷つかねばならない!? 俺が、死ねばよかったのだ!そうすれば、お前もこんな傷を負わなくて済んだのに……!」
透月の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように涙が溢れ落ちた。 玄は痛みに耐え、激しく波打つ胸を落ち着かせながら、言った。
「……滅相もないことを。そのようなこと、二度と口になさらないでください」
玄は、真っ直ぐに透月を見つめた。
「貴方様をお守りすること、それだけが私の人生のすべてにございます。……たとえ、この先お心が遠く離れ、私のことを忘れてしまわれようとも。この命、殿下の歩まれる道の平和のために捧げると誓っております」
その言葉は、透月にとって世界で最も欲しかった愛の告白のように響いた。 けれど同時に、それは「愛」という名の救いではなく、「忠義」という名の解けない呪いであることを、まざまざと突きつけてくる。
(「すべて」などと言うな……)
自分はこれから、この男をこの国に残して旅立つ。 玄は命を懸けて自分を檻の中へ送り出し、自分がいなくなった後は、また別の誰かの「影」となり、別の誰かのためにその命を擦り減らしていくのだろうか。
「……お前は、本当に最低の従者だ」
透月は吐き捨てるように呟くと、玄の血生臭い胸元に顔を埋め、声を殺して泣いた。 玄は、その震える肩を抱きしめ返したいという衝動を、理性で抑え込んでいた。彼はただ、主が泣き止むまで、降り注ぐ夜露を凌ぐ屋根のように、静かに、どこまでも静かにその傍らに佇んでいた。
出発まで、あと二日。 別れの足音は、逃げ場のない闇の奥から、無情にもすぐそこまで迫っていた。
廊下を駆ける足音、積み上げられる行李の山、そして国境を越えるための輿の最終点検。誰もがこの大規模な移動の準備に追われる中、その中心人物であるはずの透月は、重苦しい装束を脱ぎ捨てていた。
彼は身軽な着流しに袖を通し、飾り気のない一本の脇差だけを帯に差して、主人の居ぬ間に部屋を抜け出すようにして廊下へ出た。
「殿下、どこへ行かれるおつもりですか。これより儀式の最終確認と、宿老たちとの謁見が控えて――」
背後から追いすがってきたのは、やはり玄だった。その声には、珍しく微かな動揺の色が混じっている。 透月は歩みを止めず、振り返りもしないまま短く言い放った。
「最後だ。もうすぐ俺は籠の中に入れられ、他人の敷いた道の上を行くことになる。最後くらい、自分の足で行きたい場所へ行かせろ」
その声は低く、だが鋼のような硬い決意を帯びていた。
玄は立ち止まり、一瞬だけ戸惑うように眉を寄せた。その切れ長の瞳に、一瞬だけ「忠臣」としての義務と、「個人」としての衝動が火花を散らす。だが、それも瞬きほどの間だった。
「……承知いたしました」
玄は深く一礼し、それ以上は何も言わなかった。 ただ、吸い込まれるような夕闇の中へ踏み出した透月の背に、音もなく、影のように寄り添う。主の歩幅を完璧に理解している、そのいつもの距離感で。
二人は人目を忍んで裏門から城を抜け出し、黄昏時の市井へと繰り出した。
そこには、城内の息詰まるような緊張感とは無縁の、生身の人間たちの営みがあった。 威勢のいい魚売りの呼び声が空に響き、路地裏からは追いかけっこをする子どもたちの甲高い笑い声が聞こえてくる。どこかの軒先からは、味噌を焼く芳ばしい匂いや夕餉の支度の匂いが漂い、人々の生活の熱気が肌を撫でた。
皇子として生まれ、重い御簾や塗り重ねられた籠の中からしか外の世界を覗いたことのない透月にとって、その光景はあまりに眩しく、そして手の届かぬ遠い出来事のように感じられた。
「見てみろ、玄。誰も私が、どこの誰に売られていくかも、どこで死ぬか生きるかも、気に留めはしないのだ」
透月は、雑踏の中をすり抜けるように歩を進めた。 本来であれば、玄が先回りして民を退け、道を開けさせるところだ。だが今日は、透月がそれを厳しく禁じた。「今日だけは、ただの人として歩きたい」という、切実な願いを、玄は無言のまま深く汲み取っていた。玄は主の数歩後ろ、雑踏に紛れつつも、万が一の際には即座にその身を盾にできる絶妙な距離を保って付き従う。
家々の灯りがぽつぽつと灯り始める頃、二人は街外れにある小高い丘へと辿り着いた。
頂に立つと、自分たちが生まれ育った城下町が一望できた。 西日に照らされ、燃えるようなオレンジ色に染まる幾千の瓦屋根。家々の隙間から細く立ち上る炊煙が、夕闇に溶けていく。そのすべてが痛いほど穏やかで、優しかった。
もうじき、自分がこの国を去り、異国の地で心を殺して生き始めることなど何事もなかったかのように、世界は明日も同じように続いていく。その残酷なまでの日常が、逃げ場のない現実を透月に突きつけていた。
透月は、眼下に広がる景色を、まるで今生の見納めであるかのように目に焼き付けようと、じっと見つめ続けた。
「……玄。お前は子どもの頃、何になりたかった?」
透月は湿り気を帯び始めた草の上に腰を下ろし、暮れゆく街の灯を見つめたまま問いかけた。 玄は数歩離れた場所に立ち、背後の木立に意識を向け、周囲の気配を警戒しながらも静かに答えた。
「考えたこともございません。私は、殿下の影として生きるために拾われた身ですので。私の過去も未来も、すべては殿下をお守りするためにございます」
「……ふん。どこまでも、つまらない男だな」
透月は鼻で笑い、自嘲気味に口角を上げた。その笑みには、玄の誠実さに対する愛おしさと、それを「忠義」という言葉でしか受け取れない己の境遇への諦念が混じり合っていた。
「私はな、鳥になりたかった。雲の切れ間を縫って、国境などという見えない線を知らずに飛び回る鳥に。……あるいは、この街の片隅に住まう、しがない職人でもよかったのだ。朝から晩まで汗を流し、その日暮らしの銭を稼ぐ。そうすれば、好きな時に好きな場所へ行き……」
そこで言葉を切り、透月は震える吐息とともに、心の奥底に沈めていた言葉を掬い上げた。
「好きな者を、好きだと言えたかもしれないな」
玄の背中が、わずかに揺れた。
透月は膝を抱え込み、自分の指先をじっと見つめた。 この指で、何度あの背中に触れたいと願っただろう。皇子という身分も、国と国との盟約も、すべてを放り出して、ただ一人の人間として「行きたくない。お前と一緒にいたい」と縋りたかった。
だが、この指が掴めるのは、自分の膝の布地だけだ。 言葉にすればすべてが崩れる。けれど、言わなければ心は腐り落ちていく。沈黙と告白の狭間で、透月の指先は白くなるほど強く、自らの脚を締め付けていた。
城へと戻ってきた頃には、夜の帳が完全に下りていた。 庭園は骨身に染みるほど冷え込み、中天に掛かる月が青白く凍てつく木々を照らし出している。
透月は、かつて玄に危ういところを救われたあの池のそばまで来ると足を止めた。
その時、背後の茂みがカサリと不自然に揺れた。
「……玄? もういいだろう。ここからは一人にしろ…」
苛立ちを隠さずに振り返るが、返事はない。代わりに、夜の静寂を切り裂くような、冷たい金属が擦れ合う鋭い音が鼓膜を打った。 透月が目を見開いた瞬間、黒装束を纏った二人の男が、闇の底から獣のような速さで飛び出してきた。
「第三皇子、透月だな。……和平の礎など、この場で砕いてくれる!」
男の手には、月光を反射して青白く光る刺突用の短刀。 両国の和睦を良しとしない反対派の刺客――婚礼を阻止し、再び戦の火種を煽ろうとする者たちが放った刺客に違いなかった。
「あ……」
喉が震え、声にならない悲鳴が漏れる。 恐怖で、一歩も動けない。
死を覚悟し、透月が強く目を閉じたその時。
「――殿下!」
突風が吹き抜けたかのような衝撃とともに、分厚い黒い影が視界に割り込んできた。 玄だ。彼は鞘に入ったままの刀で刺客の腕を骨が砕けんばかりに強かに打ち据え、透月を大きな体で包み込むようにして背後へ庇い入れた。
「お逃げください! 早く!」
玄の声は、先ほどまでの穏やかな静寂が嘘のように低く、剥き出しの殺意を帯びていた。 刺客は忌々しげに舌打ちし、左右に分かれて波状攻撃を仕掛ける。玄は多勢に無勢という不利な状況にありながら、透月という守るべき「芯」を決して手放さず、一歩も引かずに応戦した。
「ぐっ……!」
鈍い音が響き、玄の肩から温かい飛沫が舞った。 刺客の一人の刃が、防御を掻い潜って彼の肩を深く抉ったのだ。鮮血が夜の闇に散り、透月の頬をかすめる。
「玄! 傷が……!」
「早くお逃げください、殿下!」
玄は負傷した左腕の痛みを、奥歯を噛み締めて押し殺した。 直後、彼は右手の刀を一閃させた。目にも止まらぬ速さの旋回。急所こそ外したものの、刺客の脚と腕を正確に切り裂き、その場に崩れ落ちさせる。
戦意を喪失した刺客たちは、遠くから聞こえてくる衛兵たちの喧騒と足音に気づき、闇の中へと逃げ去っていった。
「玄! ……ああ、血が止まらぬではないか!」
透月は地面に膝をつき、肩を押さえて座り込む玄のもとへ、なりふり構わず駆け寄った。 青白い月明かりの下、玄の黒い衣をさらに染めていく鮮血が、透月の視界を恐怖で塗り潰していく。
「……掠り傷にございます。それよりも、殿下にお怪我は……? どこか、痛みはございませんか」
「俺は何ともない! お前こそ、自分の心配をしろ!」
透月は震える手で懐から絹の端切れを取り出し、玄の傷口を力任せに縛り上げた。 夜の静寂の中、二人の距離は、吐息が重なり合うほどに近づく。玄の肌から放たれる熱、鼻腔を突く鉄のような血の匂い、そして二人だけの荒い鼓動。
「どうして……どうしてお前が傷つかねばならない!? 俺が、死ねばよかったのだ!そうすれば、お前もこんな傷を負わなくて済んだのに……!」
透月の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように涙が溢れ落ちた。 玄は痛みに耐え、激しく波打つ胸を落ち着かせながら、言った。
「……滅相もないことを。そのようなこと、二度と口になさらないでください」
玄は、真っ直ぐに透月を見つめた。
「貴方様をお守りすること、それだけが私の人生のすべてにございます。……たとえ、この先お心が遠く離れ、私のことを忘れてしまわれようとも。この命、殿下の歩まれる道の平和のために捧げると誓っております」
その言葉は、透月にとって世界で最も欲しかった愛の告白のように響いた。 けれど同時に、それは「愛」という名の救いではなく、「忠義」という名の解けない呪いであることを、まざまざと突きつけてくる。
(「すべて」などと言うな……)
自分はこれから、この男をこの国に残して旅立つ。 玄は命を懸けて自分を檻の中へ送り出し、自分がいなくなった後は、また別の誰かの「影」となり、別の誰かのためにその命を擦り減らしていくのだろうか。
「……お前は、本当に最低の従者だ」
透月は吐き捨てるように呟くと、玄の血生臭い胸元に顔を埋め、声を殺して泣いた。 玄は、その震える肩を抱きしめ返したいという衝動を、理性で抑え込んでいた。彼はただ、主が泣き止むまで、降り注ぐ夜露を凌ぐ屋根のように、静かに、どこまでも静かにその傍らに佇んでいた。
出発まで、あと二日。 別れの足音は、逃げ場のない闇の奥から、無情にもすぐそこまで迫っていた。
0
あなたにおすすめの小説
つぎはぎのよる
伊達きよ
BL
同窓会の次の日、俺が目覚めたのはラブホテルだった。なんで、まさか、誰と、どうして。焦って部屋から脱出しようと試みた俺の目の前に現れたのは、思いがけない人物だった……。
同窓会の夜と次の日の朝に起こった、アレやソレやコレなお話。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
尊敬している先輩が王子のことを口説いていた話
天使の輪っか
BL
新米騎士として王宮に勤めるリクの教育係、レオ。
レオは若くして団長候補にもなっている有力団員である。
ある日、リクが王宮内を巡回していると、レオが第三王子であるハヤトを口説いているところに遭遇してしまった。
リクはこの事を墓まで持っていくことにしたのだが......?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる