無表情な後輩に脅されて、付き合うことになりました

万里

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無表情な後輩に脅されて、付き合うことになりました

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「先輩って、あの人の前だと笑顔になりますよね…?」
 放課後の生徒会室。 石川誠司いしかわせいじが書類のチェックをしていると、他の生徒たちはすでに帰っていて、いつの間にか大上啓介おおがみけいすけと二人きりになっていた。
 こいつは、いまいち何を考えているのかわからない。 いつも無表情で、声にも抑揚がない。 少し不気味なくらいだ。
「は…?」
 突然の言葉に、誠司は首を傾げた。 質問の意味がよくわからない。
 啓介は窓の外を見て、指をさした。
「あの人」
 生徒会室の窓から見えるグラウンドでは、サッカー部が練習していた。 その中に、ボールを蹴るひときわ目立つ姿がある――恩田頼人おんだよりとだ。
「ほら、今ボール蹴った。確か、恩田先輩…」
「まあ、幼馴染だからな…」
 誠司は、無意識に表情を緩めていた。 
「…もっと、特別でしょう?」
「…どういう意味だ?」
 誠司は、啓介を睨み上げた。 啓介の目は、相変わらず感情の読めない爬虫類のような瞳だった。
「俺もなんで、わかります」
 啓介は、ぼそりと呟いた。
「はぁ…? そろそろ帰るぞ」
 誠司は立ち上がり、帰り支度をしようとする。が、啓介が近づいてきて内心焦る。自分よりも10センチ以上背の高い啓介に見下ろされ、見えない力で追いつめられたような気がして、逃げられなかった。
「石川先輩」
「なんだ? まだ用が…?」
「恩田先輩が、好きなんでしょう…?」
 啓介の真っ直ぐな瞳に、一瞬たじろぐ。 誠司は思わず視線を逸らした。
「……っ、幼馴染なんだ。当たり前だろ?」
「その幼馴染に、好きだって言ったらどうなるでしょうね?」
「っ…、何が言いたい…?」
 誠司は眉間に皺を寄せ、再び睨み上げる。
「石川先輩が、恩田先輩のことを恋愛的な意味で好きだって」
「……っ!」
「言ってもいいんですよ…?」
 その言葉に、誠司の心臓が跳ねた。 啓介の声は静かで、淡々としているのに、どこか冷たくて鋭い。
(好きにすればいい。こいつが言ったところで、後で『誤解だ』と言えばいいだけだ。頼人は、付き合いの長い俺の言うことを信じる。そうに決まってる)
 そう思ったはずなのに――
「…っ、あいつには言うな…っ!」
 誠司は俯いて、絞り出すように言った。
 啓介は、少しだけ目を細めた。
「はい…。絶対に言いませんから。俺と付き合ってください」
「……は?」
 誠司は顔を上げた。 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「そうしたら、言いません」
「……はあ? はは……。何言って……。お前もそんな冗談なんか言うんだな…」
 誠司は乾いた笑いを浮かべた。 だが、啓介は至って無表情だった。 その顔には、冗談の気配など微塵もない。
「冗談なんかじゃないですよ…?」
 声は低く、静かだ。
「お前、本気か…?な、なんで…?」
 誠司は後ずさろうとしたが、すでに窓際に追いつめられていて、逃げ場はなかった。 啓介は少しかがみこみ、誠司の目を覗き込む。
「あなたのことが好きだからです。恋愛的な意味で」
「は…?」
 誠司は眼鏡の奥で、大きな目をしばたかせた。 
「ずっとあなたを見ていました。でも、あなたの笑顔が向けられる先は、いつもあの人だけです」
「っ…」
 誠司の喉が、ひゅっと鳴った。 
「付き合ってくれますか? そうしたら、誰にも言いませんから…」
「…い、嫌だと言ったら…?」
「恩田先輩にバラします」
「脅しか…?!」
「そうです」
 啓介は、まるで天気の話でもしているかのように、淡々と答えた。
 誠司は睨み上げた。 だが、啓介の目は微動だにせず、ただ真っ直ぐに誠司を見つめていた。
「お前の言うことなんか、アイツはきっと信じない…!」
「そうかもしれませんね。 でも、先輩が動揺している姿を見れば、少しは疑うかもしれません」
「……」
 誠司は唇を噛んだ。 痛みで、少しだけ現実に引き戻される。
「……お前、何がしたいんだよ」
 誠司は、深いため息をつきながら問いかけた。 啓介は、変わらず無表情のまま、静かに答える。
「あなたと付き合いたいだけです。 あなたが恩田先輩のことを好きでも、構いません」
「……そんなの、ただの自己満足だろ」
「そうですね。 でも、俺はそれでも嬉しいです」
 誠司は、啓介の顔をじっと見つめた。 その顔には、欲望も焦りも見えない。 何を考えているのかさっぱりわからない。
(本気なのか…?)
 誠司は、心の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。 啓介の言葉には、一切の迷いがない。 それが、逆に怖かった。
「……お前、ほんとに変なやつだな」
「ありがとうございます」
 啓介は、まるで褒め言葉のように受け取って、軽く頷いた。
「じゃあ、早速、今週の土曜日空いてますか? デートしましょう」
「いや、まだ付き合うかどうかも決めてない!」
 誠司は、思わず声を荒げた。 啓介は、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、バラしてもいいんですか?」
「だ、ダメだ…!」
「じゃあ、仮のデートということで」
「仮ってなんだよ!」
 誠司は、頭を抱えた。 啓介のペースに、完全に巻き込まれている。
 啓介は、ほんの少しだけ口角を上げた。 それが笑ったのかどうかも、誠司には判断できなかった。
「仮でも、先輩と一緒にいられるなら、それでいいです」
「……お前、ほんとになんなんだよ」
「石川先輩のことが好きな、ただの後輩です」
 その言葉に、誠司は思わず沈黙した。 啓介の目は、まっすぐだった。
 誠司は、ため息をついて、椅子に深く座る。 頭の中が、ぐるぐると混乱している。
「……土曜日、昼からなら空いてる」
「ありがとうございます。 では、仮のデート、楽しみにしています」
 啓介は、まるで契約が成立したかのように、満足げに頷いた。

 *

「くそっ…!」
 誠司は、自室に帰るとカバンを勉強机に叩きつけた。 静かな空間に、音がやけに響く。
(どうしてバレたんだ…)
 周りにも、もちろん本人にも絶対にバレないように隠し通してきた。 それなのに、どうして。 どうして、あいつに――大上に、気づかれた。

 幼稚園からの幼馴染、恩田頼人は家も近所で、いつも並んで登下校をしていた。 誠司にとって、頼人は“日常”だった。 そして、憧れだった。
 頼人は明るくて、陽気で、いつでもクラスの人気者。 反対に誠司は本が好きで、大人しくて、引っ込み思案な子どもだった。 誰からも好かれる太陽のような頼人が、誠司にはまぶしくて、羨ましかった。

 それが、だんだんと変わってきたのは中学の頃。
『あの子かわいいよな』
 頼人が何気なく言ったその一言に、誠司は激しい嫉妬に襲われた。 女の子のことは、確かにかわいいと思っていた。 でも、好きになったことはなかった。
 そのとき、誠司は気づいた。
(俺が好きなのは…)
 こんな気持ち、間違ってる。 そう思った。 何度も打ち消そうとした。 何とかならないかと、努力もした。
 でも、彼の笑顔を見るたびに、また意識してしまう。 いつの間にか背が伸びて、かっこよくなって、サッカー部のエースで、女の子にもモテるようになった頼人。 誠司は、ただ遠くから見ていることしかできなかった。
(俺だって…ずっと…)
 気持ちは、打ち明けることはできない。 それだけは絶対に。 だから、隠してきた。誰にも悟られることがないように、細心の注意を払った。
 自分が変わったら、何かが変わるかもしれない。 そう思って、勉強に力を入れた。 生徒会にも立候補した。 周囲からは「優秀」「真面目」「頼れる」と言われるようになった。
 それでも、気持ちは変わらなかった。 太陽のような頼人を見ていることしかできない。 触れてしまったら、途端に火傷してしまうのだろう。

 それなのに――
 無表情で、真顔で、突拍子もないことを言ってくる後輩の大上。

 初めて彼を見たのは、彼の入学式の翌週。 誠司が生徒会室で書類整理をしていた放課後、静かにドアが開いた。
『生徒会、入りたいです』
 その声は、静かながら真っすぐだった。 背は高く頼人と同じくらいあるのではないかと思うが、少し猫背気味。だが何より印象的だったのは、その顔。 一切の表情がなく、まるで感情を持たないロボットのようだった。
『……名前は?』
『大上啓介です』
『志望理由は?』
『石川先輩に会いたかったので』
『……は?』
 ペンが手から滑り落ちた。 冗談かと思ったがやはり真顔だった。

 啓介は、仕事ができた。 いや、“できすぎる”と言ってもいい。
 パソコンが得意で、作業を頼めば、誠司が説明を終える前にもう処理が始まり、数時間後には終わっている。 会計の計算も、複雑な予算案を一瞬で整理してしまう。 書類の誤字脱字すら見逃さない。 無駄口は一切しない。とっつきにくいかと思えば、そんなキャラクターとして周りから受け入れられ、必要なことだけを、必要なタイミングでやってくれるので、頼られるようになった。
 誠司は内心、「使えるけど、少し怖いな」と思っていた。 でも、今や彼なしでは生徒会が回らないほどの存在になっていた。

 時々、なんとなく、視線を感じることがあった。 ふと顔を上げると、啓介がこちらを見ている。 真顔で、じっと。まばたきもせず。
『……大上、何か用か?』
『先輩の横顔、見てました』
『……は?』
 冗談かと思った。 それとも何かの、罰ゲームか。 でも、啓介の顔には一切のふざけた様子がない。 
(何が面白いんだ……)
 誠司は、笑うこともできず、ただ視線を逸らすしかなかった。

 だからまさか、あんなことを言うとは思ってもみなかった。
『俺と付き合ってください』
『そうしたら、誰にも言いませんから…』

 誠司は、どうすればいいのか、わからなかった。 啓介の言葉は、いつも真顔で、感情が読めない。 けれど、その無表情の奥にある“何か”――得体の知れない本気だけは、確かに伝わってくる。
 もしも、自分が『付き合わない』と言えば、……きっと、本当に啓介は頼人に言うんだろう。
 誠司は、ため息をつきながら、想像する。 
 いつも通りの無表情で、何のためらいもなく、『石川先輩は恩田先輩のことを好きみたいですよ。恋愛的な意味で』と。
 その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 まるで、啓介の声が脳内で再生されているかのように。
(……っ)
 誠司は、ギリと奥歯を噛んだ。 頼人は絶対に信じない――そう思いたかった。 でも、万が一、信じてしまったら?頼人は驚き、自分のことを遠ざけるだろうか。それとも腫れ物に触るように扱われるのだろうか。
(なんにせよ、頼人との関係は壊れる……)
 幼馴染で、友人で、ずっと隣にいた存在。 その立場が、音もなく崩れていく未来を想像してしまう。
 それだけは、絶対に避けたかった。
(俺に拒否権は……ないんだ)
 誠司は、項垂れた。 肩が重く、呼吸が浅い。 まるで、見えない鎖で縛られているようだった。

 その夜、誠司は眠れなかった。 啓介の言葉が、頭の中で何度も反響する。
 怖かった。 誠司の心をじわじわと侵食していく。 拒否することも、逃げることもできない。 ただ、受け止めるか、壊れるか――その二択しかないような気がした。
 誠司は、枕に顔を埋めて、深く息を吐いた。


 2

 土曜日。
(デートって、どこに行くんだ…?)
 誠司は、スマホを手にしながらため息をついた。 LIMEで相談しようにも、相手はあいつ――大上啓介。 無表情で、何を考えているのかまったく読めない後輩。
(でも、あいつ…脅してきたんだよな)
『先輩が、恩田先輩のことを好きだって言ってもいいんですよ…?』 
 その言葉が、誠司の頭の中で何度もリフレインする。
(まさか…ホテルとか…)
 そんなことはないだろうと思いつつも、不安が過る。 啓介の顔を思い浮かべると、やっぱり何を考えているのかわからない。
 自分も「不愛想」と言われることはある。 でも、あいつほどではない。 そう思って、自分を棚に上げた。

 待ち合わせ場所に着くと、啓介はすでに来ていた。 壁にもたれかかってスマホを弄っている。 足が長い。妙に長い。 私服は初めて見た。 シンプルな白Tシャツに、デニムのパンツ。 それだけなのに、なんだか妙に整って見える。
(……頼人とは違うな)
 頼人よりも髪が少し長くて、雰囲気も違う。 猫背のせいで縮んで見えるが、実際はもっと背が高いのかもしれない。何か運動でもやっていたのか? 聞いたことはないが、肩周りに筋肉がついている気がする。 少なくとも、何も運動をしない自分よりは。誠司はというと、白のシャツに綿のパンツ。 制服に近いような無難な格好。 おしゃれにはあまり興味がない。

 近くを通りかかった女子たちが、ひそひそと声を漏らす。
「あの人かっこいいね」 
「モデルとかやってそうじゃない?」
(……は?)
 思わずそっちを見てしまう。 啓介は何も気づいていないのか、スマホの画面を見たまま。 その横顔が、また妙に整っていて。
(……なんか、イラっとするな)
 自分が遅れたわけでもないのに、先に待たれていることも、なぜか負けた気がする。
 啓介は、スマホから目を上げると、無表情のままこちらを見た。
「先輩、早いですね」
「……うるさい」
 思わずそう返してしまった。 啓介は何も言わず、ただ頷いた。

「今日はどうするんだ?」
 先に予定を聞いて、把握しておきたかった。 できれば、変な展開にはなってほしくない。
「カフェに行きましょう」
「カフェ?!」
 思いもよらない言葉に、誠司は思わず声を上げた。
「嫌ですか?」
 啓介は、いつもの無表情で首を傾げる。
「い、いや…ちょっと予想外で…」
「何を予想していたんですか?」
「いや…」
 誠司は言葉を濁した。 まさかホテルに連れ込まれるかもしれないと考えていたなんて、口が裂けても言えない。
「甘いもの、好きなんですよね?」
「……え?」
「先輩が、前に生徒会室で差し入れのシュークリームを食べていたので」
「…あ、…ああ…」
 思い出す。 以前、生徒会のOBがシュークリームを買ってきてくれたことがあった。 甘い物には目がない誠司は、遠慮なく、そして嬉々としていただいた。
「とても美味しそうに食べていました」
 その一言に、誠司は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。 そんなところまで見られていたとは思わなかった。 自分では気づかないうちに、啓介にそんなふうに見られていたのかと思うと、なんだか妙に気恥ずかしい。
(……あの時、そんなに夢中で食ってたか?)
 啓介は、相変わらず無表情のまま。 
 誠司は、咳払いをひとつして、視線を逸らした。
「……見すぎだろ」
「すみません。とてもかわいかったので」
 またさらっと言う。 その淡々とした口調が、逆にじわじわ効いてくる。誠司は顔が熱くなるのを感じた。
「 じゃあ、行きましょう。人気な店を、調べておきました」
 啓介は、スマホを取り出して地図を見せる。 
 誠司は、一つため息をついた。

「おい、このカフェか?」
 誠司は、女子ばかりが並ぶカフェの前で立ち尽くしていた。 店の外観は可愛らしく、パステルカラーの看板に、ふわふわのスイーツの写真が並んでいる。 明らかに“女子向け”の店だった。
「……なんでこんな女子ばっかりの店に」
「パンケーキが人気らしいですよ」
 啓介は、いつもの無表情でそう言った。 真顔すぎて、逆に嘘っぽい。
「表情筋、死んでんのか?」
「生きてますけど?」
「……」
 本当に、何を考えているのかわからない。 誠司はため息をつきながら、店内へと足を踏み入れた。
 ふわっと甘い香りが漂ってくる。 バターとメープルの香りに、誠司の胃が反応する。
 メニューを開くと、写真映えするスイーツがずらりと並んでいた。 誠司は、少しだけ迷ってから言った。
「……まあ、せっかくだし。パンケーキでも食うか」
「俺もそれにします」
 誠司はパンケーキと紅茶を、啓介はジンジャーエールを頼んだ。 注文を終えて、しばらくすると、ふわふわのパンケーキが運ばれてきた。
 見た目も華やかで、クリームとフルーツがたっぷり乗っている。 一口食べると、甘くて口の中でとろけるように無くなった。
「……上手い」
「良かった」
 誠司は、夢中で食べ進める。 甘さがちょうどよくて、止まらない。
 ふと啓介を見ると、その手は止まっていた。
「お前は食べないのか?」
「そんなに甘いものは得意じゃないので」
「はあ?!なんで頼んだんだよ?!」
「同じものを食べたいじゃないですか」
「もったいないから、頼むなよ!」
「そしたら、一口くれますか?」
 無表情のまま、さらっと言う啓介。 その言葉に、誠司は思わず眉をひそめた。別に一口くらいならやってもいい。だが、啓介の言い方には、どこか含みがあるような気がして、つい問い返してしまう。
「ど、どういう意味だ?」
「“あーん”ってしてほしいです」
「はあっ?!」
 誠司の声が、店内に響いた。 ちょうど隣の席では、カップルが仲良くパンケーキを分け合っているところだった。男の子が「あーん」と口を開け、女の子がスプーンを差し出す。まさに、今の啓介の言葉と重なる光景。
「ふざけるな!!」
 店内が一瞬静まり返る。 周囲の視線が、誠司に集中する。 誠司は慌てて頭を下げ、顔を伏せた。
(やば……めっちゃ見られてる……)
「ふざけてませんよ」
 その言葉に、誠司は思わず顔を上げる。 啓介は、いつもの無表情のまま、静かに言った。
「あと、クリーム、ついてます」
 そう言って、啓介は指先を誠司の口元に伸ばした。 その動きは、驚くほど自然で、ためらいがない。 誠司が反応する間もなく、啓介の指がそっと唇の端をなぞる。
「……っ!」
 そして、その指を――ぺろりと舐めた。
「甘いですね」
「お、お前っ……何して?!」
 誠司の顔が、一気に熱を帯びる。 耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。 
 啓介は、少しだけ首をかしげて言った。
「美味しそうだったので……つい」
「……は?」
「ケーキより、先輩の方が……」
「大上っ……?!」
 誠司は、思わず椅子から立ち上がりそうになるのをこらえた。 啓介は、相変わらず無表情。 
「お、お前……それ、やめろ」
「……? だめでしたか?」
「いや、だめとかそういう問題じゃなくてだな……!」
 誠司は、頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えながら、冷めかけた紅茶を一気に飲み干した。 啓介の視線が、じっと自分を見ているのを感じる。 
(こいつ……天然なのか、それとも……)
 誠司は、視線を逸らしながら、そっとため息をついた。
「……もう、さっさと食って帰るぞ」
「はい。じゃあ、次は“あーん”してくれますか?」
「しない!!」
 店内に、再び誠司の声が響いた。

 なんとか啓介にパンケーキを完食させて、店を出たあと、ふたりは並んで歩いた。 
「甘かった……」
 啓介がぽつりと呟く。 誠司は、横目で彼の顔をちらりと見た。
「ったく、無理するな。次からは甘いものはやめておけ」
「次……」
 その一言に、誠司は何気なく返したつもりだった。 でも、啓介の歩く速度が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「なんだ?」
「次は、どこ行きます?来週は空いていますか?」
 啓介は、無表情のまま誠司を見た。
「再来週からテストだろ」
「そうですね」
 誠司は、ため息をついた。
「そうですねじゃないだろう。勉強するから邪魔するな」
「じゃあ、俺も一緒に勉強します」
「……は?」
「先輩の部屋で」
「なんでだよ!!」
 思わず怒鳴る。 啓介の言葉は、あまりにもストレートすぎて、心の防御が間に合わない。
「一緒にいたいので」
 誠司は、足を止めかけた。 その一言が、妙に胸に響いてしまう。
「……お前、ほんとに変なやつだな」
「ありがとうございます」
 皮肉に気づいているのか、気づいていないのか。 啓介は、またお礼で返してくる。
 誠司は、深くため息をついた。 “仮のデート”という関係は、まだよくわからない。 これはいつまで続くのか。啓介は、どこまで本気なのか。
 だが、はたと気づく。
「……というか、お前はうちの家を知っているのか?」
「ええ、まあ」
「なんでだ?!」
「それは……なんででしょうね」
 しれっと素知らぬ顔をする啓介。 
(さすがにそれはストーカーだろう?!) 
 そう思うが、そもそも脅されて“仮の恋人”になった時点で、すでにおかしい。
 啓介は、どこかズレている。
「おい」
「はい?」
 誠司は、じっと啓介を見て、言った。
「お前、絶対にうちに来るなよ。来たら……」
 啓介が首をかしげる。
「行ってもいいんですか?」
 またおかしな勘違いをする。
 誠司は慌てて叫んだ。
「来るなって言ってるだろ!!」
 誠司の声が、夕暮れの空に響いた。

 *

 夢の中で、誠司はベッドに押し倒されていた。 柔らかなシーツの感触。 体が沈み込む感覚。 見下ろしてくる顔は――幼馴染の頼人だった。
『誠司』
 頼人の声は、いつも通り明るくて、どこか優しい。 けれど、その距離が近すぎて、心臓が跳ねる。
 指先が、誠司の唇をかすめる。 そして、その指に、頼人は唇を寄せた。
『間接キス』
 頼人が笑顔で言う。恥ずかしくなって顔を背ける。
『……先輩』
 その声が、急に変わる。 頼人の顔が、啓介の顔に変わった。
 無表情で、感情の読めない瞳。 真顔で、じっと誠司を見下ろしている。
『美味しそう…』

「……っ、うわっ!!」
 誠司は、ベッドの上で跳ね起きた。 息が荒く、額には汗が滲んでいる。
「……なんだよ、今の……」
 夢だった。 でも、あまりにもリアルで、心臓がまだ落ち着かない。
(なんで、頼人が……なんで、大上が……)
 混乱する頭を抱えながら、誠司は枕に顔を埋めた。
(嫌になる……)
 頼人のことは、ずっと好きだった。 それは間違いない。 でも、この前から――啓介の顔が、頭から離れない。
 あの無表情。 あの真顔。 あの、指先で口元を拭ってきた仕草。
「……なんで、あいつが…」
(夢にまで出てくるとか、ほんと勘弁してくれ)
 誠司は、枕をぎゅっと握りしめた。
 スマホが震える。 画面には、啓介からのLIMEが来ていた。
『おはようございます。 今日は勉強、何時から始めますか?」
「……はあ」
 誠司は、スマホを見つめてため息をついた。
『来るなよ』
 数秒後、すぐに返事が来る。
『行きます』
「……来るなって言ってるだろ!!」
 誠司は、スマホを枕に投げつけた。
(ほんと、嫌になる)
 でも―― 心の奥が、少しだけざわついていた。


 3

 誠司の部屋――という選択肢は、もちろん却下した。 だが、放っておけば啓介が本当に家まで来るかもしれないという恐怖から、仕方なく図書館で一緒に勉強することになった。

「絶対に邪魔しませんから」
 そう言って、啓介は誠司の隣に座った。 静かな空間に、ページをめくる音とシャープペンの走る音だけが響いている。
 誠司は、最初こそ落ち着かなかったが、問題に集中していれば、そこまで気にならなかった。 啓介の成績は知らない。 でも、生徒会の仕事の要領の良さから考えたり、ちらりと横目で見た限り、問題を解く手つきはスムーズで、悪くはなさそうだった。
 図書館の空気は、ずっと静かだった。 誠司は集中して勉強を進め、啓介も黙々と問題を解いていた。 
(……意外とちゃんとやるんだな)
 誠司は、自分のペースで進めていく。 数式を解きながら、ふと隣を見ると、啓介がじっと誠司のノートを見ていた。
「……何見てんだよ」
「綺麗ですね」
「は?」
 まさか自分のことを言われたのかと、誠司は一瞬驚愕する。 だが、それは勘違いだった。
「先輩のノート、綺麗ですね。 俺、字が汚いので、ちょっと憧れます」
「……そんなことで憧れんな」 
 誠司は、少しだけ顔をそむけた。 勘違いした自分が、妙に恥ずかしい。
「習字とか習ってたんですか?」
「……ああ。子どもの頃は、いろいろ習い事してたな。習字もそのひとつだ」
「他にはどんな習い事を?」
「そうだな……ピアノも行っていたし、水泳も。あまり得意ではなかったが。泳げないと困ると親に無理やり行かされていたな」
「嫌いだったんですか?」
「……水に入るのは、あまり好きじゃない」
「そうですか。水着の先輩とか想像しただけで……」
「想像するな!!」 
 誠司の声が、思わずひときわ大きくなった。 周囲の視線が一斉にこちらを向き、慌てて声のトーンを下げる。
「その妄想、今すぐ止めろ」 
 誠司は、ノートで啓介の頭を軽く叩いた。
「暴力反対です」
「……お前が変な想像するからだ」
「でも、ちょっと見てみたいです。先輩のスクール水着姿」
「なんでスクール水着なんだよ!」 
 誠司は本気で困惑していた。 
「……勉強に集中しろ。話しかけるな。こっちを見るな」
「集中してますよ。でも、先輩のことも見ていたいです」
「やめろ。見るの禁止だ」
「じゃあ、ノートだけ見ます」
「それも禁止だ」
「じゃあ……隣にいるのも禁止ですか?」
 誠司は、言葉に詰まった。 
「……うるさい。黙って問題解け」
「はい。じゃあ、先輩の隣で静かに好きでいます」
「……っ!」 
 誠司は、シャープペンの先でノートを強く押しすぎて、芯が折れた。
「……芯、折れてますよ。替え、あります?」
「……ある。黙ってろ」

「……よし、今日はここまでにするか」
「お疲れ様です」
 啓介は、ノートを閉じながら誠司を見た。 その目は、いつも通りの無表情。 
「先輩」
「…なんだ?」
「今日、頑張ったので、ご褒美くれませんか?」
「……は?」
 誠司は、思わず眉をひそめた。
「ご褒美って、何だよ。勉強しただけだろ」
「でも、先輩のために静かに頑張ったので」
「俺のためって……お前が勝手に来たんだろ」
「はい。 でも、先輩と一緒にいたくて、頑張りました」
「……」
 誠司は、呆れた。 啓介の言葉は、いつも通り淡々としているのに、妙に真っ直ぐで、否定しづらい。
「……で?何が欲しいんだよ。ジュースくらいなら奢ってやる」
 誠司は、財布に手を伸ばしながら言った。 “ご褒美”という言葉に、どうしても身構えてしまう。
(まさか、また『あーんしてほしい』とか言い出すんじゃ……)
 啓介の口から、さらっととんでもないことが飛び出すのは、もはや日常。 誠司は、内心で警戒態勢を整える。
「ジュース……ですか?」
 啓介は、少しだけ首を傾げた。 その仕草は、無表情なのにどこか考え込んでいるようにも見える。
「それも嬉しいですけど、できれば、今日は別のものがいいです」
「……なんだよ」
 啓介は、少しだけ顔を近づけた。 誠司は、思わず身を引く。
「先輩の笑顔です」
「……は?」
「今日、ずっと真面目な顔だったので。 最後に、笑ってください」
「……お前な」
 誠司は、ため息をついた。 でも、啓介の目はじっと誠司を見ている。 無表情なのに、どこか切実だった。
「……笑えるか、そんな簡単に」
「じゃあ、バラしますよ」
「……このやろう」
 誠司は苛立つのをなんとか抑える。
「先輩が笑ってくれたら、テストで良い点が取れると思います」
 啓介は、真剣な目で誠司を見つめていた。 その瞳には、冗談の色は一切なかった。
「……そんな魔法みたいなことがあれば苦労しない」
 誠司は視線をそらす。 けれど、啓介は一歩も引かない。
「本気です。 先輩の笑顔は、俺にとっては、ちょっとした奇跡ですから」
「奇跡って…そんな大げさな…」
 誠司は、思わず目を伏せた。 その言葉が、胸の奥に静かに響いた。

『先輩って、あの人の前だと笑顔になりますよね…?』 
『あなたの笑顔が向けられる先は、いつもあの人だけです』

 啓介に言われた、あの言葉が頭をよぎる。 自分では気づいていなかった。 けれど、誰かの目には、そう映っていたらしい。
「……仕方ないな」
 そう言って、誠司はほんの少しだけ、口角を上げた。 照れ隠しのような、ぎこちない笑顔。
「写真撮ってもいいですか?」
「ダメに決まってんだろ」
 誠司は即座に顔を上げて睨んだ。 啓介は、無表情のまま小さく舌打ちをする。
「ちっ」
「お前、舌打ちしたな?!」
「先輩の笑顔は貴重なので。記録しておきたかっただけです」
「……記録ってなんだよ。俺は展示物か」
「俺にとっては、そうかもしれません」
「……」
 誠司は、言葉に詰まった。相変わらず無表情なはずなのに、なぜか――犬が耳と尻尾をしゅんとさせているように見えた。
(……なんだよ、この顔)
「……一枚だけだ」
「はい」
 啓介は、すっとスマホを取り出す。 
「……早くしろよ。やっぱやめるぞ」
「撮ります」
 誠司は、仕方なく少しだけ口元を緩めた。 目線は外したまま、ほんのりとした笑み。 それは、ぎこちない笑顔だった。
「……撮りました」
 啓介の声は、いつも通り淡々としている。 けれど、その一言に、誠司の肩がピクリと跳ねた。
「……もう帰るぞ」
 誠司はそそくさと歩き出す。 逃げるように、背を向けて。
「ホーム画面にします」
「やめろっ!!誰かに見られたらどうする?!恥ずかしいだろ!」
 振り返って叫ぶ誠司に、啓介はしれっと答える。
「どうもしませんが?」
「はあ?!お前の感覚どうなってんだよ!」
 誠司は頭を抱える。 
「むしろ、見せたいくらいです。みんな推しをホーム画面にするでしょう?」
「やめろ!俺を勝手に推しにするな!」
「そうですね。推しじゃなくて、付き合ってる人です」
 啓介の言葉は、いつも通り淡々としているのに、妙に刺さる。 しかも、無表情で言うから余計にタチが悪い。
「俺は脅されて付き合ってるだけだ」
「俺は好きです」
「……やめろっ…!」
「先輩の照れてる顔も、撮っておきたいです」
「やめろって言ってんだろ!!」
 誠司は、スマホを奪い取ろうとして手を伸ばしたが、啓介はすっとかわした。
「先輩、暴力はよくないです」
「暴力じゃない!回収だ!」
「じゃあ、次は動画でお願いします」
「イヤだ!!」
 誠司は、深くため息をついた。
「……もう、帰るぞ」
「はい。じゃあ、次は先輩の部屋で」
「却下だ!!」
 啓介は、静かに「残念です」と呟きながら、誠司の後ろをついて歩き出した。 その背中には、スマホをポケットにしまった満足げな気配が漂っていた。

 *

 テストの結果が出た。 誠司は、いつも通りの上位の結果だった。 可もなく不可もなし。 特別な達成感もないが、安定した成績に、ひとまず安心する。

 放課後の生徒会室。 
「石川、テストどうだった?」
 牧原が、尋ねてくる。 彼は生徒会の書記で、真面目だが少し天然なところがある。
「……ふつうだな」
 誠司は、椅子に座ったまま答える。 特に自慢するほどでもない。 牧原は笑って言った。
「さすが、安定の上位だな」
「いや、別に……」
「なあここ、どうするのが正解だ?」
 牧原がプリントを持って誠司の隣に来る。 その後ろから、会計の佐伯も顔を出した。
「俺もここ、ミスってた。これってどう解くんだ?」
「……お前ら、テスト終わったばっかで元気だな」
 誠司は、ため息をつきながらも、プリントを受け取る。 自然と“テスト直し”が始まった。
「この問題は、公式を使うより、図を描いた方が早い。ほら、こうやって……」
「おお~!なるほど!」
「相変わらず字が綺麗だな」
 牧原が感心したようにプリントを覗き込む。
「……別に普通だろ」
 誠司はそう答えながらも、ふと思い出す。
 ――大上にも、そんなことを言われたな。
「……お前はどうだったんだ?」
 誠司が何気なく尋ねると、啓介は無表情のまま答えた。
「少し上がりました」
「聞けよ石川、こいつヤバいんだよ!」
 牧原が心配そうに言いながら、啓介の答案を誠司の前に差し出す。 佐伯も横で頷いている。
「……え?」
 誠司が答案を覗き込むと、そこには堂々と「7点」の文字。 物理のテストで、誠司は未だかつて見たことのない点数だった。
「おい……」
 誠司が思わず声を低くすると、啓介は珍しく目を逸らした。
「数学は平均あるので」
「数学じゃなくて物理の話だろうが!!パソコン得意なくせになんでだよ」
「パソコンと物理は別物です。物理は……苦手です」
「苦手ってレベルじゃねえだろ!これ、ほぼ白紙じゃないか!」
「書きました。名前は」
「名前だけじゃ点になるか!!」
 牧原と佐伯は、苦笑した。
「石川教えてやってくれよ」
「俺らじゃもう無理だな……」
 その後は啓介も交え、啓介はほぼ全問のテスト直をさせられた。

 牧原と佐伯が帰り、生徒会室にふたりきりになると、誠司は改めて問いかけた。
「……成績、上がったんじゃなかったのか?」
「前は4点でした」
「……は?」
「なので、ほぼ倍です」
「倍って言うな!4点から7点になっても、誤差の範囲だろ!」 
 誠司は頭を抱えた。 啓介は、相変わらず無表情で答案を見つめている。
「よくこの高校に入れたな…」
「かなり努力はしました。この高校に入りたかったので」
 誠司は、啓介の横顔をちらりと見る。 いつも淡々としていて、感情が読みにくい。 それでも、時折見せる言葉の端に、何かが滲む。
「……どうしてこの高校に入りたかったんだ?」
 啓介は無言だった。 いつもなら、よくわからないことを平気で口にするくせに。
「まあ、いい…」 
 誠司がそう言うと、啓介はゆっくり顔を上げた。
「先輩は、優しいですね」
「そんなことないだろ。俺、今お前の成績のことで結構怒っている」
「でも、怒りながらも、ちゃんと教えてくれます」 
 誠司は、ふと気づく。 自分は啓介のことを、何も知らない。
 家庭のことも、過去のことも。 どんな場所で育って、どんな人たちと過ごしてきたのか。 何が好きで、何が嫌いだったのか。 どうしてこの高校を受験したのかも。
 一緒にいる時間は増えたのに、知らないことばかりだ。
 でも、その言葉は口にしなかった。
「……教えてやるから、もう少し勉強しろ」
「本当ですか?」
 啓介の目が、輝いた気がした。 誠司はその勢いに、少し気圧される。
「あ、ああ……」
「約束ですよ」
「わ、わかったってば!」
「じゃあ、今日から毎日お願いします」
「毎日!?」
「はい。先輩の予定に合わせます」
「……俺の予定が消えるだろうが!」
 啓介は、無表情のまま言った。
「先輩と一緒なら、勉強も楽しいです」
「……お前、ほんとにずるいな」
「ありがとうございます」
「褒めてない!!」
 誠司はため息をつきながら、啓介の答案をもう一度見た。 
(……こいつに物理を教えるのは、俺の忍耐力との戦いだな)


 4

 二度目の仮デート。 啓介から「映画に行きませんか。先輩は見たい映画はありますか?」と聞かれたとき、誠司は少しだけ迷った。 気になっていたアクション映画の続編――それは中学生の頃、頼人と一緒に観に行った思い出の作品だった。

 最近は、頼人と一緒に過ごす時間も減ってきた。 もう、映画に誘われることもないかもしれない。 そう思うと、胸が少しだけ痛んだ。
 それでも誠司は、啓介の誘いに応じた。 「じゃあ、これで」と、気になっていた映画のタイトルを口にした。

 映画館の暗がり。 スクリーンには、派手な爆破、銃撃戦、カーチェイス――息つく暇もないほどのアクションが繰り広げられていた。
 誠司は、ちらりと隣の啓介を伺う。
(……楽しんでるのか?)
 いつもの無表情な横顔がそこにあった。 まるで感情の起伏が存在しないかのような、静かな顔。
(やっぱり、何考えてるかわからないな……)
 誠司は、ポップコーンをひとつ口に運びながら、啓介の手元に目をやる。 啓介の指先が、ほんの少しだけ誠司の方へ寄っていた。 偶然か、それとも――
(……いや、考えすぎだ)

 映画は終盤、感動的なシーンに差し掛かる。 主人公が仲間をかばって命を落とす場面。 誠司は、思わず目頭が熱くなった。
(……やば、泣くな俺)
 そう思った瞬間、涙が一筋、頬を伝った。 隣からの視線に気づいて、誠司はそっと顔を向ける。
 啓介が、じっとこちらを見ていた。 無言で、無表情で。
「……な、なんだよ」
「泣いてますね」
「うるせえな……ちょっと感動しただけだよ」
「意外です」
「なんでだよ!」
「びっくりしました」
 びっくりって顔じゃないんだけど、それは黙っておいた。 いつも通りの無表情。まばたきすら少ない。 啓介がポケットからティッシュを取り出す。
「使いますか?」
「……いや、いい」
 誠司は自分のカバンからティッシュを出した。
 頼人と観た前作のことが、ふと頭をよぎる。 あのときは、隣で頼人が感動して最後の方はずっと泣いていた。 エンドロールの後、頼人が「続編出たら絶対見ような!」と笑っていた顔が、今も鮮明に思い出せる。
(……もう、あんなふうに誘われることはないんだろうな)
 隣の啓介が、そっと誠司の方に顔を向けた。 
「先輩。こういう映画、好きなんですか?」
「……ああ。昔、友達と観たことがあって。続きが気になってた」
 誠司がそう言うと、啓介は小さく「ああ」と返した。 
「そうですか……」 
 と感情のこもらない声で言った。

 ショッピングモール内の映画館を出ると、啓介がまた言った。 「ここの1階のスイーツ店が美味しいらしいです」 誠司は少しだけ眉をひそめながらも、素直に頷いた。 そして、入場待ちの列に並ぶ。
「先輩、涙もろいんですね」
「……うるさい」
「かわいかったです」
「やめろ!それ以上言うな!」
 啓介は無表情なまま政治を見つめる。 誠司は、顔を少し赤くしながら、列の進み具合を気にするふりをした。

 ようやく席に案内され、誠司はふうと一息ついて水を飲んだ。 店内は、淡いピンクと白を基調にした内装。 壁には花のモチーフがあしらわれ、テーブルには小さなガラスの花瓶に一輪のカーネーションが飾られていた。
 メニューには、見た目も華やかなスイーツが並ぶ。 苺とピスタチオのパフェ、レアチーズケーキ、ハート型のマカロン―― どれも、女性客を意識した可愛らしい盛り付けだった。
「……なんで、こういう店ばっかり調べてくるんだよ」
「え?先輩に似合うと思って」
「俺は別に、こういうかわいいものが好きなわけじゃない」
 甘いものは好きだけれど。
「でも、似合いますよ」
 臆面もなく啓介はそういうことを言う。誠司は眉根を寄せてため息をつきながら、運ばれてきたパフェを見つめた。 苺がたっぷり乗ったグラスの中に、ピスタチオアイスとホイップクリームが層になっている。 
 誠司は、啓介の分のパフェをスプーンで一口だけすくい、そっと小皿に取り分けた。 
「大上」
「はい」
「お前は、なんで俺のこと、好きなんだ?」
 誠司は、なるべく自然な口調でそう言った。 水のグラスを持ち上げ、啓介の目を見ずに口をつける。
 啓介は、少しだけ目を見開いた。 そして、パフェの苺をひとつ、スプーンでつついた。
「……理由、いりますか?」
 啓介は、誠司の方を見た。 いつもの無表情。 でも、目だけはまっすぐだった。
「……いや、必要っていうか……普通、あるだろ。見た目が好きとか、性格が好きとか」
 誠司がそう言うと、啓介はすぐに答えた。
「全部です」
「……は?」
「見た目も、性格も、声も、字も、歩き方も。全部、好きです」
 誠司は、スプーンを手に取りながら、ため息をついた。 こんなに真正面から好意を伝えられたことなんて、今まで一度もなかった。 顔が少し熱くなるのを感じる。
「……お前、ほんとに変なやつだな」
「ありがとうございます」
 誠司は、パフェの苺をひとつすくって口に運ぶ。 甘酸っぱさが広がる中、心の中はそれ以上に甘ったるかった。
「……俺、別に優しくもないし、愛想もないし。お前みたいなやつが、なんで俺なんだよ。モテないわけじゃないだろ」
「先輩は優しくて、かわいいです」
「……意味わかんねえよ」
 誠司はグラスの水を飲みながら、目を逸らした。 啓介の言葉が、じわじわと胸に染みてくる。 否定したいのに、どうしていいかわからない。
「……俺、そんなに優しくないけどな」
「でも、今日、俺の分を取り分けてくれました」
「……それは、前回もったいないって言ったからだろ」
「それでも、嬉しいです」
 啓介は、スプーンを手に取り、取り分けられたパフェを少しだけすくって口に運んだ。
「……甘いですね」
「……当たり前だろ」
「そうですね」

 *

「この予算案、部活ごとの配分をもう少し見直した方がいいかもな」 
 誠司は、資料に目を通しながら赤ペンを走らせる。 隣では啓介が、静かにパソコンで入力作業をしていた。 無駄口を叩かず、指示すればすぐに動く。 生徒会の仕事に関しては、意外と頼りになる。他の生徒会メンバーは違う仕事で出払っていた。
「先輩、サッカー部の備品申請、去年と同じ内容で通していいですか?」
「ん……ああ、ちょっと待て、確認する」
 誠司がファイルを開こうとしたそのとき――
「誠司!」 
 元気な声が生徒会室に響いた。 振り返ると、サッカー部のユニフォーム姿の頼人が立っていた。
「頼人……どうした?」
「ちょっと相談があってさ。サッカー部の予算、今年は遠征が増えるかもしれなくて、交通費の見直しをしたいんだ」
「交通費か……それなら、部活予算の再調整が必要だな。今ちょうど大上と確認してるから…」
 誠司が啓介の方を向くと、啓介は無表情のまま、頼人を見ていた。 その視線は、少し長く留まっていた。
「大上!」
「…はい」
「今年度予算の印刷をしてくれ」
「大上くん、よろしく!」 
 頼人は、にこっと笑って啓介に声をかける。 その笑顔は、何の打算もない、まっすぐなものだった。
 啓介は、ほんの一瞬だけ間を置いてから、静かに頷いた。
「…はい。わかりました」
 その声は、いつも通り淡々としている。
 誠司は、啓介の横顔をちらりと見た。 相変わらず、何を考えているのかわからない。
 頼人は、誠司の隣に腰を下ろすと、資料を覗き込んだ。 
「誠司、これさ、去年より遠征先が増えるから、宿泊費も少し上がるかも」
「わかった。それなら、全体の予算から調整するしかないな……」
「頼むっ!」
「予算委員に掛け合ってみるよ」 
 誠司は頼人に笑いかける。 その笑顔に、頼人は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう!助かる!さすが俺の誠司!」
 そう言って、頼人が誠司に抱きついた。 突然の接触に、誠司の手が止まる。 資料の上にペンが落ちた。
 頼人の汗の匂いがふわっと鼻をかすめる。 体の温もり、筋肉の硬さ、腕の力強さ―― ぎゅっと抱きしめられて、誠司はどうすればいいのかわからなかった。
「……お、おい頼人、生徒会室でやめろ…」
「え?なんで?」 
 頼人が顔を覗き込んでくる。 距離が近い。近すぎる。
「いや、なんでって…いいからやめろ…!」 
 誠司は、少しだけ語気を強めた。 けれど、頼人は気にする様子もなく、首を傾げる。
「あれ?誠司、なんか、ちょっと顔赤くないか?」 
 その心配そうな顔が、さらに近づいてきて、額に手を当てた。
「……よ、頼人っ!」 
 誠司は言葉に詰まる。 頼人の手のひらが、思ったよりも熱を持っていて、触れられた場所がじんわりと火照る。
「熱ある?もしかして風邪か?」 
 頼人の声は真剣だった。 でも、その距離が近すぎて、誠司の心臓は落ち着かない。
「ち、違う。別に熱なんか……」
「じゃあ、なんで顔赤いの?照れてる?」 
 頼人が、いたずらっぽく笑いながら、誠司の顔を覗き込んでくる。 その距離が近すぎて、誠司は思わず目を逸らした。
 ペンを握る手が、少しだけ震えている。 資料の文字が、視界の端でぼやけていた。
「うーん、やっぱ熱があるかも?誠司、帰った方がよくねえか?」
「だ、大丈夫だ!」 
 誠司は慌てて言い返す。 声が少し裏返ってしまい、余計に動揺が伝わってしまった。
「でも…」 
 頼人がまた顔を近づけてくる。 その瞳は、何も疑っていない。 ただ、誠司の様子を気にしているだけ――それが、逆に苦しかった。
 誠司は、机の端に手を置いて、頼人から少し距離を取った。 心臓がバクバクして、早く沈まってくれと願う。 けれど、鼓動はますます速くなるばかりだった。
「頼人、部活はいいのか?練習時間が無くなるぞ?」 
 誠司が苦し紛れに言うと、頼人はきょとんとした顔で誠司を見つめた。 そして、何も気づいていないように、明るく笑った。
「そうだな!誠司、無理はするなよ!部活終わったら一緒に帰ろう。じゃあな!」
 そう言って、頼人は軽快な足取りで生徒会室を出ていった。 その背中は、誠司の心の中で、遠くも近くも感じられた。
 誠司は、深く息を吐いた。 ペンを握る手は、まだ少し震えていた。
 ふと横を見ると、啓介が黙ってその様子を見ていた。 その瞳は、冷静で、どこか爬虫類のような無表情さを湛えていた。 誠司は、思わず目を逸らす。
(……見られてた)
 啓介は何も言わない。 けれど、その沈黙が、誠司には少しだけ怖かった。
「……何か言いたいことでもあるのかよ」
 誠司がぼそりと呟くと、啓介は静かに言った。
「恩田先輩と、距離近くないですか?」
 いつもの無表情だが、どこか言葉の端に棘がある気がした。
「幼馴染なんだから、こんなもんだろ…」
「そうですか」
 短く返される。 誠司はペンを止めて、啓介の顔をちらりと見る。
「……それが、なんだよ?」
 啓介は誠司の視線に気づいて、じっと見返してくる。
「羨ましいです」
「何が?」
「先輩に触れたり、心配したり、家まで送ったり…」
 誠司は言葉に詰まった。 啓介の声は淡々としているのに、どこか切実だった。 脅すくらいだからもっと好き勝手にされるかと思っていた。 図々しいかと思えば遠慮がちで。本当にこの無表情な後輩はよくわからない。
「……ただ、家が近いからだ」
「俺にも触らせてほしいです」
「はあ?!」
「恩田先輩が触ったように…」
 啓介が立ち上がった。 誠司は椅子に座ったまま、思わず身を引く。 けれど、背もたれに背中が当たって、それ以上下がれない。
 啓介がゆっくりと誠司の前に立つ。 その背の高さが、座っている誠司を見下ろす形になる。 視線が、自然と啓介の顔に吸い寄せられる。
「え…っ」
 啓介は、誠司の椅子の両側に手を置いた。 肘掛けのすぐ外側――誠司が立ち上がろうとすれば、啓介の腕にぶつかる。 逃げようにも、啓介の体が前にせり出していて、誠司は身動きが取れない。
「隙だらけなんですよ、先輩は」
 その声は低く、冷たい。 誠司はカチンときて、啓介を睨み上げた。
「うるさい!お前に言われる筋合いはない!」
「……でも、」
 啓介は少しだけ顔を近づけた。その瞳が、真っ直ぐに誠司を射抜く。
「お前はただ、俺のこと脅してるだけだろう?!」
 誠司の怒鳴り声が、生徒会室に響いた。 けれど啓介は、微動だにせず、じっと誠司を見下ろしていた。 
「今は、付き合っています」
「脅されてるだけだ…!」
「じゃあ、このまま脅せば、先輩は全部、俺のものになってくれますか?」
「……はあっ?!」
 誠司は目を見開いた。 息が詰まる。 冗談にしては、あまりに真剣すぎる。 啓介の声には、揺らぎがなかった。
「抱きしめて、キスをして、先輩の身体を――」
 啓介の大きな手が、誠司の胸元に伸びてきた。 誠司は咄嗟にその手を振り払った。
「触るなっ!!」
 怒りと動揺が混ざった声が、誠司の喉から飛び出す。手は震えていた。
「恩田先輩には触らせたのに?」
「お前には関係ないだろ!」
「関係あります。俺は――」
 啓介の声は低く、その目は、真剣で、逃げ場がなかった。
「…あなたが好きです」
 誠司は、叫ぶように言った。
「お前の気持ちなんか、知るか!」
 その言葉は自分の胸に突き刺さる。 啓介の想いを拒絶することで、自分の中の何かが軋んだ。
「……そうですね」
 啓介の声は、冷たく落ちた。 
 誠司は、啓介の視線から逃げるように顔を逸らした。 心臓が、耳の奥で鳴っている。 怒りなのか、戸惑いなのか、自分でもわからない。
「……俺は、お前のものじゃない!」
 椅子から立ち上がると、誠司は啓介の横をすり抜けるようにして、生徒会室を出ていった。 啓介は追いかけなかった。 ただ、静かにその背中を見つめていた。
 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。 生徒会室には、重たい沈黙だけが残った。


 5

「……なんなんだよ、あいつ」
 小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。 怒りとも、困惑ともつかない感情が、喉の奥で渦を巻いている。
 啓介の言葉――『俺にも触らせてほしいです』 その一言が、頭の中で何度も反響する。
 冗談じゃない。 俺は、誰のものにもならない。 啓介のものになんて、絶対に。
 でも――
『………あなたが好きです』
 最後に聞こえたその声が、妙に胸に残っている。 冷たいはずなのに、どこか切実で、痛々しくて。
 誠司は立ち止まり、壁にもたれかかった。 心臓が、まだ落ち着かない。 啓介の顔が、距離が、声が、全部、頭にこびりついて離れない。

 *

 暗い部屋。 誠司は椅子に座っている。動けない。声も出ない。
 誰かが、静かに近づいてくる。 背が高く少し猫背。その顔は無表情なのに、目だけが熱を帯びていた。
『先輩は、俺のものです』
 低い声が耳元に落ちる。 啓介の手が、誠司の頬に触れる。 冷たい。けれど、拒絶できない。
(やめろ…っ)
 声にならない声。 身体が動かない。 啓介の手が、首筋をなぞる。 椅子の背もたれに押しつけられ、逃げ場がない。
『触らせてください。先輩の全てに』
 啓介の顔が近づく。 唇が触れそうになる。 誠司は必死に目を閉じる――

「やめろ!!」
 誠司は叫びながら目を覚ました。 息が荒い。汗でシャツが張りついている。 部屋は静かで、現実のはずなのに、夢の感触がまだ肌に残っている。
「……なんなんだよ」
 胸が苦しい。 夢なのに、啓介の声が、手が、あまりにリアルだった。
 誠司は長いため息をついた。

 *

 放課後の廊下は静かだった。 窓から差し込む夕陽が、床に長い影を落としている。 
 校舎の静けさが、逆に胸をざわつかせる。 誰もいないはずなのに、誰かに見られているような気がして、足音を早めた。

 誠司は、喉が渇いて自販機に向かっていた。 昨夜の夢――啓介に襲われる夢――その残像がまだ胸にこびりついている。 目覚めたときの息苦しさ、啓介の声、触れられた感覚。 全部、現実のように鮮明だった。

 何か冷たいものを飲まないと、落ち着かない気がした。 喉の渇きというより、心のざらつきを洗い流したかった。

 最近、誠司は意識的に啓介と二人きりにならないようにしていた。 生徒会室では誰かがいるように気を配り、帰りもできるだけ早く帰るようになった。 啓介の視線が怖いわけじゃない。 でも、あの目に見つめられると、自分が見透かされているような気がして。それが、怖かった。

『先輩は、俺のものです』
 夢の中の言葉が、頭の奥で反響する。 誠司は思わずペットボトルを握る手に力を込めた。
「……くそ」
 小さく呟いた声は、誰にも届かない。 けれど、自分の耳にははっきりと響いた。
 そのとき――
「誠司?」
 不意に呼びかけられて、誠司は肩を跳ねさせた。 振り向くと、そこには頼人が立っていた。
「……頼人」
 頼人は、誠司に笑いかける。 部活のユニフォーム姿で、ペットボトルを片手に持っていた。
「予算の件、どうだ?」
「…ああ、多分大丈夫だろう…」
 誠司は、なるべく平静を装って答える。 けれど、声が少しだけ掠れていた。
 頼人は、誠司の顔をじっと見つめた。 
「誠司、何かあったのか?」
「な、なんで?」
 誠司の心臓が跳ねる。 何かがバレたかと、緊張して手に汗がにじんだ。
「なんか元気ないみたい」
 頼人の手が、誠司の頬に触れそうになる。 その瞬間、誠司の体がびくっと反応して、思わず一歩後ずさった。
 頼人の手が宙で止まる。 誠司は、慌てて首を振った。
「ごめん、ちょっと…びっくりしただけ」
 頼人は、少しだけ眉を寄せる。
「……触られるの、嫌?」
「いや、そういうわけじゃ…」
 言葉がうまく出てこない。 誠司は、唇を噛んだ。
「ちょっと、夢見が悪くて…」
「夢?」
「……あの、なんか襲われる夢で…」
「え? 怖いな…」
「うん、怖くて、体が動かなくて…」
「それで?」
「え?」
「何かされたのか?」
「いや…その前に起きたし」
「そうか、よかった」
 頼人は、心底ほっとしたような顔をしていた。 その表情が、誠司の胸を少しだけ締めつける。 
(そんな顔、俺に向けてくれるのに……)
「……そういえば、生徒会の大上くんてさ」
「え?!」
 突然、啓介の名前が出てきて、誠司の声がひっくり返った。 頼人が驚いたように目を見開く。
「どうした?」
「い、いや…大上がどうした?」
 誠司は、慌てて声の調子を整えようとする。 心臓が、さっきまでの静けさを裏切るように跳ねていた。
「なんか俺に敵意がないか? この前、すごく睨まれてる気がして。 気のせいかもしれないけど」
「……あ、そうなんだ。ま、まあ、あいつ元々目つき悪いからな」
 誠司は、はははとごまかすように笑った。 でも、その笑いはどこか引きつっていた。
 頼人は、少しだけ考えるように目を伏せた。 そして、ぽつりと呟く。
「……あいつには気をつけろよ。 もしかしたら誠司のことを狙ってるかもしれない」
 誠司の顔が更に引きつった。 喉の奥が、急に乾いたような気がした。
(……脅されているなんて、言えるわけがない)
「そ、そんなことあるわけないだろう」
 頼人は、冗談めかして笑った。 けれど、その笑いはどこか空々しくて、自分でも違和感を覚えていた。
「ま、そうだよな。男同士で好きになるなんて、あるわけないか」
 その言葉が、誠司の胸に突き刺さった。 鋭く、静かに、深く。
 でも、頼人は気づいていなかった。 誠司が一瞬、呼吸を止めたことにも。
「あ、そうそう。俺、最近彼女ができたんだ」
 誠司の目が、頼人を見た。 その瞳は、少しだけ揺れていた。
「……彼女?」
「うん。前に話したっけ?他校の子でさ、明るくて、すげー気が合うんだよ」
 頼人は、照れくさそうに笑った。 その笑顔が、誠司の胸をまた締めつける。
(頼人は、誰かを好きになって、幸せそうで。 俺は、誰かに怯えて、誰にも言えなくて――)
「今度紹介するよ、誠司にも。きっと気に入ると思う」
「……うん」
 誠司は、無理に笑った。 その笑顔が引きつっているのが、自分でもわかる。 口角は上がっているのに、心は沈んでいた。
「誠司は?好きな人とか、いるの?」
 その問いに、誠司は一瞬だけ言葉を探した。 でも、すぐに首を横に振った。
「……いないよ」
 息が苦しい。
(いるよ。いるけど、言えない。 言ったら、きっともう頼人は俺に笑いかけてくれなくなる)
 頼人は、少しだけ首を傾げて笑った。
「誠司は真面目で優しいし、いつかいい人見つかるって。絶対」
「……ありがとう」
 誠司は、ペットボトルを開けて、炭酸を一口飲んだ。 甘さが、やけに苦く感じた。
 頼人は、少しだけ眉をひそめて誠司を見つめる。
「……誠司、どうした?」
「……なんでもない」
「そっか。何かあれば言えよ。誠司が困ってるなら、俺は助けたいからな」
「……うん」
 誠司は、ペットボトルを握りしめながら、心の奥がじわじわと痛むのを感じていた。 頼人の言葉は、優しすぎて、苦しい。

 冷静でいなきゃいけない。 そう思っていた。 頼人は、ただの幼馴染で、ただの友達で。 彼女ができたって、祝福するのが当然で――
 でも、心臓は言うことを聞かない。 笑顔を見せられるたびに、胸がざわつく。 彼女の話をされると息が苦しい。
(それが普通だ。頼人は普通なんだから)
 頼人の目が、誰かに向けて優しくなる。 その誰かが、自分じゃない。 それが、どうしようもなく苦しい。

 頼人が好きだ。 頼人だったら、毎日一緒にいられれば嬉しいのに。 頼人になら、抱きしめられて、キスされて――その先も、全部許せるのに。
 どうして、あいつなんだろう。 どうして、あいつなんかに心を乱されなきゃいけないんだ。

 啓介のことが、頭に浮かぶ。 あいつの目。 あいつの言葉。 あいつの手。
『…このまま脅せば、先輩は全部、俺のものになってくれますか?』
 それは、怖かった。 でも――どこかで、羨ましいと思ってしまった。
(頼人は、俺をそんなふうには見ない…)
 啓介の執着が、気持ち悪いと思った。 でも、誠司の中には、誰かに強く求められることへの渇望があった。
(俺だって、好きな人に好きだと言いたい…)
 冷静でいようとする。 でも、嫉妬が喉元までせり上がってくる。 頼人の彼女の話を聞いて、笑顔を見て、誠司は思った。
(きっと、俺の知らない頼人が、これからも増えていくんだろうな…)
 なんだか、置いていかれるような気がした。 自分だけ、ずっと同じ場所にいるようだ。
『誠司は真面目で優しいし、いつかいい人見つかるって。絶対』
 その言葉は、優しすぎて、残酷だった。
(俺が好きなのは、頼人なのにな…)
 言えない。 言ったら、全部壊れる。 だから、冷静なふりをする。 でも、心はずっと、嫉妬の中で軋んでいる。

 誠司は、誰にも見せず、静かに息を吐いた。 その吐息は、少しだけ震えていた。

 *

「この前は、すみませんでした」
 放課後の生徒会室。他のメンバーが出払ったときに、啓介は、机に向かって書類を整理している誠司に声をかけた。 その声は低く、真剣だった。 頭を深々と下げる姿に、誠司はちらりとも目を向けなかった。
 誠司は、手を止めずに答える。
「……別にいい」
 そっけない返事。 けれど、その言葉には力がなかった。 怒っているわけでも、許しているわけでもない。 ただ、感情が無いような、そんな響きだった。
 啓介は、少しだけ躊躇してから言葉を続けた。
「もう、無理やり触れるようなことはしません。だから……避けないでもらえませんか」
 誠司の手が、ほんの一瞬止まった。 でもすぐに、何事もなかったかのように動き出す。
「わかった…」
 その声には、何の感情もこもっていなかった。 まるで、ただの返事。 許したわけでも、忘れたわけでもない。 ただ、触れたくないだけ。 心がここにないような、そんな空気が漂っていた。
 啓介は、誠司の横顔を見つめながら、少しだけ間を置いて言った。
「あの…元気ないですね…、何かあったんですか?」
 誠司の手が、再び一瞬止まる。 でも、またすぐに動き出す。
「別に…」
 その言葉も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。 啓介は、静かに言葉を続ける。
「もしかして……恩田先輩と何かあったんですか?」
 誠司の指が、書類の端を少し強く握った。 そして、低く、少しだけ語気を強めて言った。
「お前には関係ない」
 その言葉に、啓介は何も返せなかった。 けれど、誠司の声には怒りよりも、疲れが滲んでいた。
 少しの沈黙のあと、啓介は静かに言った。
「関係あります」
 誠司は、書類をまとめる手を止めた。 そして、ゆっくりと啓介の方を向いた。
「……うるさい」
 啓介は、まるで聞いていないかのように真顔で言った。
「先輩、デートしましょう」
「イヤだ」
「バラしますよ?」
 その言葉に、誠司の喉が詰まった。 もう、好きにすればいい――そう言いかけて、飲み込んだ。 それでも、やっぱり諦めきれなかった。 頼人との関係を、壊されたくないと思ってしまう。
「……お前、最低だな」
「それでいいです。先輩の行きたいところに行きましょう」
 誠司は、啓介の顔をじっと見つめた。 やはり何を考えているのかわからない。
「……静かなところがいい」
 啓介は、少しだけ目を見開いた。 そして、頷いた。
「わかりました。 探します」
 誠司は、ため息をついた。 この状況が、どうしてこうなったのか。 啓介の強引さに、流される自分が情けなかった。
 でも、どこかで―― 誰かに必要とされることに、救われている自分もいた。
「…話したくなかったら話さなくていいです。 でも、もし、先輩が話したくなったら、俺はいつでも聞きます」
 啓介の声は、静かで、押しつけがましくなかった。 ただそこにいて、誠司の言葉を待っている。 そんな空気が、誠司の胸にじわりと広がっていく。
「俺はいつも、あなたのことを想っています」
 誠司は、何も言わずにうつむいた。 机の上の書類が、ぼやけて見える。 目の奥が、少しだけ熱かった。
 そして、ぽつりと呟いた。
「……お前、ほんとに変な奴だな」
 その言葉に、啓介はいつものように、迷いなく答える。
「はい。ありがとうございます」
 誠司は、顔を上げずに、ふっと鼻で笑った。
「褒めてない」
「はい」
 誠司は、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。


 6

 約束をした日。駅の改札を抜けると、啓介はすでにホームで待っていた。 白いシャツに、少しだけ風に揺れる髪。 啓介はすぐに誠司を見つけて歩み寄ってきた。
「……で、どこに行くんだ?」
 啓介は、真顔で言った。
「秘密です」
「は?」
「着いてからのお楽しみということで」
 誠司は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。 もう、どうでもいい。 そう思って、電車がホームに滑り込んできた音に身を任せた。
 車内は空いていた。 ふたりは並んで座ったが、会話はほとんどなかった。 誠司は、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていた。
 田んぼが広がり、遠くに山が見える。 都会の喧騒から少しずつ離れていくような感覚が、誠司の心を静かに撫でていく。
「先輩、疲れてます?」
 啓介の声が、静かに響いた。
「……別に」
「なんか、最近ずっと考え事してる顔してるから」
 誠司は、少しだけ目を細めた。 啓介の言葉が、意外とよく見ていることに気づいて、少しだけ胸がざわついた。
「お前、俺の顔ばっか見てるな」
「好きですから」
「……バカか」
 啓介は、それ以上は何も言わなかった。 誠司は、再び窓の外に目を向けた。
(どこに連れていかれるんだろう)
 知らない場所。 知らない時間。 でも、少しだけ―― 何も考えなくていいこの瞬間が、心地よかった。

 海辺は、思ったよりも静かだった。誠司は、砂浜に足を踏み入れながら、深く息を吐いた。
「……なんで海?」
 啓介は隣で、少しだけ首を傾げた。
「先輩が静かなところって言ってたから。人も少ないし、波の音って、落ち着きますよね」
 誠司は返事をせず、ただ海を見つめた。 遠くで鳥が鳴いている。 空は広くて、何も遮るものがない。波の音が、一定のリズムで耳に届く。 それはまるで、誠司の胸の奥に沈んだ感情を、少しずつ揺り動かしているようだった。
(……いっそ、頼人への気持ちが無くなってしまえばいいのかな)
 好きでいることが、こんなにも苦しいなんて。 忘れたいのに、忘れられない。 手放したいのに、手放せない。
 頼人の笑顔も、声も、ふとした仕草も。 全部、誠司の中に残っている。 まるで、消えない痕のように。
「……バカみたいだな」
 誠司は、かすかに笑った。 自嘲のような、ため息のような笑みだった。
「……手、つないでもいいですか?」
 誠司はすぐには答えず、ただ海を見つめたまま、少しだけ目を細めた。
「ダメだ」
 短く、でも確かにそう言った。 啓介はそれ以上何も言わなかった。
「……わかりました」
 それだけ言って、誠司の隣を黙って歩き続けた。 距離は保たれている。 
「……お前、今日は静かだな」
 誠司がぽつりと呟く。 啓介は、海の方を見たまま答えた。
「うるさいと先輩に嫌われるでしょう」
「……別に、」
 誠司が言いかけたその瞬間、啓介の視線がこちらを向いた。 まっすぐに、誠司の横顔を見つめている。
「……別に、嫌いじゃない」
 誠司はそう言って、少しだけ顔をそむけた。 自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。 啓介の表情はわからない。きっといつもの無表情なのだろう。
「もう一度言ってもらえませんか?」
「なんでだ?」
「録音します」
「バカか」
 誠司は苦笑した。 ほんの少しだけ、心がほどけた気がした。


 帰り道、駅前の広場を通りかかったとき――
「誠司!」
 聞き慣れた声に、誠司は反射的に顔を上げた。 そこには、頼人がいた。 そして、その隣には――彼女らしき女の子が立っていた。
 彼女は頼人の腕に軽く触れていて、頼人は少し照れたように笑っていた。 その笑顔が、誠司の胸を締めつけた。
「あ…」
(嫌な予感がする…。聞きたくない…。もう、それ以上しゃべらないでほしい)
 誠司は、逃げたくなる衝動をなんとか理性で押さえ込んだ。 足がすくむ。 喉が乾く。でも、逃げたらダメだ。
「……頼人」
 声が震えそうだった。 でも、誠司はなんとか平静を装った。
 頼人は、嬉しそうに駆け寄ってきた。 無邪気な笑顔。 何も知らない笑顔。
「偶然だな!」
「だな…今日は、どうしたんだ?」
「今日デートだったんだ。紹介するよ――」
 その言葉に、誠司の心が軋む。 紹介なんて、聞きたくない。 名前を知ったら、顔を覚えたら、もっと苦しくなる。
「俺の彼女、杉江さん。この前話しただろ?最近付き合い始めてさ」
 彼女は、にこりと微笑んだ。 礼儀正しく、感じのいい笑顔だった。 それが、余計に誠司の胸を締めつけた。
「はじめまして、誠司さん。頼人くんからよく聞いてます」
「……そう」
 誠司はそれだけ言って、視線を逸らした。 声がうまく出なかった。 笑顔なんて、作れなかった。
 啓介が隣で、黙って誠司の様子を見ていた。 何も言わず、ただその場に立っていた。 その沈黙が、誠司にはありがたかった。
 頼人は、誠司の変化に気づいていないようだった。 相変わらず明るく、楽しそうに話している。
「今度、みんなで遊びに行こうよ」
「……考えとく」
 誠司は、それ以上言葉が出なかった。 喉が詰まり、呼吸が浅くなる。 顔が、みるみるうちに青ざめていくのが自分でもわかった。
「誠司?」
 頼人が、不思議そうに声をかける。 その声は、いつもと同じ優しさを含んでいた。 それが、余計に苦しかった。
 啓介は、隣で自然な口調で言った。
「すみません。次、急いでいるので」
 頼人は「あ、ああ。悪いな、呼び止めて」と言って、少し申し訳なさそうに笑った。
「二人で出かけてたのか?」
「はい、生徒会の用事で色々ありまして」
 啓介の声は、落ち着いていて、誠司の代わりに会話を引き取ってくれていた。 誠司は、ただうつむいたまま、何も言えなかった。
「そうか。ご苦労さん。誠司、またな」
 頼人の声が、遠く聞こえた。 誠司は、顔を上げられなかった。
「……うん」
 それだけが、精一杯だった。
 頼人と彼女が、最後にもう一度笑顔で手を振った。 その笑顔が、直視できない。
 啓介は、何も言わずに誠司の腕を軽く引いた。 その手は、強引ではなく、ただそっと導くようだった。
 ふたりは、広場を離れ、駅の階段を降りていった。

 駅の階段を降りる途中、誠司はずっと黙っていた。 足元だけを見て、ひとつひとつ段差を踏みしめる。 啓介は隣で、同じように黙って歩いていた。
「カラオケでも行きますか?」
 突然、啓介が口を開いた。 誠司は立ち止まり、少しだけ顔をしかめた。
「なんで急に…」
「いいから。行きましょう」
「いや、今日はもう帰る」
 誠司は、踵を返して階段を降りようとした。 その瞬間、啓介が無表情のまま誠司の腕を掴んだ。 
「……なんだよ」
 誠司が問いかけると、啓介は静かに言った。
「先輩、ずっと我慢してますよね?」
「……」
「泣いてもいいですよ」
「……どうして」
「泣きそうな顔してますよ」
 誠司は、言葉に詰まった。 喉が詰まるほど、胸が苦しかった。
「……泣くわけないだろ」
「どうしてですか?」
 啓介の声は、責めるでも、慰めるでもなく、ただ誠司の心に寄り添うような声だった。
「先輩が苦しそうなの、見てるのが辛いです」
 誠司は、目を伏せた。 駅の階段の途中、人の流れの隙間にふたりだけが取り残されたようだった。
「ふざけんな!」
 誠司は、思わず声を荒げた。 その声に、周囲の人が一瞬だけ振り返る。 
 彼は誠司の腕をそっと引き、人の少ない物陰へと導いた。 そこは、駅の柱の裏。 人目から少しだけ隠れる場所だった。
 誠司は、肩で息をしていた。 怒りとも、悲しみともつかない感情が、胸の奥で暴れていた。
 啓介は、誠司の前に立ち、静かに言った。
「見られるのが嫌だったら……俺、壁になります」
「は?」
「先輩が泣いても、誰にも見られないように。 俺が前に立って、隠します。 触れません。何もしません。 ただ、ここにいます」
 誠司は、目を見開いた。 
「そんなもの必要ない!帰る!」
 声は荒かったが、足は動かなかった。 啓介は、誠司の前から動かず言った。
「先輩の様子がおかしかったのは……やっぱり恩田先輩のことだったんですね」
「違う!」
 誠司は、啓介の胸元を押そうとした。 でも、腕に力が入らなかった。 指先が、震えていた。
「気持ち、わかりますよ」
「……っ、お前に何がわかる?!」
 誠司の声は、震えていた。 怒りとも、悲しみともつかない感情が、喉の奥で絡まっていた。
 啓介は、少しだけ目を伏せて言った。
「俺の好きな人には……好きな人がいますから」
 誠司は、はっとして啓介の顔を見た。 その目は、いつも通り無表情。 何を考えているのかわからない。
「そういう気持ちなら、わかります」
 誠司の胸が、ぎゅっと締めつけられた。 
「……っ」
 啓介は、少しだけ間を置いて、静かに問いかけた。
「告白、しないんですか」
「できるわけないだろう!!」
 声が、駅の柱に反響した。 誠司は、拳を握りしめて、唇を噛んだ。
「どうして?」
「だって……彼女がいるのに! 俺のことなんて、なんとも思ってないのに!!」
 沈黙。 啓介は、誠司の言葉をすべて受け止めるように、ただそこに立っていた。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「いいえ。 好きな人に、好きって伝えないのは……」
 少しだけ、言葉を選ぶように間を置いて。
「あなたの優しさです」
 誠司は、息を呑んだ。 胸が、ぎゅっと締めつけられた。 張り詰めていたものが、音もなく崩れていく。
「……っ」
 肩が震えた。 唇が震えた。
 そして――
 ボロボロと、涙が零れた。 止めようとしても、止まらなかった。
 誠司は、柱にもたれかかり、ゆっくりとしゃがみ込んだ。 顔を膝に埋める。 波のように、感情が押し寄せてくる。
 啓介は、何も言わなかった。 ただ、誠司の前に立ち続けた。 誰にも見られないように。 誰にも邪魔されないように。
 誠司は、顔を伏せたまま、涙を流した。 もう、取り繕うことなんてできなかった。

 涙がようやく収まった頃、啓介はしゃがんで静かに口を開いた。
「俺、あなたに助けてもらったことがあるんです」
 誠司は、目を伏せたまま、少しだけ顔を上げた。 啓介は、自販機で買ってきた冷たい水のペットボトルを差し出した。 
「中学のとき……親とも学校とも、うまくいってなくて。 いじめられてたわけじゃないけど、誰にも必要とされてない感じで。 教室にいても、空気みたいで。 誰かが俺の名前を呼ぶことなんて、ほとんどありませんでした」
 啓介の声は、静かだった。 でも、その言葉の一つ一つが、誠司の胸に刺さった。
「先生にも、親にも、何か言われるたびに、 “俺のことなんてどうでもいいくせに”って思ってました。 誰かに期待されることもなくて、 誰かに失望されることもない。 ただ、そこにいるだけの存在でした」
 誠司は、黙って聞いていた。 啓介の過去を、初めて知るような気がした。
「そのうち、変なやつらとつるむようになって。 タバコ吸ってるやつとか、夜に駅前で騒いでるやつとか。 別に楽しいわけじゃなかったけど…… 誰かと一緒にいるってだけで、少しだけ生きてる気がして」
 啓介は、遠くを見るような目をしていた。
「でも、あいつらといても、心はずっと空っぽで。 笑ってるふりして、何も感じてなかった。 ただ、誰かに“俺はここにいる”って言いたかっただけなんです」
 誠司は、手に持った水のペットボトルを見つめた。 冷たさが、手のひらにじんわりと染みていた。
「ある日、初めて酒を飲まされて……」
 啓介は、少しだけ目を伏せた。 誠司は、息を飲んだ。
「仲間に無理やりってわけじゃないけど、断れなくて。 『一口だけだろ』って言われて、流されて…… そしたら、すぐに頭がガンガンしてきて、気持ち悪くなって。 駅前の歩道に、倒れ込んだんです。 誰も、俺のことなんて気にしてなかった。自業自得ですけどね」
 誠司は、その場面を想像するだけで、胸が苦しくなった。 冷たいアスファルトの上で、誰にも気づかれずに倒れていた啓介。 その孤独が、痛いほど伝わってきた。
「そのとき、あなたが通りかかった。 俺のこと見て、すぐに駆け寄ってきてくれて……」
 啓介は、記憶を探るように話す。
「俺の顔を覗き込んで、 『……大丈夫か? 動けるか?』って。 救急車呼んだ方がいいかって、真剣に迷ってて。 自販機でスポーツドリンク買ってきて、 『一気に飲むな。少しずつだ』って、 俺の手にボトルを持たせてくれた。そして俺の話を聞いてくれた」
 誠司は、目を見開いた。 そんな記憶は、まったくなかった。 
「それからずっと、あなたのことが忘れられなくて。 どうしても、もう一度会いたくて。 だから、あなたの制服から高校を調べて、俺も受験したんです。 必死に勉強して、なんとか合格して。 それでも、最初は話しかける勇気がなくて…… でも、生徒会に入って、近くにいられるだけで嬉しかった」
 誠司の胸が、静かに軋んだ。 知らなかった。 そんなふうに、誰かに思われていたなんて。
「……俺はそんなに立派な人間じゃない」
 誠司がぽつりと呟くと、啓介はすぐに答えた。
「でも、俺は――あなたが好きです。 ずっと前から」
 その言葉は、まっすぐで、揺るぎなかった。 誠司は、何も言えずに、ただ啓介の目を見つめた。
「じゃあ……どうして、脅したりなんかしたんだ?」
 声はまだ少し掠れていた。 でも、誠司の目は、まっすぐに啓介を見ていた。
「さあ」
 啓介は、またあの無表情な顔で言った。 
「……さあって」
 誠司が眉をひそめると、啓介は少しだけ目を伏せた。 そして、ぽつりと呟くように言った。
「あなたが、苦しそうにしてるから」
 その言葉に、誠司は息を止めた。 啓介は、誠司の顔を覗き込む。 その距離が、妙に近い。 誠司の吐息が、啓介の頬にかかるほどだった。
「俺に、何かできることはないかと思ったんです」
 その言葉に、誠司は目を見開いた。 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
(何かできること……? それで、あんなことを?)
 混乱と戸惑いが入り混じる。 でも、啓介の瞳は、真剣だった。 あれは、彼の精一杯の“関わり方”だったのだろうか。 不器用で、間違っていて、それでも――誠司に届いてほしいという、啓介なりの必死さ。
 誠司の顔が、一気に熱くなる。 鼓動が、耳の奥でうるさく鳴っていた。
「触っても、いいですか?」
 啓介の目は、まっすぐだった。 
 誠司は、ごくりと唾を飲み込んだ。 一体どこを触るというのか――手か、肩か、それとも…… 頭の中が真っ白になる。
 そして、絞り出すように言った。
「……わ、わからない」
 その言葉に、啓介は珍しく目を見開いた。 ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をした。 その表情は、いつもの無機質な仮面が、ふと外れたようだった。
「……わからない、ですか」
 誠司は、視線を落とした。 自分でも、何を感じているのか、整理できなかった。
「……悪い。……自分でも、わからないんだ」
 生徒会室で追い詰められたあのときは、恐怖しかなかった。 啓介の言葉も、行動も、ただ怖かった。 でも今は―― 啓介に、安心を感じている。 そのことが、何よりも戸惑わせた。
 啓介は、誠司の顔をじっと見つめた。 その瞳は、何かを探るように、でも責めることはなかった。
「じゃあ、今日はやめておきます」
 その言葉は、静かで、優しかった。 誠司は、顔を上げた。
「え……なんで」
「先輩が“わからない”って言ったからです。 俺は、先輩が“いい”って言ってくれるまで、待ちます」
 誠司は、ペットボトルを握りしめながら、目を伏せた。
(……ほんとに、変なやつだな)


 7

「ねえ、この前駅でさ……」 
「生徒会長が背の高い男の人に抱きしめられてたって!!」 
「え、マジ?!」
 週明け。登校すると廊下のあちこちで、ひそひそと声が飛び交っていた。 教室の空気は、どこかざわついていて、誠司の耳にはその言葉が否応なく届いてくる。
 誠司は、教室の席に座りながら、顔を伏せていた。 机の上に肘をつき、手で目元を隠すようにして。 視線を上げることができなかった。
(……誰かに見られてたのか)
 あの夜、涙を流した自分を啓介が隠すように壁になってくれていた。 抱きしめられてはいない。 それでも、あの距離感は――誤解されても仕方ない。
(相手は大上だって、顔は見られてないはず……たぶん)
 それが唯一の救いだった。 相手が誰かまでは、噂にはなっていないようだった。 けれど、誠司の心臓は、ずっと落ち着かないままだった。

「ねえ、生徒会長って、そういう人だったの?」 
「いや、でもあの人って、真面目だし……意外すぎるよね」 
「でも、見たって子が何人かいるらしいよ。 駅の人のいないところで、すごい近い距離で――」

 誠司は、耳を塞ぎたくなった。 でも、塞げなかった。 その言葉の一つひとつが、胸に突き刺さる。
 啓介のことを、嫌いじゃないと思う。 むしろ、あの夜の言葉が、ずっと頭から離れない。
『俺に、何かできることはないかと思ったんです』
 その声の熱が、まだ耳に残っている。 あのときの距離、啓介の瞳、声―― 全部が、誠司の中で静かに渦を巻いていた。

 *

 生徒会室のドアが勢いよく開いた。 頼人が、真剣な顔で入ってくる。
 誠司は、書類を整理していた手を止めた。 啓介は、無言でパソコンの画面を見つめている。
「誠司!」
 頼人の声は、いつもより低く、張り詰めていた。 誠司は、少しだけ緊張しながら振り向いた。
「……あの噂、本当なのか?」
「……っ」
 誠司は、言葉に詰まった。 何をどう説明すればいいのか、わからなかった。
 頼人は、誠司の顔をじっと見ている。 その目には、怒りと心配が入り混じっていた。
「男に抱きしめられてたって、無理やりじゃないのか? 脅されてるんじゃないのか? 何か変なことされなかったか? 相手は――」
 頼人は、啓介の方を指さした。
「こいつだろ?!」
「な、何を言って……」
「噂だよ! この前駅で別れてから、こいつとずっといただんだろ?! それで抱きしめられてたって?! 誠司、お前……本当に大丈夫なのか?」
 その言葉に、啓介は頼人の方を向いて立ち上がり、静かに口を開いた。
「俺が片想いしているだけです。 先輩には何もしていません。 もうフラれたんで、何もすることはありません」
 その声は、淡々としていた。 
 誠司は、驚いて思わず啓介の方を見た。 その言葉が、あまりにも違っていたから。
(フラれた……? 俺は、そんなこと……)
 啓介の背中が、妙に遠く感じられた。
 頼人は、誠司の反応を見て、さらに眉をひそめる。
「誠司……本当に何もされてないんだな? 嫌なこと、されてないんだな?」
 誠司は、ゆっくりと首を振った。
「……されてない。 大上は、何もしてない。ただ、俺が……泣いてたのを、隠してくれただけだ」
 頼人は、目を見開いた。
「泣いてた……? おい!大上、どういうことだ?! やっぱりお前が何かしたんだろ?!」
 啓介が何も言わないまま立っていると、頼人は一気に距離を詰めた。 そして、啓介の胸倉をつかんだ。
「許さねえ…!俺の大事な幼馴染を傷つけるな!!」
 啓介はただ、無表情に頼人の目をまっすぐに見返していた。
「誠司が泣くなんて、よっぽどのことがあったんだろ!誠司がどれだけ我慢してるか、俺は知ってるんだよ! こいつは、めったに弱音を吐かない。俺にも頼ってくれない。 そんな誠司が泣いたってことは――お前が何かしたってことだろうが!!」
 誠司が慌てて間に入ろうとする。
「頼人、やめろ!大上は……!」
 頼人は振り返らず、啓介を睨みつけたまま言葉を続ける。
「悪いのはこいつだ!何も庇ってやる必要なんかない!お前みたいなやつが、誠司のそばにいるなんて、俺は絶対に認めねえ!」
 啓介は、静かに口を開いた。
「別に殴ってもいいですよ。訴えたりしませんし。 それで気が済むなら、どうぞ」
 その言葉は、逆に頼人を煽るようだった。 啓介の表情は変わらない。
 頼人の拳が、わずかに震えた。 怒りだけじゃない。戸惑いも、混乱も、そこにあった。
「この……!!男が好きとか、気持ち悪いんだよ!」
 その瞬間――
 誠司の頭は、真っ白になった。 空気が止まったような気がした。 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
(……気持ち悪い?)
 誰かが言った言葉じゃない。 頼人が。 ずっと一緒にいて、信じていた幼馴染が。
(俺の気持ちは、そんなふうに見られてるのか…)
「……そうですね。気持ち悪いですよね。 でも、好きになってしまったら、どうしようもないんです…」
 その声は、どこまでも静かだった。 まるで、誠司の気持ちを代弁してくれるかのように。
 頼人が拳を振り上げた瞬間――
「やめろ!!」
 誠司は、啓介の前に立ちはだかる。 その動きは、衝動的で、でも迷いのないものだった。
 啓介は、一瞬驚いた顔をした。 そして、誠司を庇うように体を傾け、頼人の拳が誠司に当たらないように守った。
 ガッ――鈍い音が空気を裂いた。
 啓介の体が大きく揺れ、よろめきながらも倒れずに踏みとどまった。 拳の衝撃は重く、頬には赤く腫れが浮かび、唇の端から血が滲んでいた。 それでも彼は、声を上げることなく、静かに顔を上げた。
「…っ!」
 誠司は、目を見開いた。
「大上っ!大丈夫か?!」
「これくらい、大丈夫です…」 
 誠司は、啓介の顔に浮かぶ血を見て、息を呑んだ。
「血が……っ」
 誠司は啓介の口元に手を添える。
「口の中、ちょっと切っただけです。先輩、そんな顔しないでください」 
「痛かっただろ…?ごめん…!」
「謝らないでください。俺は大丈夫ですよ…」
 啓介の言葉は、心配そうな誠司を安心させようとするものだった。
「誠司!なんで庇おうとする?!なんで、こいつなんかのために……!」
 頼人の声が、怒りと困惑で震えていた。
 誠司は、啓介の顔に手を添えたまま、叫んだ。
「違う!!」
 その声に、頼人は驚いて目を見開く。一瞬、涙の滲んだ目で誠司は啓介を見つめた。
「付き合ってるんだ……!」
「は…?え…?」
「大上と俺は!」
 啓介と頼人は、同時に目を見開いた。 その目には、驚きと戸惑いが浮かんでいた。
「先輩……?」
 啓介の声は、かすれていた。 誠司の言葉が、あまりにも突然だったから。
「は……?でもフラれたって、さっき大上が言っただろう…?」
 頼人の声は、混乱していた。 何が本当で、何が嘘なのか、わからなくなっていた。
 誠司は、震える声で言った。
「大上が俺を庇って、嘘をついてるんだ! 俺が傷つかないように…、頼人に責められないように……!」
 頼人は、言葉を失った。 目の前で起きていることが、現実なのかどうか、判断できなかった。
「え…?そんな、男同士だろ? おかしいだろ…。なあ、誠司、嘘だろう?」
 その言葉に、誠司は顔を上げた。 頼人をまっすぐに見つめた。
「おかしいって、誰が決めたんだよ……? 俺の気持ちは、本物だよ。 頼人に否定されるようなものじゃない」
「なんでそんな嘘つくんだ…?」
 頼人の声は震えていた。 怒りとも、困惑ともつかない感情が混ざり合い、言葉に滲んでいた。 誠司は拳を握りしめた。 胸が締めつけられるように痛い。 涙が滲む。 これは、悔しさか、悲しさか、それとも――
「嘘じゃない!……大上が、好きだ!」
 叫ぶような声だった。 誠司の言葉が空気を震わせ、生徒会室の空気が一瞬で張り詰める。 頼人は目を見開いたまま、言葉を失っていた。 沈黙が流れる。 その沈黙の中で、頼人は思う。 誠司の言葉が嘘であってほしい。いや、きっと嘘だ。そう思いたかった。 幼馴染として、ずっと隣にいた。 誠司のことなら、誰よりも理解していると思っていた。 だからこそ、信じたくない。
「じゃあ……証拠を見せてくれよ」
 誠司は息を呑んだ。
「……」
「本当に付き合ってるなら……キスくらい、できるだろ?」
 その言葉が、生徒会室の空気を切り裂いた。 誠司の心臓が跳ねる。 啓介の肩がわずかに揺れた。
「えっ……」
 うろたえたのは、啓介だった。 その声には、驚きと戸惑いが混ざっていた。 誠司は、啓介の方を見た。
 ゆっくりと、誠司は啓介の首に手を伸ばす。 指先は震えていた。 
「大上……ごめん、少し、屈んでくれ」
 誠司の声は、かすれていた。 それでも、啓介は黙って頷き、少しだけ身を屈めた。
「先輩……無理しなくていいですよ」
 啓介の声は、優しかった。
 誠司は、少し背伸びをして啓介の首に腕を回す。 そっと引き寄せる。 啓介の顔が近づく。 距離が縮まるたびに、誠司は息を呑んだ。 鼓動が耳の奥で鳴り響く。
 啓介の瞳が、誠司を見つめていた。 逃げることなく、まっすぐに。 
 そっと顔を寄せる。 そして――唇を重ねた。
 静寂が、生徒会室を包み込んだ。 まるで時間が止まったかのように。 誰も、何も言えなかった。 
 誠司は、ゆっくりと顔を離した。 そして、頼人を見つめながら、かすれた声で言った。
「……これで、いいか?」
 その瞳は、まっすぐだった。 
 頼人は、言葉を失っていた。 目の前で起きたことが、信じられないような顔をしていた。
 しばらく沈黙が続いたあと、頼人はぽつりと呟いた。
「……邪魔したな」
 それだけ言って、生徒会室を後にした。 ドアが閉まる音が、やけに響いた。

 残されたのは、誠司と啓介、ふたりだけ。 さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
 啓介は、そっと誠司の頬に触れた。 その指先に、涙のぬくもりが伝わる。 誠司の頬を、つうっと一筋の涙が流れ落ちる。 啓介は、静かにその涙を拭った。
「……よかったんですか?」
 誠司は、少しだけ顔を上げた。 目は赤く、伏し目がちだった。
「…何が?」
「さすがに今のは、勘違いされましたよ。 俺たちが付き合ってるって」
 誠司は、目を伏せたまま、ぽつりと答えた。
「……勘違いじゃないだろ。 付き合ってるんだろう?」
 啓介は、少しだけ目を見開いた。 
「……そうなんですか?」
 誠司は、ぼそりと呟いた。
「付き合わないとバラすって脅したのは、お前だろ」
「そうですけど……」
 啓介は、誠司の頭に優しく手を添えた。 
「先輩、泣いてますよ」
 誠司は、唇を噛んだ。
「っ……悪い。キスも、付き合わせて悪かったな」
「謝らないでください。 俺は役得ですから。先輩にキスしてもらえてラッキーです」
「なんだそれ…」
 啓介の気の抜けた言葉に、誠司は思わず肩の力が抜けた。 少しだけ、笑いそうになった。
「恩田先輩には、俺に脅されてるって言えばいいですよ。 俺の片想いで、俺に脅されて、泣いてたって。 実際、脅してたし……何もしてないんですから」
 誠司は、しばらく黙っていた。 そして、ぽつりと呟いた。
「でもそれじゃあ……お前の気持ちは……?」
 啓介は、少しだけ目を伏せた。
「あなたが気にすることではないです。 今からでも誤解は解けますよ」
 誠司は、視線を落としたまま、ぽつりとこぼした。
「でも……」
「……?」
「……気持ち悪いって」
 啓介は、目を細めた。 その言葉の重さを、静かに受け止めるように。
「……ああ」
 誠司の声は、震えていた。 肩がわずかに揺れている。 その震えは、悔しさと悲しさが混ざった、どうしようもない感情の揺れだった。
「男が好きとか、気持ち悪いって言われた。 俺だって、あいつが好きなのに。 ずっと、ずっと好きだったのに……」
 その言葉は、まるで自分自身を責めるようだった。 啓介は、そっと誠司の背中に手を回した。 その手は、誠司の震える心を支えるように、優しくて、温かかった。
 誠司の肩が小さく震え、また涙が零れた。 啓介は、何も言わずに、その涙を受け止めた。
「なんか、俺の気持ちも、俺の存在も……全部、否定されたみたいで。 なんか、悔しくて、悲しくて、でもどうしていいかわからなかった……」
 啓介は、しばらく黙っていた。 
 そして、静かに言った。
「先輩」
「……何だよ」
「もう、俺にしませんか?」
 誠司は、目を見開いた。 その言葉が、あまりにも静かで、あまりにも優しかったから。
「……は?」
「俺、あなたの傍にいますよ。これからも、ずっと」
 啓介の声は、かすかに震えていた。 誠司は、その手がわずかに震えていることに気づく。 そして、そっと啓介の胸に耳を寄せると、速く打つ心臓の音が聞こえた。
「あなたが誰を好きでも。傍にいたいです…」
 誠司は、静かに啓介の肩に額を預けた。 その距離が、今はとても自然だった。
「……もう、それでいいかもな」
 啓介は、息を止めたように黙っていた。 誠司の言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。 そして、誠司の隣で静かに息を吐いた。 肩がわずかに上下しているのが、誠司にも伝わる。
「……心臓がちょっとヤバいです」
 誠司は、思わず笑った。 その笑いは、少しだけ空気を柔らかくした。
「……ふっ。お前にもそんなときがあるんだな」
 啓介は、珍しく目を逸らした。 けれど、すぐに誠司の方を向き直る。
「…先輩」
「ん…」
「あなたが好きです。付き合ってください」
 その言葉は、まっすぐで、震えていた。 でも、誠司の胸に、確かに届いた。
 誠司は、少しだけ目を伏せて、息を整えるように沈黙した。 そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺、多分、面倒くさいぞ。すぐ泣くし、不安になるし。ぐちゃぐちゃになるし…」
「知ってます。 でも、先輩だから。好きなんです」
 誠司は、啓介の目を見つめた。 その瞳に、迷いはなかった。
「……じゃあ、仕方ないな」
 啓介の顔が、ぱっと明るくなる。 その顔は、今まで見たことのないくらい、嬉しそうだった。
「本当ですか?いいんですか?今『いい』って言いましたよね!言質取りましたよ!」
「いいとは言ってない…!」
「でも、付き合ってくれるってことですよね」
「……うるさい」
 誠司は、もう一度笑った。
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