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重厚な樫の扉が、鈍い音を立てて閉ざされた。
その低い響きは、まるで冷たい鉄格子がはめられる瞬間のように、ルシアンの鼓膜を震わせた。
背後で反響するその音は、彼にとって自由の終わりを告げる合図に等しかった。
王宮の長い廊下には、夕刻の陽が赤く差し込み、磨かれた大理石の床に血のような色を落としている。
その光の中を歩くルシアン・ド・ヴァレンティン――大国アグランスの第三皇子。
十七歳になったばかりの彼は、王家の血統を象徴するかのように、陽光を受けて淡く輝く金糸の髪と、宝石を思わせる冷ややかな碧眼を持っていた。
その美貌は、宮廷ではしばしば「人形のようだ」と称される。
だがそれは、ただの賛辞ではない。
完璧な造形の裏に、感情も意志も読み取れない――そう揶揄する者たちの声が、常にその言葉には潜んでいた。
ルシアンは、胸の奥に溜まった息をゆっくりと吐き出した。
その仕草すら、幼い頃から叩き込まれた作法に沿って、無駄なく美しい。
「……終わったな」
誰に向けたわけでもない、かすかな呟き。
それは、運命に抗うことを許されなかった少年の、静かな諦念の吐露だった。
謁見の間で交わされた言葉が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
父王の厳格な声。
大臣たちが安堵の色を隠しきれずに交わした視線。
そして――
『隣国ヴォルキスとの和平条約の一環として、其の方をかの国の大公家へ婿として送ることとする』
婿――その響きは柔らかく、美しい。
だが実態は、誰よりもルシアン自身が理解していた。
それは人質であり、生きた贄であり、長年敵対してきた国へ差し出される「平和の証」だ。
第一皇子である兄は次期国王としての教育を受け、第二皇子は軍部で頭角を現し、将来を嘱望されている。
比べて、ルシアンには――美貌以外に、宮廷が求める価値はなかった。
だからこそ、彼の役割は最初から決まっていたのだろう。
国益のための、最も穏当で、最も残酷な選択。
相手はヴォルキス国の有力者、大公家の令嬢。
家柄に不足はなく、表向きには「名誉ある結婚」と呼ばれるだろう。
だが、ルシアンに断る権利など、初めから存在しなかった。
「お待ちしておりました、ルシアン殿下」
廊下に落ちる柱の影から、音もなく一人の男が姿を現した。
まるで闇が形を成したかのような静けさで。
カイル――ルシアンの専属従者であり、護衛騎士。
二十五歳の彼は、漆黒の髪と、深い憂いを宿した黒い瞳を持つ。
飾り気のない騎士服に包まれた長身は、無駄のない鍛錬を積んだ者だけが纏う静かな威圧感を放っていた。
彼はいつでもルシアンの傍らにいた。
幼い頃、まだルシアンが剣の握り方すら知らなかった頃から。
泣き虫だった少年の手を引き、転べば支え、影のように寄り添ってきた。
だからこそ――その姿を見た瞬間、ルシアンの胸の奥がぎゅっと軋んだ。
だが、感情を表に出すことなど許されない。
ルシアンは瞬時にそれらを厚い氷の下へ押し込み、顎をわずかに上げた。
皇子としての、冷たく傲慢な仮面を被る。
「……遅いぞ、カイル。いつまで俺を待たせれば気が済むんだ」
「申し訳ございません。こちらでお待ちするよう、侍従長より申しつかっておりましたので」
カイルは微動だにせず、深く頭を下げた。
その完璧な従者の態度――いつもなら安心を与えてくれるはずのそれが、今のルシアンにはひどく腹立たしかった。
(お前は……何も感じないのか。俺が、他国へ売られることが決まったというのに…)
心の奥底で叫びが渦巻く。だが、口に出せるはずもない。
「部屋に戻る……」
「承知いたしました」
カイルは一歩、静かにルシアンの背後へ回った。
その動きは、まるで風が流れるように滑らかで、気配すら薄い。
だが、ルシアンにはわかる。彼がどれほど神経を研ぎ澄ませ、周囲の危険を察知しようとしているか。
(どうして……そんな顔で、そんな態度でいられるんだ)
苛立ちが胸の奥でじりじりと燃える。
自室へと続く長い廊下を歩きながら、ルシアンはわざと靴音を荒く響かせた。
硬い大理石の床に、乾いた音が規則的に打ちつけられる。
その一歩一歩に、抑えきれない苛立ちと焦燥が滲んでいた。
背後では、カイルが一定の距離を保ちながら静かに歩いている。
「……聞いたか、カイル」
耐えきれず、ルシアンは前を向いたまま声を投げた。
「はい。和平のためのご婚姻が決まったと、城内ではすでに噂になっております」
淡々とした返答。
「耳が早いことだな。……どう思う?」
「どう、とは」
「俺が敵国に売られることについてだ。せいせいするか…? わがままな主がいなくなって、お前もようやく自由の身だ」
吐き捨てるような言葉。
だが、その裏にある本音は真逆だった。
カイルには、否定してほしかった。
『そんなことはありません』
『貴方様がいなくなるのは寂しい』
と、嘘でもいいから引き留めてほしかった。
だが、カイルの返答は、あまりにも模範的だった。
「……両国の架け橋となる、大変名誉なことと存じます。殿下のお役目が、多くの民を救うことになるでしょう」
その声には、感情の揺らぎが一切なかった。
まるで訓練された兵士が、教本を読み上げているかのように。
ルシアンは唇を噛み締めた。
鉄の味が舌に広がる。
(……そうだ。こいつは、こういう男だ)
忠義に厚く、真面目で、そして残酷なほどに「従者」であり続ける男。
ルシアンが長年抱えてきた、焼け付くような想いなど、知る由もない。
いや、知ろうともしないのだろう。
「ふん……優等生め。面白くない答えだ」
吐き捨てるように言い放ち、ルシアンは自室の扉を乱暴に押し開けた。
重い扉が壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
豪奢な調度品で飾られた自室に入ると、ルシアンは何も言わず上着を脱ぎ捨て、深くソファへ身を投げ出した。
柔らかなクッションが身体を受け止めるが、心の重さは少しも軽くならない。
すぐにカイルが歩み寄り、床に落ちた上着を拾い上げた。
夕食までにはまだ時間がある。
窓の外では、黄昏がゆっくりと夜へと姿を変えつつあり、空は紫から群青へと溶け合うように染まっている。
その静かな移ろいが、ルシアンの胸のざわめきとは対照的だった。
「着替える」
「かしこまりました」
カイルは短く答え、衣装部屋へ向かう。
ほどなくして、寛ぐためのシルクのシャツを手に戻ってきた。
ルシアンは立ち上がり、両腕を広げる。
その仕草は、幼い頃から繰り返してきた、二人だけの無言の合図のようでもあった。
カイルの指先が、ルシアンのシャツのボタンに触れる。
首元から一つずつ、丁寧に、慎重に外されていく。
そのたびに、指が肌にかすかに触れた。
ほんの一瞬の接触なのに、ルシアンの背筋には電流のような痺れが走る。
カイルの体温が、指先から伝わってくる。
微かに香る革と石鹸の匂い――それはルシアンにとって、幼い頃から変わらない「安心」の匂いだった。
伏せられた長い睫毛。整った鼻筋。無骨でありながら、決してルシアンを傷つけることのない大きな手。
この男のすべてが、ルシアンにとっては世界の中心だった。
物心ついた時から、親よりも、兄弟よりも近くにいた。
泣いている時は黙って背中をさすってくれた。
木から降りられなくなった時は、笑わずに受け止めてくれた。
どんな時も、ルシアンの隣にはカイルがいた。
ルシアンにとって「安心」という言葉は、もはやカイルそのものを指していた。
――だが、それももう終わる。
あと数週間もしないうちに、自分はこの城を出て行く。
和平の証として、敵国へ嫁ぐのだ。
そしてカイルは連れて行けない。彼は王家に仕える騎士であり、他国へ渡る皇子の護衛として同行することは許されない。
ここで、終わりなのだ。
胸の奥が、ひどく冷たく痛んだ。
まるで、ゆっくりと心臓を握り潰されているように。
シャツが脱がされ、ルシアンの白い上半身が露わになった。
夕闇に沈みゆく部屋の光が、彼の肌を淡く照らし、まるで彫像のような陰影を刻む。
カイルは一瞬だけ――本当に刹那の間だけ――視線を彷徨わせたように見えた。
その黒い瞳が、ルシアンの鎖骨のあたりでわずかに揺れた。
だがすぐに、いつもの無表情へと戻り、新しいシルクのシャツをルシアンの腕に通す。
その手つきは、自然で、丁寧で、そして残酷なほど優しかった。
沈黙が重くのしかかる。
耐えきれず、ルシアンは口を開いた。
「……ヴォルキス国は、北にあるそうだな」
「はい。冬は雪深く、寒さの厳しい土地だと聞いております」
「寒いのは嫌いだ。……だが、この息苦しい城よりはマシかもしれないな」
ルシアンはわざとカイルを見下ろすようにして、皮肉な笑みを浮かべた。
「毎日毎日、口うるさい連中ばかりだ。お前も含めてな。向こうに行けば、私は『お客様』だ。きっと今よりずっと気楽に暮らせるだろうさ」
「……左様でございますか」
カイルはシャツのボタンを留めながら、短く答えた。
胸の奥で、黒い衝動が膨らむ。
もっと揺さぶりたい。
もっと傷つけたい。
自分だけが痛むのが、どうしても許せなかった。
「ああ、せいせいするよ。やっとこの鳥籠から出られるんだ。顔も見たくない連中ともおさらばできる。……お前のその、すました顔も見なくて済むと思うと、胸が躍るようだ」
嘘だ。
全部、嘘だ。
行きたくない。
お前と離れたくない。
ずっとそばにいてほしい。
心の中で叫び続けている本音とは裏腹に、口から出るのは鋭利な刃のような言葉ばかりだった。
カイルの手が、最後のボタンを留め終えた。
その指先が離れる瞬間、ルシアンの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
カイルは深く、深く頭を下げた。
「――おめでとうございます、ルシアン殿下」
その言葉は、ルシアンの心臓を冷たい杭で貫いた。
「……なに?」
声が震える。
「良きご縁に恵まれましたこと、心よりお慶び申し上げます。殿下が新天地で、誰よりも幸せになられることを……私めは、心より願っております」
カイルの声は震えていなかった。
あまりにも誠実で、あまりにも清廉で、あまりにも「従者として正しい」。
それが、ルシアンにとっては決定的な拒絶だった。
ああ、こいつは――。
カイルは、本当に、俺がいなくなることを「良きこと」として受け入れているのだ。
胸の奥が焼けるように痛む。
視界が熱く滲む。
涙がこぼれそうになるのを、ルシアンは怒りで無理やり押し潰した。
次の瞬間、衝動のままに手が動いた。
近くのサイドテーブルに置かれていた銀の水差しを掴み、力任せに床へ叩きつける。
ガシャアンッ!!
激しい破砕音が部屋に響き渡った。
銀の水差しが転がり、中の水が絨毯に黒い染みを広げていく。
その染みが、まるで自分の心が崩れ落ちていく跡のように見えた。
カイルは微動だにしなかった。
驚きもしない。
ただ静かに、荒れ狂う主君を見守っている。
その冷静さが、ルシアンには耐えられなかった。
「出て行け!!」
喉が裂けるほどの叫びだった。
「顔も見たくない!俺の前から消えろ!」
「……失礼いたします」
カイルは静かに一礼し、踵を返し扉へ向かう。
静寂が戻った部屋に、ルシアンは一人取り残された。
先ほどまで荒れ狂っていた呼吸が、まだ胸の奥で不規則に波打っている。
そのまま力が抜けたように、彼はゆっくりと床へ崩れ落ちた。
膝をつき、絨毯に広がった黒い水の染みを見つめる。
それは、ただの水の跡にすぎないはずなのに――
ルシアンには、自分の心が砕け散り、中身がこぼれ落ちてしまった残骸のように見えた。
「……馬鹿か」
震える声が、静まり返った部屋に小さく響いた。
どうして、あんなことを言ったのだろう。
どうして、「行きたくない」と素直に言えなかったのだろう。
もし泣いて縋っていたら、カイルは抱きしめてくれただろうか。
いや、そんなことはない。
彼は忠実な騎士だ。
困ったように眉を寄せ、「殿下、お戯れを」と優しく諌めるだけだっただろう。
それが分かっているからこそ、傷つくのが怖くて、先に相手を突き放した。
拒絶される前に、自分から拒絶した。
ルシアンは両手で顔を覆った。
指の隙間から、熱い雫が次々とこぼれ落ちる。
止めようとしても止まらない。
(お前にだけは、おめでとうなんて……言われたくなかった…)
誰もいない部屋で、押し殺した嗚咽が漏れる。
カイルのことが好きだった。
初めて剣を握る姿を見た時から。
熱を出した夜、眠れない自分の手を、朝まで握っていてくれた時から。
幼い自分を守るために、いつも前に立ってくれた背中を見た時から。
身分違いだと分かっていた。
自分がいつか政略の道具として使われることも、とうに理解していた。
だからこそ、この想いは墓場まで持っていくつもりだった。
けれど――
いざその時が来ると、こんなにも痛い。
身が引き裂かれるように痛い。
窓の外は、いつの間にか完全に夜に包まれていた。
月明かりが薄く差し込み、泣き崩れるルシアンの黄金の髪を淡く照らす。
美しい皇子は、冷たい床の上で、声を殺して泣き続けた。
その扉の外で――
忠実な従者が、扉に背を預けたまま、拳を固く握りしめて立ち尽くしていることなど、知る由もなく。
その低い響きは、まるで冷たい鉄格子がはめられる瞬間のように、ルシアンの鼓膜を震わせた。
背後で反響するその音は、彼にとって自由の終わりを告げる合図に等しかった。
王宮の長い廊下には、夕刻の陽が赤く差し込み、磨かれた大理石の床に血のような色を落としている。
その光の中を歩くルシアン・ド・ヴァレンティン――大国アグランスの第三皇子。
十七歳になったばかりの彼は、王家の血統を象徴するかのように、陽光を受けて淡く輝く金糸の髪と、宝石を思わせる冷ややかな碧眼を持っていた。
その美貌は、宮廷ではしばしば「人形のようだ」と称される。
だがそれは、ただの賛辞ではない。
完璧な造形の裏に、感情も意志も読み取れない――そう揶揄する者たちの声が、常にその言葉には潜んでいた。
ルシアンは、胸の奥に溜まった息をゆっくりと吐き出した。
その仕草すら、幼い頃から叩き込まれた作法に沿って、無駄なく美しい。
「……終わったな」
誰に向けたわけでもない、かすかな呟き。
それは、運命に抗うことを許されなかった少年の、静かな諦念の吐露だった。
謁見の間で交わされた言葉が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
父王の厳格な声。
大臣たちが安堵の色を隠しきれずに交わした視線。
そして――
『隣国ヴォルキスとの和平条約の一環として、其の方をかの国の大公家へ婿として送ることとする』
婿――その響きは柔らかく、美しい。
だが実態は、誰よりもルシアン自身が理解していた。
それは人質であり、生きた贄であり、長年敵対してきた国へ差し出される「平和の証」だ。
第一皇子である兄は次期国王としての教育を受け、第二皇子は軍部で頭角を現し、将来を嘱望されている。
比べて、ルシアンには――美貌以外に、宮廷が求める価値はなかった。
だからこそ、彼の役割は最初から決まっていたのだろう。
国益のための、最も穏当で、最も残酷な選択。
相手はヴォルキス国の有力者、大公家の令嬢。
家柄に不足はなく、表向きには「名誉ある結婚」と呼ばれるだろう。
だが、ルシアンに断る権利など、初めから存在しなかった。
「お待ちしておりました、ルシアン殿下」
廊下に落ちる柱の影から、音もなく一人の男が姿を現した。
まるで闇が形を成したかのような静けさで。
カイル――ルシアンの専属従者であり、護衛騎士。
二十五歳の彼は、漆黒の髪と、深い憂いを宿した黒い瞳を持つ。
飾り気のない騎士服に包まれた長身は、無駄のない鍛錬を積んだ者だけが纏う静かな威圧感を放っていた。
彼はいつでもルシアンの傍らにいた。
幼い頃、まだルシアンが剣の握り方すら知らなかった頃から。
泣き虫だった少年の手を引き、転べば支え、影のように寄り添ってきた。
だからこそ――その姿を見た瞬間、ルシアンの胸の奥がぎゅっと軋んだ。
だが、感情を表に出すことなど許されない。
ルシアンは瞬時にそれらを厚い氷の下へ押し込み、顎をわずかに上げた。
皇子としての、冷たく傲慢な仮面を被る。
「……遅いぞ、カイル。いつまで俺を待たせれば気が済むんだ」
「申し訳ございません。こちらでお待ちするよう、侍従長より申しつかっておりましたので」
カイルは微動だにせず、深く頭を下げた。
その完璧な従者の態度――いつもなら安心を与えてくれるはずのそれが、今のルシアンにはひどく腹立たしかった。
(お前は……何も感じないのか。俺が、他国へ売られることが決まったというのに…)
心の奥底で叫びが渦巻く。だが、口に出せるはずもない。
「部屋に戻る……」
「承知いたしました」
カイルは一歩、静かにルシアンの背後へ回った。
その動きは、まるで風が流れるように滑らかで、気配すら薄い。
だが、ルシアンにはわかる。彼がどれほど神経を研ぎ澄ませ、周囲の危険を察知しようとしているか。
(どうして……そんな顔で、そんな態度でいられるんだ)
苛立ちが胸の奥でじりじりと燃える。
自室へと続く長い廊下を歩きながら、ルシアンはわざと靴音を荒く響かせた。
硬い大理石の床に、乾いた音が規則的に打ちつけられる。
その一歩一歩に、抑えきれない苛立ちと焦燥が滲んでいた。
背後では、カイルが一定の距離を保ちながら静かに歩いている。
「……聞いたか、カイル」
耐えきれず、ルシアンは前を向いたまま声を投げた。
「はい。和平のためのご婚姻が決まったと、城内ではすでに噂になっております」
淡々とした返答。
「耳が早いことだな。……どう思う?」
「どう、とは」
「俺が敵国に売られることについてだ。せいせいするか…? わがままな主がいなくなって、お前もようやく自由の身だ」
吐き捨てるような言葉。
だが、その裏にある本音は真逆だった。
カイルには、否定してほしかった。
『そんなことはありません』
『貴方様がいなくなるのは寂しい』
と、嘘でもいいから引き留めてほしかった。
だが、カイルの返答は、あまりにも模範的だった。
「……両国の架け橋となる、大変名誉なことと存じます。殿下のお役目が、多くの民を救うことになるでしょう」
その声には、感情の揺らぎが一切なかった。
まるで訓練された兵士が、教本を読み上げているかのように。
ルシアンは唇を噛み締めた。
鉄の味が舌に広がる。
(……そうだ。こいつは、こういう男だ)
忠義に厚く、真面目で、そして残酷なほどに「従者」であり続ける男。
ルシアンが長年抱えてきた、焼け付くような想いなど、知る由もない。
いや、知ろうともしないのだろう。
「ふん……優等生め。面白くない答えだ」
吐き捨てるように言い放ち、ルシアンは自室の扉を乱暴に押し開けた。
重い扉が壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
豪奢な調度品で飾られた自室に入ると、ルシアンは何も言わず上着を脱ぎ捨て、深くソファへ身を投げ出した。
柔らかなクッションが身体を受け止めるが、心の重さは少しも軽くならない。
すぐにカイルが歩み寄り、床に落ちた上着を拾い上げた。
夕食までにはまだ時間がある。
窓の外では、黄昏がゆっくりと夜へと姿を変えつつあり、空は紫から群青へと溶け合うように染まっている。
その静かな移ろいが、ルシアンの胸のざわめきとは対照的だった。
「着替える」
「かしこまりました」
カイルは短く答え、衣装部屋へ向かう。
ほどなくして、寛ぐためのシルクのシャツを手に戻ってきた。
ルシアンは立ち上がり、両腕を広げる。
その仕草は、幼い頃から繰り返してきた、二人だけの無言の合図のようでもあった。
カイルの指先が、ルシアンのシャツのボタンに触れる。
首元から一つずつ、丁寧に、慎重に外されていく。
そのたびに、指が肌にかすかに触れた。
ほんの一瞬の接触なのに、ルシアンの背筋には電流のような痺れが走る。
カイルの体温が、指先から伝わってくる。
微かに香る革と石鹸の匂い――それはルシアンにとって、幼い頃から変わらない「安心」の匂いだった。
伏せられた長い睫毛。整った鼻筋。無骨でありながら、決してルシアンを傷つけることのない大きな手。
この男のすべてが、ルシアンにとっては世界の中心だった。
物心ついた時から、親よりも、兄弟よりも近くにいた。
泣いている時は黙って背中をさすってくれた。
木から降りられなくなった時は、笑わずに受け止めてくれた。
どんな時も、ルシアンの隣にはカイルがいた。
ルシアンにとって「安心」という言葉は、もはやカイルそのものを指していた。
――だが、それももう終わる。
あと数週間もしないうちに、自分はこの城を出て行く。
和平の証として、敵国へ嫁ぐのだ。
そしてカイルは連れて行けない。彼は王家に仕える騎士であり、他国へ渡る皇子の護衛として同行することは許されない。
ここで、終わりなのだ。
胸の奥が、ひどく冷たく痛んだ。
まるで、ゆっくりと心臓を握り潰されているように。
シャツが脱がされ、ルシアンの白い上半身が露わになった。
夕闇に沈みゆく部屋の光が、彼の肌を淡く照らし、まるで彫像のような陰影を刻む。
カイルは一瞬だけ――本当に刹那の間だけ――視線を彷徨わせたように見えた。
その黒い瞳が、ルシアンの鎖骨のあたりでわずかに揺れた。
だがすぐに、いつもの無表情へと戻り、新しいシルクのシャツをルシアンの腕に通す。
その手つきは、自然で、丁寧で、そして残酷なほど優しかった。
沈黙が重くのしかかる。
耐えきれず、ルシアンは口を開いた。
「……ヴォルキス国は、北にあるそうだな」
「はい。冬は雪深く、寒さの厳しい土地だと聞いております」
「寒いのは嫌いだ。……だが、この息苦しい城よりはマシかもしれないな」
ルシアンはわざとカイルを見下ろすようにして、皮肉な笑みを浮かべた。
「毎日毎日、口うるさい連中ばかりだ。お前も含めてな。向こうに行けば、私は『お客様』だ。きっと今よりずっと気楽に暮らせるだろうさ」
「……左様でございますか」
カイルはシャツのボタンを留めながら、短く答えた。
胸の奥で、黒い衝動が膨らむ。
もっと揺さぶりたい。
もっと傷つけたい。
自分だけが痛むのが、どうしても許せなかった。
「ああ、せいせいするよ。やっとこの鳥籠から出られるんだ。顔も見たくない連中ともおさらばできる。……お前のその、すました顔も見なくて済むと思うと、胸が躍るようだ」
嘘だ。
全部、嘘だ。
行きたくない。
お前と離れたくない。
ずっとそばにいてほしい。
心の中で叫び続けている本音とは裏腹に、口から出るのは鋭利な刃のような言葉ばかりだった。
カイルの手が、最後のボタンを留め終えた。
その指先が離れる瞬間、ルシアンの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
カイルは深く、深く頭を下げた。
「――おめでとうございます、ルシアン殿下」
その言葉は、ルシアンの心臓を冷たい杭で貫いた。
「……なに?」
声が震える。
「良きご縁に恵まれましたこと、心よりお慶び申し上げます。殿下が新天地で、誰よりも幸せになられることを……私めは、心より願っております」
カイルの声は震えていなかった。
あまりにも誠実で、あまりにも清廉で、あまりにも「従者として正しい」。
それが、ルシアンにとっては決定的な拒絶だった。
ああ、こいつは――。
カイルは、本当に、俺がいなくなることを「良きこと」として受け入れているのだ。
胸の奥が焼けるように痛む。
視界が熱く滲む。
涙がこぼれそうになるのを、ルシアンは怒りで無理やり押し潰した。
次の瞬間、衝動のままに手が動いた。
近くのサイドテーブルに置かれていた銀の水差しを掴み、力任せに床へ叩きつける。
ガシャアンッ!!
激しい破砕音が部屋に響き渡った。
銀の水差しが転がり、中の水が絨毯に黒い染みを広げていく。
その染みが、まるで自分の心が崩れ落ちていく跡のように見えた。
カイルは微動だにしなかった。
驚きもしない。
ただ静かに、荒れ狂う主君を見守っている。
その冷静さが、ルシアンには耐えられなかった。
「出て行け!!」
喉が裂けるほどの叫びだった。
「顔も見たくない!俺の前から消えろ!」
「……失礼いたします」
カイルは静かに一礼し、踵を返し扉へ向かう。
静寂が戻った部屋に、ルシアンは一人取り残された。
先ほどまで荒れ狂っていた呼吸が、まだ胸の奥で不規則に波打っている。
そのまま力が抜けたように、彼はゆっくりと床へ崩れ落ちた。
膝をつき、絨毯に広がった黒い水の染みを見つめる。
それは、ただの水の跡にすぎないはずなのに――
ルシアンには、自分の心が砕け散り、中身がこぼれ落ちてしまった残骸のように見えた。
「……馬鹿か」
震える声が、静まり返った部屋に小さく響いた。
どうして、あんなことを言ったのだろう。
どうして、「行きたくない」と素直に言えなかったのだろう。
もし泣いて縋っていたら、カイルは抱きしめてくれただろうか。
いや、そんなことはない。
彼は忠実な騎士だ。
困ったように眉を寄せ、「殿下、お戯れを」と優しく諌めるだけだっただろう。
それが分かっているからこそ、傷つくのが怖くて、先に相手を突き放した。
拒絶される前に、自分から拒絶した。
ルシアンは両手で顔を覆った。
指の隙間から、熱い雫が次々とこぼれ落ちる。
止めようとしても止まらない。
(お前にだけは、おめでとうなんて……言われたくなかった…)
誰もいない部屋で、押し殺した嗚咽が漏れる。
カイルのことが好きだった。
初めて剣を握る姿を見た時から。
熱を出した夜、眠れない自分の手を、朝まで握っていてくれた時から。
幼い自分を守るために、いつも前に立ってくれた背中を見た時から。
身分違いだと分かっていた。
自分がいつか政略の道具として使われることも、とうに理解していた。
だからこそ、この想いは墓場まで持っていくつもりだった。
けれど――
いざその時が来ると、こんなにも痛い。
身が引き裂かれるように痛い。
窓の外は、いつの間にか完全に夜に包まれていた。
月明かりが薄く差し込み、泣き崩れるルシアンの黄金の髪を淡く照らす。
美しい皇子は、冷たい床の上で、声を殺して泣き続けた。
その扉の外で――
忠実な従者が、扉に背を預けたまま、拳を固く握りしめて立ち尽くしていることなど、知る由もなく。
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婿入りが迫る中、二人の距離は近いようでいて、決して触れられない。
なんか昔こんなのあったよなあと思いつつ、私が読みたいから書く…!
そして、和風と洋風も書いてみます。どっちバージョンもいいなあと思いまして。
君さえ笑ってくれれば最高
大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。
(クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け)
異世界BLです。
雨降る窓辺で
万里
BL
突然の事故で妻を亡くした基樹は、5歳の娘・すみれとの生活に戸惑いながらも懸命に向き合っていた。 ある夜、疎遠だった旧友・修一から届いた一通のメッセージが、彼の孤独な日々を少しずつ変えていく。
料理や家事を手際よくこなし、すみれにも優しく接する修一。 その存在は、基樹の張り詰めた心を静かにほどいていく。
昔貴方の為に世界を滅ぼした。
黄金
BL
世界を滅ぼすほどの魔法師だった僕。
裏切られたけど、愛しているんです。生まれ変わっても愛してるんです。
※なんとなく思いついて書いたので、よろしかったら……。
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