1 / 6
1
しおりを挟む
重厚な樫の扉が、鈍い音を立てて閉ざされた。
その低い響きは、まるで冷たい鉄格子がはめられる瞬間のように、ルシアンの鼓膜を震わせた。
背後で反響するその音は、彼にとって自由の終わりを告げる合図に等しかった。
王宮の長い廊下には、夕刻の陽が赤く差し込み、磨かれた大理石の床に血のような色を落としている。
その光の中を歩くルシアン・ド・ヴァレンティン――大国アグランスの第三皇子。
十七歳になったばかりの彼は、王家の血統を象徴するかのように、陽光を受けて淡く輝く金糸の髪と、宝石を思わせる冷ややかな碧眼を持っていた。
その美貌は、宮廷ではしばしば「人形のようだ」と称される。
だがそれは、ただの賛辞ではない。
完璧な造形の裏に、感情も意志も読み取れない――そう揶揄する者たちの声が、常にその言葉には潜んでいた。
ルシアンは、胸の奥に溜まった息をゆっくりと吐き出した。
その仕草すら、幼い頃から叩き込まれた作法に沿って、無駄なく美しい。
「……終わったな」
誰に向けたわけでもない、かすかな呟き。
それは、運命に抗うことを許されなかった少年の、静かな諦念の吐露だった。
謁見の間で交わされた言葉が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
父王の厳格な声。
大臣たちが安堵の色を隠しきれずに交わした視線。
そして――
『隣国ヴォルキスとの和平条約の一環として、其の方をかの国の大公家へ婿として送ることとする』
婿――その響きは柔らかく、美しい。
だが実態は、誰よりもルシアン自身が理解していた。
それは人質であり、生きた贄であり、長年敵対してきた国へ差し出される「平和の証」だ。
第一皇子である兄は次期国王としての教育を受け、第二皇子は軍部で頭角を現し、将来を嘱望されている。
比べて、ルシアンには――美貌以外に、宮廷が求める価値はなかった。
だからこそ、彼の役割は最初から決まっていたのだろう。
国益のための、最も穏当で、最も残酷な選択。
相手はヴォルキス国の有力者、大公家の令嬢。
家柄に不足はなく、表向きには「名誉ある結婚」と呼ばれるだろう。
だが、ルシアンに断る権利など、初めから存在しなかった。
「お待ちしておりました、ルシアン殿下」
廊下に落ちる柱の影から、音もなく一人の男が姿を現した。
まるで闇が形を成したかのような静けさで。
カイル――ルシアンの専属従者であり、護衛騎士。
二十五歳の彼は、漆黒の髪と、深い憂いを宿した黒い瞳を持つ。
飾り気のない騎士服に包まれた長身は、無駄のない鍛錬を積んだ者だけが纏う静かな威圧感を放っていた。
彼はいつでもルシアンの傍らにいた。
幼い頃、まだルシアンが剣の握り方すら知らなかった頃から。
泣き虫だった少年の手を引き、転べば支え、影のように寄り添ってきた。
だからこそ――その姿を見た瞬間、ルシアンの胸の奥がぎゅっと軋んだ。
だが、感情を表に出すことなど許されない。
ルシアンは瞬時にそれらを厚い氷の下へ押し込み、顎をわずかに上げた。
皇子としての、冷たく傲慢な仮面を被る。
「……遅いぞ、カイル。いつまで俺を待たせれば気が済むんだ」
「申し訳ございません。こちらでお待ちするよう、侍従長より申しつかっておりましたので」
カイルは微動だにせず、深く頭を下げた。
その完璧な従者の態度――いつもなら安心を与えてくれるはずのそれが、今のルシアンにはひどく腹立たしかった。
(お前は……何も感じないのか。俺が、他国へ売られることが決まったというのに…)
心の奥底で叫びが渦巻く。だが、口に出せるはずもない。
「部屋に戻る……」
「承知いたしました」
カイルは一歩、静かにルシアンの背後へ回った。
その動きは、まるで風が流れるように滑らかで、気配すら薄い。
だが、ルシアンにはわかる。彼がどれほど神経を研ぎ澄ませ、周囲の危険を察知しようとしているか。
(どうして……そんな顔で、そんな態度でいられるんだ)
苛立ちが胸の奥でじりじりと燃える。
自室へと続く長い廊下を歩きながら、ルシアンはわざと靴音を荒く響かせた。
硬い大理石の床に、乾いた音が規則的に打ちつけられる。
その一歩一歩に、抑えきれない苛立ちと焦燥が滲んでいた。
背後では、カイルが一定の距離を保ちながら静かに歩いている。
「……聞いたか、カイル」
耐えきれず、ルシアンは前を向いたまま声を投げた。
「はい。和平のためのご婚姻が決まったと、城内ではすでに噂になっております」
淡々とした返答。
「耳が早いことだな。……どう思う?」
「どう、とは」
「俺が敵国に売られることについてだ。せいせいするか…? わがままな主がいなくなって、お前もようやく自由の身だ」
吐き捨てるような言葉。
だが、その裏にある本音は真逆だった。
カイルには、否定してほしかった。
『そんなことはありません』
『貴方様がいなくなるのは寂しい』
と、嘘でもいいから引き留めてほしかった。
だが、カイルの返答は、あまりにも模範的だった。
「……両国の架け橋となる、大変名誉なことと存じます。殿下のお役目が、多くの民を救うことになるでしょう」
その声には、感情の揺らぎが一切なかった。
まるで訓練された兵士が、教本を読み上げているかのように。
ルシアンは唇を噛み締めた。
鉄の味が舌に広がる。
(……そうだ。こいつは、こういう男だ)
忠義に厚く、真面目で、そして残酷なほどに「従者」であり続ける男。
ルシアンが長年抱えてきた、焼け付くような想いなど、知る由もない。
いや、知ろうともしないのだろう。
「ふん……優等生め。面白くない答えだ」
吐き捨てるように言い放ち、ルシアンは自室の扉を乱暴に押し開けた。
重い扉が壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
豪奢な調度品で飾られた自室に入ると、ルシアンは何も言わず上着を脱ぎ捨て、深くソファへ身を投げ出した。
柔らかなクッションが身体を受け止めるが、心の重さは少しも軽くならない。
すぐにカイルが歩み寄り、床に落ちた上着を拾い上げた。
夕食までにはまだ時間がある。
窓の外では、黄昏がゆっくりと夜へと姿を変えつつあり、空は紫から群青へと溶け合うように染まっている。
その静かな移ろいが、ルシアンの胸のざわめきとは対照的だった。
「着替える」
「かしこまりました」
カイルは短く答え、衣装部屋へ向かう。
ほどなくして、寛ぐためのシルクのシャツを手に戻ってきた。
ルシアンは立ち上がり、両腕を広げる。
その仕草は、幼い頃から繰り返してきた、二人だけの無言の合図のようでもあった。
カイルの指先が、ルシアンのシャツのボタンに触れる。
首元から一つずつ、丁寧に、慎重に外されていく。
そのたびに、指が肌にかすかに触れた。
ほんの一瞬の接触なのに、ルシアンの背筋には電流のような痺れが走る。
カイルの体温が、指先から伝わってくる。
微かに香る革と石鹸の匂い――それはルシアンにとって、幼い頃から変わらない「安心」の匂いだった。
伏せられた長い睫毛。整った鼻筋。無骨でありながら、決してルシアンを傷つけることのない大きな手。
この男のすべてが、ルシアンにとっては世界の中心だった。
物心ついた時から、親よりも、兄弟よりも近くにいた。
泣いている時は黙って背中をさすってくれた。
木から降りられなくなった時は、笑わずに受け止めてくれた。
どんな時も、ルシアンの隣にはカイルがいた。
ルシアンにとって「安心」という言葉は、もはやカイルそのものを指していた。
――だが、それももう終わる。
あと数週間もしないうちに、自分はこの城を出て行く。
和平の証として、敵国へ嫁ぐのだ。
そしてカイルは連れて行けない。彼は王家に仕える騎士であり、他国へ渡る皇子の護衛として同行することは許されない。
ここで、終わりなのだ。
胸の奥が、ひどく冷たく痛んだ。
まるで、ゆっくりと心臓を握り潰されているように。
シャツが脱がされ、ルシアンの白い上半身が露わになった。
夕闇に沈みゆく部屋の光が、彼の肌を淡く照らし、まるで彫像のような陰影を刻む。
カイルは一瞬だけ――本当に刹那の間だけ――視線を彷徨わせたように見えた。
その黒い瞳が、ルシアンの鎖骨のあたりでわずかに揺れた。
だがすぐに、いつもの無表情へと戻り、新しいシルクのシャツをルシアンの腕に通す。
その手つきは、自然で、丁寧で、そして残酷なほど優しかった。
沈黙が重くのしかかる。
耐えきれず、ルシアンは口を開いた。
「……ヴォルキス国は、北にあるそうだな」
「はい。冬は雪深く、寒さの厳しい土地だと聞いております」
「寒いのは嫌いだ。……だが、この息苦しい城よりはマシかもしれないな」
ルシアンはわざとカイルを見下ろすようにして、皮肉な笑みを浮かべた。
「毎日毎日、口うるさい連中ばかりだ。お前も含めてな。向こうに行けば、私は『お客様』だ。きっと今よりずっと気楽に暮らせるだろうさ」
「……左様でございますか」
カイルはシャツのボタンを留めながら、短く答えた。
胸の奥で、黒い衝動が膨らむ。
もっと揺さぶりたい。
もっと傷つけたい。
自分だけが痛むのが、どうしても許せなかった。
「ああ、せいせいするよ。やっとこの鳥籠から出られるんだ。顔も見たくない連中ともおさらばできる。……お前のその、すました顔も見なくて済むと思うと、胸が躍るようだ」
嘘だ。
全部、嘘だ。
行きたくない。
お前と離れたくない。
ずっとそばにいてほしい。
心の中で叫び続けている本音とは裏腹に、口から出るのは鋭利な刃のような言葉ばかりだった。
カイルの手が、最後のボタンを留め終えた。
その指先が離れる瞬間、ルシアンの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
カイルは深く、深く頭を下げた。
「――おめでとうございます、ルシアン殿下」
その言葉は、ルシアンの心臓を冷たい杭で貫いた。
「……なに?」
声が震える。
「良きご縁に恵まれましたこと、心よりお慶び申し上げます。殿下が新天地で、誰よりも幸せになられることを……私めは、心より願っております」
カイルの声は震えていなかった。
あまりにも誠実で、あまりにも清廉で、あまりにも「従者として正しい」。
それが、ルシアンにとっては決定的な拒絶だった。
ああ、こいつは――。
カイルは、本当に、俺がいなくなることを「良きこと」として受け入れているのだ。
胸の奥が焼けるように痛む。
視界が熱く滲む。
涙がこぼれそうになるのを、ルシアンは怒りで無理やり押し潰した。
次の瞬間、衝動のままに手が動いた。
近くのサイドテーブルに置かれていた銀の水差しを掴み、力任せに床へ叩きつける。
ガシャアンッ!!
激しい破砕音が部屋に響き渡った。
銀の水差しが転がり、中の水が絨毯に黒い染みを広げていく。
その染みが、まるで自分の心が崩れ落ちていく跡のように見えた。
カイルは微動だにしなかった。
驚きもしない。
ただ静かに、荒れ狂う主君を見守っている。
その冷静さが、ルシアンには耐えられなかった。
「出て行け!!」
喉が裂けるほどの叫びだった。
「顔も見たくない!俺の前から消えろ!」
「……失礼いたします」
カイルは静かに一礼し、踵を返し扉へ向かう。
静寂が戻った部屋に、ルシアンは一人取り残された。
先ほどまで荒れ狂っていた呼吸が、まだ胸の奥で不規則に波打っている。
そのまま力が抜けたように、彼はゆっくりと床へ崩れ落ちた。
膝をつき、絨毯に広がった黒い水の染みを見つめる。
それは、ただの水の跡にすぎないはずなのに――
ルシアンには、自分の心が砕け散り、中身がこぼれ落ちてしまった残骸のように見えた。
「……馬鹿か」
震える声が、静まり返った部屋に小さく響いた。
どうして、あんなことを言ったのだろう。
どうして、「行きたくない」と素直に言えなかったのだろう。
もし泣いて縋っていたら、カイルは抱きしめてくれただろうか。
いや、そんなことはない。
彼は忠実な騎士だ。
困ったように眉を寄せ、「殿下、お戯れを」と優しく諌めるだけだっただろう。
それが分かっているからこそ、傷つくのが怖くて、先に相手を突き放した。
拒絶される前に、自分から拒絶した。
ルシアンは両手で顔を覆った。
指の隙間から、熱い雫が次々とこぼれ落ちる。
止めようとしても止まらない。
(お前にだけは、おめでとうなんて……言われたくなかった…)
誰もいない部屋で、押し殺した嗚咽が漏れる。
カイルのことが好きだった。
初めて剣を握る姿を見た時から。
熱を出した夜、眠れない自分の手を、朝まで握っていてくれた時から。
幼い自分を守るために、いつも前に立ってくれた背中を見た時から。
身分違いだと分かっていた。
自分がいつか政略の道具として使われることも、とうに理解していた。
だからこそ、この想いは墓場まで持っていくつもりだった。
けれど――
いざその時が来ると、こんなにも痛い。
身が引き裂かれるように痛い。
窓の外は、いつの間にか完全に夜に包まれていた。
月明かりが薄く差し込み、泣き崩れるルシアンの黄金の髪を淡く照らす。
美しい皇子は、冷たい床の上で、声を殺して泣き続けた。
その扉の外で――
忠実な従者が、扉に背を預けたまま、拳を固く握りしめて立ち尽くしていることなど、知る由もなく。
その低い響きは、まるで冷たい鉄格子がはめられる瞬間のように、ルシアンの鼓膜を震わせた。
背後で反響するその音は、彼にとって自由の終わりを告げる合図に等しかった。
王宮の長い廊下には、夕刻の陽が赤く差し込み、磨かれた大理石の床に血のような色を落としている。
その光の中を歩くルシアン・ド・ヴァレンティン――大国アグランスの第三皇子。
十七歳になったばかりの彼は、王家の血統を象徴するかのように、陽光を受けて淡く輝く金糸の髪と、宝石を思わせる冷ややかな碧眼を持っていた。
その美貌は、宮廷ではしばしば「人形のようだ」と称される。
だがそれは、ただの賛辞ではない。
完璧な造形の裏に、感情も意志も読み取れない――そう揶揄する者たちの声が、常にその言葉には潜んでいた。
ルシアンは、胸の奥に溜まった息をゆっくりと吐き出した。
その仕草すら、幼い頃から叩き込まれた作法に沿って、無駄なく美しい。
「……終わったな」
誰に向けたわけでもない、かすかな呟き。
それは、運命に抗うことを許されなかった少年の、静かな諦念の吐露だった。
謁見の間で交わされた言葉が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
父王の厳格な声。
大臣たちが安堵の色を隠しきれずに交わした視線。
そして――
『隣国ヴォルキスとの和平条約の一環として、其の方をかの国の大公家へ婿として送ることとする』
婿――その響きは柔らかく、美しい。
だが実態は、誰よりもルシアン自身が理解していた。
それは人質であり、生きた贄であり、長年敵対してきた国へ差し出される「平和の証」だ。
第一皇子である兄は次期国王としての教育を受け、第二皇子は軍部で頭角を現し、将来を嘱望されている。
比べて、ルシアンには――美貌以外に、宮廷が求める価値はなかった。
だからこそ、彼の役割は最初から決まっていたのだろう。
国益のための、最も穏当で、最も残酷な選択。
相手はヴォルキス国の有力者、大公家の令嬢。
家柄に不足はなく、表向きには「名誉ある結婚」と呼ばれるだろう。
だが、ルシアンに断る権利など、初めから存在しなかった。
「お待ちしておりました、ルシアン殿下」
廊下に落ちる柱の影から、音もなく一人の男が姿を現した。
まるで闇が形を成したかのような静けさで。
カイル――ルシアンの専属従者であり、護衛騎士。
二十五歳の彼は、漆黒の髪と、深い憂いを宿した黒い瞳を持つ。
飾り気のない騎士服に包まれた長身は、無駄のない鍛錬を積んだ者だけが纏う静かな威圧感を放っていた。
彼はいつでもルシアンの傍らにいた。
幼い頃、まだルシアンが剣の握り方すら知らなかった頃から。
泣き虫だった少年の手を引き、転べば支え、影のように寄り添ってきた。
だからこそ――その姿を見た瞬間、ルシアンの胸の奥がぎゅっと軋んだ。
だが、感情を表に出すことなど許されない。
ルシアンは瞬時にそれらを厚い氷の下へ押し込み、顎をわずかに上げた。
皇子としての、冷たく傲慢な仮面を被る。
「……遅いぞ、カイル。いつまで俺を待たせれば気が済むんだ」
「申し訳ございません。こちらでお待ちするよう、侍従長より申しつかっておりましたので」
カイルは微動だにせず、深く頭を下げた。
その完璧な従者の態度――いつもなら安心を与えてくれるはずのそれが、今のルシアンにはひどく腹立たしかった。
(お前は……何も感じないのか。俺が、他国へ売られることが決まったというのに…)
心の奥底で叫びが渦巻く。だが、口に出せるはずもない。
「部屋に戻る……」
「承知いたしました」
カイルは一歩、静かにルシアンの背後へ回った。
その動きは、まるで風が流れるように滑らかで、気配すら薄い。
だが、ルシアンにはわかる。彼がどれほど神経を研ぎ澄ませ、周囲の危険を察知しようとしているか。
(どうして……そんな顔で、そんな態度でいられるんだ)
苛立ちが胸の奥でじりじりと燃える。
自室へと続く長い廊下を歩きながら、ルシアンはわざと靴音を荒く響かせた。
硬い大理石の床に、乾いた音が規則的に打ちつけられる。
その一歩一歩に、抑えきれない苛立ちと焦燥が滲んでいた。
背後では、カイルが一定の距離を保ちながら静かに歩いている。
「……聞いたか、カイル」
耐えきれず、ルシアンは前を向いたまま声を投げた。
「はい。和平のためのご婚姻が決まったと、城内ではすでに噂になっております」
淡々とした返答。
「耳が早いことだな。……どう思う?」
「どう、とは」
「俺が敵国に売られることについてだ。せいせいするか…? わがままな主がいなくなって、お前もようやく自由の身だ」
吐き捨てるような言葉。
だが、その裏にある本音は真逆だった。
カイルには、否定してほしかった。
『そんなことはありません』
『貴方様がいなくなるのは寂しい』
と、嘘でもいいから引き留めてほしかった。
だが、カイルの返答は、あまりにも模範的だった。
「……両国の架け橋となる、大変名誉なことと存じます。殿下のお役目が、多くの民を救うことになるでしょう」
その声には、感情の揺らぎが一切なかった。
まるで訓練された兵士が、教本を読み上げているかのように。
ルシアンは唇を噛み締めた。
鉄の味が舌に広がる。
(……そうだ。こいつは、こういう男だ)
忠義に厚く、真面目で、そして残酷なほどに「従者」であり続ける男。
ルシアンが長年抱えてきた、焼け付くような想いなど、知る由もない。
いや、知ろうともしないのだろう。
「ふん……優等生め。面白くない答えだ」
吐き捨てるように言い放ち、ルシアンは自室の扉を乱暴に押し開けた。
重い扉が壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
豪奢な調度品で飾られた自室に入ると、ルシアンは何も言わず上着を脱ぎ捨て、深くソファへ身を投げ出した。
柔らかなクッションが身体を受け止めるが、心の重さは少しも軽くならない。
すぐにカイルが歩み寄り、床に落ちた上着を拾い上げた。
夕食までにはまだ時間がある。
窓の外では、黄昏がゆっくりと夜へと姿を変えつつあり、空は紫から群青へと溶け合うように染まっている。
その静かな移ろいが、ルシアンの胸のざわめきとは対照的だった。
「着替える」
「かしこまりました」
カイルは短く答え、衣装部屋へ向かう。
ほどなくして、寛ぐためのシルクのシャツを手に戻ってきた。
ルシアンは立ち上がり、両腕を広げる。
その仕草は、幼い頃から繰り返してきた、二人だけの無言の合図のようでもあった。
カイルの指先が、ルシアンのシャツのボタンに触れる。
首元から一つずつ、丁寧に、慎重に外されていく。
そのたびに、指が肌にかすかに触れた。
ほんの一瞬の接触なのに、ルシアンの背筋には電流のような痺れが走る。
カイルの体温が、指先から伝わってくる。
微かに香る革と石鹸の匂い――それはルシアンにとって、幼い頃から変わらない「安心」の匂いだった。
伏せられた長い睫毛。整った鼻筋。無骨でありながら、決してルシアンを傷つけることのない大きな手。
この男のすべてが、ルシアンにとっては世界の中心だった。
物心ついた時から、親よりも、兄弟よりも近くにいた。
泣いている時は黙って背中をさすってくれた。
木から降りられなくなった時は、笑わずに受け止めてくれた。
どんな時も、ルシアンの隣にはカイルがいた。
ルシアンにとって「安心」という言葉は、もはやカイルそのものを指していた。
――だが、それももう終わる。
あと数週間もしないうちに、自分はこの城を出て行く。
和平の証として、敵国へ嫁ぐのだ。
そしてカイルは連れて行けない。彼は王家に仕える騎士であり、他国へ渡る皇子の護衛として同行することは許されない。
ここで、終わりなのだ。
胸の奥が、ひどく冷たく痛んだ。
まるで、ゆっくりと心臓を握り潰されているように。
シャツが脱がされ、ルシアンの白い上半身が露わになった。
夕闇に沈みゆく部屋の光が、彼の肌を淡く照らし、まるで彫像のような陰影を刻む。
カイルは一瞬だけ――本当に刹那の間だけ――視線を彷徨わせたように見えた。
その黒い瞳が、ルシアンの鎖骨のあたりでわずかに揺れた。
だがすぐに、いつもの無表情へと戻り、新しいシルクのシャツをルシアンの腕に通す。
その手つきは、自然で、丁寧で、そして残酷なほど優しかった。
沈黙が重くのしかかる。
耐えきれず、ルシアンは口を開いた。
「……ヴォルキス国は、北にあるそうだな」
「はい。冬は雪深く、寒さの厳しい土地だと聞いております」
「寒いのは嫌いだ。……だが、この息苦しい城よりはマシかもしれないな」
ルシアンはわざとカイルを見下ろすようにして、皮肉な笑みを浮かべた。
「毎日毎日、口うるさい連中ばかりだ。お前も含めてな。向こうに行けば、私は『お客様』だ。きっと今よりずっと気楽に暮らせるだろうさ」
「……左様でございますか」
カイルはシャツのボタンを留めながら、短く答えた。
胸の奥で、黒い衝動が膨らむ。
もっと揺さぶりたい。
もっと傷つけたい。
自分だけが痛むのが、どうしても許せなかった。
「ああ、せいせいするよ。やっとこの鳥籠から出られるんだ。顔も見たくない連中ともおさらばできる。……お前のその、すました顔も見なくて済むと思うと、胸が躍るようだ」
嘘だ。
全部、嘘だ。
行きたくない。
お前と離れたくない。
ずっとそばにいてほしい。
心の中で叫び続けている本音とは裏腹に、口から出るのは鋭利な刃のような言葉ばかりだった。
カイルの手が、最後のボタンを留め終えた。
その指先が離れる瞬間、ルシアンの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
カイルは深く、深く頭を下げた。
「――おめでとうございます、ルシアン殿下」
その言葉は、ルシアンの心臓を冷たい杭で貫いた。
「……なに?」
声が震える。
「良きご縁に恵まれましたこと、心よりお慶び申し上げます。殿下が新天地で、誰よりも幸せになられることを……私めは、心より願っております」
カイルの声は震えていなかった。
あまりにも誠実で、あまりにも清廉で、あまりにも「従者として正しい」。
それが、ルシアンにとっては決定的な拒絶だった。
ああ、こいつは――。
カイルは、本当に、俺がいなくなることを「良きこと」として受け入れているのだ。
胸の奥が焼けるように痛む。
視界が熱く滲む。
涙がこぼれそうになるのを、ルシアンは怒りで無理やり押し潰した。
次の瞬間、衝動のままに手が動いた。
近くのサイドテーブルに置かれていた銀の水差しを掴み、力任せに床へ叩きつける。
ガシャアンッ!!
激しい破砕音が部屋に響き渡った。
銀の水差しが転がり、中の水が絨毯に黒い染みを広げていく。
その染みが、まるで自分の心が崩れ落ちていく跡のように見えた。
カイルは微動だにしなかった。
驚きもしない。
ただ静かに、荒れ狂う主君を見守っている。
その冷静さが、ルシアンには耐えられなかった。
「出て行け!!」
喉が裂けるほどの叫びだった。
「顔も見たくない!俺の前から消えろ!」
「……失礼いたします」
カイルは静かに一礼し、踵を返し扉へ向かう。
静寂が戻った部屋に、ルシアンは一人取り残された。
先ほどまで荒れ狂っていた呼吸が、まだ胸の奥で不規則に波打っている。
そのまま力が抜けたように、彼はゆっくりと床へ崩れ落ちた。
膝をつき、絨毯に広がった黒い水の染みを見つめる。
それは、ただの水の跡にすぎないはずなのに――
ルシアンには、自分の心が砕け散り、中身がこぼれ落ちてしまった残骸のように見えた。
「……馬鹿か」
震える声が、静まり返った部屋に小さく響いた。
どうして、あんなことを言ったのだろう。
どうして、「行きたくない」と素直に言えなかったのだろう。
もし泣いて縋っていたら、カイルは抱きしめてくれただろうか。
いや、そんなことはない。
彼は忠実な騎士だ。
困ったように眉を寄せ、「殿下、お戯れを」と優しく諌めるだけだっただろう。
それが分かっているからこそ、傷つくのが怖くて、先に相手を突き放した。
拒絶される前に、自分から拒絶した。
ルシアンは両手で顔を覆った。
指の隙間から、熱い雫が次々とこぼれ落ちる。
止めようとしても止まらない。
(お前にだけは、おめでとうなんて……言われたくなかった…)
誰もいない部屋で、押し殺した嗚咽が漏れる。
カイルのことが好きだった。
初めて剣を握る姿を見た時から。
熱を出した夜、眠れない自分の手を、朝まで握っていてくれた時から。
幼い自分を守るために、いつも前に立ってくれた背中を見た時から。
身分違いだと分かっていた。
自分がいつか政略の道具として使われることも、とうに理解していた。
だからこそ、この想いは墓場まで持っていくつもりだった。
けれど――
いざその時が来ると、こんなにも痛い。
身が引き裂かれるように痛い。
窓の外は、いつの間にか完全に夜に包まれていた。
月明かりが薄く差し込み、泣き崩れるルシアンの黄金の髪を淡く照らす。
美しい皇子は、冷たい床の上で、声を殺して泣き続けた。
その扉の外で――
忠実な従者が、扉に背を預けたまま、拳を固く握りしめて立ち尽くしていることなど、知る由もなく。
0
あなたにおすすめの小説
【16話完結】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /チャッピー
AI比較企画作品
狂わせたのは君なのに
一寸光陰
BL
ガベラは10歳の時に前世の記憶を思い出した。ここはゲームの世界で自分は悪役令息だということを。ゲームではガベラは主人公ランを悪漢を雇って襲わせ、そして断罪される。しかし、ガベラはそんなこと望んでいないし、罰せられるのも嫌である。なんとかしてこの運命を変えたい。その行動が彼を狂わすことになるとは知らずに。
完結保証
番外編あり
夜が明けなければいいのに(和風)
万里
BL
時は泰平の世。華やかな御所の奥で、第三皇子・透月は政の渦に巻き込まれていた。隣国――かつて刃を交えた国との和睦の証として、姫のもとへ婿入りすることが決まったのだ。
表向きは「良縁」と囁かれ、朝廷は祝賀の空気に包まれる。しかし、透月の胸中は穏やかではない。鋭い眼差しと冷ややかな物腰で「冷徹の皇子」と噂される彼だが、その実、心は誰よりも臆病で、幼い頃から傍に仕えてきた従者・玄にだけは甘えたいという弱さを抱えていた。
だが、その弱さを悟られるのが怖い。
透月は苛立ちを隠すように、玄へ無茶な命を次々と下す。
「お前の顔など見たくない」
突き放すような言葉を投げつけても、玄はただ静かに頭を垂れ、淡々と従うだけ。
その背が遠ざかっていく瞬間、透月は思わず目を伏せる。
婿入りが迫る中、二人の距離は近いようでいて、決して触れられない。
なんか昔こんなのあったよなあと思いつつ、私が読みたいから書く…!
そして、和風と洋風も書いてみます。どっちバージョンもいいなあと思いまして。
愛されることを諦めた途端に愛されるのは何のバグですか!
雨霧れいん
BL
期待をしていた”ボク”はもう壊れてしまっていたんだ。
共依存でだっていいじゃない、僕たちはいらないもの同士なんだから。愛されないどうしなんだから。
《キャラ紹介》
メウィル・ディアス
・アルトの婚約者であり、リィルの弟。公爵家の産まれで家族仲は最底辺。エルが好き
リィル・ディアス
・ディアス公爵家の跡取り。メウィルの兄で、剣や魔法など運動が大好き。過去にメウィルを誘ったことも
レイエル・ネジクト
・アルトの弟で第二王子。下にあと1人いて家族は嫌い、特に兄。メウィルが好き
アルト・ネジクト
・メウィルの婚約者で第一王子。次期国王と名高い男で今一番期待されている。
ーーーーー
閲覧ありがとうございます!
この物語には"性的なことをされた"という表現を含みますが、実際のシーンは書かないつもりです。ですが、そういう表現があることを把握しておいてください!
是非、コメント・ハート・お気に入り・エールなどをお願いします!
婚約破棄を傍観していた令息は、部外者なのにキーパーソンでした
Cleyera
BL
貴族学院の交流の場である大広間で、一人の女子生徒を囲む四人の男子生徒たち
その中に第一王子が含まれていることが周囲を不安にさせ、王子の婚約者である令嬢は「その娼婦を側に置くことをおやめ下さい!」と訴える……ところを見ていた傍観者の話
:注意:
作者は素人です
傍観者視点の話
人(?)×人
安心安全の全年齢!だよ(´∀`*)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる