夜が明けなければいいのに(洋風)

万里

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 冷たい銀の針が、上質な絹越しに肌へと微かな刺激を伝えてくる。
 仕立て屋の老職人は、長年の経験で培われた正確無比な手つきで、ルシアンの礼装の背中を調整していた。

「殿下、背中のラインをもう少し絞らせていただいてもよろしいでしょうか?」

 柔らかな声が響く。
 ルシアンは鏡越しに自分の姿を見つめた。

 そこに立っているのは、隣国への婿入り――実質的な人質としての旅立ちを控えた、完璧な「人形」だった。
 金色の髪は一筋の乱れもなく整えられ、碧眼は氷のように澄み、背筋は糸で引かれたように真っ直ぐ。

 どこから見ても、王家の威信を象徴する、美しい装飾品。

「……好きにしろ」

 突き放すような声音に、老仕立て屋は一瞬だけ眉を下げ、困ったように微笑んだ。
 しかし何も言わず、再び針を動かし始める。
 職人としての誇りと、皇子への敬意が入り混じった、静かな献身の動きだった。

(どうせ俺は、ただの飾り物に過ぎない…)

 ルシアンの視線は、自然と部屋の隅へと向かう。

 そこには、直立不動で控える男――カイルがいた。

 漆黒の髪。
 感情の読めない黒い瞳。
 騎士として鍛え上げられた体躯を、無駄のない制服が包んでいる。

 いつも通りの姿。
 いつも通りの距離。
 いつも通りの沈黙。

 だが、今のルシアンには、その「いつも通り」がひどく遠く感じられた。

 かつて自分を救ってくれた温かな手と、夜通し看病してくれた優しい声と、幼い自分を抱き上げてくれた強い腕と――同じ人物だとは、とても思えなかった。

 鏡越しに視線が交わる。
 カイルの瞳は、深い湖のように静かで、揺らぎがない。
 その無表情が、ルシアンの胸をひどく締めつけた。

(……どうして、そんな顔でいられるんだ)

 自分はこんなにも壊れそうなのに。
 こんなにも、彼の一言に縋りたいのに。

 ルシアンは視線を逸らし、唇を噛んだ。
 絹の衣装がわずかに軋む音だけが、静かな部屋に響いた。


 ルシアンの脳裏に、不意に幼い日の記憶が蘇った。

 十年前。
 まだ七歳だった頃の自分。
 王位継承権の低い第三皇子として、兄たちに疎まれ、宮廷の大人たちからも「扱いやすい飾り物」としてしか見られていなかった少年。

 その日、ルシアンはひとりで城の裏庭へ向かった。
 人目を避けるように、庭の奥にそびえる大きな樫の木へと歩み寄る。
 誰にも見つかりたくなかった。
 空に近づけば、胸の奥の寂しさが少しは薄れる気がした。

 小さな手で幹を掴み、夢中で枝をよじ登る。
 気がつけば、足元がすくむほどの高さにいた。

「……っ、う……」

 震える足で枝を掴むが、降り方がわからない。
 冷たい風が吹き抜け、細い枝が揺れ、ルシアンの小さな体も心許なく揺れた。
 喉の奥がきゅっと締まり、涙が今にもこぼれそうになる。

 その時だった。

「殿下、私に飛び込んでください」

 下から聞き慣れた声がした。

 見下ろすと、当時十五歳のカイルが立っていた。
 まだ少年らしさの残る顔立ち。

「無理だ……! 落ちてしまう……!」

「私が必ず受け止めます。何があっても、殿下を落としはしません」

 カイルは両腕を大きく広げ、真っ直ぐにルシアンを見上げていた。

 風がまた吹き、枝が軋む。
 恐怖で胸が締めつけられる。
 けれど――カイルの瞳だけは、どんな嵐にも揺らがない。

 その確信が、ルシアンの背中をそっと押した。

 目をぎゅっとつぶり、空中へ身を投げ出す。

 重力に引かれる恐怖はほんの一瞬。
 次に感じたのは、自分をしっかりと包み込む、温かくて逞しい腕の感触だった。

「……怖かったですね。もう大丈夫ですよ」

 耳元で聞こえる声。
 カイルの胸の鼓動が、自分の早鐘のような心臓の音と重なっていく。

 ルシアンは彼の首にしがみつき、涙をこぼしながら言った。

「カイル……ずっと、ずっとそばにいて。どこにも行かないで」

 カイルは迷いなく答えた。

「はい。誓います。ずっと、おそばにいます」

 その言葉は、幼いルシアンにとって唯一の光だった。
 誰も自分を必要としない世界で、ただ一人、自分を見てくれる存在。
 その日から、ルシアンの胸に芽生えた淡い恋心は、成長とともに誰にも言えない秘め事となり、彼の心を支える唯一の糧となっていった。

 *

「殿下、隣国からの使者がお見えです。広間へお越しください」

 低く落ち着いたカイルの声が、ルシアンの意識を現実へと引き戻した。
 胸の奥に沈んでいた幼い日の記憶は、霧が晴れるように消えていく。

 婿入りの準備は、容赦なく進んでいた。
 公務、儀式、挨拶、書類への署名。
 次々と押し寄せる予定に、ルシアンがカイルと過ごせる時間は、まるで砂時計の砂のようにさらさらと減っていく。

 かつては剣の稽古の合間に交わした何気ない会話や、読書の時間にふと向けられたカイルの微笑みがあった。
 今では、それらすべてが遠い夢のようだ。

 最近、カイルは自分以外の誰かと話している時間が増えた。
 それが仕事であることは分かっている。
 だが――胸の奥がざわつくのを止められなかった。

 ある日、ルシアンが部屋を出ようとした時、廊下の角から声が聞こえてきた。

「……次の護衛対象については、もう通達があったのか?」

 聞き慣れた近衛兵の声だ。

「まだ、はっきりとしていませんが……ルシアン殿下が発たれた後は、第2皇子付きになると」

「お前のような優秀な男が、人質についていくのは勿体ないからな」

 その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの心臓が冷たく凍りついた。
 息が止まるほどの痛みが胸を貫く。

 そして、カイルの返答が聞こえた。

「私は命じられた場所へ向かうだけです」

 淡々とした、揺らぎのない、従者の声。
 近衛兵が笑いながら言う。

「真面目だな、お前は。だがまあ……殿下も、きっと安心して旅立てるさ。お前がいなくても、向こうには向こうの護衛がいるだろうしな」

「……そう、ですね」

 カイルの短い相槌が、ルシアンの胸に深く突き刺さった。
 自分がどれほどカイルを求めていても、カイルにとって自分は――ただの「任務」だ。そんなこと、わかっているのに。

(俺は……もう、用済みだというのか)

 胸の奥で、どす黒い感情が渦を巻く。
 自分は隣国へ、愛のない結婚のために送られる。
 カイルは「ずっとそばにいる」と言った。
 だが、それは“護衛”としての言葉にすぎなかったのだ。

 主が変われば、彼は迷いなくそちらへ向かう。
 その事実が、ルシアンの心を容赦なく切り裂いた。

 広間へ向かう足取りは、まるで重い鎖を引きずっているようだった。


 ルシアンの深いロイヤルブルーの外套は、彼の白い肌をいっそう際立たせ、まるで精巧に作られた人形のような静謐さを纏わせている。

 だが、その碧眼には生気が薄く、どこか遠くを見ているようだった。

(……もう、諦めるしかない)

 広間に入ると、隣国ヴォルキスからの使者たちがすでに整列していた。
 豪奢な刺繍の施されたマントを纏う使者団の長が、恭しく頭を下げる。

「第三皇子・ルシアン殿下。お目にかかれて光栄にございます」

 ルシアンは、機械のように首をわずかに傾けた。
 その動作は優雅で、完璧で、しかしどこか空虚だった。

「……遠路ご苦労だった」

 声もまた、感情の色をほとんど含んでいない。
 皇子としての礼儀だけが、淡々と口をついて出る。

 使者は続けた。

「殿下が我が国へお越しくださること、ヴォルキス王も心より喜んでおります。大公家の姫君もまた、殿下とのご縁を……」

 ルシアンは微動だにしなかった。
 まるで、その言葉が自分とは無関係の話であるかのように。

(喜んでいるのは国だけだ。俺は……)

 胸の奥に、かすかな痛みが走る。
 だが、それを表に出すことは許されない。

 ルシアンは、ただ静かに玉座の脇に座していた。
 背筋は糸で引かれたように真っ直ぐで、姿勢は完璧。
 だが、その完璧さこそが、彼がどれほど心を閉ざしているかを雄弁に物語っていた。

 視線は床へと落ち、まばたきすら少ない。
 まるで魂を抜かれた人形が、儀式のためにそこへ置かれているだけのようだった。

(……嘘つき)

 胸の奥で、かすれた声が響く。

(ずっとそばにいるって……言ったのに……)

 その言葉は、幼い日の記憶とともに胸を締めつける。
 あの時の温もりも、誓いの声も、今では遠い幻のようだ。

 玉座の横で控えているカイルは、いつも通り無表情だった。
 騎士としての完璧な姿勢で立ち、視線は前方に向けられている。
 だが、その黒い瞳は、ルシアンのわずかな指の震えを確かに捉えていた。

(……殿下)

 胸の奥で、言葉にならない何かが軋む。
 広間には、使者たちの声と、儀式のための形式ばった言葉が淡々と響いていた。
 だがルシアンには、そのどれもが遠く、まるで水の底から聞こえてくるようにぼやけていた。

(……もう、どうしようもできない)

 自分の未来を、他人の手に委ねるしかないという現実。

 ルシアンはただ、冷たい水の中にゆっくりと沈んでいくような感覚に身を委ねていた。
 息をするたびに胸が痛むのに、顔には一切の感情が浮かばない。

 その静けさこそが、彼の絶望の深さを物語っていた。
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