夜が明けなければいいのに(洋風)

万里

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 国境に近い離宮の庭園。
 冬の終わりを告げる柔らかな陽光が、白い石畳と剪定された低木の上に淡く降り注いでいた。
 空気はまだ冷たいが、風の端にほんのりと春の匂いが混じっている。

 その光の中に、ルシアンは立っていた。

 深い青の礼装に身を包み、金糸の髪は陽光を受けて淡く輝く。
 その姿は、まさに「完璧な王子」そのものだった。

 だが――その碧眼には、どこか遠い場所を見ているような虚ろさがあった。

 数日前から、ルシアンの心は不自然なほど静かだった。
 いや、正確には――感覚を麻痺させていた。

(感情なんて、もう必要ない。王族としての義務だけ果たせばいい。そうすれば……痛みを感じずに済む)

 胸を抉るような苦しみを避けるために、心を閉ざした。
 その結果、彼は美しい殻だけを残した“人形”になりつつあった。

「ルシアン殿下、隣国ヴォルキスの公女、エレーヌ様がお見えです」

 侍従の声が庭園に響く。

 ルシアンはゆっくりと顔を上げ、優雅な所作で一礼した。
 だが、視線を上げた瞬間――彼の予想は静かに裏切られた。

 現れた女性は、彼が想像していたような令嬢ではなかった。

 燃えるような赤毛を上品にまとめ、琥珀色の瞳は強い意志を宿しながらも、どこか柔らかい光を帯びている。
 その姿は、冬の庭園に差し込む陽光のように鮮やかだった。

 そして何より――ルシアンの美貌に気圧されることも、媚びることもなく、ただ穏やかに微笑んでいた。

「初めまして、ルシアン殿下。お会いできる日を楽しみにしておりましたわ」

 その声には棘がなく、春の風のように優しく、心地よい温度があった。
 ルシアンの胸の奥で、凍りついたはずの何かが、ほんのわずかに揺れた。


 茶会の席で、二人は形式通りの挨拶を終えた。
 白いクロスの上には香り高い紅茶と焼き菓子が並び、庭園からは冬の名残を含んだ風がそっと吹き込んでくる。

 ルシアンは、いつものように冷ややかな仮面を被っていた。
 完璧な姿勢、完璧な微笑、完璧な礼儀。
 他者を寄せ付けない氷の壁は、今日も一分の隙もない。

 だが、エレーヌはふっと視線を落とし、庭の奥の誰もいない場所を見つめながら静かに口を開いた。

「……殿下、無理に微笑む必要はありませんわ」

 ルシアンのティーカップを持つ手が、わずかに止まる。

「この結婚が、貴方にとってどれほど過酷な決断であったか……私は、理解しているつもりです」

 ルシアンは表情を変えず、淡々と返す。

「……過酷? 滅相もない。両国の和平の礎となれることは、私にとって誉れです」

「いいえ、殿下」

 エレーヌは首を横に振った。
 その仕草は優雅で、しかし揺るぎない意志を感じさせた。

「故郷を離れ、景色も文化も違う場所へ『人質』として送られる。その孤独は……誉れの一言で片付けられるものではありません」

 ルシアンの胸の奥に、ひやりとした痛みが走る。
 誰にも悟られないように隠してきた傷に、そっと触れられたようだった。

「……貴女は、随分と率直だ」

「殿下に嘘をつく理由がありませんもの」

 エレーヌは柔らかく微笑んだ。
 その瞳には、憐れみではなく、対等な人間としての敬意が宿っていた。

「私も同じ立場です。父王の命に従い、貴方を迎える。けれど私は、貴方を不幸にするためにいるのではありません」

 ルシアンは息を呑む。

「せめて……私たちの住まう城が、殿下にとって牢獄ではなく、心休まる場所になるように。そのために、できる限りのことをしたいのです」

「……どうして、そこまで?」

 思わず漏れた問いに、エレーヌは少しだけ目を細めた。

「貴方が……とても辛そうに見えたからです」

 ルシアンの心が、かすかに揺れた。
 胸の奥に、小さな波紋が広がる。

(この人となら……)

 賢く、慈悲深く、そして残酷なほどに「良い人」。
 彼女のような女性が隣にいれば――いつかカイルを忘れ、平穏な家庭を築けるかもしれない。

 それが国のためであり、カイルを自由にする唯一の道なのだ。

 逃げる理由はどこにもない。
 自分さえ、この愚かな初恋を捨ててしまえば。

 エレーヌはそっと紅茶を口に運び、穏やかに言った。

「殿下。どうか……ご無理をなさらないで。私は、貴方の敵ではありませんわ」

 その言葉は、氷の仮面の奥に閉じ込められたルシアンの心に、静かに染み込んでいった。



 庭園を囲む回廊の影。その薄闇の中に、ひとつの影が静かに佇んでいた。
 カイルだ。

 ルシアンから「用済み」と告げられ、正式な護衛任務からは外された。
 それでも、代々続く忠義という名目だけが、彼をこの場に立たせている。
 表向きは“末席の警護”。だが実際には、ただ遠くから見守ることしか許されていない。

 回廊の柱の隙間から見える二人の姿は、まるで一枚の絵画だった。
 陽光を受けて輝く金髪の王子ルシアン。
 その隣で柔らかく微笑む、赤毛の公女エレーヌ。
 光に包まれた二人は、これから築かれる平和の象徴そのもののように見えた。

(……ああ、これこそがあるべき姿だ)

 胸の奥に走る鈍い痛みを押し殺すように、カイルは拳を握りしめた。
 ルシアンの隣に立つべきは、自分のような者ではない。
 気高さと慈愛を併せ持つ、あの女性こそがふさわしい。
 自分の役目はただひとつ――彼を安全に導き、そして、彼が新しい幸せを掴むのを見届けること。

 その時だった。

 ふいに風が庭園を横切り、ルシアンの手元から白い布がひらりと舞い上がった。
 陽光を受けてきらめきながら、蝶のように空中を漂う。
 だが、談笑しながら歩き出したルシアンとエレーヌは、それに気づかない。

 白布はゆっくりと弧を描き、まるでカイルの足元へ導かれるように落ちてきた。

 カイルは一瞬だけ迷い、そしてそっと手を伸ばした――。

 それは、ルシアンがいつも身につけている、繊細な刺繍が施された白いハンカチだった。
 拾い上げた瞬間、ふわりと微かな百合の香りが立ちのぼる。
 それは彼の纏う香りそのもので、カイルの胸の奥にしまい込んでいた記憶を容赦なく呼び覚ました。

 指先に触れる布地は驚くほど柔らかく、温もりすら感じられる気がした。

(殿下……)

 名前を呼びかけようとした唇は、すぐに強く噛みしめられた。
 今これを届けに行って、何と言えばいい。
「お忘れ物です」と差し出せば、あの冷えた瞳でまた距離を置かれるだけかもしれない。
 それに、幸せそうに並んで歩く二人の間に割って入るなど、許されるはずもない。

 カイルはそっと息を吐き、ハンカチを自分の懐へとしまい込む。
 今の自分にできるのは、彼が落とした小さな記憶の欠片を拾い上げ、ひっそりと抱えておくことだけだった。

 遠ざかっていくルシアンの背中は、かつてよりもずっと遠い。
 エレーヌの隣に立つその姿は、王子として正しく、未来を象徴するように美しい。

 カイルは回廊の影に身を潜めたまま、ただ静かにその背中を見送った。

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