夜が明けなければいいのに(洋風)

万里

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 隣国ヴォルキスへの出発を三日後に控え、城内はまるで沸騰した大釜のような騒がしさに包まれていた。石畳を叩く馬車の車輪の音、積み荷を急かす兵士たちの怒号、そして慌ただしく廊下を駆ける足音。それらすべての音が、ルシアンの過敏になった神経を、やすりで削り取るように刺激していた。

 ここ数日の彼は、触れるものすべてを切り裂くナイフそのものだった。

「色が違うと言ったはずだ! この飾り紐を見ろ。泥水のように濁っている。俺の瞳の色を侮辱しているのか?」

 ルシアンの冷徹な声が、豪奢な天蓋の下で鋭く弾けた。差し出された最高級の絹糸を、彼は一顧だにせず床に投げ捨てる。

「申し訳ございません、殿下! すぐに、すぐに手配し直します……!」

 若いの侍従は、青ざめた顔で震えながら、床に散らばった紐をかき集めた。彼らが這うようにして退室すると、重厚な扉が閉まる音だけが、虚しく室内に響き渡る。

 一人残された室内には、ルシアンの低く、荒い呼吸だけが停滞していた。

 本当は、飾り紐の色など、どうでもよかったのだ。たとえそれが黄金色であろうと、濁った泥色であろうと、彼がこれから向かう「政略結婚」という名の祭壇が変わるわけではない。
 彼はその正体不明の孤独を、誰かにぶつけ、傷つけ、反応を確かめることでしか、自分の存在を維持できなくなっていた。


「……殿下。ハーブティーをお持ちしました」

 背後から届いたのは、荒れ狂う嵐の中でも決して揺らぐことのない、凪いだ海のように静かな声だった。振り返るまでもない。ルシアンの幼少期から影のように寄り添い、その孤独を誰よりも知る男——カイルだ。

 カイルは本来、隣国への随行員からは外されていた。だが、彼は「夜の私室の警護は長年の慣例である」と、堅苦しいまでの正論を盾にして、出発直前の今もこうしてルシアンの傍らに留まり続けている。

「いらないと言ったはずだ。お前は耳まで遠くなったのか?」

 吐き捨てた言葉は、毒を含んだ刃となってカイルに向けられる。しかし、カイルは表情ひとつ変えず、銀のトレイを卓に置いた。

「興奮は毒です。少しでも眠らなければ、出発の日に身体を壊されます。それは、殿下の誇りを傷つけることにも繋がりましょう」

 カイルは、ルシアンの刺々しい感情を、柔らかな真綿で包み込むように軽やかに受け流す。その「完璧な従者」としての揺るぎない態度、自分とは対照的な冷静さが、今のルシアンには何よりも鼻についた。

「お前に何がわかる!」

 ルシアンは椅子を蹴るようにして立ち上がり、カイルの胸元を力任せに掴み上げた。上質な軍服の襟元が、ルシアンの指の間でみしりと音を立てる。

「俺は、自分の国を捨てて、愛してもいない女に自分を売りに行くんだ。お前はここで、次の主人に媚を売る準備をしていればいいだけだろう。俺の絶望の、何がわかるというんだ!」

 至近距離で睨みつけるルシアンの瞳は、怒りと、そして隠しきれない恐怖に濡れていた。対するカイルは、抵抗する素振りさえ見せない。ただ、深い憂いを帯びた瞳に、ルシアンの乱れた姿を映している。

「……おっしゃる通りです。私には、殿下の苦しみのすべてを推し量ることはできません。ですが——」 
「黙れ! 二度と理解したような口を利くな!」

 カイルの瞳に宿る、哀れみにも似た慈しみが耐えられなかった。ルシアンは突き飛ばすようにしてカイルを離すと、荒い足取りで部屋を飛び出した。

「殿下! お待ちください!」

 背後から追いかけてくる声を振り切り、ルシアンは入り組んだ回廊を駆け抜けた。豪奢な絨毯が足音を吸い込み、冷たい石壁が彼の肩をかすめる。

 たどり着いたのは、夜の帳が降り始めた城の庭園だった。 昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったその場所で、ルシアンは闇の中へと深く、迷い込むように足を踏み入れていく。冷たい夜気が、火照った頬を刺した。


 夜の庭園は、昼間の華やかさが嘘のように冷酷な静寂に支配されていた。青白い月光が、骸骨のように痩せこけた木々の影を地面に長く伸ばしている。

 ルシアンは、生い茂る木立のさらに奥、古びた大樫の木のそばまで来ると、ようやくもつれる足を止めた。そこはかつて、木登りに失敗して降りられなくなった幼い自分を、カイルが真っ先に駆けつけて受け止めてくれた場所だった。

(あんなことを、言いたいわけじゃないのに……)

 肺を焼くような荒い息を吐きながら、ルシアンの視界が涙で滲む。 カイルが自分を案じていることなど、痛いほどわかっていた。だが、その献身がどこまでも「忠義」という冷たい理性の枠内に留まっていることが、ルシアンには耐え難かった。自分を愛しているからではなく、それが「従者の義務」だから傍にいる。そう思い込むたびに、胸の奥の孤独は癒えるどころか、鋭く尖って自分自身を傷つけた。

 その時、背後の茂みが不自然に、カサリと震えた。

「……カイル? しつこいぞ、戻れ!」

 苛立ちを混ぜて振り返る。しかし、返事はない。代わりに聞こえてきたのは、冷たく乾いた金属が擦れ合う、不吉な音だった。

「第3皇子、ルシアンだな。……和平の礎など、ここで粉々に砕いてくれる!」

 闇の中から、亡霊のように二人の黒装束の男が飛び出してきた。手元でぎらりと光るのは、血を吸うために研ぎ澄まされた短刀だ。 隣国との婚姻による和平を良しとしない、国内の過激派貴族が放った刺客。彼らにとって、ルシアンという人間は、和平を壊すための「都合の良い生贄」に過ぎなかった。

「あ……」

 喉が恐怖で凍りつく。教養としての剣術は嗜んでいても、実戦などほとんど経験したことがない。迫りくる死の気配を前に、ルシアンの足は根が生えたように地面に張り付いて動かなかった。

 刃がルシアンの喉元を切り裂こうと、空を裂いたその時。

「——殿下ッ!!」

 突風が吹き抜けたかと思うほどの勢いで、視界を黒い影が遮った。 カイルだった。彼は鞘に入ったままの重厚な剣を振り抜き、刺客の腕を強かに打ち据える。骨の砕ける鈍い音が響き、ルシアンの身体は強引に、温かな体温のする背後へと引き寄せられた。

「逃げてください、奥へ!」

 その声は、先ほどまでの穏やかな凪をかなぐり捨てていた。地を這うような低さと、愛するものを守り抜こうとする獣のような凄みが、夜の空気を震わせる。

「チッ、邪魔が入ったか!」

 刺客たちは舌打ちし、連携してカイルに襲いかかる。多勢に無勢、しかもカイルはルシアンを庇ったまま、一歩も引かずに応戦した。鞘を盾にし、最小限の動きで致命傷を避けるその戦いは、まさに死闘だった。

「ぐっ……!」

 肉を断つ嫌な音がして、カイルの肩から鮮血が噴き出した。刺客の一人の刃が、防御の隙間を縫って彼を深く切り裂いたのだ。

「カイル!」 
「動かないでください……! 私の後ろに!」

 カイルは負傷した左腕を顧みず、右手の剣を一閃させた。今度は鞘を抜き放つ。抜身の白刃が月光を反射し、稲妻のような軌跡を描いて刺客の脚と腕を正確に捉えた。

 圧倒的な実力の差。そして何より、カイルから溢れ出す、自分自身の命すら度外視した「狂気」に近い守護の意思に、刺客たちは圧された。遠くから聞こえてくる衛兵の足音と、松明の光。

「……退散だ!」

 負傷した刺客たちは、毒づきながら闇の向こうへと姿を消した。


「カイル、カイル! ……ああ、血が……!」

 ルシアンはなりふり構わず地面に膝をつき、肩を押さえて深く座り込んだカイルのもとへ駆け寄った。白磁のようなルシアンの指先が、カイルの衣服を濡らすどす黒い赤に染まっていく。

「かすり傷です。それより、殿下にお怪我は……どこか、痛みはありませんか?」

 自分自身の傷など意識の外にあるかのように、カイルは鋭い視線でルシアンの無事を確認しようとする。その献身が、今はただ痛ましかった。

「俺は何ともない! 自分の心配をしろ! どうして……!」

 ルシアンは震える手で刺繍入りのハンカチを取り出し、溢れ出す鮮血を抑えつけるようにして傷口を縛り上げた。 夜の静寂の中、二人の距離は極限まで近づく。重なり合う影。カイルの肌から伝わる熱、鉄の匂いを孕んだ血の香り、そして耳元をかすめる荒い吐息。久しぶりに触れるカイルの体温は、幼い頃、暗闇に怯える自分を抱きしめてくれたあの日の温もりそのもので、胸が締め付けられるほどに愛おしく、そして苦しかった。

「どうしてお前が傷つくことがある…?! 俺が、俺さえ死ねば、こんな苦しみも、無意味な婚礼も……っ」

 堪えていた感情が決壊し、ルシアンの瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。カイルの濡れた軍服に、その涙が吸い込まれていく。

 カイルは痛みに耐えながら、自由な方の手を震わせて持ち上げ、ルシアンの頬を伝う雫をそっと指先で拭った。その手つきは、壊れ物に触れるような優しさに満ちていた。

「……そんなことを、おっしゃらないでください」

 カイルは熱を帯びた瞳で、真っ直ぐにルシアンを射抜いた。

「あなたをお守りすることだけが、私の人生のすべてです。……たとえ、あなたが私のことを忘れてしまっても。この命は、殿下の歩む平和のために捧げます」

 その言葉は、ルシアンにとって何よりも欲しかった「愛の告白」のように聞こえた。けれど同時に、それは残酷なほど明確に、彼らの間に引かれた「主従」という名の境界線を示すものでもあった。

(「すべて」なんて言うな……)

 自分はこれから、この男をこの国に残し、見知らぬ地へと行く。 カイルは命を懸けて自分を送り出し、役目を終えた後は、また別の主人のためにその剣を振るうのだろう。自分に向けられたこの熱い眼差しも、いつかは別の誰かに向けられる——その未来を想像するだけで、ルシアンは気が狂いそうだった。

「……お前は、本当に最低の従者だ」

 ルシアンはカイルの胸に顔を埋め、子どものように声を殺して泣き続けた。

 カイルはルシアンを抱きしめ返すことはしなかった。ただ、彼が泣き止むまで、降り注ぐ悲しみを凌ぐ屋根のように、その傍らに佇んでいた。

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