夜が明けなければいいのに(洋風)

万里

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 出発を明日に控えた夜、王城はまるで巨大な墓標のように静まり返っていた。

 明日、太陽が昇ると同時に、ルシアンは「和平の象徴」という名の生贄として馬車に乗り、隣国ヴォルキスへと向かう。それが意味するのは、慣れ親しんだこの国の土を二度と踏まないこと。そして、人生の半分以上を、魂を分け合うようにして過ごしてきたカイルと永遠に袂を分かつことだった。

 ルシアンは自室で一人、琥珀色の光を放つ一本のワインを前に座していた。天井から降り注ぐシャンデリアの煌びやかな輝きも、今はただ瞳を刺す痛みにしかならない。身体を沈めれば沈むほどに孤独が染み渡る天蓋付きのベッド、幼い頃から見慣れた豪奢な調度品。それらすべてが、すでに自分とは無関係な「借り物」のように感じられた。

 明日になれば、この部屋にはまた別の主人が入り、自分の痕跡は春の陽光に溶ける雪のように、跡形もなく消えてしまうのだろう。この世界で自分が生きてきた証など、どこにも残らないのだという恐怖が、薄氷のように心に張り付いて離れない。

「……カイルを、呼んでこい」

 側に控えていた下働きの者に、喉の奥から絞り出すような声で命じる。 


 しばらくして、重厚な扉が音もなく開いた。

 カイルは表情一つ変えず、静かな歩調で足を踏み入れる。軍服の袖口からわずかに覗く包帯の白さは、昨夜の惨劇――ルシアンを護るために彼が負った代償を嫌応なしに思い出させ、ルシアンの胸を鋭く抉った。

「お呼びでしょうか、殿下。明日のご出発を控え、お疲れであればすぐにでもお休みになるべきかと存じますが……」

「最後だ。……俺の酒に付き合え」

 ルシアンはカイルの事務的な言葉を遮るように言い放ち、震える手でクリスタルのグラスに赤ワインを注いだ。波打つ深紅の液体は、窓から差し込む月光を吸い込み、まるで呪われた血のように淀んだ輝きを放っている。

「……恐れながら。護衛の任務中ゆえ、酒を嗜むことは許されません」

「命令だ」

 ルシアンは、乾いた音が室内に鋭く響くほど強く、テーブルにグラスを叩きつけた。

「明日になれば、俺はもうお前の主ではない。ヴォルキスへ送られる、ただの物だ。今夜が……俺がお前に、命令を下せる最後の夜なんだ」

 拒絶を許さないほど切実で、それでいて指先で触れれば粉々に砕けてしまいそうなほど脆い、縋るような響き。カイルの鉄仮面のように硬質だった無表情が、その時わずかに揺らいだ。彼は射抜かれたような痛ましさを瞳に宿し、苦しげに眉を寄せると、促されるままに、重い足取りで一歩前へ出た。

 カイルは座ることをせず、立ったままルシアンと対峙した。

「……頂戴致します」

 ルシアンの射抜くような視線から逃れるように、わずかに顔を背けてワインを一口含む。
 規則正しく動く喉仏。グラスの縁に触れる唇。ルシアンはその一挙手一投足を、明日の朝には失われる光景を脳裏に刻印するように凝視していた。

 琥珀色の液体が喉を通るたび、ルシアンの心を守っていた薄い氷の膜が、内側から熱に焼かれて溶け出していく。

 もともと酒は強くなかった。数杯も飲まぬうちに、視界は微かな熱を帯びて歪み、理性という枷が外れ始める。抑え込んでいた感情が、血管を伝って熱のように全身へ回っていくのがわかった。

「カイル……。お前は、俺が向こうでエレーヌ様と、……幸せになればいいと思っているんだろう?」

「……素晴らしい公女様とお見受けしました。殿下ならば、きっとヴォルキスで、穏やかな日々を過ごせると信じております」

 カイルの声は、どこまでも澄んでいた。そして、どこまでも残酷だった。 その一点の曇りもない「正しさ」が、ルシアンの胸を深く抉り、切り刻む。

「嘘だ。……俺のことなんて、向こうへ送り届けた瞬間にどうでもよくなるんだろう? また別の誰かの後ろに立って、同じように命を懸けるんだ。……俺じゃなくても、主君という肩書きさえあれば、誰でもいいんだろう?」

 ルシアンは立ち上がり、おぼつかない足取りでカイルに歩み寄った。揺れる視界の中で、カイルの端正な顔だけが、呪わしいほど鮮明に映る。

 カイルはよろめくルシアンを案じ、咄嗟に支えようと逞しい腕を伸ばした。だが、ルシアンはその手を乱暴に掴み、ありったけの力を込めて彼を壁際へと押しやった。

「殿下、酔っておられます。今夜はもう、お休みを……」

「酔っているさ! 酔わなければ、こんな惨めな姿を晒せるか!」

 ルシアンの碧眼から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。それはカイルの漆黒の隊服に吸い込まれ、胸元にいくつもの暗い染みを作っていく。

 指先が激しく震え、カイルの胸元を、その厚い胸板を、必死に掴み上げた。布地越しに伝わるカイルの心音は、ルシアンを拒絶するように冷たく、規則正しく響いている気がした。

「……お前は…… 『ずっと傍にいる』って、あの樫の木の下で、言ってくれたじゃないか……! なのに、お前はいつだって俺を『殿下』としか呼ばない。……『忠誠』なんて都合のいい言葉で、俺を遠くに放り出すんだ……!」

 言葉にするたびに、胸の傷口が広がる。 ルシアンはカイルの胸に額を押し当て、嗚咽を漏らした。カイルの身体は岩のように固く、そこには何の共鳴も、返答もない。

「本当は、わかっている。お前にとって俺は、守るべき義務に過ぎないことくらい。……それでも、一度でいい。一度でいいから、俺を、ひとりの人間として見てくれよ……っ!」

 カイルの瞳が、大きく揺れた。

 彼は動揺を隠そうと苦しげに唇を噛み、己の胸に縋り付くルシアンの細い肩を掴んだ。その指先には、引き剥がすべきか、それとも抱き寄せるべきか迷いが宿っている。

「……私のような卑しき者が、そのようなお言葉をいただくわけには参りません。貴方は気高き王族で、私は貴方を守るためだけの、ただの盾だ」

「どうして? 誰が決めた! 法律か? 陛下か? それとも、お前のその卑怯なまでの自制心か!」

 ルシアンはカイルの胸ぐらを掴み、強引にその顔を近づけた。吐息が熱く混じり合うほどの至近距離。ルシアンの瞳は涙で濡れそぼりながらも、逃げ場を塞ぐような鋭い光を湛えてカイルを射抜く。

「カイル。……これが最後だ。お前に下す生涯最後の命令だ」

 ルシアンの心臓の鼓動が、部屋の静寂を暴力的に打ち消すほど大きく耳の奥で鳴り響く。視界が熱を帯び、カイルの端正な顔がわずかに揺らめいた。

「……今夜、ただ一度、俺を抱け。女にするように……」

 カイルの息が、目に見えて止まった。瞳が驚愕に、そして言いようのない苦悩に激しく揺れる。

「……殿下……あまりに過ぎた戯れを。私は貴方の剣であり、盾であって……」

「従者の顔をするな! 憐憫の眼差しで俺を見るな!」

 ルシアンは叫び、カイルの堅牢な軍服の襟を力任せに引き寄せる。

「一度でいい……カイル、お前の手で、汚してくれ。明日、彼女のものになる前に。誰にも踏みにじられたことのないこの尊厳も、この身体も……すべてお前に捧げたい。他の誰でもない、お前が欲しい……!」

 ルシアンの言葉は、もはや命令の体を成していなかった。 威厳も、未来も希望も、これまで必死に守り通してきた虚飾も、すべてをかなぐり捨てた。そこにいたのは、あまりに無防備で、あまりに痛ましい、暗闇に取り残された一人の孤独な少年。
 沈黙が、永遠のように二人を包み込む。 ルシアンの手が、その熱を求めてさらに強く食い込んだ。カイルの喉仏が大きく上下し、彼の中で守り続けてきた「忠誠」という名の最後の理性が、音を立てて崩壊していくのがわかった。

 代々王家に仕える家系に生まれ、感情を殺し、鉄の規律と忠誠という鎖で己を縛り付けて生きてきた。彼にとってルシアンを愛することは、自らの存在意義を根本から否定し、騎士としての魂を汚すことに他ならなかった。だからこそ、その熱を心の最奥、光の届かない場所に封じ込めてきたのだ。

 けれど、目の前でなりふり構わず泣きじゃくり、自分という「男」を求める愛しい人の体温を感じて、ついにその限界は訪れた。

「……ルシアン様」

 初めて、立場も儀礼もすべてをかなぐり捨てて、その名を呼んだ。 カイルの大きな手が、細いルシアンの腰を、逃がさないと言わんばかりの力強さで引き寄せる。

 次の瞬間、ルシアンの唇は、乱暴なほどの熱情を帯びた口づけによって塞がれた。 それは神に捧げる忠誠の誓いなどではなく、一人の男が愛する者を、その魂ごと奪い去ろうとする剥き出しの渇望だった。ルシアンは、あまりの熱さに眩暈を覚えながらも、その暴力的なまでの情愛に歓喜し、カイルの背に爪を立てた。

「……カイル……っ」

 二人の影が、崩れるようにベッドへと沈み込んでいく。

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