夜が明けなければいいのに(洋風)

万里

文字の大きさ
7 / 7

7

しおりを挟む
 コンコン、と控えめな音が部屋に響いた。 

「……殿下、お召し替えの時間でございます」

 外に控える従者の声が、魔法を解く合図だった。 カイルはゆっくりと体を起こし、ベッドの脇に落ちていた自分の隊服を拾い上げる。背中を向けて服を着る彼の姿は、再び「鉄の護衛」へと戻っていくように見えた。

 ルシアンもまた、シーツを体に巻きつけたまま起き上がる。 泣き腫らした目は赤く、体中には昨夜の情事の名残である赤い痕が幾つも残っている。けれど、その瞳には、昨日までの迷いや焦燥は消えていた。

 カイルは身なりを整えると、跪いてルシアンの足元に視線を落とした。 

「……お見送りいたします」

 それは、昨夜までの甘い呼びかけではなく、再び距離を置いた「従者」としての言葉だった。 けれど、ルシアンはそれを拒まなかった。カイルがその仮面を被らなければ、この後の一分一秒を、二人とも生きていけないことを知っていたから。

 ルシアンは、朝日を背に受けて笑った。 その微笑みは、完璧な人形のように冷ややかなものではなく、どこか吹っ切れたような、清々しい美しさを湛えていた。

「ああ。最後まで、頼む。カイル」

 その笑顔の奥に、永遠の別れを覚悟した深い悲しみと、たった一夜だけ「男」として抱かれた記憶を糧に生きていく決意を秘めて。
 ルシアンは立ち上がり、豪華で重苦しい婚礼衣装へと袖を通すために、鏡の前へと歩き出した。


 冬の終わりの朝は、痛いほどに白く、澄んでいた。王城の広場には、隣国ヴォルキスへと向かう豪華な馬車と、それを護衛する騎士たちが整列している。張り詰めた空気の中、馬の鼻息が白く混じり、真新しい車輪が霜の降りた石畳を噛む音が、刻一刻と迫る別れの時間を刻むように響いていた。

 ルシアンは、最高級の絹と金糸で飾られた婚礼正装を纏い、階段を降りてきた。その姿には一分の隙もない。金髪は朝日を浴びて神々しく輝き、碧眼は冷徹なまでに遠く国境の向こうを見据えている。そこにはもはや、昨夜カイルの腕の中で泣きじゃくり、震える声で名を呼び続けた「一人の男」の影はどこにもなかった。彼は今、一国の王子として、自らの運命を静かに受容している。

 馬車の扉の脇には、漆黒の隊服に身を包んだカイルが、直立不動で待機していた。彼は昨夜の情事など一度もなかったかのように、無機質な鉄の仮面を被っている。

 カイルが恭しく一礼し、手袋を嵌めた手で馬車の扉に手をかける。

「ルシアン殿下。お仕度が整いました」

 その声は、かつて木の上から自分を呼んだ時と同じ、落ち着いた低い響きだった。変わらない響きだからこそ、今この瞬間が残酷なまでに決定的なものとしてルシアンに突き刺さる。

 ルシアンは一歩、また一歩と彼に近づく。カイルが差し出した手の上に、ルシアンは自分の手を重ねた。薄い手袋越しに伝わる、馴染み深い掌の厚みと熱。昨夜、この手が自分をどれほど強く抱きしめ、どれほど愛惜を込めて肌を撫でたか。 その記憶が、鋭いナイフのようにルシアンの胸を裂く。けれど、彼は眉一つ動かさなかった。瞳の奥に広がる悲しみを、氷のような意志の力で封じ込める。ここで崩れることは、昨夜の自分たちへの裏切りになるのだ。

 ルシアンは馬車のステップに足をかけ、乗り込む直前、わずかに足を止めた。 カイルとの距離は、わずか数十センチ。周囲の喧騒、騎士たちの鎧が擦れる音、高ぶる馬のいななきが、まるで遠い世界の出来事のように遠のいていく。

 ルシアンは顔を上げぬまま、視線だけをわずかに落とした。

「……カイル」

 唇から零れ落ちたのは、ささやくような、風にかき消されそうなほど幽かな響きだった。 カイルは恭しく頭を下げた姿勢のまま、視線を微かに動かしてルシアンの靴先を見つめる。

「元気で。……誰よりも、幸せに」

 それは、王子としての命令ではなかった。 地位も名誉も、ヴォルキスへの政略結婚という重責もすべて剥ぎ取った、ただの「ルシアン」という一人の人間が、愛した「カイル」という一人の男に贈った、たった一つの祈りだった。

 その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、カイルの肩が、目に見えないほど小さく震えた。 彼は深く、誰よりも深く頭を下げたまま、喉の奥から声を絞り出した。

「……貴方様も。……どうか、お健やかに。私の祈りは、常に貴方様と共にあります」

 その声は微かに掠れ、ひび割れていた。 影となり、風となって、生涯あなたを守り続ける——その決意が、震える吐息に混じって白く消えていく。

 ルシアンはそれに応えるように頷くことも、振り返ることもせず、そのまま馬車の闇の中へと吸い込まれるように消えた。 バタン、という重厚な扉の閉まる音が、凍てついた広場に冷たく響き渡る。

「出発せよ!」

 騎士団長の鋭い号令が、氷のように張り詰めた空気を切り裂いた。 御者が鞭を振るい、巨大な車輪が軋んだ音を立てて回り出す。規則正しく石畳を打つ蹄の音が、二人の時間を永遠に引き剥がす別れの鐘のように、冬の朝の静寂に鳴り響いた。

 ルシアンは、ビロードの座席に深く身を沈めた。 窓の外では、幼い頃から見慣れた王城の尖塔や、かつて彼と語り明かした庭園の木々が、無慈悲な速さで後ろへと流れていく。もし、いま一度だけと縋るように振り返れば、まだそこに直立不動で立ち尽くしているであろう「黒い影」を見つけてしまうだろう。その絶望的なほどに孤独な背中を見つけてしまえば、自分はすべてを投げ出し、矜持も運命もかなぐり捨てて馬車を飛び降りてしまう。

 だから、ルシアンは決して振り返らなかった。 指の関節が白くなるほど膝の上で拳を握りしめ、視線だけは真っ直ぐ前を見据え続ける。やがて、堰き止めていた熱い雫が瞳から溢れ、一筋の線となって頬を伝った。それは最高級の絹に施された豪華な刺繍を静かに濡らし、消えない染みを作っていく。

(さようなら、カイル……。世界でたった一人の、大好きな人……)

 唇を噛み締め、心の中で幾度も繰り返すその名は、誰の耳に届くこともなく、馬車の単調な振動と車輪の音に紛れて溶けていった。

 一方、カイルは馬車が城門をくぐり、その豪奢な姿が視界の端で豆粒のように小さくなっても、石像のようにその場から動かなかった。 吹き抜ける冷たい風が容赦なく彼の頬を叩き、隊服の懐に忍ばせた、あの一枚の白いハンカチが胸に当たって微かな重みを感じさせる。
 カイルは、ゆっくりと天を仰いだ。 冬の終わりの空は、残酷なまでにどこまでも高く、どこまでも青い。
 馬車が完全に視界から消え、蹄の音さえも遠い残響となったとき、カイルは一度だけ深く目を閉じた。再び目を開けたとき、その瞳からは一切の情念が消え去り、元の無機質な「鉄の仮面」へと戻っていた。

 彼はゆっくりと踵を返し、己が守るべき孤独な職務へと、一歩ずつ歩み出した。背後に残されたのは、霜の降りた石畳に刻まれた、馬車の轍だけだった。



 エピローグ

 それから、数年の月日が流れた。

 隣国ヴォルキスからは、時折、乾いた風に乗ってルシアンの噂が届いた。 彼はエレーヌ公女の良き夫となり、持ち前の聡明さと高潔さを活かして、和平の象徴として両国の民から絶大な支持を得ているという。かつての寄り付かせぬほどに冷ややかだった王子は、今では慈愛に満ちた「賢き国婿」として、その類まれなる美貌と共に伝説のように語り継がれていた。 異国の地で、彼は自らの足で立ち、自らの意志で新しい平穏を築き上げているのだ。

 一方、カイルは今、王太子の近衛長という重職に就いていた。 隙のない剣技と、感情を排した沈着冷静な判断力。その圧倒的な実力は、王家にとって揺るぎない盾となり、彼は「城の鉄壁」として周囲から畏怖と信頼を集めていた。

 ある日の夕暮れ。 カイルは任務の合間に、ふらりと城の裏庭にある、あの古い樫の木を訪れた。 木は昔と変わらぬまま、そこに静かに立っている。

 カイルはふと、茜色に染まり始めた空を見上げた。 隣国へと続くその空は、かつて見送ったあの冬の日と同じように、どこまでも美しく澄み渡っている。 ルシアンの隣には今、彼を愛し、共に歩み、守り抜く新しい家族がいる。それでいいのだと、カイルは深く、静かに目を閉じた。

 二人が肌を重ね、魂を震わせて交わしたあの一夜のこと。 決して言葉にできない想いのこと。 それらは、宮廷の公式な歴史のどこにも記されることはない。誰にも知られることなく、ただ二人の胸の奥底にある秘密。 

「……お健やかに。ルシアン様」

 カイルは、風の音に紛れるほど小さな声で独り言ちた。 その瞬間だけ、鉄の仮面の下に一筋の柔らかな情愛が兆したが、彼はすぐに背筋を伸ばし、冷徹な騎士の顔へと戻った。

 カイルは振り返ることなく、夕闇が濃くなり始めた城内へと歩み出した。 
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

失った記憶はどんな色?

万里
BL
桐吾(とうご)と拓海(たくみ)は、シェアハウスで同室の同居人。 しかし、ある日、激しい口論のあとに桐吾がバイクにぶつかり、記憶が曖昧に。桐吾の前に現れたのは、泣きそうな顔で心配する拓海だった。 いつも怒鳴り合っていたはずの彼が、今はただ静かに「心配させんなよ」と言う。 失われた記憶の中に、何があったのか?

不器用なαと素直になれないΩ

万里
BL
美術大学に通う映画監督志望の碧人(あおと)は、珍しい男性Ωであり、その整った容姿から服飾科のモデルを頼まれることが多かった。ある日、撮影で写真学科の十和(とわ)と出会う。 十和は寡黙で近寄りがたい雰囲気を持ち、撮影中もぶっきらぼうな指示を出すが、その真剣な眼差しは碧人をただの「綺麗なモデル」としてではなく、一人の人間として捉えていた。碧人はその視線に強く心を揺さぶられる。 従順で可愛げがあるとされるΩ像に反発し、自分の意思で生きようとする碧人。そんな彼の反抗的な態度を十和は「悪くない」と認め、シャッターを切る。その瞬間、碧人の胸には歓喜と焦燥が入り混じった感情が走る。 撮影後、十和は碧人に写真を見せようとするが、碧人は素直になれず「どうでもいい」と答えてしまう。しかし十和は「素直じゃねえな」と呟き、碧人の本質を見抜いているように感じさせる。そのことに碧人は動揺し、彼への特別な感情を意識し始めるのだった。

明日、また

万里
BL
大学時代からのライバルが死んだ。 亡くなる1か月前に、会ったばかりだったのに。 周りの人間は知っているのに、どうして自分だけが伝えてもらえなかったのか…。

夜が明けなければいいのに(和風)

万里
BL
時は泰平の世。華やかな御所の奥で、第三皇子・透月は政の渦に巻き込まれていた。隣国――かつて刃を交えた国との和睦の証として、姫のもとへ婿入りすることが決まったのだ。 表向きは「良縁」と囁かれ、朝廷は祝賀の空気に包まれる。しかし、透月の胸中は穏やかではない。鋭い眼差しと冷ややかな物腰で「冷徹の皇子」と噂される彼だが、その実、心は誰よりも臆病で、幼い頃から傍に仕えてきた従者・玄にだけは甘えたいという弱さを抱えていた。 だが、その弱さを悟られるのが怖い。 透月は苛立ちを隠すように、玄へ無茶な命を次々と下す。 「お前の顔など見たくない」 突き放すような言葉を投げつけても、玄はただ静かに頭を垂れ、淡々と従うだけ。 その背が遠ざかっていく瞬間、透月は思わず目を伏せる。 婿入りが迫る中、二人の距離は近いようでいて、決して触れられない。 なんか昔こんなのあったよなあと思いつつ、私が読みたいから書く…! そして、和風と洋風も書いてみます。どっちバージョンもいいなあと思いまして。

君さえ笑ってくれれば最高

大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。 (クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け) 異世界BLです。

雨降る窓辺で

万里
BL
突然の事故で妻を亡くした基樹は、5歳の娘・すみれとの生活に戸惑いながらも懸命に向き合っていた。 ある夜、疎遠だった旧友・修一から届いた一通のメッセージが、彼の孤独な日々を少しずつ変えていく。 料理や家事を手際よくこなし、すみれにも優しく接する修一。 その存在は、基樹の張り詰めた心を静かにほどいていく。

あなたが好きでした

オゾン層
BL
 私はあなたが好きでした。  ずっとずっと前から、あなたのことをお慕いしておりました。  これからもずっと、このままだと、その時の私は信じて止まなかったのです。

昔貴方の為に世界を滅ぼした。

黄金 
BL
   世界を滅ぼすほどの魔法師だった僕。 裏切られたけど、愛しているんです。生まれ変わっても愛してるんです。 ※なんとなく思いついて書いたので、よろしかったら……。

処理中です...