愛か、運命か(仮)

万里

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 鷹志が去った後の部屋には、墓場のような重苦しい沈黙が降りていた。それとは対照的に、部屋の隅々にまでこびりついた「雪の香り」の残香が、まるで支配の霧のように冷たく停滞している。

「凪……凪! しっかりしろ!」

 大和は床に崩れ落ちた凪を、壊れ物を扱うような手つきで必死に抱き上げた。だが、腕の中の凪はかつてないほどの熱を帯び、ガタガタと小刻みに、それでいて激しく震え続けている。その瞳は潤んで視界を失い、焦点の合わないまま虚空を彷徨っていた。

「大丈夫だ、もうあいつはいない。俺がいる、大丈夫だからな……っ!」

 励まそうと凪の首元を覗き込んだ大和は、思わず息を呑んだ。カラーのすぐ上、無防備な白い肌に刻まれていたのは、獲物を屠る獣が残したような生々しい鷹志の歯形だった。そこから赤紫色の痣が不気味に広がり、まるで毒が血管を伝って全身を侵食していくかのように、凪の体温を異常なまでに押し上げていた。

「……っあ……あぁっ!!」

 突然、凪が喉を掻きむしるようにして叫んだ。 首筋の噛み跡が脈打つたびに、ドクドクと焼けるような熱を放出する。大和は、少しでも凪を落ち着かせようと、自分の匂いが染み付いた古いパーカーで彼を包み込み、強く胸に引き寄せた。

 いつもなら、凪が「世界で一番安心する」と言っていた、大和の「鉄と砂と日向の匂い」。 だが、強制的にΩの本能を暴かれた今の凪にとって、その匂いは——。

「……いや……っ! き、気持ち悪い……!!」

 凪は大和の胸を、全力で突き放した。

「……凪?」

 大和の手が空中で凍りつく。信じられないものを見るような、深く傷ついた大和の顔。それを見た瞬間、凪の瞳から大粒の涙が溢れ出した。凪は泣きながら、狂ったように首を振る。

「違う、違うんだ大和、ごめん……っ! 嫌いなわけじゃない、そんなわけないのに……っ」

 大和のパーカーを掴む指が震える。

  「あいつの……あの匂いが……欲しくて……っ。頭が壊れそう……助けて、大和……助けて……っ!!」

 凪は自身の本能に対する嫌悪感から、自分の腕を血が滲むほど強く噛み、衝動を抑えようと身悶えした。

 βである大和には、凪を繋ぎ止めるためのフェロモンなど一滴もない。 どれほど心を尽くし、どれほど深く愛していても、凪の身体の中で暴れ狂う「獣」を鎮める術を、大和は何一つ持っていなかった。 目の前で愛する人が「運命」という化け物に食い荒らされていくのを、ただ無力に眺めることしかできない。その事実は、大和の心を凪の身体よりも激しく焼き焦がしていった。



 夜、大和は高熱で意識が朦朧となった凪を抱え、夜間診療の病院へと駆け込んだ。 殺風景な待合室に、大和の荒い呼吸と、凪の苦しげな喘ぎだけが響く。処置室に運ばれていく凪の背中を、大和は祈るような思いで見送ることしかできなかった。

 数十分後、診察室から出てきた医師の顔は、残酷なまでに暗かった。大和は椅子から弾かれたように立ち上がり、医師にすがりつくように問いただす。

「先生、凪はどうなんですか!? 抑制剤の点滴を打てば、すぐに熱も引いて、元通りになるんですよね……?」

 医師は手元のカルテに目を落としたまま、重い沈黙の後に口を開いた。

「……残念ながら、通常の抑制剤や点滴では、一時的な足止めにさえなりません。彼の体内には、極めて強力で支配的なαのフェロモンが、牙を通じて直接流し込まれています。これは自然な生理現象としてのヒートではなく、『強制的な誘発』です」

 医師は大和の泥のついた作業着の袖や、荒れた指先を見つめ、少し言い淀んでから静かに続けた。

「……非常に申し上げにくいことですが、あなたはβですね。今の凪さんの状態は、いわば喉が焼けるような渇きの中に放り出されたようなものです。それを癒やせる『水』となり得るのは、原因となったあのαのフェロモンか、あるいは……そのαと番になること。それだけです」

「……っ、そんなの……」

「このまま強制的なヒートを放置すれば、彼の身体は自身の高熱に焼き切られ、脳に深刻な後遺症が残る恐れがあります。最悪の場合、心不全を引き起こして……命を落とすこともあり得ます」

「死ぬって……言うのかよ」

 大和の拳が、みしみしと音を立てて握りしめられる。血管が浮き出るほど強く、やり場のない怒りと恐怖がその拳に集まっていた。

「俺じゃ……俺じゃダメなんですか!? 俺がずっと傍にいて、ずっと抱きしめてやるから……! 誰よりも、愛してるんだ!!」

 悲痛な叫びが、無機質な廊下に虚しく反響する。医師は憐れみを含んだ瞳で、静かに首を振った。

「……愛や精神的な支えは、確かに彼を勇気づけるでしょう。ですが、生物学的な飢えという名の『暴力』に対し、βでは何ともできません。凪さんの細胞は今、本能のレベルで、そのαのことを求めてしまっている。あなたの愛だけでは、その飢えを埋めることはできないのです」

 医師の言葉は、鋭い氷の刃となって大和の胸を深く、無慈悲に貫いた。



 病室に戻ると、凪は消毒液の匂いが漂うベッドの上で、溺れるような浅い呼吸を繰り返していた。 シーツを強く握りしめる指先は血の気が引いて白くなり、時折「あつい……」と、熱に浮かされたうわ言を漏らしては、力なく頭を左右に振っている。

 大和は、自身のポケットの中で体温よりも熱を持っていた、小さな銀色の鍵を取り出した。 凪と一生一緒にいるために。Ωという不安定な属性に振り回されないよう、凪が「俺だけのものだ」と証明するために、二人の誓いとして預かった、愛の証。

(……この鍵で、カラーを外せば。これを差し出して、あいつに縋れば……凪は助かるのか?)

 そんなこと、考えるだけで胃の奥が焼けるように痛んだ。あんな傲慢な男に、凪を差し出す。それは大和にとって、己の魂を殺すことと同義だった。 だが、目の前で刻一刻と生気を失い、ただの高熱にその命を削り取られていく凪を見ているのは、自分の身を引き裂かれるよりも何倍も辛く、残酷な拷問だった。

「くそっ……! ふざけんな、なんでだよ……!!」

 大和は、行き場のない怒りを押し殺すように凪の手を握りしめた。 その掌は、驚くほど熱く、そして驚くほど細かった。今にも熱に溶けて消えてしまいそうなほど、凪の存在が頼りなく感じる。

「凪、……凪、聞こえるか。お前は死なせない。絶対だ。……俺が、俺がなんとかするからな」

 大和は、凪の手を壊しそうなほど強く握りしめることしかできなかった。 



 翌朝。凪の容態はさらに悪化した。 高熱に浮かされる凪の意識は混濁し、もはや大和の呼びかけに答える力すら残っていない。

 大和は一晩中、凪の手を握りしめていた。 工事現場で泥にまみれて働き、凪を守るために鍛えてきたこの手。だが、どれほど力を込めて握っても、指先からこぼれ落ちていく凪の命を繋ぎ止めることはできない。属性という、個人の努力や意志ではどうにもならない残酷な壁が、二人の間に高く、冷たくそびえ立っていた。

「……凪。ごめんな」

 大和は、静かに立ち上がった。 心の中で、何かが音を立てて崩れていく。 

「俺は……お前を、死なせることだけはできない。たとえ、俺の隣からいなくなっても……生きててくれれば、それでいいんだ」

 大和は震える手で、作業着のポケットから一枚の紙切れを取り出した。 あの日、怒りに任せて破り捨てた、鷹志の名刺。ゴミ箱から拾い上げ、セロハンテープで無様に繋ぎ合わせたそれは、大和の惨めな敗北の証そのものだった。 

(こんなものに……頼りたくないのに……っ) 

 大和は唇を血が出るほど噛み締め、スマートフォンの画面に指を走らせた。 プライドも、男としての意地も、凪と描いたささやかな未来も。そんなもの、凪の鼓動一つに比べれば、ただのゴミクズだ。


 三回のコールの後、相手は出た。

「……誰だ」

 受話器の向こうから聞こえる、氷のように冷たく、それでいて余裕に満ちた声。大和は喉の奥からせり上がるどす黒い感情を飲み込み、絞り出すように声を絞り出した。

「……凪が、死にそうだ」

 一瞬の沈黙。 
「……場所はどこだ」 
「○○病院。……頼む。凪を、助けてくれ」

 大和の声は震えていた。屈辱で、視界が涙で歪む。 

「……ああ。当然だ。俺の番にして、助けてやろう」

 鷹志の声には、微塵の同情もなかった。それは対等な人間としての対話ではなく、まるで所有物を回収しに来るような傲慢な宣言だった。

 電話が切れた。 大和は病院の窓から、明けていく空を虚ろに見上げた。 凪と過ごした、琥珀色の夕暮れ。二人で半分こしたコンビニの安いスイーツ。暑苦しいと言いながら、いつも嬉しそうに笑っていた凪の顔。 そのすべてを、今、自分の手で手放さなければならない。


 数十分後、静まり返った病院の廊下に、迷いのない足音が響いた。 黒いコートを翻し現れた鷹志は、ベンチに座り込む大和に視線すら向けず、凪の眠る病室のドアへと手をかけた。

「……待て」

 大和が、掠れた声で呼び止めた。 立ち上がった大和の掌には、銀色の鍵が握られていた。凪の首にある、あのカラーを外すための唯一の鍵だ。

「これを……」

 大和の指は、目に見えて震えていた。その鍵を鷹志に手渡すことは、凪の心臓を差し出すことと同じだった。鷹志は無造作にその鍵を奪い取ると、大和をゴミを見るような目で見下ろした。

「賢明な判断だ、β。……愛だけでは、何も救えないということを、死ぬまで覚えておくがいい」

 大和は何も言い返せなかった。 大和は、崩れ落ちるように壁を背にして床に滑り落ち、自分の顔を両手で覆った。 
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