愛か、運命か(仮)

万里

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 集中治療室の無機質な白い照明の下、凪の意識は底なしの泥濘を漂っていた。 全身を焼き尽くすような高熱で思考はドロドロに溶け、ただ「死」という冷たく黒い影が、じわじわと足元から這い上がってくるのを感じる。

(あつい……たすけて、大和……やまと……)

 心の中で、愛する男の名を何度も叫ぶ。 けれど、その悲鳴に応えてくれるはずの、安らぎに満ちた「鉄と砂の匂い」はどこにもなかった。 代わりに、荒い呼吸を繰り返す凪の鼻腔を突いたのは——鋭利な氷のような、絶対零度の銀色の香り。

「……苦しかったな」

 鼓膜を震わせる低い声と共に、ひやりとする冷たい指先が、火照りきった凪の頬をなぞった。 その瞬間、凪の全細胞が歓喜に震えた。 嫌だ。この匂いは、俺と大和の穏やかな日々を壊す、悪魔の匂いだ。 意識の奥底に残った理性は激しく拒絶し、悲鳴を上げている。

(やめろ!! 来るな!! 俺に触るな!!)

 だが、喉から漏れ出したのは拒絶の言葉ではなく、熱く湿った、甘美な吐息だけだった。

「お前は俺のものだ。……こんな玩具は、もう必要ない」

 カチリ。

 静寂に包まれた病室に、小さな、けれど決定的な金属音が響き渡った。 霞む視界の先、鷹志の手の中に握られていたのは、大和が肌身離さず持っていたはずの、あの銀色の鍵だった。 なぜ。どうして、持っている。 問いかける間もなく、三年間、凪の貞潔と大和との愛を守り続けてきたレザーのカラーが、無慈悲に外され、乾いた音を立てて床に落ちた。

(——っ!?)

 守るものを失った無防備な項が、外気に晒される。 直後、焼きごてを押し当てられたような熱い衝撃が走った。 鷹志の鋭い牙が、肉を裂き、凪の項を深く、容赦なく貫いたのだ。

(ああぁぁ……っ!!)

 声にならない絶叫が喉を引き裂く。 傷口から直接流し込まれるのは、凪という存在を根底から書き換える、暴力的なまでの支配のフェロモン。 脳髄を直接焼かれるような痺れと、背筋を駆け上がる快楽。 大和と過ごした三年間の記憶、交わした言葉、重ねた体温——そのすべてを、鷹志の強大な「運命」が濁流となって押し流していく。

(大和、……大和……っ!)

 心では必死に大和に詫び続けている。 なのに、凪の身体は意思を裏切り、自分を蹂躙するαを求めた。

「……いい子だ」

 鷹志の囁きが、遠のく意識の中で響く。 凪の細胞ひとつひとつが、「運命の番」を得た歓喜に打ち震え、大和への愛を塗りつぶしていく。 凪は、抗えない白濁した闇の中へと、深く沈んでいった。

 *


 凪が次に意識を浮上させたのは、数日後のことだった。 視界に映るのは、あの集中治療室の冷たい白ではなく、一般病棟の穏やかすぎる午後の日差し。 けれど、目覚めた瞬間に感じたのは、絶望的なまでの「違和感」だった。

 身体が、重い。 全身の細胞が、自分ではない誰かの意思に塗りつぶされたような、充足感に満たされている。 凪は震える手で、自分の首元に触れた。

(……ない)

 三年間、肌の一部のように寄り添っていたレザーの感触がない。 代わりに指先が触れたのは、厚く巻かれた無機質な包帯の、ざらついた質感だった。

 凪はふらつく足取りでベッドを抜け出し、鏡の前に立った。 鏡の中にいたのは、生気を失い、幽霊のように青ざめた顔をした知らない誰かだった。 震える手で包帯をわずかにずらす。そこには、赤紫色の生々しい「痕」が深く刻まれていた。 

「嘘だ……。嘘だろ……っ」

 凪は逃げるようにベッドサイドへ戻り、投げ出されていた自分のスマートフォンを掴んだ。震える指で、何度も打ち間違えながら大和に電話をかける。 永遠に続くかと思われた長いコールの後、聞き慣れた、けれど酷く温度の低い声が響いた。

「……はい」

「大和!!」

 叫んだ瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「なんで……なんで俺、番になってるんだよ!? カラーは!? 鍵は!? 大和……、あいつに鍵を渡したのか……!?」

「…………」

 受話器の向こうで、大和は何も答えない。その重苦しい沈黙が、鋭いナイフとなって凪の心臓を抉り、切り刻む。

「答えてよ! なあ、あいつに脅されたんだろ? きっと殴られて、無理やり鍵を奪われたんだよな……? 大和が、自分からあいつに俺を渡すわけないもん。……なあ、そうなんだろ!?」

「……無理やりじゃない」

 大和の声は、心臓が凍りつくほど静かで、平坦だった。

「俺の意志だ。俺が、あいつに鍵を渡した。俺が……決めたんだ」

「な……何言って、……っ、そんなの、信じない……!」

「凪、……」

 大和が、凪の言葉を遮る。少し言いにくそうに、けれど決意を固めた重い溜息が聞こえた後、彼はついにその一線を踏み越えた。

「……もう、別れよう」

「な、なんで……!? 嫌だよ!!冗談だろ……っ!?」

「冗談じゃない。俺たちの関係は、もう終わりだ」

「そんな……嫌だ!嫌だ、嘘だって言ってよ……っ! 俺は嫌だ! 別れない! 俺が好きなのは大和だけなんだよ!!」

「……」

「今すぐ帰るから……っ! お願い、会って話をさせて!これからも一緒に……!!」

 泣き叫ぶ凪の声が、無機質な病室に虚しく反響する。 だが、その哀願を断ち切るように、大和が電話越しに激昂した。

「いい加減にしろ!!」

 怒声が鼓膜を突き、凪の呼吸が止まる。

「凪、現実を見ろよ! お前はもう、あいつの番なんだよ! 運命の番なんだろ?! 俺がいくら抱きしめたって、お前のヒート一つ止めてやれねえんだ! 苦しむお前を横で見てるだけなんて、俺はもう御免なんだよ!!」

「大和……それでも、俺は……っ」

「……じゃあな。二度とかけてくんな。……もう、俺のことは忘れろ」

「待って! 大和、——!」

 非情な電子音が、プツリと会話を断ち切った。 凪は力なくスマートフォンを取り落とし、冷たい床に崩れ落ちた。

 愛していた。世界で一番、あの大和の不器用な手のぬくもりを愛していた。 
 魂が愛する人と、本能が求める人が、もう一致しない。 その絶望的な矛盾に、凪は声を上げて泣き崩れることしかできなかった。

 *

 退院の日の朝、空は皮肉なほどに澄み渡っていた。

 病院のロビーで、凪はただ一人、パイプ椅子に腰掛けていた。手元にあるのは、病院から支給された紙袋に入ったわずかな着替えだけだ。大和が来るはずだと、心のどこかでまだ信じていた。だが、退院の時間を過ぎても、あの古びた軽トラックのエンジン音が聞こえてくることはなかった。

 代わりに現れたのは、磨き上げられた高級車だった。

 車から降りてきた鷹志は、白く無機質な病院のロビーにそぐわない圧倒的な威圧感を放ち、迷いのない足取りで凪の前へと立った。

「……行くぞ」

 その短く冷徹な命令に対し、凪はピクリとも動かなかった。虚ろな瞳は虚空を見つめたまま、呼びかけに反応する様子さえない。抗う気力は、数日前、受話器越しに大和から「別れよう」と突き放されたあの日、すべて使い果たしてしまった。愛する者に断絶を突きつけられた瞬間、凪の心は音もなく死に絶えたのだ。

 返事のない凪に苛立つ様子も見せず、鷹志は当然のようにその細い身体を抱え上げた。

「……っ」

 不意に浮き上がった視界。鷹志の腕の中から伝わってくる、支配的なアルファの体温と、脳を刺すような雪の香り。 かつてなら、必死に身を捩って拒絶したはずのその抱擁。だが今の凪は、力なく鷹志の胸に頭を預けることしかできなかった。

 大和はもう、助けに来てはくれない。 どんなに叫んでも、どんなに泣いても、あの不器用な「鉄と砂の匂い」が自分を包み込んでくれる日は二度と来ない。


 鷹志のマンションへ向かう車内、凪は窓の外を流れる景色を、死んだ魚のような目で見つめていた。

「……そんな顔をするな。これからは不自由のない生活を約束してやる。汚い荷物はすべて捨てて、新しい服や身の回りのものは、追ってこちらで用意させる。俺の番にふさわしいものをな」

 その声は、どこか優しくさえ聞こえた。だがそれは、手に入れた玩具を飾り付けるような、執着に満ちた言葉だった。


 辿り着いた高層マンションの一室は、広すぎて温度を感じさせない、美しい監禁場所だった。 寝室へと連れて行かれ、広いベッドに座らされる。鷹志は無造作に上着を脱ぎ捨てると、凪の首筋に巻かれた包帯を、一つずつ、丁寧に解いていった。

「あ……」

 外気に触れた項の刻印が、鷹志のフェロモンに反応して熱く疼き出す。

「怯えるな。これからは、誰にも邪魔されず愛してやる」

 鷹志が凪をシルクのシーツへと押し倒した。 

「やめ……ろ……」 

 掠れた声で拒絶を口にする。心は大和を想い、この略奪者を激しく呪っている。 だというのに、鷹志の厚い手のひらが服の下に潜り込み、熱い肌に直接触れた瞬間、凪の身体は残酷なほど素直に震えてみせた。

「……っ、んぅ……!」

 鷹志の放つ「雪の香り」が鼻腔を突き、脳の芯を強制的に痺れさせる。 番の絆に支配された身体は、主であるαの接触を待っていたと言わんばかりに、歓喜の熱を帯びていく。大和に抱かれていたときとは違う、強制的で、逃げ場のない快楽が全身の神経を駆け巡った。

「ほら、見ろ。身体はこんなにも俺を求めている。番の絆からは、死ぬまで逃げられはしない」

 鷹志の冷酷で、けれど独占欲を孕んだ声が耳元で響く。 項の刻印が脈打つたびに、大和の不器用な手の感触が、鉄と砂の匂いが、遠い前世の記憶のように塗りつぶされていく。 凪は、自分を汚しているはずの男の首に、気づけば自ら腕を回していた。

(大和、……大和……っ!)

 心は泣き叫び、引き裂かれそうなほどの痛みに震えている。 だというのに、身体はさらなる侵食を求めて鷹志に縋り付き、熱い吐息を漏らしてしまう。 大和への愛が深いほど、その愛を裏切り続ける自身の属性が、肉体が、ただただ憎い。

 絶望という名の甘い蜜に溺れながら、凪は二度と戻れない、あの琥珀色の夕暮れを思い出し、涙を流した。
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