愛か、運命か(仮)

万里

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 静寂に包まれた高級マンション。凪はその最上階にある、広すぎる寝室で、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 指先で触れるシーツは驚くほど滑らかで、空調は常に凪の体温を最適に保つよう管理されている。ここには生存に必要なすべてがに揃っていた。だが、凪の心は、あのアパートの狭いキッチンに充満していた「少し焦げた鶏肉の匂い」を求めて、餓死しかけていた。

 大和に電話で突き放されてから、数週間が経った。 あの日以来、凪は一度も大和の姿を見ていない。電話をかけても無機質なアナウンスが流れるだけで、二度と繋がることはなかった。

(……大和、会いたい。声が聴きたい……)

 思い出そうとするたびに、最後に投げつけられた「俺のことは忘れろ」という声が、鋭い棘となって胸を深く刺す。

 今の凪は、鷹志が与える贅沢な食事を機械的に口にし、鷹志が選んだ服を身にまとうだけの存在だ。そして夜になれば、彼が放つ圧倒的な雪の香りに、本能という名の鎖で抗えぬまま縛り付けられる。

 心は大和を求めて叫び声を上げているのに、身体は鷹志が近づくだけで甘く疼き、番としての快楽を貪ってしまう。その裏切りが何よりも凪を追い詰め、やがて彼は、自分の意思で動くことをやめた。

 何も考えず、何も望まない。 そうして凪は、ただそこにあるだけの、「人形」へと化していった。



「……また、その顔か」

 背後から低く、冷ややかな声が響いた。 いつの間にか帰宅していた鷹志が、ドアの傍らに立ち、窓の外を見つめる凪の横顔を射抜くように睨みつけていた。仕事帰りの彼は、相変わらず一分の隙もない仕立ての良いスーツに身を包んでいる。だが、凪を見る瞳には、氷のような冷徹さと、ままならない所有物に対する隠しきれない苛立ちが混ざり合っていた。

 鷹志は凪に歩み寄ると、その細い顎を乱暴に掴み、無理やり自分の方を向かせた。

「いつまでそうしている。……いい加減、その被害者のような顔はやめろ。死にそうになっていたお前を、俺が救ってやったというのに。まだ、あの泥臭いβの下へ戻りたいとでも思っているのか?」

「……救ってなんて、頼んでない」

 凪の枯れ果てた声が、静かな室内に響く。その反抗に、鷹志の眉間には深い皺が刻まれた。

 鷹志の手が、凪の細い首筋へと滑り降りる。かつてカラーが巻かれていた場所。そこには、鷹志が刻んだ赤紫色の生々しい刻印が、彼だけの所有物であることを誇示するように沈んでいる。

「お前は俺の運命だ、凪」

 鷹志が威圧的なフェロモンを一段と強めると、凪の意思に反して、身体が内側からじわりと熱を帯び始めた。肺がひきつり、呼吸が浅くなる。

 番の絆は、あまりにも残酷だった。 心でどれほど軽蔑し、激しく拒絶していても、身体は番であるαの刺激を「至上の快楽」として変換してしまう。
 そこには、大和との間にあったような、お互いの弱さを分け合い、寄り添う「心と心の通い合い」など、欠片も存在しなかった。

 凪は、ただ静かに目を閉じた。

 *

「……凪、着替えろ。これから俺の両親に会わせる」

 休日の朝、鷹志が冷淡に告げた。それは、凪を鷹志の「番」として正式に披露するための、事実上の顔合わせだった。

 連れて行かれたのは、老舗の高級料亭だった。手入れの行き届いた庭園を望む個室で、凪は借り物のような高級なスーツに身を包み、置物のように座らされていた。

「父さん、母さん。紹介します。俺の運命の番、凪です」

 鷹志が誇らしげに、けれどどこか事務的に告げる。 

「凪さん、初めまして。鷹志がお世話になっているわね」 

 母親の言葉に、食事会という名の「儀式」が始まった。

「式は来年の吉日に。身内だけで済ませるつもりですが……」 
「ああ、わかった。凪さんも、これから大変だろうが……」

 凪の頭上で、自分を置き去りにしたまま「幸せな結末」への計画が着々と進んでいく。目の前には、目にも鮮やかな懐石料理が並べられた。だが、銀色に光る椀物も、繊細な出汁の香りも、今の凪には胃をかき乱すだけの異臭にしか感じられなかった。

(……大和と、スーパーの半額の惣菜を、笑いながら食べたのに)

 ふとした瞬間に、あの狭くて温かいキッチンが脳裏をよぎる。100円で買ったお揃いの皿やマグカップ。そんな、鷹志の世界には存在しないはずの「安物」の断片が、今の凪には何よりも眩しく、愛おしい。

 あのアパートで過ごした時間は、運命なんて言葉では片付けられない、二人の積み重ねだった。それが今、この美しい料理や「運命」という冷たい響きに上書きされようとしている。

 胸の奥からせり上がる、酸っぱい後悔と絶望。 

「……凪、どうした。食べないのか」 

 鷹志の声が飛ぶ。凪は無理に箸を動かそうとしたが、指先が激しく震えて止まらない。 目の前の料理が歪んで見え、ついに凪は口元を押さえて青ざめた。

「……っ……すみません、少し、気持ち悪くて……」

 凪は青ざめた顔で口元を押さえ、絞り出すようにそう告げた。 鷹志は露骨に不快そうに眉を寄せたが、静かに様子を窺っていた母親が、穏やかな仕草で立ち上がった。

「顔色が悪いわね。少し、あちらの部屋で休んではどう? 手配するわ」

 案内されたのは、廊下を挟んで隣にある静かな和室だった。 凛とした空気の中に、ほのかに焚かれた香の匂いが漂っている。母親は凪を座らせると、心配そうに顔を覗き込んできた。

「大丈夫? 何か、苦手な食材でもあったかしら。無理をしなくていいのよ」

 その慈愛に満ちた、温かい声。 鷹志の冷徹な支配でも、大和を失った絶望的な孤独でもない、心に寄り添うような優しさに触れた瞬間、凪の中で堰き止めていたものが一気に決壊した。

「……っ、……う、……」

 凪の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと畳にこぼれ落ちる。一度溢れ出した涙は止まることを知らず、凪はスーツの袖を握りしめたまま、声を殺して泣き続けた。

「……どうしたの? 鷹志と何かあったの? 喧嘩でもしたかしら」

 母親は凪の背中にそっと手を添え、優しく撫でる。彼女はポケットから柔らかな刺繍の施されたハンカチを取り出した。

「……これを、使って。せっかくの綺麗な顔が台無しよ」

 差し出されたハンカチは、清潔な石鹸のような香りがした。凪がそれを震える手で受け取り、目元を熱く腫らしながら涙を拭うのを、母親はただ黙って見守っている。その沈黙は、凪を急かすことも責めることもない、静かな抱擁のようだった。

 鷹志の両親は、何も知らないのだ。 この繋がりが、一人の男の献身的な犠牲と、一人のΩの絶望の上に築かれようとしていることなど。彼らはただ、息子が「運命の番」を見つけてきたことを純粋に喜び、凪を新しい家族として心から歓迎してくれている。その一点の曇りもない善意が、かえって凪の罪悪感と悲しみを深く抉った。

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……っ」

 謝ることしかできなかった。 
 本当のことなど、口が裂けても言えるはずがなかった。 それを言ったところで、凪の帰る場所もないと言うのに。

「謝らなくていいのよ。きっとまだ、番になったばかりで、不安や葛藤があるのでしょう?食事は無理をしないで、ゆっくりと休んでいなさい」

 母親は凪の震える肩を一度だけ優しく抱くと、凛とした足取りで部屋を後にした。その温かな感触が、絶望に凍りついていた凪の心に、小さな、けれど消えない波紋を残していった。


 母親が席に戻ると、そこには落ち着いた様子の鷹志の姿があった。

「凪は……?」

 鷹志の問いに、母親はすぐには答えなかった。静かに自分の席へ座り、息子を正面から見据える。

「……鷹志、何があったのか正直に話しなさい。凪さんのあの様子、ただ事ではないわよ。一体、どういう経緯で番になったの?」

 母親の射抜くような鋭い視線に、鷹志はわずかにたじろいだ。

「……偶然出会い、番になった。それだけのことです。何の問題もない。運命の番というものは、本来そういうものでしょう? 身体が、本能が選び合うものだ」

「鷹志」

 母親の声が、深く低く響いた。その響きには、息子の浅はかさを嘆くような響きが含まれていた。

「運命の番というのは、ただの『きっかけ』に過ぎないの。そこからどんな関係を築くか、どう心を交わして愛を深めていくかは、二人で長い時間をかけて作っていくものなのよ。番になるだけで完成する愛なんてないの」

「……何が言いたいんです。俺はあいつを救い、この上ない生活を与えている。不自由など何一つさせていません」

「あの子の目を見たの? 今にも壊れてしまいそうな、悲鳴を上げているような目を。無理やり番の形だけを押し付けて、あの子の心を置き去りにしていない?きちんと話をしているの……?」

 沈黙を守っていた父親も、静かに杯を置き、重々しく口を開いた。

「鷹志。番を大切にするというのは、物や力で屈服させることではない。凪さんには、お前には言えていない不安や、迷いがあるんじゃないのか。お前は、凪さんという一人の人間と向き合い、その声を聞こうとしているのか?」

「…………」

 両親からの予期せぬ言葉に、鷹志は初めて言葉を失った。 彼にとって番とは、出会った瞬間にすべてが解決し、相手は自分に惹かれ、自分の色に染まっていく「完成された運命」のはずだった。

 だが、脳裏をよぎるのは、マンションの窓際で死人のように座り込む凪の背中。自分に抱かれながら、決して名前を呼ばない凪の唇。 日に日に光を失っていく凪の姿を思い出し、鷹志の胸の奥に、得体の知れない不安と、鋭い痛みが芽生え始めていた。



 マンションに戻ると、 静まり返った寝室で、凪はベッドの一角に身を潜めるように横になっていた。鷹志は、いつもなら有無を言わさずその細い体を抱き寄せるはずだったが、今夜はただ、凪の数歩手前で足を止め、その視線が上がるのをじっと待っていた。

「……凪。何か言いたいことがあるのか?お前はこれ以上、何を望んでいる?」

 凪はゆっくりと顔を上げた。

「……望みなんて、一つしかない。大和のところに帰して」 

「それは叶わないと言ったはずだ。……何度も言わせるな。あのβは、お前を捨てた。自分からお前を手放したんだ」

「捨てさせたのは、あんただろ……っ!」

 凪の声が、悲鳴のように震え、空気を裂いた。 

「大和は……大和は、俺がΩだって知っても、一度も俺を『道具』みたいに見なかった。俺のことをちゃんと見てくれて、愛してくれた……俺も、大和を、……っ!」

 凪の叫びが、広すぎる寝室に虚しく響き渡る。 鷹志の拳は、指の関節が白く浮き出るほどに強く握りしめられていた。血管の浮いたこめかみが、怒りと困惑で小さく脈打つ。

「……運命の番である俺よりも、本能が選び合ったこの俺よりも、あんな持たざるβがいいと言うのか。お前を救う力すら持たない、あの男が」

「運命なんて、いらない……。そんなもの、欲しくなかった。お願いだから、俺を……俺を大和のところに帰して……っ」

 凪は顔を覆った。溢れ出す涙が指の間からこぼれ、シーツを濡らしていく。 鷹志はその小さく震える背中に向かって、無意識に手を伸ばしかけた。触れて、抱き締め、自分のフェロモンでその記憶ごと塗りつぶしてしまいたかった。だが、その指先は――触れる直前、空中で不自然に止まった。

 愛している。手に入れた。番として、運命の筋書き通りに。 なのに、どうしてこれほどまでに胸の奥が空虚なのか。 名もなきβが凪に与えた「愛」。それがどれほど深く凪の魂に根を張り、自分という存在を拒絶させているのか。鷹志は今、両親の言葉が脳裏をかすめる中で、その残酷なまでの真実を突きつけられていた。

「……もう寝ろ」

 鷹志はそれだけを絞り出すように言い残し、凪に背を向けて書斎へと籠もった。 深い暗闇の中、鷹志は独り、凪の言葉を何度も反芻する。

 完璧な「番」になりたかった。両親のような、幸福な関係を築けるはずだと信じていた。 けれど、自分が今していることは、愛する者を牢獄に繋ぎ止め、その心を少しずつ殺していく行為ではないのか。
 鷹志の心の中に、鉄壁だったはずの自信に、初めて「迷い」という名の深い亀裂が走り始めていた。

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