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第一幕 人形令嬢の一人舞台
ドロフォノス一家の夜
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「面倒だねえ。早く決着をつけてしまえばいいのに」
ディフェットは鼻を鳴らした。給仕の持ってきたワインを、自分でグラスにドボドボ注ぎながら続ける。
「亡き王妃サマの故国がなんと言おうが、教会の化石連中がどうごねようが、とっとと茶番を終わらせればいい。そうすれば、あとは『王陛下のおっしゃる通り』さ」
ドロシーはスープをすくう手を止めた。
「そうすんなりといかないのかもしれませんわ。クラウィスと教会だけでなく、王弟殿下もいらっしゃいますもの。あの方もクロッド殿下を王太子に推挙するおひとりです」
「そうだった。北領地に引っ込んでる蛇公爵にはご用心。だけど彼はただの聖女信奉者だろ。婚約者殿が王サマに向いてないって分かれば、いい加減諦めるさ」
「……向いていないかどうかは、分かりません」
「?さっきからどうしたんだい?なにをムキになってるの?ドロシーは婚約者殿に王太子になってほしいのかい?そんなのありえないだろ?」
ディフェットは不思議そうに妹を見つめた。
「クロッド・イグルーシカは、王太子になれない。最初からそういう話だったじゃないか、ドロシー」
ドロシーは美しい柳眉を寄せる。
そうだ。そんなこと分かってるのに、自分はなにを言っているんだろう。彼は始めから王太子になどなれないのだ。それどころか王陛下の言う通りにするならば――
ふとマージン家の舞踏会で、自分の姿を見つけた瞬間のクロッドが脳裏をよぎった。
『どうして、まだここにいるんだ』
彼は、そういう顔をしていた。
招待状に「ふたりで来て」とあるのだから、ドロシーが出席しているのは当たり前のことなのに本気で驚いていた。彼はドロシーが『もう会場にいない』『既に帰っている』と確信していたのだ。――はたして、誰がなんのためにそんなことを彼に教えたのか?
ドロシーは、喉の奥で唸る。
おもむろに子羊の骨付きローストを掴み、そのまま勢いよく噛み千切った。香ばしい身を裂き、腱を剥がし、きれいに骨だけを残して皿に投げ捨てる。唇の端から肉汁が滴るのをぐいと手の甲でぬぐった。
「どうしましょう、お兄様。わたくしはもうこの舞台から降りたくなってまいりました」
「だろうね。ちょっと下稽古が長すぎたのさ」
夜の静寂を縫って、馬の嘶きや車輪の音が聞こえてきた。
「いいときにお帰りになった」
ディフェットが立ち上がり、北側の窓を大きく開く。
外はいつの間にか冷たい雨が降って、肌を突き刺すような夜気が食堂の蝋燭や暖炉の火を激しくゆらめかせた。突風が耳元を掠め、ドロシーの髪を舞い上がらせる。
「おかえりなさい。父さん、母さん」
ディフェットは窓を閉め、ドロシーの座っている黒樫の重厚な食卓、その一番奥の席を振り返った。さっきまでは誰もいなかった席。しかし、今は赤々と燃える暖炉を背景に、奥の席には男が、ドロシーの隣には女が座っていた。
男――ドロフォノス侯爵は、びしょ濡れの円筒帽子とマントを着たまま、椅子に悠々と腰掛けている。火の消えたパイプをくわえ、大げさな身振りで両手を広げた。今夜も大変ご機嫌な様子で、口髭も先までピンと跳ね上がっている。
「ただいま!ドロシー、ディフェット!ふたり揃ってお出迎えとは嬉しいね!」
夫と共に窓から入ってきたドロフォノス夫人は、こちらも優雅に座って、黒い日傘をくるりと回し食堂に雨粒をまき散らす。社交界で『慈母の微笑』と呼ばれる完璧な笑みを浮かべて。
「ひょっとして、なにか悪巧みかしら?可愛い子供たち」
「ええ、ご相談が」と、ドロシーが頷いた。
「わたくしの婚約についてなのですが――」
父侯爵は、気取った仕草で指を鳴らす。
「ああ!実はちょうどその話をしようと思っていたんだ!ドロシーの婚約――というか、それに付随する本契約についてなんだが、どうやら先方の都合で不履行となりそうなんだよ!」
ドロシーは目を瞠る。
「不履行、ですか?」
「残念ながらね。そこで改めて確認しておきたい」
侯爵は身を乗り出して、呆然と見開かれた愛娘の瞳を覗き込む。
「これから、ドロシーは――――どうしたい?」
ディフェットは鼻を鳴らした。給仕の持ってきたワインを、自分でグラスにドボドボ注ぎながら続ける。
「亡き王妃サマの故国がなんと言おうが、教会の化石連中がどうごねようが、とっとと茶番を終わらせればいい。そうすれば、あとは『王陛下のおっしゃる通り』さ」
ドロシーはスープをすくう手を止めた。
「そうすんなりといかないのかもしれませんわ。クラウィスと教会だけでなく、王弟殿下もいらっしゃいますもの。あの方もクロッド殿下を王太子に推挙するおひとりです」
「そうだった。北領地に引っ込んでる蛇公爵にはご用心。だけど彼はただの聖女信奉者だろ。婚約者殿が王サマに向いてないって分かれば、いい加減諦めるさ」
「……向いていないかどうかは、分かりません」
「?さっきからどうしたんだい?なにをムキになってるの?ドロシーは婚約者殿に王太子になってほしいのかい?そんなのありえないだろ?」
ディフェットは不思議そうに妹を見つめた。
「クロッド・イグルーシカは、王太子になれない。最初からそういう話だったじゃないか、ドロシー」
ドロシーは美しい柳眉を寄せる。
そうだ。そんなこと分かってるのに、自分はなにを言っているんだろう。彼は始めから王太子になどなれないのだ。それどころか王陛下の言う通りにするならば――
ふとマージン家の舞踏会で、自分の姿を見つけた瞬間のクロッドが脳裏をよぎった。
『どうして、まだここにいるんだ』
彼は、そういう顔をしていた。
招待状に「ふたりで来て」とあるのだから、ドロシーが出席しているのは当たり前のことなのに本気で驚いていた。彼はドロシーが『もう会場にいない』『既に帰っている』と確信していたのだ。――はたして、誰がなんのためにそんなことを彼に教えたのか?
ドロシーは、喉の奥で唸る。
おもむろに子羊の骨付きローストを掴み、そのまま勢いよく噛み千切った。香ばしい身を裂き、腱を剥がし、きれいに骨だけを残して皿に投げ捨てる。唇の端から肉汁が滴るのをぐいと手の甲でぬぐった。
「どうしましょう、お兄様。わたくしはもうこの舞台から降りたくなってまいりました」
「だろうね。ちょっと下稽古が長すぎたのさ」
夜の静寂を縫って、馬の嘶きや車輪の音が聞こえてきた。
「いいときにお帰りになった」
ディフェットが立ち上がり、北側の窓を大きく開く。
外はいつの間にか冷たい雨が降って、肌を突き刺すような夜気が食堂の蝋燭や暖炉の火を激しくゆらめかせた。突風が耳元を掠め、ドロシーの髪を舞い上がらせる。
「おかえりなさい。父さん、母さん」
ディフェットは窓を閉め、ドロシーの座っている黒樫の重厚な食卓、その一番奥の席を振り返った。さっきまでは誰もいなかった席。しかし、今は赤々と燃える暖炉を背景に、奥の席には男が、ドロシーの隣には女が座っていた。
男――ドロフォノス侯爵は、びしょ濡れの円筒帽子とマントを着たまま、椅子に悠々と腰掛けている。火の消えたパイプをくわえ、大げさな身振りで両手を広げた。今夜も大変ご機嫌な様子で、口髭も先までピンと跳ね上がっている。
「ただいま!ドロシー、ディフェット!ふたり揃ってお出迎えとは嬉しいね!」
夫と共に窓から入ってきたドロフォノス夫人は、こちらも優雅に座って、黒い日傘をくるりと回し食堂に雨粒をまき散らす。社交界で『慈母の微笑』と呼ばれる完璧な笑みを浮かべて。
「ひょっとして、なにか悪巧みかしら?可愛い子供たち」
「ええ、ご相談が」と、ドロシーが頷いた。
「わたくしの婚約についてなのですが――」
父侯爵は、気取った仕草で指を鳴らす。
「ああ!実はちょうどその話をしようと思っていたんだ!ドロシーの婚約――というか、それに付随する本契約についてなんだが、どうやら先方の都合で不履行となりそうなんだよ!」
ドロシーは目を瞠る。
「不履行、ですか?」
「残念ながらね。そこで改めて確認しておきたい」
侯爵は身を乗り出して、呆然と見開かれた愛娘の瞳を覗き込む。
「これから、ドロシーは――――どうしたい?」
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