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◇ 第壱話:匣ノ怪 ◇
【 第二幕 】2/3
しおりを挟む物の見事に。どこもかしこも、文献と紙束で溢れ返っている。とっちらかった研究室内をぐるりと見渡すと、何度目かの溜息を漏らす。
広いはずの作業机の上にまで、所狭しと並んだ本の山。作業机だから文献の置き場所にするのは、本来の用途に合っている。だが、しかし。その文献を広げて見る、肝心な作業ができなくてどうするのだ。
机の端から半ばはみ出した、積み重ねるだけ積み重ねた不安定な本と紙の塊。脇を通る途中で、余所見でもしてぶつかったのか。床に散乱したまま放置され続けた印刷物は、とっくに順番など分からなくなっている。
何も考えず印刷をして、使い終わったら適当に積み上げるのが得意技の朝香のことだ。生命の危機に晒されない限り、片付ける気など毛頭無いだろうから、散らかれば一生そのままになる。
床に埋もれかけた本の一冊を取り上げた拍子に、間に挟まっていたらしい用済みとなったコピー用紙がバサバサと落下して足元で舞う。
いい加減にしてくれ。この状況を作り出したのが友人であれば、問答無用で背中から蹴り飛ばしていた。
無言で天井を仰ぐと、長々とした嘆息が零れた。ただでさえ底を尽きそうなやる気は、補充した矢先から余すところなく塵と化していく。
「……まるで女版・坂口安吾だな」
「ぶはっ……正確すぎか」
辟易として思わず呟いた本音が刺さったのか、間髪入れず春樹が真横で吹き出す。
笑い死にするんじゃないかと思うくらいの勢いで声を上げて笑っている春樹に、集中力が三分も続かない朝香が首を伸ばして此方を見遣る。
「……おい、そこの男子二人。今、絶対悪口言ったな?」
「言ってません、言ってません」
「お前の友人。壊れかけの人形みたいに笑っているが?」
「いつもです」
一周まわって、もはや褒め言葉だ。あのとっちらかった自室で、白紙の原稿用紙にペンを走らせていた文豪の名前が即座に浮かぶほど、この研究室は荒れている。
散らかり放題の部屋の真ん中で平然とした顔をして写真を撮られている文豪と、かたや文献と複写資料の山に囲まれても平気な顔をしている教授。
いっそのこと、現代の坂口安吾とでも呼んでやりたいくらいだが、間違いなく春樹の息の根を笑いで止めることになる。
研究室に布団や食べ物を持ち込んでいないから、まだ救いの余地がある。布団に殺虫剤を撒いて使っていたと伝説の残る彼より、数十倍マシだ。
そうは言っても。所詮部屋の汚い者同士、どちらも比べ物にもならない。少しは潔癖症で有名なかの文豪、泉鏡花の性格を手本とすべきだ。百歩譲って、あそこまで潔癖を発揮させなくて良いから、せめて最低限の部屋の片付けくらいできるようになってくれ。
「うん。我ながら、上手いこと言ったと思った」
「蒼波、お前覚えとけよ。朝から何回俺を笑わす気だ?」
「春樹が笑い上戸なだけだろ」
「今なら箸が転がっても笑う自信ある」
「とりあえず、落ち着け」
一呼吸の休息を挟んだ後。自分自身を落ち着かせるように、笑い混じりの息をひとつ吐いた春樹が足元でしゃがみ込んだまま、思い出したかのように視線を上げる。
「…………」
「なんだよ」
「いや。平気なのかなって、ふと思ってさ」
いったい何のことだ、まったく分からん。物言いたげな焦茶色の瞳から向けられる視線を受け止めたものの、まるで意図を理解できないせいで妙な空気が流れる。
瞬きが繰り返されるにつれて、次第に呆れ返った表情になっていく友人の言わんとしていることが読み取れず、無言で眉を寄せたまま困惑した視線を返すだけの俺は、想像以上に鈍かった。
「……何が?」
「古い本。なんか沢山増えてっけど。大丈夫なの?って話」
おかしい。この友人とは、随分と長い付き合いだったはずなのだが。何一つ言いたいことを理解できなかった俺に、拾い集めた大量の重い本を片手で抱えつつ、本棚に収めていく春樹が気の抜けた声で問う。
「ある程度。こっちで調節できるから大丈夫」
「……ふーん」
ああ、なるほど。曖昧にされた言い方のせいで、過去一で察しの悪さを晒してしまった。大丈夫だと告げたにも関わらず、言ったことをまるで信用していないと云わんばかりの疑うような返事に、苦々しい顔になる。
人非ずモノが視えることに加えて、俺はモノの記憶を視ることができる。いわゆる、サイコメトリーの一種を持っている。
心霊考古学におけるステファン・オソヴィエツキーのような、モノの過去を見通すことのできる透視能力を想像してもらえると分かりやすいかもしれない。
触れれば全部、モノが辿ってきた過去が分かるのか。そう聞かれたのならば、その答えは否だ。最初に断っておくが、全部が全部過去を見通せる訳じゃない。
視えることの延長線上にあるだろう気まぐれな能力に関しては、完全に人非ずモノが視えることの弊害だと俺は思っている。その時の調子によって、古いモノを触っても視えるモノと視えないモノがある。
そもそも。まったくの不意打ちで強制的に記憶が流れ込んでくるなんて、色々と制御できていないにも程があるだろう。
重ねて手に持った、大量の文献類に視線を落とす。うっかりアタリを引くと、残留思念の強さに俺の方が押し負ける。微塵も信用ならないと隠した本音がダダ漏れな視線を投げてくる、春樹の手を煩わせたことは果たして幾度あったか。頭の中で数えかけて、途中で放棄した。
唯一の回避方法はモノを触らないの一言に限るが、そんなことをしていては生きていけない。時には人生、諦めも必要なのだ。ぶっ倒れたら、その時考えればいい。
「それに。梨子居るし」
長い黒髪をシンプルにハーフアップにした、梨子の小柄な後ろ姿を振り向きざまに見遣る。地獄耳の朝香と違って、黙々と散らばった紙を集めている当人の耳には、まったく此方の話し声など耳に入っていないらしい。
由緒ある上溝桜神社の娘であり、生粋の巫女。
名の知れた大きな神社の一人娘なだけあって、箱入り娘なのかと思いきや。ちょっとどころか大分抜けたところのある父親のせいで、その性格は母親に似て随分しっかりしている。
毎朝毎夕と祝詞を唱えて、神社の石畳をほうきで掃き清める。普通の人間であれば、途中で投げ出しそう面倒なことを毎日の日課としている恩恵なのか。梨子の放つ陽の気は、とにかく凄まじい。
「あ、分かったぞ! 蒼波も祝詞唱えれば良いんじゃねえの?」
俺、めっちゃいい提案した。瞳を輝かせて俺を見てきた春樹の後頭部を流れに任せて、持っていた本の角でうっかり殴りつけるところだった。
そんなことで物事が解決するくらいなら、とっくの昔に俺は平和な生活を送っている。なにしろお祓いに行った先で、坊主に門前払いされたレベルだ。大人に見捨てられたあの時から、俺は一人でどうにかしてやるのだと心に誓った。
「俺が噛まずに言えるようになるまで、数ヶ月はかかる。更に暗記して空で言えるようになるまで、何年かかるやら。結論、塩ブン投げてた方が早い」
「いや、だから。物理すぎてビビるわ」
祝詞を唱えて、身も心も清浄に。格好から入るくらいなら、とりあえず行動に移して実践スタイルの俺には、一番似合わない言葉だろう。
自分で言うのも悲しくなるが、俺が陽の気を発することは限りなくゼロに近い確率で不可能だ。試してみてもいいが、数ヶ月どころか数日のうちに諦める未来は目に見えている。
俺がダイソン掃除機も顔負けの勢いで、陰の気を引き寄せるとすれば。梨子はそれを上回る業務用の空気清浄機並みに、陽の気で隅から隅までさらって綺麗にしていく。
彼女が傍に居ると、低俗なヤツらはまず視界に入らない。鈍臭いヤツらは彼女の放つ陽の気に染められて、片っ端から消し飛ばされる。そうでなければ、巻き添えを食らう前にその場を逃げ出しているか。
それでいて稀に彷徨いているヤツらは、極めて近寄らない方がいい類いのモノだと、俺は勝手に思っている。正しいか正しくないかは分からないが、そう考えておけば怪我はしないはずだ。
「上水に感謝だな」
「梨子と出会ってなかったら、俺の大学生活はこんなに平和じゃなかった気がする」
両極端の方向に振り切れたスペックを持つ俺たちは、常々お互いの個性で戦っているようなものだ。きっと周りの人間も視える目を持っていたのならば、さぞかし面白い状況ができあがっていることであろうと俺は思う。
兎にも角にも。俺の平穏無事な大学生活が守られているのは、入学式初日に偶然出会った梨子の功績が大きい。
もっとも。本人は毎回貧乏クジを引くような相手の尻拭いをさせられているなど、よもや思いもしていないはずだ。
梨子自身。何か特別なことをしようと思って、行動している訳じゃないのは分かりきっている。だが、たとえそうであったとしても。内心拝み倒したくなるほど彼女の存在が有難いのは、揺るぎない事実だ。
「よっしゃ。この本棚、終わった」
「……なら、そっちは任せる。掃除が終わったら、奥の方片付ける」
だいぶカーペットの床が見え出したと云っても、一息吐くにはまだ早い。混沌とした部屋の入口から三人それぞれ地道な作業を着々と進めて、やっとこさ研究室の真ん中まで更地になったのだ。
依然として、広い机の上には文献の小山が形成されたままだし、わずかな隙間を埋めるように適当に重ねただけで一切選別のできていない紙束も置かれたままだ。それに加えて、古紙の回収日と間違えられそうな勢いで、部屋から追い出しただけの文献類が廊下には放られている。
それでも、誰がどう見たって。入ってきた時に比べれば、格段に部屋は片付いた。何度も片付けを手伝わされる羽目になったせいで、こうして春樹と喋っていても作業の手が緩まないくらいには、その手際は速くなっている。
「千鹿谷くーん。そっち終わったら、こっち手伝ってほしい!」
「ほいほーい! 今行く!」
仕上げとばかりにモコモコとしたハタキで本棚の埃を払う背後で、梨子の呼び掛けを受けて春樹が踵を返した。下の段ならともかく、梨子の背丈では踏み台が無ければ上段は手が届かない。
俺も大概背の高い部類に入るが、春樹はその俺よりも更に長身だ。長年バスケをやっているせいもあるだろうが、彼ならこの部屋の何処かに埋もれた踏み台を使わずとも、高い本棚の天板にだって余裕で手が届く。
「ちょっと千鹿谷くん!」
「あー、スイマセン。丁寧にやらせていただきます」
渡される本を本棚の上段へポイポイ収めるせいで、隣に立った梨子が膨れる。手つきが雑だと怒られる春樹の姿に、バレないように顔を逸らして吹き出す。
一般的な女子の身長よりも少しだけ小さな梨子と並ぶと、二人の身長差は歴然としている。そんな彼が怒られて肩を竦めて小さくなる様には、思わず笑わずにはいられなかった。
「ちょっと、朝香先生。これ、使うんですか?」
「んー……それは使わん。そっちも多分使わんと思うが。いや、やっぱり使うかもしれんなぁ」
「はあ……栞代わりに紙挟んで、手前に置いときます」
「毎度毎度、気が利く奴だ」
予想はしていたが、机の後ろにも文献が散らばっていた。座った朝香の半径三十センチ以内の空間が無事であるのは、回る椅子で轢かないようにするためだろう。辛うじて確保された空間が憎い。
どうしてこちら側をやるなど、言い出してしまったのか。数分前の自身の発言を早くも悔やむ。
竜巻でも発生したかのような惨状を引き起こしている机周りに、これを片付けるのかと逃げたくなって目頭を押さえる。しかも厄介なのは、中途半端な開き方をして伏せられている本だ。机の上から転がり落ちたら、きっとこんな風な開き方になる。
机の上が一杯になってしまった。さあ、どうするか。しかしながら、片付けるのは面倒だ。ならば、手っ取り早く床に置けばいい。
朝香 祊と云う人間は、基本そういう思考だ。自分のしている作業に並々ならぬ支障が出なければ、いくら部屋が汚くなろうとも、まるで厭わない。
こうして本人が椅子に座ったまま、どんどん床に投げ落としていくせいで、その範囲が拡大していく。そうこうしているうちに、あっという間に文献だらけになって、爆発する部屋の出来上がりだ。
開いた本の類には、下手に手を出したくない。特に何も考えずに閉じた本が、今書いている論文で使っていた本だった。取り返しのつかないことになるくらいなら、念入りすぎるくらいがちょうどいい。
締切間近に、引用元が書き抜かっていることが判明した。だが、文献の出典が分からない。そんな悲しい事件は、二度も起こっては堪らない。
俺にとっては、ある意味。そこら辺をウヨウヨする変なモノを目にすることより、恐ろしい出来事だと思う。
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