世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜

山口三

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2 人生最悪の日2

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「お母さん?」

 舞子は目にたっぷりと溜まっていた涙がこぼれないように手の甲でさっと拭いながら、もう片方の手でドアを開けた。

「はい、どうも~」

 ドアの前に立っていたのは数人の男。皆、背が高くスーツを着ているがネクタイは締めていない。両親だと思っていた舞子は狼狽え、表情が強張った。この悪夢はまだ続くの?

「上田さん?」
「はい、そうですけど……」

 舞子が返事をすると男達はずかずかと部屋に入ってきた。

「えっ、ちょ、ちょっと何ですか!」

 慌てて先頭の男を追いかけると男は両手を広げてにやりと笑った。

「お姉さんがドアを開けてくれたんだからね。不法侵入じゃあありませんよ~」

 先頭の男――ひときわ背が高くガタイのいい――は書類ケースを持った男に合図した。その男は書類ケースから茶封筒を取り出し、無言で舞子に手渡した。

「それ、借用書ね」
「借用書?」

 戸惑いながら舞子は封筒の中身を確認する、何枚もの借用書に舞子の名前が書かれ拇印が押印されていた。金額はばらばらだが五十万以上の物が多く、中には百万を超える借用書もあった。

「私、こんなの借りた覚えはありません」

 舞子は封筒を書類ケースの男に返そうとしたが、その手は震えている。嫌な予感がした、そんな筈はないと思いながらも思い当たる節が幾つもある。朝起きた時に赤く汚れていた自分の指、両親ともろくに働いていないのに派手な生活をしていた。その費用は一体どこから……。

「でもねぇ、お姉さんは上田舞子さんでしょ?」
「そ、そうですけど」

 舞子に話しかけている背の高い男、三十代半ばくらいで整った顔立ちをしているが、その表情は冷たく、蔑むように舞子を見下ろしていた。部屋に入って来た三人のうちでは一番偉そうだ。その男はため息をつきながら肩をすくめた。

「あんたに覚えはなくても取引の事実はあるんだ。だから返済して貰わないと」

 それから室内を見まわして同情の視線を舞子へ送った。

「親御さんたちは早々にとんずらしたみたいだねぇ。これじゃあ売る物もないわな」

 もう一人の男はうろうろと室内を歩き回り、あちこち部屋のドアを開けて確認している。「山崎さん、何もないっすね。ほんと空っぽですわ」

「まぁ、先月分は払ってもらってるから今月分よろしくね。それと……」

 その山崎と呼ばれた男は舞子にぐっと近づいて、囁くように言った。その声音は今までと打って変わってぞっとするような冷たい声だった。

「自己破産とかさ、弁護士たてようとか考えない方がいいよ。そういう素振りがあったらこっちも手を打つから」

 山崎はもう一度書類ケースの男に目配せした。

「海外での市場が大きいです、特に東アジアの大国。臓器は色々と需要がありますから」

 スマホを繰りながら感情の無い声で淡々と男が述べる情報は、やけに信憑性が高く感じられた。借金から逃れようとすれば殺されるってことか。

 舞子に覆いかぶさるようにしていた山崎が体を起こした。

「脅迫じゃないからさ、ただの世間話。そういう最悪の事態になる前に、こっちも仕事紹介したりするから安心してよ」

 山崎の表情はまた柔和になった。そして胸の内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜き取ると茫然としている舞子の手に握らせた。

「信じられないって顔してるけど、頼んだよ。二十六日にお金取りに来るからね」

  山崎達が出て行ったあと、舞子は自分の部屋へ戻った。ベッドがあった場所にへたり込むとまた涙が浮かんできた。もう六月だというのに床は冷たく、心臓まで凍り付きそうだ。

「私は捨てられたんだ……」

 口に出した途端、内臓を鷲掴みにされたような苦しみに襲われ顔が歪む。膝に顔をうずめて、舞子は泣き続けた。

 確かに優しい両親ではなかったかもしれない。舞子にあまり関心がなく、放任されていたのも事実だけれど、借金を背負わされた挙句捨てられるほどとは思わなかった。兄妹もなく、親戚に会ったこともなく、自分が頼れるのは父と母だけだったのに。

 借金、幾らあるんだろう。涙でぐしょ濡れになった顔を拭こうともせず、茶封筒に手を伸ばす。借用書の他にも毎月の返済額が書かれた紙も入っていた。今月分は十八万! 十八万?! ウソでしょ……。

 血の気が引いた。慌てて自分のバッグをひっくり返して小型のポーチを取り出し、中から銀行の通帳を一冊取り出す。クローゼットにしゃがみ込み、羽目板を外すと隠してあった印鑑を取り出した。よし、通帳の届出印はある、残高を確認しないと。

 外出時、自分の持ち物はなるべく身に着けて出かけるようにしていた。一度、学校へ行っている間にノートパソコンを売られてしまった事があったからだ。舞子の荷物がいつも多いのはそのせいだった。

 それに両親に内緒で貯めておいたお金。あの時、事務所の人にアドバイスされた通りにしておいて本当に良かった。

『舞ちゃん、個人的にもらったお年玉やお小遣いはこっそり貯めておいたらいいよ。お母さんに渡しちゃいけない』

 スマホで預金の残高を確認する、百二十万と少し。これじゃあ半年もしないうちに底をついてしまう。バイト! バイトをしなきゃ。大学も通う時間が取れないかもしれない、休学した方がいいのだろうか。家賃は? もっと安い所へ引っ越さないと。引っ越すにしても最低限の家電や家具も揃えないといけない。

 考えることが多すぎて頭がパンクしそうだった。今日は色々あり過ぎた、舞子は疲れてへとへとだった。

「もういいや、今日は寝よう」


 翌朝、床で寝たせいで体のあちこちが痛んだが、いつも通りの時間に起きて学校へ行く支度を始めた。

 水は出る、電気も来てる。トイレに残されていたハンドソープで全身を洗い、Tシャツをタオル代わりにする。ドライヤーもないからよく拭いた後はまとめ髪にした。少し早いけど、もう出かけよう。玄関のカギを掛けながら舞子は自嘲気味な笑いを浮かべた。盗まれる物なんてないのに。


 大学の事務所に通じる棟の入り口にはカフェテリアがある。時間的にまだ利用している学生は少ないが、その中に美奈の姿を見つけた舞子は、少し気持ちが明るくなるのを覚えた。そうだ、美奈に相談しよう。休学のことやバイト、松島先輩のことも。

「いやあ、ほんと傑作だったね。よく美奈の言う通りにしたもんだよね」
「まさかホントにラブレター書くとは思わなかった。昭和かよ、って」

「内容も昭和だって! 『誰にでも優しい松島先輩を尊敬しています』とか書いてあったぜ」

 美奈は三人で会話していた。向かい側には同期の横井聖美、そして舞子が立っている位置からは見えないが、聖美の隣はたぶん松島先輩。

 松島先輩は意外と堅実で古風な女性が好きだから、手紙を書いてみたらいいかもしれない。そうアドバイスしたのは美奈だった。

「蒼太は私のものなのにぃ~手を出そうとするからよ」
「誰がお前のものなんだよ」

「でも楽しかったでしょ? ちゃんと、『告白されて戸惑う先輩』って演技してたしね。ははっ」

 そっか、先輩は聖美と付き合ってたのか。美奈と聖美は高校の同級生らしい。私は……騙されたのか。

 聖美が私の気持ちを不快に思うのは分かる。だけど美奈はなんで私にそんな仕打ちをするの? それだけは知っておきたいと、舞子はカフェテリアに踏み入った。

「うわ、やばっ」

 正面の美奈がすぐ舞子に気づいた。続いて聖美も松島先輩も振り返る。驚きと気まずそうな顔。

「美奈……動画を撮ったのも美奈なの?」

「そ、それは……違う。ただ、ちょっとふざけただけ」美奈は言い訳じみた声を漏らす。

「どうして美奈は私にこんな事するの?」舞子の声には戸惑いと悲しみが混ざっていた。

「はぁ? なに、全部あたしが悪いってこと? 舞子はうざいんだよ、友達面してあたしに演技指導なんかしてきてさ」

「そんな……私は美奈が悩んでるように見えたから、自分が昔教えてもらったことを美奈にも伝えようと思っただけで」

「いや、余計なお世話だから。たかが大学のサークルだから!」

 攻撃的な美奈の顔は牙をむいて唸る小さなチワワに見えた。やめよう、こんなことに時間を費やしても意味がない。

「分かった。私は休学するから、もう余計なお世話をかけられる心配しなくていいよ」

 舞子は確固とした足取りでカフェテリアを出て行った。

「何言ってんのあれ、昔教えてもらったことって何?」
「そういえば、昔、同姓同名の子役がいたよね。まさか本人?」

 三人は一瞬顔を見合わせたが、聖美が笑い出した。

「まさかぁ、上田舞子なんて平凡な名前じゃん、どこにでもいるって。天才子役って言われてた子が、あんな地味女なわけないじゃん」

 松島も同意する。

「演劇サークルに入ってるのに、裏方やってるのもおかしいしな。演技うまいんだから、役者やるだろう普通」

 三人の下品な笑い声がカフェテリアに響いていた。

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