世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜

山口三

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 悦子はエプロンまで持参して料理を始めた。

 カレーも懐かしい味がした。子どものころに食べた味は、どうしてこんなにも郷愁を誘うのだろう。

 とうとう部屋に上がり込むことに成功した悦子は、上機嫌で舞子に話しかける。舞子もつい気を許して、あれこれと話してしまった。バイトの掛け持ち、ゾイサイトでの怜との出会い、オーディションに落ちまくっていた日々から、今日までの事を。

「ほんとに大変だったのねえ、悪かったわ。私もお父さんも借金を抱えてどうすることもできなくてね。いつか迎えに行こうと思ってたのよ」

 悦子は、舞子が一番求めている言葉を知っていた。あんなふうに冷たい態度を見せても、舞子は驚くほど純粋な子だ。心の奥では、育ててくれた両親を信じたい気持ちが、消えかけた焚き火のように揺らめいているに違いない。案の定、舞子は反応した。

「そっか、そうだったんだ。でもこうやって迎えに来てくれたのならいいの。ところでお父さんは?」

 嬉しさを隠しきれないまま、舞子は話題をそらそうとする。
 
「あの人は……仕事、そう仕事でね、今日はちょっと来られないのよ。それよりお母さん、今日は泊まって行ってもいいかしら?」

「いいけど、私明日はすごく早くに出るよ」

 1DKの部屋にはベッドがひとつしかない。悦子をベッドに寝かせて舞子はソファを使った。

 翌朝、五時に沢本が迎えに来た。インターフォンの音で起きて来た悦子が不機嫌そうにしている。「ほんとに早いのねえ」

「群馬でロケがあるの、一泊してくるから。はい、これ部屋の鍵」

 悦子に鍵を渡した舞子はすぐ玄関の扉を開けに行った。

「おはよう、舞ちゃん。荷物はどれ? 車に積むよ」

 話しながら部屋に入って来た沢本は悦子の姿を見て激しく驚いた。

「えっ、まさか舞ちゃんのお母さん?」

「そうなんです、私を迎えに来てくれたんです」

 舞子は朝から上機嫌だった。対する母親のほうは正反対に見える。

「……どうも、ご無沙汰してます。舞ちゃんのマネージャーやってます沢本と言います」

「ああ、どうも。でもどこかでお会いしたかしら?」

「星川さんの芸能事務所で。以前はそこに居たので」

「そこでお会いしてたんですねえ。なにせ十年以上も前だから……じゃ、行ってらっしゃい」

 悦子はあくびをしつつベッドへ戻ろうとしていた。沢本は舞子の荷物を受け取り、部屋を出る。

 車に乗り込むやいなや、沢本は舞子の方を振り向いた。

「お母さんいつ来たの? 大丈夫、なにかされたりしてないかい?」

「沢本さんたら。私のお母さんですよ、何もされるわけないじゃないですか。昨日話し合ったんです、お母さんたちは私を捨てたんじゃなかったんです。だからこうして迎えに来てくれたんだわ」

 舞子は鼻歌でも歌いだしそうなほど、嬉しそうにしている。沢本はもうそれ以上、深くは追及できなかった。ただ、よくないことの前触れのような気がして、胸騒ぎが収まらなかった。


 舞子がロケから帰ってくると、父親の研次も舞子を待ち構えていた。

「舞子、お帰り。久しぶりだな」
「お父さんも来てたんだね。ただいま」

 悦子はきちんと食事も用意していた。研次は先に飲んでいたらしく、もうすでに顔が赤い。食事をしながらふたりは浴びるようにお酒を飲んでいる。キッチンのゴミ箱にはビールの缶が山積みになっており、テーブルの上の焼酎の一升瓶は残りわずかになっていた。

「お母さんたち、大丈夫? そんなに飲んで」

「なんだぁ、こんなのは飲んでるうちに入らん。それにこれは高い酒なんだぞ、久しぶりのいい酒なんだ。今日はとことん飲むぞ! 舞子も付き合え」

 だめだ、もう完全にお父さんはできあがってる。前からお酒は好きだったけど、こんなに飲む人だっただろうか?

「そうだ、舞子。この部屋じゃ狭くて俺たち三人じゃ暮らせない。もっと広い部屋に引っ越すぞ」 

「お父さんたちの住んでる所は?」

「舞子、私達は房総の田舎にいたのよ。あんたはそんな所じゃ仕事に不便でしょ? あたし達がこっちに来た方がいいじゃない。前みたいに六本木の辺りに住むのはどう? お母さん、六本木の素敵な新築マンションに目星を付けておいたのよ」

 確かにそうだ。沢本さんにも、毎度毎度そんな遠くに迎えに来てもらう訳にもいかない。でも六本木の新築マンションなんて贅沢すぎる。

「そう、だね。でもまだ借金を全部返せてないから、贅沢は出来ないの」

「えっ、まだ完済出来てないの?!」

 悦子は心外だと目を丸くした。研次も酔いがさめたように体を起こした。

「だって、何千万もあったんだよ。利子だけでもすごい金額なんだから」

 チェッと研次は舌打ちした。悦子も急にしらけたような態度でタバコに火を点ける。

 二人のあからさまな豹変に、舞子はもう何も話す気が起きなかった。ロケ帰りで疲れていたし、食事も喉を通らなくなった。「もう寝るね」

 翌朝、舞子が起きてくると、悦子と研次はいそいそと帰り支度を始めている。舞子に気づいた悦子は気まずそうに目を逸らした。

「お母さん?」

「お母さんたちね、ちょっと一旦帰るわ」

「えっ、どうし……」

 研次は舞子に目もくれず、悦子を急かした。

「おい、行くぞ」

「舞子、またね。また来るから」

 悦子は研次の目配せに小さく頷いて、玄関に向かう。「待って、お母さん」舞子は慌てて追いすがるが、目の前でドアは閉じられてしまった。

 途方に暮れてリビングに戻ると、テーブルの上は昨日舞子が席を立ったときのままで、食べ物が散らかり、お酒の瓶が転がっていた。

 舞子の脳裏にふと研次の目配せがよぎった。咄嗟にリビングの戸棚の引き出しを勢いよく開ける。ない、明日渡す予定の返済分、百万円を入れた封筒がない!

 舞子は駆け出して悦子たちを追いかける。運よくエレベーターがすぐ来て、舞子はエントランスで二人を捕まえた。

「待って、お金を返して! それは今月の返済分なの!」

「何の話だ? お前は親を泥棒呼ばわりするのか!」

「とぼけないで、戸棚のお金を持って行ったでしょ!」

 舞子の剣幕に押されて悦子が割って入った。

「ねぇ、私たちも生活が苦しいのよ。少しくらい融通してくれてもいいじゃない」 

 お父さんが付けているその時計も、お母さんが持っているバッグも全部ハイブランドの何十万もする物じゃない。借金してそんな物を買い込んで……その借金は誰が払ってると思ってるの? やっぱりお母さんたちがここに来たのは、私がまた芸能界に復帰したからだよね? 私が稼ぐお金で遊んで暮らせると踏んだんだね。

「嘘つき! いいから返して」

「このっ、親に向かって嘘つきだと!」

 舞子が掴んだ腕を研次は思いっきり振り払った。よろけた舞子はエントランスに入って来た人物に、倒れかかるようにぶつかった。

「おっと、危ないぞ」

 頭上から聞こえてきた声の主は、舞子の肩をしっかり支えて言った。

「どうした、揉め事か?」

「あっ、山崎さん」

 朝からビシッとしたスーツ姿でガタイのいい山崎はそれだけで迫力がある。研次は少し気圧されながらも、山崎に食ってかかった。

「誰だか知らんが、他人には関係ないことだ。放っといてくれ」

「いや、関係なくもないと思うねぇ。あんたらが借金したのは俺の会社だからな」

 研次も悦子も驚いて目を見開き、途端に逃げ腰になった。

「ちらっと会話が聞こえたよ。あんたらがくすねようとしてるその金は、明日には俺の物になるはずだよなあ」

 最後に向けられた問いに、舞子は黙ってうなずいた。

「今受け取ってもいいぜ。借金の返済は早いに越したことはない。さあ、出してもらおうか」

 山崎の声には逆らえない迫力があった。研次はわずかに震える手で、懐から厚みのある封筒を取り出した。その間も悦子はじっと山崎を凝視している。

 ひったくるように封筒をもぎ取った山崎は、中身を確認してから「毎度」と舞子に笑顔を向けた。

 そしてすぐ研次に向き直ると「残りはあんたらの方へ請求するのが筋だよな」と耳元で囁いた。

「いや、それは……」研次はしどろもどろになって視線を逸らした。

「なら、二度とこの子の前に現れるな」

 これまで数多の債務者を震え上がらせてきた山崎の脅しを前に、研次は悪態をついてその場から逃げ出した。

 マンションのガラスドア越しにまだこちらを見ている悦子を横目に、山崎は舞子に声をかけた。

「大丈夫か?」

「はい、ありがとうございました」舞子は弱々しい笑みを山崎に返し、ふらふらとエレベーターの方へ戻って行った。

 山崎は舞子がエレベーターに姿を消すまで見守ってからきびすを返した。だがその背中を追いかけるように響いて来た靴音に振り向いた。

「あれ、どうしてまだ……忘れものですか?」

 きょとんとして山崎に話しかけたのは、ゾイサイトの佐々木だった。

「いや……お前はどうした?」

「朝食を買いに行こうと思って」

「なら、何か食いに行こうぜ」

 山崎と佐々木がマンションの敷地から出て行くのを、茂みからこっそり見ていたのは悦子と研次だった……。
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