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33 疑問
しおりを挟む夕刻を過ぎていた。ガス燈が街路を照らしていたが、建物に挟まれた路地は薄暗い。クリストファーは店の正面を避け、その陰気な路地に入って行った。
「話すことなど無いが」
レニーは今にも噛みつきそうな勢いでクリストファーを睨みつける。
「ランディス君が僕に腹を立てるのは理解できる。でもジーナに今すぐパン屋を辞めろだなんて乱暴だと思うね」
一体レニーはどうしちゃったの? 確かにクリストファーには、はっきり言って私も迷惑してるけど。でもクリストファーがどこまで本気か分からない、私はただ面白がっているだけだと軽く考えていた。
「レニー、クリストファーはふざけてるだけよ。本気にしちゃだめ」
「いや、僕は本気だけどね」
「このっ!」
レニーはクリストファーに掴みかかった。
「やめて、レニー。クリストファー、何度も言うけど私はレニーとお付き合いしていて、レニーが好きなの。だからもうお店には来ないで」
このまま二人が顔を突き合わせていたら事態はどんどん悪い方へ行ってしまいそうだ。こんな時アロイスがいてくれたら、きっとうまくクリストファーを連れ去ってくれただろうに。きっとこんな風に……って妄想してる場合じゃないわ!
私が必死にレニーを押しとどめている様子を見て、クリストファーもやっと引く気になってくれたようだ。
「今日は帰るよ、ジーナ。迷惑をかけたね」
背を向けたクリストファーに、ホッと安どのため息をついたが、すぐ振り返り彼は言った。
「従者がパンを買っていくのは許してくれよ。ここのチェリーデニッシュが気に入ってしまってね。そうだ! ランディス君も甘いデニッシュでも食べて少し冷静になったらいい」
「なっ!」
目を吊り上げるレニーを尻目に、クリストファーはパンの袋を抱えた従者と馬車に乗り込んだ。
「くそぅ、大公家の子息だか何だか知らないが、ふざけやがって」
「レニー、お願いだから落ち着いて」
「君まで俺が冷静じゃないっていうのか!」
そう言いながら私に向けたレニーの目は、狂暴な動物の様な光を帯びていて思わず私は一歩後ずさってしまった。
「ご、ごめんなさい。あ、あの……」
何か言わなきゃ、レニーが落ち着いてくれるように。そもそもクリストファーの好き勝手にさせていた私が悪かったんだわ。
「あの、今日は来てくれてありがとう。聖騎士の試験勉強が大変なのに、わざわざお店に来てくれて。私、嬉しかったわ」
私は器用な方じゃない。こんな風にレニーの怒りに触れて、怖いと内心思ってしまった。その動揺を隠しきれてはいなかっただろう。きっとぎこちない笑顔だったと思う、どうにか声は震えずに済んだけど。
レニーがどんな反応をするかどぎまぎしたが、その顔から怒りが急速に引いていく様子がありありと見て取れた。
「そう、それなら良かったよ。俺も話し合うなら早い方がいいと思って来たんだ」
例の白馬を見に行く事かしら? そんなに早く披露したいなんて、よほど素晴らしい馬なのね。
「ジーナ、君はこの店を辞めるべきだよ」
「えっ」
「君は曲がりなりにも伯爵家の令嬢で、第二王子の元婚約者でもある。ジェリコ殿下だっていい顔はしなかっただろう?」
「それはそうだけど……」
「俺もいい気はしない」
私の言葉を遮ってレニーはきっぱりと言い切った。
「自分の交際相手が庶民のパン屋で働いているっていうのは、ちょっとね。だから辞めてくれるだろ?」
ショックが大きかった。この世界の現実が、巨大な鉄球になって落ちて来た。私はそれをドッヂボールみたいに両手で受け止めなければいけないのだ。
すぐには返事ができなかった。なんとか声を絞り出し、私は言った。
「い、今すぐは無理だわ。バートレットさんにも迷惑がかかるし、収入が途切れたら次の領地からの収益が入るまで持たないかもだから」
「う~ん、じゃあ俺も何かいい方法がないか考えておく。このまま君を連れて帰ろうと思っていたけど、今日は我慢するよ。だからそんな顔しないで、ジーナ」
レニーは私の額に軽くキスして帰って行った。私はその額に手をあて、茫然と佇む。
当たり前だけど、やっぱりレニーもこの世界の人間なんだ。転生してここに来た私とは価値観が全然違う。貴族が庶民と一緒になって働くのは恥だと思っているのだ。「ホリスタ」をやり尽くしてレニーの事なら何でも知っていると思っていたのは、私のとんでもない勘違いだった。
でも待って。私が最初に働いている話をしたのは図書室で一緒に勉強した時。あの時は理解を示し、応援してくれるって言ってたわ。どうして急にレニーは態度を変えたんだろう。「ホリスタ」のレニーなら最初の態度の方がしっくりくる。
アロイスに相談出来たらどれほど良かっただろう。レニーの事をよく分かってるなんて、私の傲慢だと言うかしら……どうしたんだろう、私ったらさっきからアロイスの事ばかり頭に浮かんでくるわ。
どうしたらいいんだろう。来年は学費が支払えなくなるからアカデミーは辞めようと思っていたけど、時期を早めた方がいいのかもしれない。そうして上級貴族の屋敷の働き口を探そう。それならレニーも納得してくれるだろうから。
翌日私はすぐレニーに自分の考えを伝えた。
「アカデミーを辞めるって?」
「そうしたら上級貴族のお屋敷に勤めに出られるでしょう? 」
「確かに侍女や家庭教師になるには、アカデミーに通いながらじゃ無理だけど……」
昨日家に帰ってからも、私に向けられたレニーの恐ろしい形相が頭からずっと離れなかった。もうレニーにあんな顔はさせたくないし、早くいつもの優しいレニーに戻って欲しかった。
だから人が大勢いる教室でアカデミーを辞める話をしてしまった。だが、これは大きな過ちだったと、後で私は思い知った。
「えっ、アカデミーを辞めるって本当なの?」
今週、当番でペアになっているブルックス男爵令息が私の後ろで目を丸くしている。授業に使う資料を抱えていたが、数枚がその腕からずり落ちた。
「ブルックス、落ちたわ」
私は椅子から立ち、資料を拾うブルックスを手伝った。
「ジーナ、本当に辞めるの?」
「多分……そうなると思うわ」
「それは、すごく残念だよ……」
散らばった資料を拾い集めて立ち上がり、ふと目をあげると、レニーがじっとブルックスを見ていた。私が席についてもまだレニーはブルックスを目で追っている。
「レニー、レニー」
私の呼びかけに我に帰ったレニーは、また昨日みたいに怖い顔をしていた。
「あいつも……ブルックスも君の事を『ジーナ』と名前呼びするんだな」
「当番になった時に自分からお願いしたの。私、堅苦しいのは好きじゃないって知ってるでしょう? ブルックスだけじゃないわ、アロイスだってジェリコ…殿下だって名前呼びよ」
「そうだな、アロイスもだな……」
まるで自分自身に確認するようにレニーは呟いた。でも始業の鐘が鳴り、話はそこで途切れてしまった。
昼休み、レニーは誰よりも早く私の所へ来てランチに誘ってくれた。
「連れて行きたい場所があるんだ」
そう言ってレニーは食堂とは反対の校舎の方へ歩き出した。
王侯貴族が通うこの荘厳なアカデミー。現実世界で行くと、ここは高校にあたるのだろう。でも私の感覚で言うとここは、高級レストランと美しい公園を併設した美術館みたいだ。外観はテレビで見たバッキンガム宮殿に似ている。
正門から左右には馬車停まりのスペースが設けられ、ロータリーのようなシステムで生徒たちを校舎へ送り込む。正面は三階建ての校舎が堂々とそびえ、真ん中には時計塔があった。
校舎三階にある目立たないドアを、レニーは開けた。中は豪奢なアカデミーの一部とは思えないような簡素な造りで、薄暗く真ん中にただ螺旋階段があるだけだった。
「これを上るよ」
先に立ったレニーは私に手を差し出した。
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