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34 ジーナの異変
しおりを挟むレニーが差し出した手に、そっと自分の手を重ねる。レニーはその大きな力強い手で私を上へと導いた。
レニーは何も喋らない。私ももう片方の手でドレスの裾をつまみ上げながら黙って付いて行く。上へ行くにしたがって何かの機械音が規則正しく響いてきた。
疲れを感じ出して息が上がって来た時、終点のドアをレニーが開けた。機械音が急に大きく耳に飛び込んでくる。
「ここは……」
「時計塔の文字盤の裏側だよ」
文字盤からは外の陽光が漏れ、薄暗い部屋の窓の役目も果たしていた。鈍色の大きな歯車がゆっくりと動いている。左側の文字盤からはアカデミーの正門が見え、反対側にある文字盤からは中庭が望めた。金属の擦れる音が、生前勤めていた工場をふと思い起こさせる。
「ここから下を見てごらん」
レニーに言われて歯車の中心を覗くと、下には大きな振り子が揺れていた。
「わあ~こういう仕組みで動いているのね、わたし初めて見たわ」
「今日はここでランチを取ろう」
私の知っている優しい笑顔で、レニーは手にしたランチボックスを指した。
椅子もテーブルもない部屋で小さな作業台を見つけ、ランチを並べて床に座った。中庭が見える方に座ったので、眺めもいい。
今日は以前と同じ優しいレニーが戻ってきてくれたみたいだった。時計塔の中は秘密の隠れ家みたいでワクワクしたし、私の分のランチも用意して、ここに連れてきてくれた事がとても嬉しかった。
この場所を選んだのは、私を喜ばせようという気持ちからに違いなかったと思う。でもレニーには他にも目的があって、私はすぐにはそれに気づけなかった。
-----------------------------------------
「あれっ、今日もジーナの姿がないね」
食堂をぐるっと見渡し、そう言いながら俺の向かいに腰を下ろしたのはクリストファーだ。確かにここ一週間ほど、いや十日にはなるか。ジーナもレニーも食堂でランチを取っている姿を見かけなかった。
「いくら僕をけん制してるからって、昼休みまでジーナを隠す事はないのに。君だって一人じゃ寂しいだろう、アロイス」
「まぁ……で、けん制とは?」
クリストファーは苦笑しながら、ジーナの働くパン屋でレニーと遭遇した話をした。
「いやぁ、僕としたことが、彼はもっと素朴な人物かと思っていたけど見誤ったね。あの時のランディス君は殺気立っていて、身の危険すら感じたよ」
「レニーがか? 彼がそんな風になるのは見た事がないな。妹が誘拐された時だって、かなり狼狽えてはいたが……」
「誘拐だって?!」
今度は俺がロザリオ事件の誘拐の話をクリストファーにかいつまんで聞かせた。
「なるほどねぇ。あのロザリオをラスブルグ国に寄贈する件については、シュタイアータでもかなり揉めたんだよ。国宝ともいえるロザリオを手放すのは、教会側も大反対したんだけど、聖女様の強い要望があってさぁ」
この世界に七つしかない貴重なロザリオだ、反対が出るのは当然だろう。クレアはどうしてそれをラスブルグに差し出したのだろう? 国宝を差し出さずとも、高名な聖女の留学は歓迎されるに決まっているのに。
「彼女がこの国に来ることを、こちらでは歓迎していたはずだが」
食堂では、離れているがクレアとジェリコがランチを取っていた。あからさまに名は呼べない。
「はじめから狙いがあった、という事だろうね。たぶん」
先日のクリストファーとの話し合いで、フェダック家と後見人争いをしているアテート公爵家がクレアと手を結んでいるらしいと聞かされた。クリストファーはその真偽のほどを確かめにこの国へやって来たのだ。
ヴィンセントとも話したが、クレアがこの国に嫁げば、クレアを引き込んだ側がこの国の後ろ盾を得られることになる。クリストファーのフェダック家としては不利な状況になるだろう。
ずっと戦争が絶えなかったラスブルグとシュタイアータの和平も、更に堅牢なものになる期待も高まる。何せクレアが嫁ぐのはラスブルグのサーペンテイン王家なのだから。
それにしてもクレアは初めからジェリコに狙いを定めて留学に来たのだろうか? アテート公爵家もジェリコに婚約者がいる事くらいリサーチ済みだったはずだ。婚約者からジェリコを奪う自信があったのか?
それともラスブルグの高位貴族、政治的に重要な地位にある貴族の子息なら誰でもよかったのが、たまたまジェリコが引っかかっただけなのか?
だがなぜクレア程の聖女が、こんな権謀術数の真っただ中に足を踏み入れようとしたのかが分からない。教会は俗世とは関わらないようにしているはずだ。クレアが誰に嫁ごうと自由かもしれないが、それに政治が関わることを教会は良しとしないと思うのだが……。
「色々考えてますねぇ?」
どうやらクリストファーはずっと俺の顔を見ていたらしい。俺は考えに夢中になって無意識にパンを細かくちぎっていた。トレーの上にはパンくずが散乱している。
「いや、今まで何の疑問も抱いていなかったが、聖女も普通に結婚するのだな、と」
「そんな事を考えていたんですか! それは聖女さまといえど人間ですしね。それに聖職者は婚姻してはいけないという教えは、教会にはありませんから」
声を落としてクリストファーは続けた。
「もうすぐ身元調査の結果が届くと思います。でもあの人が協力していることは確からしいと、先に報告がありました」
クレアがアテート公爵家と組んでいるのは確実、か。身元調査の結果が出ればクレアの行動の理由も分かるかもしれないな。
もうランチを食べ終えるというタイミングで、隣のテーブルにヴィンセントと俺たちの担任のコーレル先生が座った。
「ブルックス君はまだお休みですか?」
「ええ、何かケガをしたとかでしばらくは来られないと連絡がありました」
聞き耳をたてた訳ではないが、会話が耳に入って来る。
ブルックスがアカデミーを休みだしてから一週間以上経っている。余程、ひどいケガなのか。
食堂を出た俺は図書室に向かった。シュタイアータの歴史や教会について調べたかったからだ。王宮にも図書室はあるが、この人間の姿であまり王宮をうろつくわけにはいかない。なにせ俺は重い病で離宮で療養している事になっているのだから。
ところが、シュタイアータ関連の本が本棚からごっそり無くなっている。
アカデミーの図書室は国内でも有数の蔵書数を誇る。一般市民も利用可能なので司書も常駐していた。司書に尋ねると多くが貸し出されていた。
「でも返却は今日ですから、放課後にまたいらしていただければ見られますよ」
もしかしてクリストファーが俺と同じ目的で本を借りて行ったのかもしれない、そんな事を考えながら俺は午後の授業に戻った。
教室に戻ると、ジーナもレニーも席に着いていた。前方の席のジーナが振り向き、目が合った。俺は小さく手を振って合図したが、ジーナは引きつった笑顔を浮かべただけだった。いつものバイタリティ溢れる彼女じゃない。目の下にはクマがあり疲れた顔をしている。
せっかくレニーとつき合いだしたのに、なぜあんな顔をしているんだ?
授業の合間、短い休憩時間に俺はジーナに話しかけた。
「ジーナ、顔色が悪いみたいだけど大丈夫か?」
後ろから話しかけたせいなのか、ジーナの肩がビクッと反応した。
「あ、アロイス。私? 顔色が悪いかしら」
「仕事と学業の両立は大変なんじゃないか? あまり無理しない方が……」
そう言った途端、ジーナはぐっと身を乗り出してきた。
「仕事! ねぇ、アロイスは仮にも貴族令嬢が庶民のパン屋で働くことについて、どう思う?」
早口にまくし立てたジーナの目には、ほのかな期待の色が見える。自身の事を言っているのだろうが、いきなりこんな質問を浴びせてくるのには何か理由があるのか。
「どう思うって……貴族がそういう場所で働くには深い事情があるんだろうから、大変だろうなとか、慣れない仕事は大丈夫なのかなとか。そういう感じだな」
「恥ずかしいとは思わないの?」
「恥ずかしいなんて思わない。頑張ってる人にそんな事を思ったりしないよ」
ジーナの表情は雲が晴れた太陽の様に明るくなった。だが教室のドアが開き、レニーの姿が見えた途端、ジーナはさっと顔を逸らしてしまった。
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