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31 お馬が見ています 少尉さん

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 アンは、自分が川向こうの戦場でとっくに死んでしまっているのだと思った。

 きっとあのラジムさんの鉄砲で撃たれちゃって、今天国へ向かう階段の上にいるんだわ……だって、すごくきらきら、ふわふわしてるもの。
 地獄じゃなくて、よかったぁ。
 神さま、ありがとう!

「わぁ! アン、しっかりしろ! 神様なんて言うな!」
「……へ?」
 目を開けると鼻がくっつく距離で、ものすごい美男が。
「……え? わぁあ! 少尉さん、すみません!」
 アンは慌てて体を離そうとした。少しは距離を取れたが、まだしっかり見つめられている。
「おいアン。君、もしかして体が弱いのか? すぐ真っ赤になるし、目を回しちまう……心配だ」
「いいえ! 私は丈夫です! ここ何十年、風邪一つ引きません!」
「何十年も生きてないだろ。でもほんとか? 目を回すのこれで二回目だぞ!」
「全部、少尉さんのせいです! だって、二回もすごいこと言うから! 私、びっくりしちゃって……」
 アンはわたわたと言い訳をした。まだ信じきれていないのだ。
「びっくりさせたのはすまんが、本当のことだから」
 レイルダーはやっと安心したのか、アンの体をそっと抱き直した。
「初めて会ったときから気になって、好きになって。自分がおかしいのかと思ったくらいで。それからずっとアンを見てた。アンを見てると、俺なんかでも人並みになれるかもって思えた。名を呼ぶのが好きだった」
 レイルダーは一瞬言い止めて微笑む。
「これからは、俺のアンって呼んでもいいんだな」
 それは、アンが初めて見る微笑み。
 二人きりの薄暗い厩舎の中で、自分だけに向けられる柔らかな翡翠の瞳。
 ──贅沢の極み。

 唇を重ねたのはアンの方からだった。
 実はまだ、夢かもしれないという、不安感がぬぐいきれないアンは、夢から覚めないうちに、普段なら絶対できないことをやってしまおうと思ったのだ。
 アンにとっては初めての口づけだったが、迷いはなかった。
 しかし。
 触れるだけの可愛らしい少女の口づけはすぐに、強く重ね直されてしまうこととなる。
 大きな掌が後頭を包み込み、背中に回った腕は切ないくらいに強い。
「アン……俺のアン」
 アンは自分の平衡感覚がおかしくなったかと思ったが、そうではなかった。
 二人が座り込んでいる干草の中にゆっくり体が沈んでいく。
「好き。好き。大好き! 愛してるよ」
 言葉ごとにキスが深くなる。角度を変え、場所を変え、アンの顔中に薄い唇が落とされていく。

 ぶるるん

 からかうような馬のいななきで、二人は我に返った。
「少尉さ……」
「マリオン」
「え?」
「マリオン。アンにはそう呼んで欲しい。アンだけの呼び名だ。俺には過ぎた名前だが、アンが呼んでくれるなら勇気が出せる」
「ま、マリオンさん」
「敬称略で」
「マリオン」
「そうだ」
「私の恋人?」
「俺の恋人でもある」
「不細工でもいいですか?」
「意味がわからない。アンは世界一可愛いし、綺麗だ」
「……ヨアキムにもそう言ってくださる?」
「ヨアキム? ああ、あの小僧か。アンの口がその名前を呼ぶのは不愉快だ。俺はずっと『少尉さん』に甘んじてきたのに」
「でも、なんて呼べばいいのか考えて、やっと決めた呼び方だったんですよ」
「そうかぁ。アンはずっと俺のこと考えてくれたんだな」
 レイルダーはごろんと干草の上に転がり、アンをその上に乗せた。
「俺にはずっと人の心がなかったんだよ。あまりにたくさん罪深いことしてきたから、心がすっかり固くなって何にも感じなくなってた。でも、アンに会って……同じ名前のちっさな子が笑ってくれたのを見てさ、心に種がまかれた」
「私が種をまいたの?」
 アンは今まで言葉少なだったレイルダーが、こんなにたくさんの言葉をくれるのが嬉しくて、思わず広い胸にしがみついた。その体を花束でも抱くようにレイルダーはそっと包み込む。
「そう。アンに会うたび種は、芽を出して育っていった」
「でもあんまり私を見てくれなかったですね。私いつも少尉さん……マリオンに見て欲しくて背中を追いかけてた」
「俺はアンに追いかけて欲しかった……追いかけられて嬉しかった。自分が必要と言われているような気がして。優しい言葉もアンから学んだようなものだ」
「そうなんですか? 嬉しいです! あの……マリオン、お願いが」
「なんだい? 言ってみな」
「そのぅ……とてもはしたないんですけど……もう一回キスしてもいいですか?」
 言ってしまってから、アンは自分がどんな姿だかようやく気がついた。
 男の子の格好だし、短くした髪はくしゃくしゃで、葉っぱや干草だらけ。肌もきっと汚れたままだ。
 しかし、レイルダーは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「やっぱりアンは勇気の子だ! 俺が言いたくてたまらなかったことを、さらりと言ってのける!」
 そう言って、レイルダーはアンの顎を掬い上げ、ふっくらとした柔らかい花弁に、薄い自分のそれをあてがった。
 いつも眠そうで冷めた態度だった青年。
 言葉少なく、自分を見てくれなかった青年。
 美しくて格好良くて強くて、胸痛むほど憧れて、諦めようとして、それでも振り向いて欲しくて背中を追いかけた。
 その彼が──。
 自分に──。

 熱い。
 男の人って、こんなに熱いのね。
 こんなの熱すぎて、気持ちよすぎて、痺れちゃう……。
 キスってこんなものだったの?

 さっき抱きしめられた時よりももっと、思考が霞んでいく。
 最初はそっと触れるだけだったのに、どんどんぺったりと吸い付いて、アンの吐く息をさらってしまう。

 ああ、いい気持ち。
 これがキスなら、ずっとしていたい。

 長い夜を経て、今朝から恋人となった二人を馬たちが楽しげに眺めている。
「アン」
 ふと気がつくと、湖の浅瀬のような瞳がアンを間近に見下ろしていた。今なら長いまつ毛の数まで数えられそうだ。
 でも、少し瞳の色がけぶっている。いや、にじんでいるのか?
「アン、そんな顔をしてはダメだ」
「? あ……すみません私、不器量だから……」
「違うって、そんな可愛い顔を見たら……男はくたばってしまう」
「はぁ……」
「絶対に他でしたらだめだぞ」
「マリオン以外にキスする人はいないですよ」
「それならいいけど……さ、とりあえず隊舎に戻ろう。これ以上ここにると、馬たちの情操にも良くないし、お父上も心配するだろう」
「そう、でも……もう少しだけ、あとちょっとだけ抱っこしてもらえませんか? だってすごく気持ちが良くて……」
 その途端、アンのお腹が大きな音を立てた。
「ははは! アンの要求は素直だな!」
 真っ赤になったアンの頬にとん、と最後のキスをしてレイルダーは立ち上がり、アンを助け起こした。二人の体から藁くずがぱらぱらと散らばる。
「さぁ、朝飯を食いに行こう」
 レイルダーはアンの前髪に刺さった藁を抜きながら言った。

 藁まみれになっても、これほど格好いいってどういうこと?

 少し悔しい。そして恥ずかしい。
 気がついてしまった空腹は、アンの空っぽの胃袋を満たせ満たせと暴れている。
 けれどアンは平気だった。
 お腹は空いていても、心がたっぷりと甘いものを食べたから。
「手を繋いでもいいですか?」
 アンは厩舎の外の空の眩しさにまたたきをした。馬たちがまたねと言っている。
「どうしてアンは俺の言いたいことを先に言ってしまうかな?」
 レイルダーは手袋を外した大きな手を差し出した。
 その瞬間、アンはわかった。
 もう、彼がこっちを向いてくれるまで、背中を追いかけなくてもいい。
 これからは二人、隣に並んで歩いて行けるのだ。


   *****

後2回で終わりです。
どうか。
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