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2章 魔女 未来に向かって

86 騎士と最後の魔女 2

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 季節はゆっくりと巡っていく。
 ザザが助手として通う学問所では、春の学期が始まっていた。
 ザザは五日に一度、薬草学の授業を一人で受け持つことになった。一学年進級し、五年生になったアロイスとグザビエの学年である。
「先生、僕のあげた地図は何か役に立ったの?」
 授業を終えてすぐ、アロイスが駆け寄ってきた。
「ええ、立ちましたよ。それもすごく。アロイスさんの視点はすごかったです。あなたの視点で描かれた、たくさんの路地の地図を使って、アントリュースの街そのものを迷宮にすることができました。道をふさいで敵を誘導したりするのに有効で、敵を欺いたり、街の人の命を救うことになりました」
「そうなの!? よくわからないけど、役に立てたんならよかった! 正確さには自信があったんだ」
 アロイス少年はしっかりした笑顔を見せた。
「お前の無駄に上手い地図が、セルヴァンティース閣下の役に立ったのか?」
「立ちましたよ、グザビエさん。アロイスさんは生き物を書くのは苦手なようですが、図面を描くのがとてもお上手です。絵画としての価値も出るでしょう。これはきっと仕事になります」
「ザザ先生、それ、本当?」
「すげーなお前!」
「はい。これからも、いろんな町や村、街道を歩いて精密な地図を描いてください」
 ザザは自信を持って言い切り、拳を突き出したアロイスに自分の拳を重ねた。
「私も、もっと頑張って、人の役に立つようなお薬の研究をして、皆さんにお伝えしますね」
 見上げた空に梢枝の緑が眩しかった。

 春を迎えて王都はどんどん華やかになっていく。
 大きな行事を二つも抱えて、人や物の往来も多くなっている。
 講和条約を経て東からの脅威がなくなったのと、第三王女の婚約成立で友好国との関係がさらに強くなり、人々の間に安心感が広がっているのだろう。
 王宮もまたしかり。さすがに街中よりは静かだが、それでも空気の色が軽く暖かい。

「ザザ、いるか?」
 ギディオンが薬草苑の標本室に顔を出した。彼は相変わらず忙しくしているようだが、たまに短い時間を作っては苑を訪れてくれる。
「ギディオンさま」
「毎日精が出るな」
 ギディオンは大きなきのテーブルに置かれた薬草の山と、書物を眺めて言った。
「薬草苑と学問所の掛け持ちは大変ではないか?」
「ちっとも。ギディオンさまこそ、少しお痩せになったのではありませんか?」
 ザザは心配そうにギディオンを見上げた。
 アントリュースの町から帰ってから、二人の距離は遠くなった。二人とも仕事があるせいだ。
「お茶を淹れましょう」
「ああ、頼もうか」
「ウェンダルさまにはお会いになられたのですか?」
「来た時すぐに会った。しばらくザザの時間をもらうと伝えてある。だからここにはしばらく誰も来ない」
「何かあったのですか?」
 ザザはさっと緊張した。ギディオンの顔には影がないが、やや屈託があるように見えるのだ。
「ちがうちがう、心配事ではないよ。前に言ったろう? アントリュースの一件が終わったらザザに話があると」
「はい」
「俺はな、フェリアさま付きの騎士を辞めた。まぁ、アントリュースに向かった時点でもう辞めたも同然だったんだが、このほど正式に辞表を出してきた。レストレイ殿下にな」
 フェリア付きの騎士を辞めるとうことはつまり、近衞を辞めるということである。
「受け取っていただけたのですか?」
「以前からお伝えしていたから。嫌な顔はされたが、俺はあの方に拾ってもらたのだから、筋は通そうと思って」
「それでどうされるのですか?」
「どうもしないよ。元通り国軍に戻って辺境警備でもやる。だがしばらくは旅に出ようと思う。そうだなぁ、少なくとも一年か二年くらいは……後な、家も出る」
「家を出る?」
 ザザは首を傾げた。
 旅に出るのだから、家を出ないといけないのはわかるが、改めて宣言するのはどう言う意味があるのだろうか?
「出ると言うのは、セルヴァンティース伯爵家から籍を抜くと言うことだ。もともと嫡子でもないし、男が二人も残れば十分だろう」
「でもそうなれば、お屋敷の方々が悲しまれるのでは?」
「俺の家はそんなに湿っぽくはないさ。知っているだろう? フォルスト兄上にはもう話して了解をいただいた。サルビア義姉上もそうだよ。ただ……」
「お父様、ですか?」
「そう。父上にはまだ伝えていない」
「話したら反対されると?」
「あの人はなんというか……俺に負い目を感じていらっしゃるところがあるからな……母のことで。俺は父のことは好きなんだ。というか、あの家の誰のことも嫌いではない。義母のことも……昔は正直嫌いだったが、今では少し理解できる。スーリカの話を聞いたからな」
「……あの執着を厭わしいとは思わなかったのですか?」
「恐ろしいとは思った。しかし、哀れとも感じた。求める相手に求められないのは苦しいことだろう。スーリカも、義母上も、そして父上もそうだ。愛した人に愛をもらえなかった。それが彼らの人生を悲しいものにした」
「……」
「だからかもしれないが、俺は俺に纏わりつくしがらみから自由になりたいんだよ」
「ですが」
「そんな顔をするな。別に一生会えないってわけじゃない。伯爵家の人間ではなくなるってだけの話だ」
 ギディオンは吹っ切れたように言った。
「……」
 ザザには俯くことしかできない。柵から逃れたいのなら、自分も主の自由を妨げる枷の一つだと思うからだ。
「俺は王都を出るよ。そして」
 肩に大きな手が置かれる。
「ザザにもついて来て欲しい」
「え? わたし?」
 びっくりしてザザは顔をあげた。
「そこ驚くところか? 俺はお前に結婚を申し込んだだろう? まさか、忘れたのか?」
 この娘ならありうると、ギディオンは思った。自分の言うことだったら、何を置いても承知するという癖はまだ治っていないのだ。
「い、いえ! 忘れてはいません。結婚とは、ふ、夫婦になることです!」
「そうとも。そして愛し合う夫婦とは大抵の場合、一緒にいるものだ」
「……あいしあうふうふ」
「俺たちは愛し合っていないのか?」
 ギディオンはザザの肩に両手を置いたまま、小さな顔を覗き込んだ。その目は真剣だ。
「あいしあっています! でも、わたしはギディオンさまの、柵にはならないのですか?」
「もちろんなる。でもそれは、求めて求められる柵だ。俺のたった一つのな」
「……」
「ザザ、返事を」
 ギディオンは切なく急かした。
「行きます! どこまでもついていきます! 置いていかれないように!」
 ギディオンの返事はザザを抱きしめることだった。
「ザザ」
「はい」
「俺は明日にでも、一度家に戻ろうと思う。父の前で俺の気持ちを話す。ザザも一緒に来てくれ。父にザザすべて話したい。グレンディル殿のことやザザの母上のことなど全部。あの人もたくさんの柵に縛られて生きてきた人だから……」
 ギディオンは真摯に語った。
「俺は今まで父の情愛からことから逃げてきた。でもそろそろ向き合う時が来たんだよ」

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