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chapter.1
2.歌声
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夏の日、だったと思う。
あの頃の瑠壱は、今ほどしたたかでもなければ、やる気もなかったから、一学期の期末テストでがっつりと赤点を取ったうえで、びっちりと補習を入れられ、最高気温が三十五度にもなろうという猛暑日だろうが、学校へと足を運んでは、「昔は冷房なんかなかった」という老害臭全開の数学教師によってエアコンを止められ、窓が全開になった教室で、遠くの空が揺れて見えるような熱気と、時折迷い込んできては若者の血を頂戴しようとする蚊との格闘を繰り広げ、すっかりと疲れ切っていた。
飲み物を買おうと思った。
それも炭酸だ。
なんならコーラがいい。
500mlのやつだ。
あれくらいは飲まないとやってられない。
意思が決まれば後は早かった。今まで半分死んだようにして、授業と言うよりも拷問の椅子に磔にされていた瑠壱は、一目散に走った。
500mlのコーラ缶を売っているのは、校庭のあたりにある自販機しかない。与えられた休み時間は十分。暑さに文句をつけながらちんたらゾンビのように歩いていては片道でタイムアップしかねない。
だから走った。
体育の授業でも、テストでも、補習でも出さない本気を出した。
渇きというのは時としてそれくらいのパワーを生み出すものなのかもしれない。オアシスを見つけた人間が一体どこにそんな体力が残っていたのかと疑うレベルの全力で、飛び跳ねながら向かっていくのと同じ原理だ。
「……………っはぁ」
結果として、十分どころか五分もかからずに、お目当てのものにありつくことが出来た。
自販機につき、小銭を入れ、ボタンを押し、受け取り口に落ちてきた缶を手に取って、プルタブを開けて、一気飲み。
一口と表現するのにはあまりにも多すぎる量を飲み干すと、この暑い中全力疾走をしてきたという事実を、今の今まで忘れていたかのように、汗が一気に噴き出した。ずっと走って来たのだから当たり前だ。
ハンカチもタオルも持ってきていないから、額の汗は手で拭いた。後から後から吹き出てくる汗が夏を実感させる。
近くの木ではミンミンゼミがひっきりなしに鳴きつづける。校庭では、信じられないことに、この暑さにも関わらず、運動部が練習をしていた。
ボールがバットに当たる金属音が響き渡る。ボールがふわりと宙に上がる。部員たちが、一番近い位置の三塁手に指示を出す声が聞こえる。遅れて怒声とも罵声とも区別のつかない声が響き渡る。
「戻るか……」
瑠壱は、そんな青春の一ページを尻目に、誰に告げるでもなく独り言ち、もう一口だけコーラを飲み、自販機の前を後にする。
帰り道。瑠壱はコーラを飲みながらゆっくりと歩いて帰った。往路を全力疾走したおかげで、復路は余裕綽々だった。
だから、心にも余裕が出来ていたのかもしれない。
「…………歌?」
歌だった。
復路も終盤、箱根で言えば九区付近に差し掛かったあたりで、ふと耳に届く声があった。
誰だろう。
純粋にそう思った。
はじめは部活動の生徒だと思った。
瑠壱の通う藤ヶ崎高校は部活動にも力を入れており、それこそ運動部から文化部まで、他の高校にも絶対にありそうなものから、まずなさそうな「作ったやつ頭おかしいんじゃないの?」というものまであるという充実ぶりを誇っている。
それだけの部活動が存在しているとなると、当然その予算はどこから出るのだという話になっているのだが、一応一定の金額は学校から活動費として出ているらしく、それらを全部活動で分割して使い、それでも足りない場合は各自部費を設けるなどして調達する、という運びになっているらしい。
そしてこの、学校から与えられた“活動費”の分割比率決定に関しては、基本的に生徒の自治に任せてられており、毎年行われる部活動同士の予算折衝では、部活動の代表同士でちょっとしたバトルが繰り広げられ、一大イベントになっているらしいのだった。
と、まあ、それだけ部活動に力を入れている藤ヶ崎高校なわけだから、その中には当然のように合唱部もあるわけで、つまるところ瑠壱は最初、その練習ではないかと思ったのだ。
ただ、その考えはすぐに自ら否定することとなる。
「……一人だな……」
そう。
聞こえてくる歌声が一つなのだ。
言うまでもないことだが、合唱というのは二人以上でやるものであり、部活動の練習もまた、二人以上で合わせる場合があるものと思われる。
もしかしたら一人で練習をしている可能性もないではないが、それならわざわざ学校になど赴く必要はないはずだし、もしわざわざ学校に足を運んで練習をする物好きであったとしても、その場所は防音と冷房の完備されている音楽室を選ぶはずである。
生徒が無断に使用すれば罰則と。お説教と言う名のありがたいお話のフルコースが待っているわけだが、部活動の練習となれば話が別だ。
恐らく申請さえすれば自由に使えるはずで、わざわざ猛暑日の日中に、空調の聞いていない場所を使う意味がない。
それでも歌声は聴こえてくる。
廊下にいる瑠壱の耳に届く、ということは声の主は少なくとも防音完備の音楽室にはいないことになる。
なぜだろう。
興味が出た。
この時点で補習のことなどどうでもよくなった。
どうせ補習の一回や二回くらいサボったところで大きな問題にはならない。せいぜいが時代遅れの高説を垂れ流されるくらいのものだろう。
それならば右から左に聞き流してしまえばいい。後は、最終日に行われる追試できちんと点を取れば大丈夫だ。
その程度のリスクなら背負ってもいい。
それくらい、この時の瑠壱は歌声に興味を持っていた。
惹かれていた、といってもいいかもしれない。
「こっちか……?」
なおも聴こえてくる歌声を頼りに、校舎内を探し回る。
途中、補習の生徒だけのために、律儀に鳴らされているチャイムが鳴り響いていたが、心底迷惑な音だとしか思わなかった。
廊下を歩き、階段を上がり、なおも廊下を歩く。歌声は段々と近づいてくる。その距離が近づくにつれて、瑠壱の歩みは小走りへと変わっていく。
やがて、その歌は瑠壱を、ひとつの空き教室へと誘う。
少子化の煽りだろうか。藤ヶ崎学園の校舎にはいくつかの空き教室があった。
ある場所は物置きに使われ、ある場所は生徒同士の密会に用いられ、またある場所は部活動らしき集団が不法占拠して使用していたこともあるらしい。
そんな多目的な使われ方をしている空き教室のひとつに、“犯人”はいた。
「…………山科?」
山科沙智。瑠壱の、同級生だった。
あの頃の瑠壱は、今ほどしたたかでもなければ、やる気もなかったから、一学期の期末テストでがっつりと赤点を取ったうえで、びっちりと補習を入れられ、最高気温が三十五度にもなろうという猛暑日だろうが、学校へと足を運んでは、「昔は冷房なんかなかった」という老害臭全開の数学教師によってエアコンを止められ、窓が全開になった教室で、遠くの空が揺れて見えるような熱気と、時折迷い込んできては若者の血を頂戴しようとする蚊との格闘を繰り広げ、すっかりと疲れ切っていた。
飲み物を買おうと思った。
それも炭酸だ。
なんならコーラがいい。
500mlのやつだ。
あれくらいは飲まないとやってられない。
意思が決まれば後は早かった。今まで半分死んだようにして、授業と言うよりも拷問の椅子に磔にされていた瑠壱は、一目散に走った。
500mlのコーラ缶を売っているのは、校庭のあたりにある自販機しかない。与えられた休み時間は十分。暑さに文句をつけながらちんたらゾンビのように歩いていては片道でタイムアップしかねない。
だから走った。
体育の授業でも、テストでも、補習でも出さない本気を出した。
渇きというのは時としてそれくらいのパワーを生み出すものなのかもしれない。オアシスを見つけた人間が一体どこにそんな体力が残っていたのかと疑うレベルの全力で、飛び跳ねながら向かっていくのと同じ原理だ。
「……………っはぁ」
結果として、十分どころか五分もかからずに、お目当てのものにありつくことが出来た。
自販機につき、小銭を入れ、ボタンを押し、受け取り口に落ちてきた缶を手に取って、プルタブを開けて、一気飲み。
一口と表現するのにはあまりにも多すぎる量を飲み干すと、この暑い中全力疾走をしてきたという事実を、今の今まで忘れていたかのように、汗が一気に噴き出した。ずっと走って来たのだから当たり前だ。
ハンカチもタオルも持ってきていないから、額の汗は手で拭いた。後から後から吹き出てくる汗が夏を実感させる。
近くの木ではミンミンゼミがひっきりなしに鳴きつづける。校庭では、信じられないことに、この暑さにも関わらず、運動部が練習をしていた。
ボールがバットに当たる金属音が響き渡る。ボールがふわりと宙に上がる。部員たちが、一番近い位置の三塁手に指示を出す声が聞こえる。遅れて怒声とも罵声とも区別のつかない声が響き渡る。
「戻るか……」
瑠壱は、そんな青春の一ページを尻目に、誰に告げるでもなく独り言ち、もう一口だけコーラを飲み、自販機の前を後にする。
帰り道。瑠壱はコーラを飲みながらゆっくりと歩いて帰った。往路を全力疾走したおかげで、復路は余裕綽々だった。
だから、心にも余裕が出来ていたのかもしれない。
「…………歌?」
歌だった。
復路も終盤、箱根で言えば九区付近に差し掛かったあたりで、ふと耳に届く声があった。
誰だろう。
純粋にそう思った。
はじめは部活動の生徒だと思った。
瑠壱の通う藤ヶ崎高校は部活動にも力を入れており、それこそ運動部から文化部まで、他の高校にも絶対にありそうなものから、まずなさそうな「作ったやつ頭おかしいんじゃないの?」というものまであるという充実ぶりを誇っている。
それだけの部活動が存在しているとなると、当然その予算はどこから出るのだという話になっているのだが、一応一定の金額は学校から活動費として出ているらしく、それらを全部活動で分割して使い、それでも足りない場合は各自部費を設けるなどして調達する、という運びになっているらしい。
そしてこの、学校から与えられた“活動費”の分割比率決定に関しては、基本的に生徒の自治に任せてられており、毎年行われる部活動同士の予算折衝では、部活動の代表同士でちょっとしたバトルが繰り広げられ、一大イベントになっているらしいのだった。
と、まあ、それだけ部活動に力を入れている藤ヶ崎高校なわけだから、その中には当然のように合唱部もあるわけで、つまるところ瑠壱は最初、その練習ではないかと思ったのだ。
ただ、その考えはすぐに自ら否定することとなる。
「……一人だな……」
そう。
聞こえてくる歌声が一つなのだ。
言うまでもないことだが、合唱というのは二人以上でやるものであり、部活動の練習もまた、二人以上で合わせる場合があるものと思われる。
もしかしたら一人で練習をしている可能性もないではないが、それならわざわざ学校になど赴く必要はないはずだし、もしわざわざ学校に足を運んで練習をする物好きであったとしても、その場所は防音と冷房の完備されている音楽室を選ぶはずである。
生徒が無断に使用すれば罰則と。お説教と言う名のありがたいお話のフルコースが待っているわけだが、部活動の練習となれば話が別だ。
恐らく申請さえすれば自由に使えるはずで、わざわざ猛暑日の日中に、空調の聞いていない場所を使う意味がない。
それでも歌声は聴こえてくる。
廊下にいる瑠壱の耳に届く、ということは声の主は少なくとも防音完備の音楽室にはいないことになる。
なぜだろう。
興味が出た。
この時点で補習のことなどどうでもよくなった。
どうせ補習の一回や二回くらいサボったところで大きな問題にはならない。せいぜいが時代遅れの高説を垂れ流されるくらいのものだろう。
それならば右から左に聞き流してしまえばいい。後は、最終日に行われる追試できちんと点を取れば大丈夫だ。
その程度のリスクなら背負ってもいい。
それくらい、この時の瑠壱は歌声に興味を持っていた。
惹かれていた、といってもいいかもしれない。
「こっちか……?」
なおも聴こえてくる歌声を頼りに、校舎内を探し回る。
途中、補習の生徒だけのために、律儀に鳴らされているチャイムが鳴り響いていたが、心底迷惑な音だとしか思わなかった。
廊下を歩き、階段を上がり、なおも廊下を歩く。歌声は段々と近づいてくる。その距離が近づくにつれて、瑠壱の歩みは小走りへと変わっていく。
やがて、その歌は瑠壱を、ひとつの空き教室へと誘う。
少子化の煽りだろうか。藤ヶ崎学園の校舎にはいくつかの空き教室があった。
ある場所は物置きに使われ、ある場所は生徒同士の密会に用いられ、またある場所は部活動らしき集団が不法占拠して使用していたこともあるらしい。
そんな多目的な使われ方をしている空き教室のひとつに、“犯人”はいた。
「…………山科?」
山科沙智。瑠壱の、同級生だった。
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