アイリスこぼれ話

小田マキ

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追憶は欺くも甘く

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 今日は、朝から副官の様子がおかしい。

 雷龍隊隊長フォーサイス・ダグリードは、目の前で本日の予定を読み上げる彼の一挙一動を見つめながら眉を顰めた。
「……以上です。何か確認、変更点はございますか?」
 貴婦人と見紛うほどたおやかで美しい容姿に、洗練された物腰は魂にまで染みついているらしく、無意識のときの方が口調や動作に出やすい。性根は悪くはないが、素行はお世辞にもいいとはいえない雷龍隊で、上品すぎる立ち居振る舞いを常々口の悪い隊員達から揶揄されていたブルースは、意識してぞんざいに振舞っていた。それでも、下品とはかけ離れている……しかしながら、今日は社交界の花と呼ばれるどこぞの貴族令嬢も霞むほどの上品さが、その眼差し一つにまで滲み出ていた。
 そして、目の前の己の表情の変化を見すごしている……人の感情の機微に敏い彼には、あり得ないことだ。
 自分の前でここまで上の空になるほど、一体何を思い悩んでいるのか?
「体調でも悪いのか?」
「……は?」
 だから、思わず訊いてしまった言葉に、ブルースはぽかんとした表情を浮かべる。
「どうやら精神的な問題だな……舞踏会に参加しているくらい上品になってるぞ」
 我ながらどうかと思う指摘に、ブルースはばつが悪そうな顔をした。
「……申し訳ありません」
 上品だと言われて謝罪する彼もどうかと思うが、問題は一体何を思い悩んでいるかということだ。
「リユーノ公に、何か言われたのか?」
 ブルースの家庭事情は複雑だ。フカッシャー家とダグリード家には、目に見えない確執がある。これといって原因があるわけではないが、どちらも古くから続く由緒正しい軍人家系、共通点の多さは同調よりも反発を招くのは世の常らしい。
 親の代で挙げた武勲は五分五分、爵位はフカッシャーが上、王家への覚えはダグリードが上……そして、現在ブルースはフォーサイスの副官。ブルースはともかく、その父リユーノがよくも彼の雷龍隊への引き抜きに応じてくれたと思う。恩義を売っておいて、息子に雷龍隊を内側から食い破らせようという魂胆があったかも知れないが、あいにく二人の関係はすこぶる良好だ。そのせいで、ブルースが責められてはいないかと危惧はあるが、彼は何も言わなかった。申し訳ないくらいに、よく尽くしてくれる。
「いえ、そんなことはありませんよ」
 今も頭を振り、曖昧に微笑むばかりだ。
「では、何なんだ。気になって仕事がはかどらん」
「……それはただのいいわけでしょう」
 長い指先でもてあそんでいた羽根筆を放り出して言ったフォーサイスに、ブルースの柔和な顔がにわかに厳しくなる。
「いいや、そんなことはない。可愛い副官を純粋に心配しているんだ」
「大変光栄なお言葉ですが、隊長……私を本当に心配して下さるのなら、トレーに溢れかえっている書類を何とかして下さい。隊長署名偽造は私の職務ではありません」
「……昨夜は珍しく悪酔いして頭が痛い」
「自業自得です。騎士団が精鋭部隊の隊長が正体を失うほど酔いつぶれ、翌日の職務に支障をきたすなんて……笑い話にもなりません」
 副官の視線はさらに冷ややかなものになった。
 どうやら自分は、藪蛇をつついてしまったようだ。
 昨夜は一ヶ月超にも及んだ盗賊討伐にようやくけりがつき、隊員達を労うために城下の酒場にいったのだ。ファーランドの湧き水から造ったというその店自家製の果実酒が思いのほか美味だったのと、店内の熱気に、ついつい杯が進んでしまった。途中からすっかり意識が飛び、気がつけば朝になっていた。出勤時間前に目覚められたのは身体に染みついた習慣の賜物だったが、記憶だけはいまだに戻らなかった。
 翌日まで不調は持ち越さない性質で、頭が痛いというのは嘘だったが、なぜか口の中が切れていて、顎が痛い。出立前にダグリード邸執事のスディンに尋ねたところ、ブルースが屋敷まで送り届けてくれたとのことだったが……
「昨夜、何かしたか?」
 正面から向けられる鋭利な視線に、フォーサイスは尋ねる。
「……っ、……知りません! 失礼しますっ……」
 すると、なぜか焦ったように言い捨てた彼は、フォーサイスに呼び止める間も与えずに執務室を出ていってしまった。
「……不調の原因は、俺か?」
 あからさまにおかしいブルースの言動に、フォーサイスはようやくその事実に辿り着いた。

 足音も荒く、ブルースは雷龍隊兵舎の外廊下を歩く。表情は常になく険しい。すれ違う隊員達はみな何事かと思いながらも、彼がここまで機嫌の悪さを体現するのは初めてだったため、挨拶の言葉さえかけそびれて道を譲っていたのだが……
「おはようございますっ、ブルース副隊長!」
 どこにでも、空気が読めない人間はいるものである。
 もっとも新参者の隊員チェイス・カイルシード……喜色満面、目に見えない尻尾も盛大に振って、廊下の向こうから駆け寄ってくる。
「おはよう」
 目の前にやってきた彼に、一見にこやかな微笑みを浮かべ、挨拶を返すブルース。遠巻きに見つめる隊員達は、早朝からうだるような暑さの中、真冬の吹雪を見た気がした。
「昨日はお疲れ様でした! いやぁー、見事な掌打でしたねっ! オレ、マジで感動しました!」
 しかし、冬の嵐に真正面から対峙しているはずのチェイスは、能天気に会話を続ける。我が身をかき抱き、互いに身を寄せ合いながら、その他の隊員達は「なぜ、その全身から立ち上る冷気に気づかない!」と、内心激しく突っ込んでいた。
「……チェイス、訓練場五周!」
「ええっ! 何でですかっ?」
「つべこべ言わずにさっさと走れっ!」
「はいぃっ……!」
 どこまでも穏やかで優しい副隊長の、世にも珍しい雷の直撃を受けたチェイスは、わけも分からず駆け出していく。
「自業自得、馬鹿ですね」
「アホだ、アホ」
「マヌケすぎっだろ」
 みるみる小さくなる後輩少年の背に向かって、まるで石化の魔法が解けたように傍観者達は口々に言ったが……
「お前達もだ! 無駄口きいてないで行けっ……そして、今後一切昨夜の話は禁句!」
 今度は我が身に向けられた一喝に、蜘蛛の子を散らしたように駆け出していく。
 昨夜の一件……副隊長の裏の顔を垣間見た隊員達は、もう何があろうと彼を敵には回すまい、と心に刻んでいたのだ。

    * * *

 城下町フィオリアの老舗酒場『エル・オイリーズ』はその日、騎士団が誇る精鋭、雷龍隊の面々を飛び込み客として迎え入れた。
 庶民出身者も多い雷龍隊は市井の人々にもっとも親しみ深い騎士の集まりではあったが、隊長、副隊長はアイリスの双璧ともいわれる家系の当主達、まとう空気が他者とは一線を画している。類稀なる容姿を持った二人を目の当たりにし、ザワつく他の客や給仕の娘達に、粗相があってはならないと、店主は彼らを二階の個室に案内した。
 階を隔てれば大部屋の喧騒も多少遠のいていたが、今宵は隊長のおごり……身銭を切らずに思う存分酒が飲める、と湧き立った隊員達は、乾杯直後からいささかはめを外しすぎており、騒がしさは甲乙つかない。さらに職務を外れた場であったからか、隊長、副隊長もそのことを注意する様子を見せなかったために、みなどんどん調子に乗っていく。
「……隊長さんよぉ、あんたにずっと前から聞いてみたかったんだ」
 ひとしきりチェイスをからかい、それにも飽きてきたらしいライサチェックがそんな台詞を吐く。さらに彼は気持ち悪いくらいにこやかな笑顔を浮かべ、鬼隊長の肩を組んできた。常にはあり得ない距離感にも、今宵の彼は抵抗を見せない。宴の最初に口にした無礼講という言葉は、偽りではないようだ。
「何だ、言ってみろ」
 そう返して、フォーサイスは手にしていたグラスの果実酒を呷る。なかなかお気に召したらしい。隣に座っていたブルースは少しだけ案じるような視線を送ったが、当人らが気にした様子を見せないために、結局何も言わなかった。

「……あんたさぁ、……女抱いたことあんの?」

 しかし、次の瞬間、ライサチェックが落とした爆弾発言に、周囲は一瞬にして凍りついた。
 いくら気さくなフォーサイスといえど、その出自はアイリスの剣と謳われたダグリード侯爵家、あまりにも下世話な質問に、ブルースは手にしたグラスを落としそうになった。他の隊員達は、何人か取り落としたようで、甲高い音が辺りに響く。安価なアクリル製のグラスだったために割れることはなかったが、それでも床の上には酒が飛び散り、悲惨な状況だのだが……
 死に急ぐな、残された妻子はどうするんだ!
 みなは咄嗟に、同じことを思っていた。
 フォーサイスの女嫌いは、末期症状。目の端に妙齢のご婦人が映り込むだけで機嫌が悪くなる……それを揶揄するなぞ、正気の沙汰ではない。実際、そんな暴挙に出た彼の顔は無残に笑み崩れて、目は完全に出来上がっており、正気ではなかった。
「隊長っ……」
 ライサチェックが不憫だったわけではなく、今後起こる惨劇で受ける店への被害と雷龍隊の評判を気にしたブルースが、二人の会話に割って入ろうとする……しかし。

「そんなもの……この年まで生きてきて、ないわけがないだろう」

 鬼隊長から悪鬼と化して暴れ狂うかと思いきや、至極冷静に返したフォーサイスの言葉に、再び周囲は石化した。
「相手は娼婦だがな。手強い相手と……大抵ブルースだが……打ち合ったあとに、ときどき娼館に行っている。ただの生理現象だ」
 まさかそこで自分の名前が出るとは思わず、ブルースは絶句する。ライサチェックもさきほどまでの上機嫌が嘘のように顔面蒼白、大口を開けたまま完全に固まっていた。驚きすぎて、肩に回した腕を解くことさえできない。いまや酔いは完全に醒めていた。
「何だ、その顔は……お前が訊いてきたんだろう、ライサチェック。
 別段、そこまで衝動を覚える性質じゃない。馴染みも作らないし、店も選ばん……お互い仕事と割り切ってるから、何の後腐れもない。俺だとばれる可能性も皆無だ」
 えらく饒舌なその顔をよくよく観察すると、鋭い目が幾分トロンとしている。
 フォーサイスも完全に酔っていた。
 一時的な安堵を覚える面々だったが、それでも下手な一言で正気が戻り、いつ正常な惨劇(?)が訪れるかも知れない。そんな危惧を覚え、誰も諌める勇気は持てなかった。

 ただ一人を除いては。

「二人とも個室とはいえ、場所と自分達の身分を弁えなさい! 酒に飲まれすぎですっ!」
「がっ……!」
「ぐへっ……!」

 グラスを机に叩きつけ、立ち上がったブルースは、二人の顔面にそれは見事な掌打を見舞った。
 当然、何の構えもしていなかったフォーサイスは椅子ごとうしろに倒れ、そのまま酒の勢いも借りて昏倒……酔いが醒めていたライサチェックは下手に避けようとしたせいで、嫌な入り方をしたらしく、壁に頭をぶつけ、声も出せずに蹲っている。
「今日はこれにて解散っ!」
 己の足元にひれ伏した鬼隊長を軽々担いで号令をかけた雷龍隊副隊長の姿が、その夜もれなく隊員達の夢枕に立ったことは、言うまでもなかった……

    * * *

「だから、あのとき以来、訓練で相手をしてくれなくなったわけか」
「そんなのっ……できるわけないじゃないですか、私と打ち合えば……」
「娼館に行くからか? ……仕方がないだろう、その頃は副官が女で、未来の伴侶になるとは夢にも思っていなかったんだからな。大体、きっちり報復してるじゃないか、しばらく噛み合わせがおかしかったぞ」
「知りませんっ!」
「そう怒るな、それで思い出したことがある」
「……何ですか?」
「あのときは訓練ながら、命のやり取りからくる興奮のせいだと思っていた。お前ほどの使い手もそういないしな……だが、お前でなければああ昂ぶりはしなかった」
「……っ、……そんな目で見ないで下さい」
「今も昔も、お前には煽られて敵わんな」

 ダグリード侯爵家は、今日も平和です。
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