Etoile~星空を君と~

結月

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第二章

#6 歩み

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 まだ薄紫の空が広がる夜明け前。
 ミユは芋虫のようにくるまっていた布団から抜け出ると、服を着替え部屋に置かれた姿見で自身の身なりを確認する。鏡に映った小さな少女は相変わらずの一丁羅であるワンピースに先日もらったお下がりのセーターを着ていた。少しはねた前髪を手で押さえつけるようにして直すと、頬をパンパン!と叩き刀を手に取る。
 一人を除きまだ寝ているであろう皆の迷惑になるまいと、古い木造の廊下を音を立てぬよう歩いていき扉を開け外へ出て行く。
 アルカディオの街は四方八方に人工的に造られた川が流れていることもあり、春先の早朝には霧が浮かぶ。盆地状であるこの街は高台にあるオリーブ堂から見ると、まるで雲の中に浮かんでいるようでなんだか幻想的だった。
 ミユは先日と同様ソニアの部屋の窓下で素振りをしているヒノワの姿を見つけると、少し躊躇いながらも近づいて行く。
「おはよ…」
「早起きをするのは大いに結構だが、またどこかで居眠りされると困る」
 ヒノワは素振りをしたままちらっとミユを見ると相変わらず悪態をつく。ミユは返す言葉もない、というように溜息を吐いた。
 今日からヒノワに稽古をつけてもらうことになっているのだが、今の様子からしてまた無言で素振りだけをする時間になりそうだ。ミユはとぼとぼとヒノワの隣に立つと素振りを始めた。
(うう…上手くやれる自信ないよぉ……)
 どうせ稽古をつけてもらうならトーヤが良かったのだが、「剣術ならヒノワの方がいいよ」と断られてしまった。
 ヒノワが受けた家の修理の依頼が終わるまでの数日、ミユはひたすらに素振りを続けていたため重心を持っていかれるような事はなくなった。しかしミユの空を切る音がブオンッという音に対し、ヒノワは微かな音はすれども全く音が聞こえない。同じスピードで刀を振っているのに何が違うのだろう。やはり真剣と木刀の違いだろうか。
「そんなやかましい素振りじゃソニアが起きちまうだろう」
 沈黙の中やっと口を開いたヒノワはミユの素振りを横目で見ながら小声で言う。
「ならどうしてソニアさんの部屋の下でやってるの?玄関から反対側じゃん」
 古い天文台を住居として改築したこの建物は円柱状であり、ソニアの部屋は玄関はおろかヒノワの部屋からも百八十度、つまりは真逆に位置する。
「たまたまこの場所がコンディションがいいんだよ!お前の素振りがマシになるまで明日から場所を変える!」
 ミユの質問に何故か声を荒げたヒノワの頭上で窓がギィ…と開き、朝を知らせる小鳥の囀りのような声が聞こえてきた。
「おはよう二人とも」
 鮮やかな金髪を結いながら窓から覗いていたソニアは、今日も穏やかな笑みを浮かべ二人を見下ろす。
「おはようございます」
「よお……起こしちまって悪いな」
 ミユとヒノワは素振りを止めて各々ソニアに挨拶をする。
「いいのよ。毎日あなたの素振りが始まる頃には起きているから」
 ふふふっと笑うソニアにヒノワの顔は見る見るうちに赤く染まっていった。それを横で見ていたミユはそういうことか、と一人うんうんと頷く。
「一時間くらいで朝食の準備ができるから」
 そう言ってソニアが窓を閉めると再びその場に沈黙が流れる。
「ガキ、ソニアに余計なこと言うんじゃねえぞ」
「言わないよ。あと私ミユっていうんだけど」
 長い沈黙を破り顔を真っ赤にしながら釘を刺すヒノワにミユは苦笑しながら答えた。


          ☆  ★  ☆


 朝食を終えたミユとヒノワは再び剣術の稽古(ミユが勝手について回っているだけなのだが)をしていた。しかし追い払わないという事はオリヴァーの言いつけ通り剣術を教える気はあるのだろう。
「トーヤ今日も朝ご飯にいなかったね」
 ミユは相変わらずブオンッという音の素振りをしながら何の気無しに呟く。
 先日眠りの丘での一件以来、心無しか避けられている気がするのは自分だけだろうか。いや、出会って早々自身の財布の中身を把握していない食欲っぷりの結果奢ってもらったり(ヒノワのツケだが)言ってる側から迷子になったり出先で居眠りして迷惑をかけるなど、嫌われる心当たりはいっぱいあるのだが……。これから一緒にエトワールシリーズを壊していく仲間だというのに嫌われてしまうのは些か辛い。
「あいつは基本朝に弱いから午前からの依頼がない日はいつもそうだ。ガキ、トーヤがなんでエトワールシリーズを壊そうとしてるか知ってるか?」
「知らないけど…知ってるの?」
 まさか会話が続くと思っていなかったのでその事に驚いたが、ミユは本人にはぐらかされた答えをヒノワが知っていると思い思わず素振りをする手を止める。
「俺も知らねえよ。あいつとは長いこといるが未だによく分からん時がある」
 つまりは「気にするな」と言いたいのだろうか。ソニアの言う通り少しは優しいところもあるのかもしれない。ミユはにんまりとしながらこのチャンスを逃すまいと続けてヒノワにも質問してみる。
「ヒノワって東部出身なの?」
 着流を着ていたり刀を扱っていたりと、ミユの母の一族、サクラネの派生の地でもあるアルカディオ東部の人間なのだろうかとは思うものの、東部の人間はアルカディオそのものを嫌う人が多い。何せ二十数年前にアルカディオに侵略を受け領土となったばかりだとか。その歴史は浅く因縁は深い。伝統を重んじ争いを好まない人間が多いとされる東部は、軍の一方的な侵攻の末、何があっても刀を軍事に使わないという約束の下アルカディオの支配下に下ったのだ。そのため同じ国内でも互いに相容れぬ事が多く、東部の人間が他の地へ赴く事は殆どないとされているが……。オリヴァーが言うに''育ての親''と繋がりがあるみたいなのだが一体どういう経緯でこの家族の元に居候をしているのだろう。かく言う自分もそんなこんなで居候なのだが。
「ヒノワさんって呼べクソガキ」
「じゃあガキって呼ぶのやめてよ」
「……………」
 ヒノワは内情に触れられたくないというよりは、自身よりも一回り以上歳下の子供に呼び捨てにされたことを不満に思ったらしく小さく舌打ちをした。前言撤回、無愛想で短気。大人気ないも追記である。
 再び沈黙の中素振りをしている二人の元へオリヴァーが何か紙をヒラヒラさせながらやって来る。
「お二人とも仲良くやっていますか?」
 どう見ても仲が良いとは言い難い二人を見ながらニコニコするオリヴァーを見てミユもヒノワも思わず「お前の目は節穴か!」と言いたくなる衝動を抑えた。
「何の用だ?じいさん」
 素振りを止めたヒノワは、オリヴァーがこれ見よがしに手にしている一枚の紙切れを見つめる。
「ええ、簡単な依頼が入ったのでミユさんにどうかなと持ってきました。トーヤ君から聞きましたよ。なんでもヒノワに借金があるんだとか?」
 ミユは今一番触れてほしくないネタに触れられ全身の毛穴から冷汗が噴き出るのを感じた。案の定背後からは突き刺すように痛い視線を感じ、穴があったら入りたいとは正にこの事だろうなと思った。
「借金が無いにせよエトワールシリーズの情報を集めるためにも大なり小なり依頼をこなしていくことが大切です。勿論報酬は生活費を差し引いてお小遣いとして使ってくださって構いません。まあ今回は全額ヒノワへの借金にあてがわれそうですが」
 オリヴァーは無慈悲の矢に射抜かれたミユを見てカラカラ笑いながら紙に書かれた依頼内容を簡潔に説明する。
「……彼女への結婚指輪を一緒に探して欲しいんだとか」
「はあ?そんなもん自分で……」
「なんでも依頼主の彼女は有名な資産家の娘。対して依頼主はごく普通の商人。身分が違いすぎて相手に何を与えていいか分からないそうです。要するに意気地無しですね」
 暫く紙に目を走らせていたオリヴァーは顔を上げてにこやかに微笑む。
「よく結婚まで漕ぎ着けたな…今までどうしてたんだよ…」
「身分の違いの恋!?なんだか物語みたいでロマンチック!」
「ええ、身分違いの恋が許される素敵な時代になったものです」
 いつの時代もきっと人間が存在する限り身分違いの恋というものは存在するもので、ミユの両親も長き歴史を守る刀の名家の娘と素性の知れない冷徹非道な科学者、実質身分違いの恋だったのだろう。何にせよ夢見がちな年頃の少女にとって''身分違いの恋''は魅惑的に感じるものである。それはきっとどこかで必ず結ばれると信じているからだろう。
「そんじゃ精々俺への借金を稼ぐんだな」
 ヒノワはさっさと行けというように手でミユを追いやるがオリヴァーに服の襟元を掴まれる。
「何勘違いしてるんですか。あなたも一緒に行くんですよ、ヒノワ」
「「はあ!?」」
 二人して息ぴったりに叫んだミユとヒノワにオリヴァーはまるで曲芸でも見ているかのように小さな拍手を送った。
「ガキのお守りはトーヤの仕事だろ!なんで俺が……」
「トーヤ君はソニアの買い物の付添いです。なので今日はヒノワがミユさんの保護者です」
 オリヴァーはヒノワの手にある木刀をスッと取り上げるとさあ、というように背中を押す。
「ていうか指輪買うだけなら俺が同伴する程危なくないだろ」
「危なかったら同伴するのですか?」
「っ………」
 口をつぐませながら黙るヒノワを見てオリヴァーはニヤニヤ笑う。
「そういう優しいとこ彼にそっくりですね。ミユさんも互いに親睦を深めるチャンスですよ」
 オリヴァーはミユとヒノワをくっつけるように両脇から押さえつけると、送り出すように二人の背中を押す。
「じいさんに免じてついて行ってやるだけだぞ」
「分かってるよ」
 犬猿の仲、というより似たもの同士のどんぐりの背比べに見える光景を微笑ましげに見つめながらオリヴァーは依頼主との待ち合わせ場所を伝えると、二人が歪み合いながら出かけていくのを手を振りながら見送った。


          ☆  ★  ☆


「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
 ソニアは両手いっぱいに買い物袋を下げながら隣を歩くトーヤを苦笑しながら見る。
「いいよ、ミユを連れてきたのは僕だし…必要な買出しは付き合う」
「ふふ、なんだかヒノワがやって来た頃を思い出すわね」
 元々三人だった家族は細々と暮らしていたのだが、ヒノワがオリヴァーの用心棒としてやって来た時から生活が大きく変わった。
 まず第一に食材の量。老人と少女、歳の割に華奢な少年はとても少食であったため、買い貯めたものを備蓄し、買い出しに出ることなど殆どなかった。しかし、成人男性であるヒノワが増えたことにより食材の量も増え、こうして月に一度街に買出しに来るのであった。まあ、ミユの食べっぷりを見る限り月に二度になりそうなのだが……。
「ヒノワが来てからトーヤも父様も変わったわ」
「そう…かな?」
 ヒノワが来てから家族の雰囲気が変わったというのは本当である。まるで長い長い夜に陽が昇ったかのように明るくなり、三人の家族にとってヒノワは太陽のような存在だった。同時に、太陽と星が同じ空に輝くことができないようにトーヤとヒノワは始めこそ相容れない関係であったのだ。
「太陽が昇れば夜が明け星の光も消える…」
 トーヤはポツリとそんなことを呟いてみるが、今ここで太陽と呼んだのは恐らくヒノワの事ではないのだろうとソニアは思った。
「私笑ってるあなたが好きよ」
 トーヤより数歩先に踏み出たソニアは、金色の稲穂のように輝く髪を靡かせながらくるりと振り向くと、優しく目を細めて微笑む。
「ミユのことどう思ってるの?」
「…………分からない」
 現在心の中にあるモヤモヤとしたものの核心に触れられ立ち止まってしまったトーヤを見て、ソニアは眉を下げ少しだけ苦笑した。
 正直言うと、ミユと行動を共にしようとした理由なんて利害関係以外に無い。そんな純粋な彼女を利用しようとしている自身に天が罰を与えたのだろうか。
「僕にとってミユは必要な存在……でも出会わなければよかった…とも思ってる」
「それは太陽と星が共に輝けないからかしら?」
「………」
 トーヤが買い物袋を握る手に力を込めたのを視界に捉えたソニアは、優しく微笑みながら空を見上げる。
「太陽の光は強くて時に周りの光を消してしまうわ。だから昼間に星を見ることはできないけど、でも今確かにここに在るのよ」
 ただ何処までも青色だけが続く晴天の空へ向かって手を伸ばすソニアの姿は、まるで蟠りのない大空へ飛び立とうとしている鳥のようだった。
 トーヤは思わず出そうになった「行かないで」という言葉を寸前で飲み込むと、代わりに大切なものをしまい込むようにソニアを映した瞳をゆっくりと閉じる。目の前の血の繋がらない姉は、どんな時だって全てを許し優しく包み込んでくれる。本気で怒られた事はきっと一度くらいだろう。堪らなく愛おしく守りたい、守らなければならないそんな存在であった。
「太陽は恩恵。あの子はきっとトーヤにとって特別な存在になると思うの。それに……」
 空から弟へ視線を移したソニアは先程の瞳を細めた優しい微笑みとはまた違い、嬉しそうに口角をいっぱいに上げながらにっこりと笑う。
「あなたたちとてもお似合いよ」
「なっ……」
 星空を映したかのような瞳をいっぱいに開いたかと思うと、自身の顔が赤くなっていく自覚があったのか、トーヤは火照りを冷ますように顔を二、三回横に振った。
「ふふふ、トーヤも男の子ね」
「ソニアぁ……」
 トーヤは溜め息を吐いた後、自身を待つソニアの隣に立つと、再び二人並んで歩き始めた。
「……上手くやれるかな?」
「あなたが願うならきっと応えてくれるわ」
 トーヤが他人を寄せ付けるなんて出会った頃は想像もつかなかった。ソニアは幼き頃の弟と過ごした記憶を思い出しながら、今、目の前で誰かに歩み寄ろうとしている姿を子の成長を喜ぶ母親のように瞳に焼き付ける。トーヤという存在はソニアにとってもまた、初めてできた弟であり、大切で愛おしい、誰よりも幸せになってほしい家族であった。
「ありがと」
「どういたしまして」
 照れ臭そうにお礼を言った弟の頭をソニアが撫でると、火照りが冷めたばかりの白い肌は再び熱を帯びた。

 願わくば、こんな日常がずっと続いてほしい—————
 
 二人ともそんなことを考えながら買い物のメモに目を通し、目的の店に入っていった。
 

          ☆  ★  ☆


 皆が出かけしん、と静まり返ったオリーブ堂にはオリヴァーだけが残っていた。
 家族が増えたことで日々が騒がしくなったため、今や一人でぽつんといる時間は貴重なものとなった。
(随分賑やかになりましたねぇ…)
 オリヴァーはずっとしまい込んでいたアルバムを久々に捲るかのように遠き日の思い出を辿る。
 自分の家族を捨てたのはもうずっと前のこと。家を飛び出してただ自身の目的のために奔走した。そのためならどんな事にも手を染めた。いつしか自身の代わりに軍の総司令官となった弟には愚兄と呼ばれるようになった。たった一人の血の繋がった家族に愚弄されようと、目的に向かって歩み続けることを辞めはしなかった。しかし一人目の家族に出会ったあの日、歩を進める事をやめていたのかもしれない。
 戦争の最中、人民の住む市街地にも戦火が及んでいた十数年前。両親を喪ったという幼い少女と出会った。長いこと人道を外れた道を歩んでいると時々無性に''善い事''をしたくなるもので、いわゆる気まぐれでその少女と共に暮らすことにした。
(気まぐれ……とは我ながら都合のいい解釈です)
 オリヴァーは一人苦笑しながら再び記憶を辿る。
 血の繋がった家族はいれど母は早くに亡くなり、父と呼ばれる人物は滅多に姿を現さない。唯一多くの時間を共にした弟には恐らく嫌われていた。とにかく''家族''というものがよく分かっていない自身が子供を育てるということは想像以上に大変なことだったのだ。しかし、無垢にも等しい少女との生活は同時に自身にたくさんの贈り物を与えてくれた。
 そして悲しい程に美しいあの星の夜、二人目の家族に出会ってしまったのだ—————
(今でも時々思いますよ…あの時あの子を拾わなかったらどれだけ楽だったかと……)
 血の繋がった家族と血の繋がらない家族。二つの存在がかけられた天秤はいつだって一方に傾こうとしてくれない。
 オリヴァーはそっと瞑目しながら心臓に手を当てる。弱々しい鼓動は否応なく選択を迫ってくる。
 暫く食堂の椅子に腰を掛け神妙な顔で悩んでいたオリヴァーは、ふと扉を叩く音で現実に引き戻される。
「今出ますよ」
 そう言って普段よりは少々急ぎ足で扉を開けに行ったオリヴァーは、扉の外に立っていた人物を見て取って付けたような笑顔を消した。
「その身体でよく抜け出てこられましたね」
 目の前に立つのは土色に近い全身に包帯が巻かれ、九十は超えている老人。杖をついていてもその足は震えており、動いて言葉を発していなければミイラと間違えてもおかしくはない。きっと今頃街では小さな騒ぎになっているだろう。
「かわいい息子に会いに来たのだ」
 殆ど骨に近い痩せ細った手を息子だというオリヴァーへ向かって伸ばすが、その手は容赦なく跳ね返されてしまう。
「あなたの息子になった覚えはありません。ドーヴェはどうしたんです?」
「ある資産家が隣国と手を組んでいたらしくてな。その調査で朝から出ている。より良い国を創るには危険因子は根絶やしにせねばならない」
 老人は跳ね返された手を摩りながらニィッと口角を不気味に引き攣らせると、包帯の隙間から僅かに見える瞳でオリヴァーを捕らえるように映す。
「弟が心配なら正しい選択をすることだな。あれはまだ見つからないのか、オリヴァー」
「……はい」
 オリヴァーは顔に表情を浮かべないまま白くなった睫毛で瞳に影を作る。
「天より制裁を与えし神の化身と謳われるエトワールシリーズ……それを手にした時、我が国は永遠の繁栄を手に入れることができるのだ」
 そう言ってオリヴァーの胸ぐらを掴むと老人は皺くちゃの顔を近づける。
「これも…貴様にだってもう時間がない。一刻も早くそのエトワールシリーズを探し出せ。さもなくば…分かるな?」
 老人は自らとオリヴァーを交互に指を指す。包帯でほぼ表情が分からないというのに、見えない圧による剣幕は凄まじいものだった。
 オリヴァーは唾をごくりと飲み込めど、老人の剣幕に微動だにするこことなく口元をふっと緩め、いつもの笑顔を作る。
「分かっていますとも」
 老人はオリヴァーの取って付けたような笑みを見て小さく舌打ちすると、胸ぐらを掴む手を離し杖をつきながら震える足でゆっくりと踵を返す。
「貴様が家族を見捨てて楽になれる愚兄でないことを祈っているぞ」
 念を押すようにそう言うと老人はオリーブ堂を後にした。
 再び一人になったオリヴァーは深い溜息を吐くと、ソニアが常に誰でも飲めるようにとカウンターの隅に用意してある飲料水の入った水差からコップに水を注ぎ入れる。そのまま自室へと戻ると、何やら錠剤の入った小瓶を棚から取り出し、それを二錠口に含み水と共に流し込む。
「さて、どうしたものですかねえ……」
 オリヴァーは眉間に皺を寄せながら心の中で天秤を少しつついてみる。たった一人の家族という錘はどんな錘よりも重かった。しかし、軽く見ていたもう一方の錘もいつしか重みを持ち、気づいたら天秤は水平を示していた。
(最後にこの天秤に乗るのはきっとあの子……)
 優しい彼女は一体何方を選ぶのだろうか。躊躇えば全滅、たった一つしか選べない未来を小さな少女に選べというのは些か荷が重いだろう。それでも目的のため、守りたいもののため多くのものを犠牲にして進み続けてきた歩みを止めるわけにはいかない。
「あなたに業を背負わせてしまう事をお許しください、ミユさん」
 オリヴァーはそうポツリと呟くと、窓の外にどこまでも広がる青空を見つめた。すると、遠くの空から一羽の鳩が飛んでくるのが見えた。
「やれやれ、今日は慌ただしい一日ですねぇ……」
 そう言って窓際に停まった鳩の足に括り付けられた紙を開くと、オリヴァーは溜息混じりに苦笑した。

          ☆  ★  ☆


「ん…?」
 買い出しが終わり帰宅しようとしていたトーヤとソニアは、前方から壁伝いによろよろと歩いて来る老人に目が止まる。
「ごめんソニア、これ持ってて…」
 トーヤは両手に持つ荷物の軽い方をソニアに手渡すと、空いた片手を今にも膝から地に着いてしまいそうな老人に差し伸べる。
「あの…お爺さん、よかったらお家までお送りしましょうか?」
 正直不気味と言える老人に内心恐怖に近いものを抱きながらも、トーヤはそれを悟られぬよう笑顔を作る。
 老人は顔を上げトーヤを見ると、包帯から見える僅かな目を細め、差し伸べられた手を勢いよく跳ね返した。これにはソニアも驚いており、姉弟揃って暫しの間瞠目したまま固まっていた。
「その取って付けたような笑顔…気に食わん」
「すみません…そんなつもりじゃ……」
 トーヤは困ったように眉を下げ老人に謝罪するが、老人は長い睫毛が影を作ったその瞳を見て何故か怒ったように睨み返す。
「忌々しい瞳…まるであの日を思い出す」
 捨て吐くようにその言葉を残すと老人は再び壁に手をつきながら歩き出した。
 トーヤはその言葉に全身の力を奪われたかのように一瞬後ろによろけると、背後にいたソニアによって支えられる。
「大丈夫?お爺さん何て?」
「ううん、なんでもないよ。余計なお節介だったみたい」
 トーヤは苦笑しながら何だか首元を気にするように服に包まれた首周りにそっと触れている。それは彼が動揺している時によく見せる、いわゆる癖であった。
 そんな様子を見たソニアはトーヤの前に手を差し出す。
「それじゃあ…私をお家までエスコートしてくれるかしら」
 差し出されたその手は、手入れこそ念入りにされているものの、若い年頃の女性というには少し赤切れの痕が残る。トーヤは微笑み優しい手を取ると、共に丘の上に建つ我が家へと歩き始めた。
 

          ☆  ★  ☆



「忌々しい…忌々しいのだ」
 無事帰宅した老人は自身を覆い尽くす記憶を振り払うように頭を掻きむしる。それは昔の記憶。自身しか知らない遠い遠い昔の記憶。星がとても綺麗な夜の記憶。
「消えろ!!」
 しゃがれた声で悲痛なまでの奇声を上げながら、老人は机の上にある照明やら書類を散乱させる。その中に混じっていた小さな箱状の何かが、落ちた拍子に旋律を奏で始めた。
 その音色に我に返った老人は皺くちゃの手で顔を覆い、暫くその場に蹲る。しん、と静まり返った部屋に響く音色は老人の心境とは裏腹に、小さな少女が星の瞬きのように笑っているような、そんなメロディー。それを口ずさむ彼女は誰よりも愛おしい存在だった。
「やめろ…行かないでくれ……私は、お前を………」
 老人は宝物を包み隠すようにその箱、オルゴールを胸の中で抱きしめる。メロディーがゆっくりになった頃、床に散らばったものの中から用紙とペンを掴むと、何かを書き綴り指笛を吹いた。
 数秒の後、窓辺に飛んできた一羽の鳩の足に先程書いた文書を括り付けると再び指笛を吹く。
「理想郷に憂いは不要」
 雲一つない空を飛んでいく鳩を見つめながら老人は惜しむように一音一音を刻むようになったオルゴールを、音色をしまい込むようにそっと蓋を閉じた。
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