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第二章
#10 それぞれの答え
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「さっ…さあいらっしゃいいらっしゃい。ラブラブ夫婦の(小声)愛情たっぷり野菜だよ~……」
「このトマトなんていかがかしら?ダーリンみたいに真っ赤で美味しいですよ」
顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに用意された台詞で客を呼び込む夫と巧みなセールストークで野菜を売る妻。ヒノワとソニア扮する農家のラブラブ夫婦の店はそこそこに繁盛していた。
北西の町の外れで月に一度行われるバザー。野菜や手作りの雑貨などを売ったり、珍しいものを求めて買い物に訪れる人で会場は大変賑わっている。人の出入りが多いため普段なら多少の警備がいるものらしいが予想通り今日に限っては人員を亡命阻止のために割いているようで、ヒノワは横目でチラチラと周りに軍服を着た人間の姿がないか窺っていた。
(まあまさかこんなとこで一日野菜売ってるとは思わないわな…)
ヒノワは少し拍子抜けというように懐に隠してある刀に目をやる。
「何もないに越したことなんてないのよ」
ヒノワとソニアが残りの野菜を荷台から下ろしていると、一際大きな木箱の中からコンコンとノックが聞こえた。
「ねえ少しだけバザーを見て回っちゃダメかしら」
レイチェルは箱の隙間から少しだけ顔を覗かせると懇願するように手を合わせる。
「あんた自分の置かれてる状況分かってんのか?」
ヒノワは眉間に皺を寄せてレイチェルを叱咤する。
「そうよね…ごめんなさい」
レイチェルがしゅん…と箱の中に引き下がるのを見てソニアもヒノワの腕を掴み言う。
「お願いよヒノワ」
「まあ…見たところ軍の奴もいねえし…。本当に少しだけだぞ」
ヒノワは深い溜息を吐くと人目につかぬように木箱を開けレイチェルを外に出す。レイチェルはずっと同じ体勢だった身体を伸ばすとヒノワにお礼を言う。
「ここは俺一人でいいからソニアもついて行ってやれ」
ソニアとレイチェルを見送るとヒノワはもう一つの大きな箱にもたれかかる。
「あんたの娘が見たいものって何なんだろうな」
ボソッと語りかけるも箱の中から返事が返ってくることはなかった。
「犯罪因子は根こそぎ刈り取るのが軍のやり方だ。国への反逆罪なんて誰の権力を持ってしても一生牢から出てこられねえ。娘と一緒に亡命しようとしたあんたの判断は間違っちゃいねえよ」
ヒノワはよいしょ、と背筋を伸ばすと沈黙を続ける箱をポンポンと叩き持ち場に戻る。が、おおよそバザーには似つかわしくない軍服だけに限らず眉間に濃い皺を寄せた客にヒノワは皮肉たっぷりの笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。農家の愛情たっぷり野菜はいかがでしょうか?」
「いない……」
レイチェルは四方八方に頭を巡らせるが探している影を見つけることができず肩を落とす。
「誰かを探しているの?」
「ええ…私の大切な人…旅商人なのだけどこのバザーに来てるかなって思って……」
レイチェルは自身の頭に飾られた紅いリボンのバレッタに手をやりながらポツリと呟く。
「大切な人?」
「私にたくさんの思い出をくれた大切な人。最後にもう一度だけでいいから会いたかった」
虚空を見つめながら悲しげに笑うレイチェルをソニアはそっと抱き寄せる。
「ありがと…ソニアはあったかいのね……」
レイチェルはソニアの温かな胸の中に顔を埋めるとずっと我慢していた涙が溢れて止まらなくなった。これで本当に最後。分かっていてもいざ突きつけられると思い残したことばかりで、それでもここを去らねばならない。
ひとしきり泣いた後、赤く腫れた瞼を擦りながらレイチェルはふと思い出したように顔を上げる。
「そうだ、あっちに行ったら名前変えなきゃいけないの。だからね、あの、ソニアって名前にしていいかしら」
「ええ、もちろんよ」
二人は笑い合いながら手を繋ぐとヒノワの元へ戻ろうとする。しかし、遠くで黒い軍服を着た男がいるのを見つけ立ち止まる。不幸にも軍人と目が合ってしまったレイチェルは全身から冷や汗が出るような感覚に襲われたが、レイチェルの顔を見ても軍人は特に追いかけてくるようなことはせず、手を挙げながらこちらに近づいてきた。
「もし、お嬢さん方。このバザーで隻眼の男を見かけませんでしたか?」
“隻眼の男”。恐らくこのバザーを隠れ蓑にしていることに軍は勘付いていると察したソニアは、動揺が顔に出ぬよう小さく深呼吸をすると柔らかな笑みを浮かべる。
「さあ…知らないわ」
「そうですか。また見かけたら教えてください」
ソニアとレイチェルは軍人が去って行くのを確認すると一際混んでいる人混みの中に紛れる。
「早くヒノワに伝えないと」
急ぎ足でヒノワの元へ向かうが、最悪の光景を目にしたソニアは足を止める。
「どうしたの?ソニア…」
「レイチェル、このまま気づかれないように荷台の後へ隠れて」
ソニアの声から穏やかさが消えたのを感じたレイチェルは今この現状が一大事であると察する。
「大丈夫、私たちを信じて」
ソニアはレイチェルの手を握りしめると荷台の背後へ回るように促す。少し躊躇いながらもレイチェルが行ったのを見届けると、息を大きく吐いて歩いて行く。
「ここで何をしている」
「見て分かんねえか?野菜売ってんだよ。あんたこそこんなとこで何してる?まさか総司令官殿がバザーの警備に就く程軍の人手が足りてないのか?何にせよ買わないなら商売の邪魔だ」
しっしっ、と追いやるがドーヴェは一向に立ち退かず、一枚の紙をバンっと突き付ける。
「資産家ヴィクター・アンダーソン。先日国家機密を隣国に受け渡したとして指名手配されている。娘も一緒だ。昨晩ローブを着た怪しい二人組が貴様らの所へ向かっているとの情報を受けた。国に仇をなした者が貴様らに頼むことなどただ一つだろう」
「亡命の手伝いをしてるってか?俺らだって慈善事業じゃねえんだ。罪を犯してまで仕事はしねえよ」
ヒノワはドーヴェを見ることなく淡々と野菜を並べる。
「慈善事業でなくとも損得勘定のみで動くような貴様らでもないだろう。いつもの格好はどうした」
「買い被るなよ。そこまで推測してんならじいさんから依頼の受諾証明書の有無を確認すりゃいいだろ。無理矢理がお前らの専売特許なんだからな。それとも天下の総司令官殿も兄には敵わねえってか」
煽るようなヒノワの態度にドーヴェの眉間に寄せられた皺は一段と濃くなり、こめかみに青筋が浮かぶ。
「黙れ!二度と私の前で愚兄の話をするな!!」
辺りが一瞬しん、となる程の怒声に周りの客たちも遠ざかり、その一帯はヒノワとドーヴェの二人きりとなった。
「…いずれにせよ亡命を許せば国の秩序が乱れる。貴様のつまらん正義で仲間が死んだようにな」
冷静さを取り戻すようにツルのない眼鏡をくいっと上げるとドーヴェはヒノワを一瞥する。すると、ヒノワの片方だけの切長の目はいっぱいに見開かれ虚空を捉えて離さなくなった。
何故あの時友は死なねばならなかったのだろう。
閉じられた瞼の裏で今でも鮮明に浮かぶ友の最期。
(俺が、殺したのか…?俺があいつを……?)
頭の奥でぐるぐる回る思考について行けなくなった身体が火照る。ガクガクと震える手は無意識のうちに懐へと伸びていく。
「あいつを………あいつを殺したのはあんただろ!」
ヒノワは鋭い眼光でドーヴェを睨み懐の何かを掴む。それを抜こうとした手は寸止めのところでソニアによって阻止された。
「ヒノワ」
温かい手で握られた震える手は次第に鎮まり、ヒノワは瞑目して一呼吸置く。
「危ねえから手離せ」
ソニアは少し躊躇ったがヒノワが冷静であることを確認するとそっと手を離す。ヒノワは店頭に並べてあった林檎を一つ掴むと、懐から出した果物ナイフで皮を剥き始める。
「仕事のやり過ぎでストレス溜まってんじゃねえのか?ほらよ」
ヒノワが差し出した林檎は皮の部分が兎の耳のように器用に切られていた。ドーヴェがフンッと顔をしかめて受け取ろうとしないのが分かるとヒノワは自身の口に放り込む。まあ元より受け取るとは思っていないのだが。
「騒がして悪かったな。ほらお詫びの林檎の試食だ。皆食っていってくれ」
ソニアも手伝いながら次々に林檎を剥いていくと寄って来る客に振る舞う。
「話しは終わっていないぞ。あの大きな箱の中身は何だ」
店に集る客を押し分けてドーヴェは一際怪しい大きな木箱を指す。
「あれはじいさんに頼まれた超幻の骨董品を買ったらしまうために用意したんだが生憎店が大盛況で買いに行く暇がなかったんだよ」
ヒノワはわざと箱の前に立ちはだかるが、裏手に回っていた他の兵士により箱の蓋が開かれる。
これまでか、と腹を括ったヒノワは今度こそ懐の刀に手を伸ばす。
「総司令官!中にあるのは毛布のみです!」
「もう一方は!?」
「空であります!」
ドーヴェは振り返って喧騒的な面立ちでヒノワを見る。
「超幻の骨董品を入れるんだぞ?傷つかねえように毛布で包むのは当然だろ」
ヒノワはしっしっと箱の周りの兵士たちをどかせると箱の蓋を閉める。ドーヴェはギリっ…と歯を噛み締めると右手を横に掲げ指示を出す。
「各班に鳩を飛ばせ!北西方面の国境に向かうようにと!」
「了解です!!」
兵士の一人が指笛を吹くと一羽の鳩が飛んでくる。飛んできた鳩に伝達を書いた紙を括り付けようとしたその時—————
「あー!しまった、俺のおやつがー!!」
頭を抱えたヒノワの足元には大量の豆がばら撒かれていた。それを見た鳩は兵士の前で翼を羽ばたかせるとヒノワの足元へ飛んで行き地面に転がる豆を一粒一粒食べ始める。周りの木々にいた他の鳩たちも一斉に飛んできて辺りは鳩と逃げ惑う人で溢れ返る。兵士が指笛を吹くも豆の前では反応を示さず、最早どれが軍の鳩だか分からなくなった。
「備えあれば憂いなしってな」
ヒノワは足元の鳩たちを避けながらソニアが手にしている鞄を受け取ると共に走り出す。
「クソっ!舐めた真似を…!ここにいる者たちだけでいい!今すぐ国境へ向かえ!!」
ドーヴェの怒声にも似た指示に兵士たちは一斉に北西に向けて走り出した。
☆ ★ ☆
林の中を手を取り合って走る二つの影。引かれているヴィクターは今までこんなに全速力で走ったことがないのか息も切れ切れだった。そんなヴィクターを引っ張るように走るのは娘のレイチェル。従来なら美しく飾り立てて野を全速力で走ることもない。そんな彼女の顔には滝のような汗が流れ、髪は乱れ高級な装飾があしらわれたヒールの靴はとうに脱ぎ捨てていた。
「すまなかった」
背後からポツリと聞こえた声にレイチェルは振り返ることなく走り続ける。
遠くから数人の男の声が聞こえてくる。恐らく軍の人間であろう声は次第に近くなり、これ以上限界を超えた足で走っても追いつかれるだけだと判断したレイチェルは、ヴィクターを連れて近くの茂みの陰に身を隠す。茂みは蜘蛛の巣だらけで二人の髪や服に絡んだがヴィクターは最早文句の一つも言えないくらいに憔悴していた。
「追手が行くまでここでやり過ごしましょう」
二人は茂みの陰でじっと身を潜めていると次第に兵士たちの声が近くなってくるにつれて自身たち鼓動が速まるのを感じた。
「私が囮になるからお前は行け」
不意にヴィクターが茂みから出ようとしたのをレイチェルはすかさず止める。もしこんなに神経を集中していなければ咄嗟に止めることなどできなかったであろう。ヴィクターを押さえつけ兵士たちが通り過ぎるのを静かに待っていると、別の方角からまた別の兵士の声が聞こえてきた。
「女の靴を見つけたぞ!装飾からしてアンダーソンの娘に間違いない!こっちへ向かったんだ!」
逃げる途中で靴擦れを起こし脱いだ靴だが、もしかしたら錯乱できるのではないかという一縷の望みに賭けて自分達が向かう方角とは別の方角に投げておいたのだった。その作戦にまんまと引っ掛かった兵士たちは皆靴を見つけた方角へと向かって行く。
レイチェルは安堵の溜息を吐くとヴィクターを睨む。
「何でさっきあんなことしようとしたの!?」
「お前を巻き込んでしまったせめてもの償いのつもりだった…」
レイチェルは手を宙に挙げるが、その手はヴィクターの頬を打つことなく力無く降ろされる。金持ちで自信家で少々我儘など嘘のように今目の前にいる父は弱々しい。たった一人の家族を叩けるわけがない。代わりにレイチェルは父を抱きしめる。裕福な食生活でふくよかに思えたが抱きしめてみると昔より痩せている。母が病に倒れたあの日から今日まで父はずっとたくさんのものを抱えていたのだ。
「私お嫁に行くの全然嫌じゃないのよ。だってこれからもお父様と一緒にいられるんですもの」
「レイチェル…!」
ヴィクターも震える手でレイチェルを抱きしめ返すと二人の親子は暫く年甲斐も無く泣いていた。
「いたわ」
ドーヴェの目を掻い潜りアンダーソン親子を追いかけていたヒノワとソニアはようやくその姿を見つける。
「ソニア!よかったあなたたちも無事で…」
ヒノワとソニアの姿を見たレイチェルは安堵の溜息を吐くが、友人たちを完全に巻き込んでしまったことを思い出してハッと目を逸らす。
「ごめんなさい…あなたたちを巻き込んでしまって……」
「何を今更。まあ後のことはじいさんが何とかしてくれるだろうから気にすんな。ここまで来たら最後まで依頼請け負ってやるから。そんならしくねえ面すんなヴィクターさんよ」
ヒノワは今朝までの威勢を完全に失ったヴィクターを見る
「本当に何と礼を言ったらいいか…」
ヴィクターは弱々しく震えた声で深々と頭を下げた。
「さあ、落ち合う時間までまだ少しあるし着替えましょう。お嫁に行くのにその姿ではいけないでしょう?」
ソニアはレイチェルの涙と泥で汚れた頬をハンカチで拭うと、鞄から白いレースのワンピースを取り出す。
「これ…ウェディングドレス?こんなものどうして……」
「ドレスとまではいかないけど昨日作ったの。友達の門出をお祝いしたくて。あり合わせの布と装飾で作ったからちゃんとしたものじゃなくてごめんね」
レイチェルは真っ白なワンピースが汚れないように泥だらけの手を自身の服で拭うとそっと受け取る。
「ううん、嬉しい…本当にありがとう…!」
当初見ず知らずの隣国の男と結婚させられると知った時は酷く絶望した。一時は一人で逃げ出そうとも思った。大切なものは全て置いていく覚悟だった。けれど最後にずっと消えることのない、手放したくない大切な思い出を得た。レイチェルは熱く喉の奥に込み上げてくるものを飲み込むと満面の笑みを浮かべた。
「どう…かしら」
「とっても素敵よ」
ウェディングワンピースに着替えたレイチェルは少し恥ずかしそうにくるりと一周回って見せた。髪を纏めていた紅いリボンのバレッタはそのままにしたため、白一色のワンピースによく映えた。
「おお、いいじゃねえか。ヴィクターさんも見てやれよ」
隅でぽつんと立っていたヴィクターをヒノワが引っ張って連れてくる。娘の花嫁衣装を見た父親の反応というものはどれも同じなのか、ヴィクターは鼻を啜りながら「綺麗だよ」と呟いた。
「…さてそろそろ時間だな」
上空を見上げると空の色は青からオレンジに移り変わるところで、陽が沈む時刻であることを知らせていた。
林を抜け平原に出ると、平原を隔てて向こう側にある林の入り口に小さな人影が数人見えた。アルカディオとオルフェンディア、二つの林の真ん中に位置する国境である平原。向こうの林にいるということはオルフェンディアの人間である。四人は警戒しながら近づいて行くと、数人の影のうち背が高く上品な口髭が目を惹く初老の男性が丁寧な所作でお辞儀をする。
「ヴィクター・アンダーソン様、レイチェル・アンダーソン様でございますね?私オルフェンディアの外務大臣シュルツ・イバンと申します。……して、そちらの方々は?」
シュルツと名乗った外務大臣の男性は頭を上げるとヒノワたちをじっと見る。それもそのはず。超閉鎖的国家、軍を指揮するアルカディオ家の独裁政権と名高いアルカディオは、その厳しい法の下で平和が成り立っている。特に国へ仇なす行為への罰則は厳しく、好んで破ろうという者はまずいない。しかし、今回その法を破り敵国に情報を流したヴィクターはさて置き、今この場所に立ち会っているというヒノワとソニアも犯罪者にあたる。軍の密偵ではなくとも法を破った者であるということもまた警戒せねばならない理由に十分値する。
「ヴィクター・アンダーソンです。こちらはレイチェル。この度は我々の亡命を受け入れてくださり心より感謝を申し上げます。この方々は自身の立場が脅かされることを承知の上で我々をここまで連れてきてくださった恩人です。彼らがいなければ我々は今この場にいなかったでしょう」
ヴィクターも深々とお辞儀をすると傍に立っているヒノワとソニアを紹介する。シュルツはヒノワとソニアに敵意がないことを確認すると、林の中にいる男性を二人呼ぶ。
「アンダーソン氏、こうしてお会いできて光栄だ!私はオルフェンディアの首相バッカス・ベルマーチ。こいつはうちの三男、マルクです」
林の中から出てきたのは髭もじゃの中年男性と、息子だというのに父の遺伝子を全く継がなかったのか、ストレートの散切り頭の青年。
マルクは微笑むとヴィクターとレイチェル、そしてヒノワとソニアに挨拶をする。
「素敵な人でよかったわね」
「あいつら本当に親子なのかよ」
ヒノワとソニアも小声で話しながら各々会釈を返す。
「さてこちらが我が国への亡命を認める書類になります。ヴィクター様、サインを」
シュルツはオルフェンディアへの亡命認可証明書とペンをヴィクターに差し出す。ヴィクターはほんの一瞬留まったが、受け取ると自身の名を記す。
「これで正式にあなた方は我々オルフェンディアの国民となりました。さあそちらの軍に見つかってしまう前にお互いここを去りましょう」
シュルツは紙を確認すると、くるくると筒状に纏めて懐へしまう。
陽はすっかり沈み、空の色は夕焼けの赤に深い闇が少しずつ溶け始め、頭上では一番星が輝いていた。
ヒノワはふと背後を振り返り、しん、と静寂に包まれた林をじっと見つめる。
「頼む。あと少しだけ亡命を待ってくれないか」
「はい?」
突然のヒノワの申し立てにその場にいた者たち全員が驚く。
「何を仰るのです!?ここでの長居はせっかく亡命が成功したアンダーソン親子はもちろんあなた方にとっても不利益なはずですぞ!?」
シュルツは理解できないという表情でヒノワに迫る。
「頼む。五分…いや一分でいいから」
「さては軍を呼ぶための時間稼ぎ!?やはりあなた方はっ……!」
シュルツが血相を変えて懐に隠してあったピストルを構えた、その時—————
「まっ…待ってくださ~い……!!」
何かがこちらへと走ってくる音がすると弱々しくも訴えるような声が聞こえてくる。皆が一斉に林を見ると、そこには息を切らし膝に手をついている男性とその背中を摩る白髪の少年、ちんちくりんの少女がいた。
「シアン!?」
思っても見なかった人物の登場に一番驚いていたのは言うまでもなくレイチェルだった。
シアンは海藻のような前髪を分け額に滲む汗を拭う。
「お、お仕事に、来ました…」
深い深呼吸をして乱れた息を整えるとレイチェルの元に歩み寄り、最愛の人の晴れ姿をじっと見つめる。
「とても綺麗です、レイチェル」
「どうしてこんな所にっ…何しに来たの?」
真っ白なワンピースに身を包んだレイチェルを見てシアンは真っ直ぐな感想を述べる。一方でレイチェルは自身の覚悟が揺らぐを恐れながら戸惑ったようにシアンに詰め寄る。
「言ったでしょう。仕事に来たと。俺の、旅の思い出をあなたに届けに来たんです」
そう言ってシアンは右手で大事そうに握っていた小さな白い星のような花の束をレイチェルに手渡す。
「これ、は…エーデルワイスの花……?」
「これじゃ花束とは呼べませんが花嫁ならばブーケは必要でしょう?この花にこの二日間の旅の思い出、そこで得たこと出会った人、俺の想いの全てを込めました。これが俺があなたに贈る門出のお祝いです」
シアンの口から放たれた“門出の祝い”という言葉にヒノワは瞑目する。レイチェルは溢れそうになる涙を堪えながらエーデルワイスの花を受け取る。
「そのバレッタ、持って行くんですね」
レイチェルの頬を伝う涙を拭いながらシアンは彼女の栗毛の髪がまとめられた真紅のリボンのバレッタを見る。
「当たり前でしょう。あなたとの思い出だもの」
レイチェルは赤くなった鼻を啜りながら笑顔で笑って見せる。それはいつも自身の旅の話を楽しそうに聞いてくれた彼女の笑顔そのもの。自身の中でずっと輝き続ける思い出。
「そろそろ行かなきゃですよね。すみません引き止めてしまって」
暫く別れを惜しむように互いに見つめ合っていたシアンとレイチェルは、時の流れが止まることのない事実に向き合うように互いに背を向ける。
「要件は済みましたか、それでは今度こそ我々はこれで………」
「ちょっと待って父上。僕の婚姻相手はあの金髪の女性ではないのですか!?」
シュルツが今度こそ撤退しようとするとマルクがソニアに指を指しながら言う。
「お前写真をきちんと見ていなかったのか!?レイチェルさんはこちらの女性だぞ」
バッカスは慌ててレイチェルを息子の元へ引き寄せる。
「あのおじさんはどうでもいいとして嫁に来るんだからもう少しマシな装いしてると思うじゃないですか。しかも靴も履いていない!アンダーソン家の使用人か何かかと思っていました」
マルクは今度はレイチェルを指指しながら言う。表情からして悪気があって言ってるのではなく、思ったことが素直に口に出てしまう性格なのだろう。この手の発言には覚えがあったがいくらそういう性格だとはいえ、花嫁に対してはもう少し敬意を持つべきものだろう。と、マルク以外のその場にいる全員が思った。
「こら!マルク!社交辞令を身につけろといつも言っているだろ!だからお前はいつまで経っても社交界に出せないんだ!」
バッカスはマルクの頭をこづくと息子の非礼を詫びる。蛙の子は蛙、ということわざがあるが、ここまで百発百中、子供というのはやはり育て親に似るのだとミユは感心した。
「すみません。あっちに行ったらもっと高価で美しいドレスを用意するので」
マルクも眉を下げながらレイチェルに謝罪するが、正直自身の発言の何が悪かったのか理解できていないようだった。レイチェルは苦笑していたがそこまで言われて傷つかない女性などいないだろう。
「いいのは見た目だけかよ」
ヒノワは溜息を吐きボソッと呟くとシアンを見る。すると、シアンは両手を握り何かを決心したかのように歩いて行く。
「シアンさん?」
シアンは顔を真っ赤にしながらいつもとは逆に眉を逆八の字にしてレイチェルとマルクの間に割って立つ。まさかレイチェルを悪く言われたことで逆上したのか、と、ヒノワとシュルツはもしもの際に備えて身構える。
「何だい、君は…」
シアンはじっとマルクを見ると両手を高く挙げる。次の瞬間—————
「レイチェルはとても美しい人です!!!」
この二日間で聞いたシアンのどの声よりも大きな声にミユもヒノワもトーヤも驚くが、皆が一番驚いたのはその光景。シアンはマルクの足下の地面に頭をつけ土下座をしていた。
「どんな服を着ていようと、どんなに煤や蜘蛛の巣で汚れていようと彼女は美しいんです!!!!」
唖然と口を開けてシアンを見下ろしているマルクをよそにシアンは続ける。
「それは彼女の心が美しいから!!それが俺が惚れたレイチェル・アンダーソン!!!!!けど彼女を幸せにできるのは!!彼女の幸せを守れるのは悔しいけどあなただけなんです!!だから!必ず彼女と彼女の幸せを守ると!今ここで俺に誓え!!!!!!」
「ライバルに対し土下座とは相変わらずの意気地無しですねえ、シアンさん」
誰もが予想だにしていなかった光景に流れた沈黙は、突然の来訪者によって破られる。一同が声のする方を見ると、そこには馬と荷車を引いたオリヴァーが立っていた。
「じいさん!?」
「ヒノワ、バザーの会場に荷台と馬が置きっぱなしですよ。馬は借り物なので困ります」
オリヴァーは馬の手綱をヒノワに渡すとヴィクターに歩み寄る。
「ヒノワに依頼の受諾証明書を渡すのを忘れていましてね。ヴィクターさん控えはお持ちですよね。確認のため見せていただけますか」
「あ、ああ…。向こうに口座を作ったらすぐに振り込む…」
ヴィクターはボロボロになったスーツの懐から依頼の受諾証明の控えを取り出すとオリヴァーに渡す。
「…はい、確かに」
オリヴァーは受け取るとポケットから本物の受諾証明書とマッチを取り出したかと思うと、何も躊躇うことなく火を焚べる。
「なっ…何を!?」
オリヴァーは風で舞っていく燃えて塵となった受諾証明書を見届けるとヴィクターを見る。
「我々オリーブ堂はアンダーソン親子の亡命には一切の加担をしていない。そうでしょう?」
戸惑うヴィクターにオリヴァーは有無を言わせない威圧をかける。
「さあ、これで我々の身は潔白。いくら軍が詮索すれど証拠はない。あなた方が心配することなどありません。さてベルマーチ殿」
オリヴァーは今度はマルクとバッカスに向き直ると仮面のような顔で微笑む。
「社交辞令、というものも時に大切ですが、社交界において最も重要なのは外観に捉われず本質を理解すること。あなた方はここで無様に土下座するシアンさんをどう思いますか」
「愛した女性のためにここまでするなんて、まるで御伽噺のような御人だな」
バッカスは拍手をしながら笑うが、マルクはレイチェルを見つめる。どう見ても高価とは言えないが丁寧に作られた手作りのワンピース。ここより数百キロ離れた土地で咲く花。薄汚れても離さない真紅のリボンのバレッタ。その全てが今まで自分が見てきた高価なものより劣っていることは分かっている。しかし、それに決して敵わない何かを感じるのもまた確かであった。
「……あなたはたくさんの人に愛されているのですね」
「ええ、とても幸せなことに」
レイチェルは何一つ謙遜することなく胸に手を当てて自らを包む温かいものに思いを馳せる。
「シアンさんと言いましたか。僕に誓えと言うのなら顔を上げてその答えを見てください」
マルクはそう言うとレイチェルの前に立ち膝を地につく。
「マルク様!」
シュルツが止めようとするがマルクは阻む。
「あなたを愛する人の中に僕を入れてくださいませんか」
マルクはそう言いながら地に両手と頭をつける。
「やめぬかマルク!こんな醜態ベルマーチ家に相応しくないっ……!」
「蛙の子は時に突然変異で美しい白鳥にもなるものですよ」
「何を馬鹿げたことを!」
オリヴァーは拍手をしながらカラカラ笑うがバッカスは理解できないというように呆れ返る。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
レイチェルもワンピースを捲り膝をつくと深々と頭を下げる。地面に近いところで互いに目が合ったレイチェルとマルクは笑い合う。
レイチェルは立ち上がると座ったまま少し涙目で笑いながらこちらを見ているシアンに手を貸す。
「本当に泣き虫ね、あなた」
先程とは変わり今度はレイチェルがシアンの頬を伝う涙を拭う。
陽が沈みもう随分と経った空には点々と星々が輝き始めていた。今度こそ本当に別れの時を悟ったシアンはいつも通りに眉を八の字に下げてはいるが笑顔で最後の言葉を言う。
「お幸せに」
「ありがとう、シアン」
マルクに手を引かれレイチェルはアルカディオの国境を越える。
「皆さん本当にありがとうございました」
振り返ったレイチェルとヴィクターは再び深々と頭を下げると向こうの林に消えていった。
「お前があのお坊ちゃん殴ると思ってヒヤヒヤしたぜ」
ヒノワはシアンに寄りかかると肩を掴む。
「お恥ずかしながらヒノワさんのようにかっこよくビシッと決められる自信はなくて…結局俺は彼女にたった一つしかプレゼントをあげることができなかった」
シアンは笑うが、ヒノワであっても別の国のトップの息子を殴る度胸はないだろう。…まあ自分の国のトップを殴ったのだが。と、ヒノワは心の中で苦笑する。
「ねえ、シアンさん。エーデルワイスの花言葉は“尊い思い出”なのよ」
ソニアは友が旅立っていった方角を見ながら言う。
「レイチェルさん言ってたよ。シアンさんからたくさんのプレゼントをもらったって」
いつまで経っても永遠に色褪せることのない贈り物。そんな素敵なものをもらったのだ、と、ミユは昨晩のレイチェルの言葉をシアンに伝える。
「お世辞抜きで今日のあなたはとても立派でしたよ。これに免じて祝儀代わりの列車代はチャラにして差し上げます」
「は?え?あっ…ありがとう、ございます……?」
「さて、私たちも帰りましょうか。ミユさんたちは列車の往復切符がありますから北部の駅まで送ります」
オリヴァーは皆に荷台に乗るように促す。
各々の思惑が一同に介した二つの国の国境は再びいつも通りの静寂に包まれた。
「はい、これ依頼のお礼です」
帰りの列車でシアンは鞄の中から規定の金額が入った封筒を取り出す。
「受け取れないよ。だって指輪もプロポーズも何一つ依頼の成功していないんだもん」
ミユはシアンの差し出した封筒を押し戻す。
「いいえ、ミユさんは見事に俺の依頼をこなしてくれましたよ。言ったでしょう?俺の想いを伝えるのを手伝って欲しいって。あなたたちに依頼しなければ俺は何も知らないまま何一つ伝えることはできなかった。十分すぎる結果です。ヒノワさんへの借金があるんでしょ?」
シアンはミユの手にそっと封筒を握らせる。ミユは“ヒノワへの借金”という言葉にお金を返したいけど返したくないという感情が芽生え、ううむ…と唸る。その様子を見てシアンとトーヤは顔を見合わせて笑う。
「……どうしてレイチェルさんに告白しなかったの?」
北部の町から向かう時にシアンの大方の答えを聞いていたミユはこの結果に驚くことはしなかった。しかし、何故その答えを選んだかは聞いてはいなかった。
「俺は彼女はもちろん彼女の幸せも大切なものも大切にしたい。その何方も守るために一番いいものを選んだつもりです。ミユさん、あなたが教えてくれたんですよ。本当にありがとうございました」
何方か一方しか選べなくとも、そのもう一方も幸せになれる選択をする—————
ミユは真摯に見つめられ何だか照れ臭くなって頭を掻く。
「それに二度と会えないとは限りません。俺は旅商人です。いつかこの戦争が終わっていろんな国を渡り歩くことができるようになったらいつでも会いに行きますよ」
いつか来る平和を願って—————
シアンは車窓から見える空を見て愛する人に想いを馳せた。
☆ ★ ☆
列車で帰ってきたミユたちの後にヒノワたちが帰ってくると、オリーブ堂にいつも通りの賑やかさが戻ってくる。
「いや~…にしても長い二日間だったな」
ヒノワが背伸びしながら入ってくるなりミユはその服装を見て仰天する。
「うわ、ヒノワ何その変な格好」
「今更かよ」
ヒノワは舌打ちをしなが着慣れないスカーフとシャツのボタンを外す。
「ふふっ。やっぱり似合わないわよね」
「当たり前だろ。和服は俺のアイデンティティなんだからよ」
ヒノワは着替えるために自室へ戻って行く。
「急いでご飯作るわね」
「私も手伝う!」
そう言ってエプロンを着け台所に立つソニアにミユもダボついたセーターを脱いで並ぶ。
これがオリーブ堂の、この家族の日常風景。
仮初の平和に包まれたこの世界。様々な思惑が廻るこの世界でこの光景が本物でありたいと誰もが密かに思っていた。
夕食を済ませ晩酌をするヒノワの元にミユはそそくさと近づくと、シアンからもらった封筒を差し出す。
「その節はご馳走様でした」
ヒノワは猪口を片手に差し出された封筒を受け取ることはせずミユを見る。
「クソガキ、なんであいつ…シアンを連れてきた。あいつの行動一つで亡命が失敗することもそれが何を意味するのかも考えられたはずだ。なんで連れてきた」
ミユはもしや自分は怒られているのかと思い少し身を強張らせる。
「おじいちゃんから聞いてはいたの、落ち合う場所のこと。でもずっと言おうか迷ってた。だけど私自身が後悔すると思ったの。もしものことはあんまり考えてなかった…かもだけど……ごめんなさい……」
やはり仕事というものに私情を挟み危うく全てを台無しにしかねなかった自身を怒っているのだろうと思いミユは謝る。そんなミユの想いとは裏腹にぎゅっと握られた封筒が突き返される。
「この金はお前の功績だ。とっておけ。あれは俺の奢りってことにしといてやるよ」
ヒノワは猪口を軽く揺すって飲み干すとミユの頭に手を置く。
「明日の朝も稽古だ。寝坊すんなよ、ミユ」
ミユは何が何だか分からないというように目をパチクリさせるが、初めて呼ばれたその名に驚く。
「んだよ。俺何か変なこと言ったか?」
「ううん!よろしくお願いします、ヒノワさん」
ミユは改まってヒノワに対しお辞儀する。ヒノワは律儀に自身との約束を守る少女に溜息を吐いて苦笑する。
「ヒノワでいい」
「それじゃあヒノワ!明日からもよろしくね!おやすみ!」
手を振りながら自室に戻って行くミユに手を振り返すと、ヒノワは再び晩酌を再開する。
「秩序と損得勘定に縛られるよりこっちの方が断然性に合ってらあ……」
秩序を破り損をしようともそれでしか得られない結果がある。たとえそれで友を失った今があるとしても—————
酔いが回ったヒノワはうとうとと頬杖をつく。
ガラス張りの天井にはそんな彼を見下ろすように満月が照り輝いていた。
「このトマトなんていかがかしら?ダーリンみたいに真っ赤で美味しいですよ」
顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに用意された台詞で客を呼び込む夫と巧みなセールストークで野菜を売る妻。ヒノワとソニア扮する農家のラブラブ夫婦の店はそこそこに繁盛していた。
北西の町の外れで月に一度行われるバザー。野菜や手作りの雑貨などを売ったり、珍しいものを求めて買い物に訪れる人で会場は大変賑わっている。人の出入りが多いため普段なら多少の警備がいるものらしいが予想通り今日に限っては人員を亡命阻止のために割いているようで、ヒノワは横目でチラチラと周りに軍服を着た人間の姿がないか窺っていた。
(まあまさかこんなとこで一日野菜売ってるとは思わないわな…)
ヒノワは少し拍子抜けというように懐に隠してある刀に目をやる。
「何もないに越したことなんてないのよ」
ヒノワとソニアが残りの野菜を荷台から下ろしていると、一際大きな木箱の中からコンコンとノックが聞こえた。
「ねえ少しだけバザーを見て回っちゃダメかしら」
レイチェルは箱の隙間から少しだけ顔を覗かせると懇願するように手を合わせる。
「あんた自分の置かれてる状況分かってんのか?」
ヒノワは眉間に皺を寄せてレイチェルを叱咤する。
「そうよね…ごめんなさい」
レイチェルがしゅん…と箱の中に引き下がるのを見てソニアもヒノワの腕を掴み言う。
「お願いよヒノワ」
「まあ…見たところ軍の奴もいねえし…。本当に少しだけだぞ」
ヒノワは深い溜息を吐くと人目につかぬように木箱を開けレイチェルを外に出す。レイチェルはずっと同じ体勢だった身体を伸ばすとヒノワにお礼を言う。
「ここは俺一人でいいからソニアもついて行ってやれ」
ソニアとレイチェルを見送るとヒノワはもう一つの大きな箱にもたれかかる。
「あんたの娘が見たいものって何なんだろうな」
ボソッと語りかけるも箱の中から返事が返ってくることはなかった。
「犯罪因子は根こそぎ刈り取るのが軍のやり方だ。国への反逆罪なんて誰の権力を持ってしても一生牢から出てこられねえ。娘と一緒に亡命しようとしたあんたの判断は間違っちゃいねえよ」
ヒノワはよいしょ、と背筋を伸ばすと沈黙を続ける箱をポンポンと叩き持ち場に戻る。が、おおよそバザーには似つかわしくない軍服だけに限らず眉間に濃い皺を寄せた客にヒノワは皮肉たっぷりの笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。農家の愛情たっぷり野菜はいかがでしょうか?」
「いない……」
レイチェルは四方八方に頭を巡らせるが探している影を見つけることができず肩を落とす。
「誰かを探しているの?」
「ええ…私の大切な人…旅商人なのだけどこのバザーに来てるかなって思って……」
レイチェルは自身の頭に飾られた紅いリボンのバレッタに手をやりながらポツリと呟く。
「大切な人?」
「私にたくさんの思い出をくれた大切な人。最後にもう一度だけでいいから会いたかった」
虚空を見つめながら悲しげに笑うレイチェルをソニアはそっと抱き寄せる。
「ありがと…ソニアはあったかいのね……」
レイチェルはソニアの温かな胸の中に顔を埋めるとずっと我慢していた涙が溢れて止まらなくなった。これで本当に最後。分かっていてもいざ突きつけられると思い残したことばかりで、それでもここを去らねばならない。
ひとしきり泣いた後、赤く腫れた瞼を擦りながらレイチェルはふと思い出したように顔を上げる。
「そうだ、あっちに行ったら名前変えなきゃいけないの。だからね、あの、ソニアって名前にしていいかしら」
「ええ、もちろんよ」
二人は笑い合いながら手を繋ぐとヒノワの元へ戻ろうとする。しかし、遠くで黒い軍服を着た男がいるのを見つけ立ち止まる。不幸にも軍人と目が合ってしまったレイチェルは全身から冷や汗が出るような感覚に襲われたが、レイチェルの顔を見ても軍人は特に追いかけてくるようなことはせず、手を挙げながらこちらに近づいてきた。
「もし、お嬢さん方。このバザーで隻眼の男を見かけませんでしたか?」
“隻眼の男”。恐らくこのバザーを隠れ蓑にしていることに軍は勘付いていると察したソニアは、動揺が顔に出ぬよう小さく深呼吸をすると柔らかな笑みを浮かべる。
「さあ…知らないわ」
「そうですか。また見かけたら教えてください」
ソニアとレイチェルは軍人が去って行くのを確認すると一際混んでいる人混みの中に紛れる。
「早くヒノワに伝えないと」
急ぎ足でヒノワの元へ向かうが、最悪の光景を目にしたソニアは足を止める。
「どうしたの?ソニア…」
「レイチェル、このまま気づかれないように荷台の後へ隠れて」
ソニアの声から穏やかさが消えたのを感じたレイチェルは今この現状が一大事であると察する。
「大丈夫、私たちを信じて」
ソニアはレイチェルの手を握りしめると荷台の背後へ回るように促す。少し躊躇いながらもレイチェルが行ったのを見届けると、息を大きく吐いて歩いて行く。
「ここで何をしている」
「見て分かんねえか?野菜売ってんだよ。あんたこそこんなとこで何してる?まさか総司令官殿がバザーの警備に就く程軍の人手が足りてないのか?何にせよ買わないなら商売の邪魔だ」
しっしっ、と追いやるがドーヴェは一向に立ち退かず、一枚の紙をバンっと突き付ける。
「資産家ヴィクター・アンダーソン。先日国家機密を隣国に受け渡したとして指名手配されている。娘も一緒だ。昨晩ローブを着た怪しい二人組が貴様らの所へ向かっているとの情報を受けた。国に仇をなした者が貴様らに頼むことなどただ一つだろう」
「亡命の手伝いをしてるってか?俺らだって慈善事業じゃねえんだ。罪を犯してまで仕事はしねえよ」
ヒノワはドーヴェを見ることなく淡々と野菜を並べる。
「慈善事業でなくとも損得勘定のみで動くような貴様らでもないだろう。いつもの格好はどうした」
「買い被るなよ。そこまで推測してんならじいさんから依頼の受諾証明書の有無を確認すりゃいいだろ。無理矢理がお前らの専売特許なんだからな。それとも天下の総司令官殿も兄には敵わねえってか」
煽るようなヒノワの態度にドーヴェの眉間に寄せられた皺は一段と濃くなり、こめかみに青筋が浮かぶ。
「黙れ!二度と私の前で愚兄の話をするな!!」
辺りが一瞬しん、となる程の怒声に周りの客たちも遠ざかり、その一帯はヒノワとドーヴェの二人きりとなった。
「…いずれにせよ亡命を許せば国の秩序が乱れる。貴様のつまらん正義で仲間が死んだようにな」
冷静さを取り戻すようにツルのない眼鏡をくいっと上げるとドーヴェはヒノワを一瞥する。すると、ヒノワの片方だけの切長の目はいっぱいに見開かれ虚空を捉えて離さなくなった。
何故あの時友は死なねばならなかったのだろう。
閉じられた瞼の裏で今でも鮮明に浮かぶ友の最期。
(俺が、殺したのか…?俺があいつを……?)
頭の奥でぐるぐる回る思考について行けなくなった身体が火照る。ガクガクと震える手は無意識のうちに懐へと伸びていく。
「あいつを………あいつを殺したのはあんただろ!」
ヒノワは鋭い眼光でドーヴェを睨み懐の何かを掴む。それを抜こうとした手は寸止めのところでソニアによって阻止された。
「ヒノワ」
温かい手で握られた震える手は次第に鎮まり、ヒノワは瞑目して一呼吸置く。
「危ねえから手離せ」
ソニアは少し躊躇ったがヒノワが冷静であることを確認するとそっと手を離す。ヒノワは店頭に並べてあった林檎を一つ掴むと、懐から出した果物ナイフで皮を剥き始める。
「仕事のやり過ぎでストレス溜まってんじゃねえのか?ほらよ」
ヒノワが差し出した林檎は皮の部分が兎の耳のように器用に切られていた。ドーヴェがフンッと顔をしかめて受け取ろうとしないのが分かるとヒノワは自身の口に放り込む。まあ元より受け取るとは思っていないのだが。
「騒がして悪かったな。ほらお詫びの林檎の試食だ。皆食っていってくれ」
ソニアも手伝いながら次々に林檎を剥いていくと寄って来る客に振る舞う。
「話しは終わっていないぞ。あの大きな箱の中身は何だ」
店に集る客を押し分けてドーヴェは一際怪しい大きな木箱を指す。
「あれはじいさんに頼まれた超幻の骨董品を買ったらしまうために用意したんだが生憎店が大盛況で買いに行く暇がなかったんだよ」
ヒノワはわざと箱の前に立ちはだかるが、裏手に回っていた他の兵士により箱の蓋が開かれる。
これまでか、と腹を括ったヒノワは今度こそ懐の刀に手を伸ばす。
「総司令官!中にあるのは毛布のみです!」
「もう一方は!?」
「空であります!」
ドーヴェは振り返って喧騒的な面立ちでヒノワを見る。
「超幻の骨董品を入れるんだぞ?傷つかねえように毛布で包むのは当然だろ」
ヒノワはしっしっと箱の周りの兵士たちをどかせると箱の蓋を閉める。ドーヴェはギリっ…と歯を噛み締めると右手を横に掲げ指示を出す。
「各班に鳩を飛ばせ!北西方面の国境に向かうようにと!」
「了解です!!」
兵士の一人が指笛を吹くと一羽の鳩が飛んでくる。飛んできた鳩に伝達を書いた紙を括り付けようとしたその時—————
「あー!しまった、俺のおやつがー!!」
頭を抱えたヒノワの足元には大量の豆がばら撒かれていた。それを見た鳩は兵士の前で翼を羽ばたかせるとヒノワの足元へ飛んで行き地面に転がる豆を一粒一粒食べ始める。周りの木々にいた他の鳩たちも一斉に飛んできて辺りは鳩と逃げ惑う人で溢れ返る。兵士が指笛を吹くも豆の前では反応を示さず、最早どれが軍の鳩だか分からなくなった。
「備えあれば憂いなしってな」
ヒノワは足元の鳩たちを避けながらソニアが手にしている鞄を受け取ると共に走り出す。
「クソっ!舐めた真似を…!ここにいる者たちだけでいい!今すぐ国境へ向かえ!!」
ドーヴェの怒声にも似た指示に兵士たちは一斉に北西に向けて走り出した。
☆ ★ ☆
林の中を手を取り合って走る二つの影。引かれているヴィクターは今までこんなに全速力で走ったことがないのか息も切れ切れだった。そんなヴィクターを引っ張るように走るのは娘のレイチェル。従来なら美しく飾り立てて野を全速力で走ることもない。そんな彼女の顔には滝のような汗が流れ、髪は乱れ高級な装飾があしらわれたヒールの靴はとうに脱ぎ捨てていた。
「すまなかった」
背後からポツリと聞こえた声にレイチェルは振り返ることなく走り続ける。
遠くから数人の男の声が聞こえてくる。恐らく軍の人間であろう声は次第に近くなり、これ以上限界を超えた足で走っても追いつかれるだけだと判断したレイチェルは、ヴィクターを連れて近くの茂みの陰に身を隠す。茂みは蜘蛛の巣だらけで二人の髪や服に絡んだがヴィクターは最早文句の一つも言えないくらいに憔悴していた。
「追手が行くまでここでやり過ごしましょう」
二人は茂みの陰でじっと身を潜めていると次第に兵士たちの声が近くなってくるにつれて自身たち鼓動が速まるのを感じた。
「私が囮になるからお前は行け」
不意にヴィクターが茂みから出ようとしたのをレイチェルはすかさず止める。もしこんなに神経を集中していなければ咄嗟に止めることなどできなかったであろう。ヴィクターを押さえつけ兵士たちが通り過ぎるのを静かに待っていると、別の方角からまた別の兵士の声が聞こえてきた。
「女の靴を見つけたぞ!装飾からしてアンダーソンの娘に間違いない!こっちへ向かったんだ!」
逃げる途中で靴擦れを起こし脱いだ靴だが、もしかしたら錯乱できるのではないかという一縷の望みに賭けて自分達が向かう方角とは別の方角に投げておいたのだった。その作戦にまんまと引っ掛かった兵士たちは皆靴を見つけた方角へと向かって行く。
レイチェルは安堵の溜息を吐くとヴィクターを睨む。
「何でさっきあんなことしようとしたの!?」
「お前を巻き込んでしまったせめてもの償いのつもりだった…」
レイチェルは手を宙に挙げるが、その手はヴィクターの頬を打つことなく力無く降ろされる。金持ちで自信家で少々我儘など嘘のように今目の前にいる父は弱々しい。たった一人の家族を叩けるわけがない。代わりにレイチェルは父を抱きしめる。裕福な食生活でふくよかに思えたが抱きしめてみると昔より痩せている。母が病に倒れたあの日から今日まで父はずっとたくさんのものを抱えていたのだ。
「私お嫁に行くの全然嫌じゃないのよ。だってこれからもお父様と一緒にいられるんですもの」
「レイチェル…!」
ヴィクターも震える手でレイチェルを抱きしめ返すと二人の親子は暫く年甲斐も無く泣いていた。
「いたわ」
ドーヴェの目を掻い潜りアンダーソン親子を追いかけていたヒノワとソニアはようやくその姿を見つける。
「ソニア!よかったあなたたちも無事で…」
ヒノワとソニアの姿を見たレイチェルは安堵の溜息を吐くが、友人たちを完全に巻き込んでしまったことを思い出してハッと目を逸らす。
「ごめんなさい…あなたたちを巻き込んでしまって……」
「何を今更。まあ後のことはじいさんが何とかしてくれるだろうから気にすんな。ここまで来たら最後まで依頼請け負ってやるから。そんならしくねえ面すんなヴィクターさんよ」
ヒノワは今朝までの威勢を完全に失ったヴィクターを見る
「本当に何と礼を言ったらいいか…」
ヴィクターは弱々しく震えた声で深々と頭を下げた。
「さあ、落ち合う時間までまだ少しあるし着替えましょう。お嫁に行くのにその姿ではいけないでしょう?」
ソニアはレイチェルの涙と泥で汚れた頬をハンカチで拭うと、鞄から白いレースのワンピースを取り出す。
「これ…ウェディングドレス?こんなものどうして……」
「ドレスとまではいかないけど昨日作ったの。友達の門出をお祝いしたくて。あり合わせの布と装飾で作ったからちゃんとしたものじゃなくてごめんね」
レイチェルは真っ白なワンピースが汚れないように泥だらけの手を自身の服で拭うとそっと受け取る。
「ううん、嬉しい…本当にありがとう…!」
当初見ず知らずの隣国の男と結婚させられると知った時は酷く絶望した。一時は一人で逃げ出そうとも思った。大切なものは全て置いていく覚悟だった。けれど最後にずっと消えることのない、手放したくない大切な思い出を得た。レイチェルは熱く喉の奥に込み上げてくるものを飲み込むと満面の笑みを浮かべた。
「どう…かしら」
「とっても素敵よ」
ウェディングワンピースに着替えたレイチェルは少し恥ずかしそうにくるりと一周回って見せた。髪を纏めていた紅いリボンのバレッタはそのままにしたため、白一色のワンピースによく映えた。
「おお、いいじゃねえか。ヴィクターさんも見てやれよ」
隅でぽつんと立っていたヴィクターをヒノワが引っ張って連れてくる。娘の花嫁衣装を見た父親の反応というものはどれも同じなのか、ヴィクターは鼻を啜りながら「綺麗だよ」と呟いた。
「…さてそろそろ時間だな」
上空を見上げると空の色は青からオレンジに移り変わるところで、陽が沈む時刻であることを知らせていた。
林を抜け平原に出ると、平原を隔てて向こう側にある林の入り口に小さな人影が数人見えた。アルカディオとオルフェンディア、二つの林の真ん中に位置する国境である平原。向こうの林にいるということはオルフェンディアの人間である。四人は警戒しながら近づいて行くと、数人の影のうち背が高く上品な口髭が目を惹く初老の男性が丁寧な所作でお辞儀をする。
「ヴィクター・アンダーソン様、レイチェル・アンダーソン様でございますね?私オルフェンディアの外務大臣シュルツ・イバンと申します。……して、そちらの方々は?」
シュルツと名乗った外務大臣の男性は頭を上げるとヒノワたちをじっと見る。それもそのはず。超閉鎖的国家、軍を指揮するアルカディオ家の独裁政権と名高いアルカディオは、その厳しい法の下で平和が成り立っている。特に国へ仇なす行為への罰則は厳しく、好んで破ろうという者はまずいない。しかし、今回その法を破り敵国に情報を流したヴィクターはさて置き、今この場所に立ち会っているというヒノワとソニアも犯罪者にあたる。軍の密偵ではなくとも法を破った者であるということもまた警戒せねばならない理由に十分値する。
「ヴィクター・アンダーソンです。こちらはレイチェル。この度は我々の亡命を受け入れてくださり心より感謝を申し上げます。この方々は自身の立場が脅かされることを承知の上で我々をここまで連れてきてくださった恩人です。彼らがいなければ我々は今この場にいなかったでしょう」
ヴィクターも深々とお辞儀をすると傍に立っているヒノワとソニアを紹介する。シュルツはヒノワとソニアに敵意がないことを確認すると、林の中にいる男性を二人呼ぶ。
「アンダーソン氏、こうしてお会いできて光栄だ!私はオルフェンディアの首相バッカス・ベルマーチ。こいつはうちの三男、マルクです」
林の中から出てきたのは髭もじゃの中年男性と、息子だというのに父の遺伝子を全く継がなかったのか、ストレートの散切り頭の青年。
マルクは微笑むとヴィクターとレイチェル、そしてヒノワとソニアに挨拶をする。
「素敵な人でよかったわね」
「あいつら本当に親子なのかよ」
ヒノワとソニアも小声で話しながら各々会釈を返す。
「さてこちらが我が国への亡命を認める書類になります。ヴィクター様、サインを」
シュルツはオルフェンディアへの亡命認可証明書とペンをヴィクターに差し出す。ヴィクターはほんの一瞬留まったが、受け取ると自身の名を記す。
「これで正式にあなた方は我々オルフェンディアの国民となりました。さあそちらの軍に見つかってしまう前にお互いここを去りましょう」
シュルツは紙を確認すると、くるくると筒状に纏めて懐へしまう。
陽はすっかり沈み、空の色は夕焼けの赤に深い闇が少しずつ溶け始め、頭上では一番星が輝いていた。
ヒノワはふと背後を振り返り、しん、と静寂に包まれた林をじっと見つめる。
「頼む。あと少しだけ亡命を待ってくれないか」
「はい?」
突然のヒノワの申し立てにその場にいた者たち全員が驚く。
「何を仰るのです!?ここでの長居はせっかく亡命が成功したアンダーソン親子はもちろんあなた方にとっても不利益なはずですぞ!?」
シュルツは理解できないという表情でヒノワに迫る。
「頼む。五分…いや一分でいいから」
「さては軍を呼ぶための時間稼ぎ!?やはりあなた方はっ……!」
シュルツが血相を変えて懐に隠してあったピストルを構えた、その時—————
「まっ…待ってくださ~い……!!」
何かがこちらへと走ってくる音がすると弱々しくも訴えるような声が聞こえてくる。皆が一斉に林を見ると、そこには息を切らし膝に手をついている男性とその背中を摩る白髪の少年、ちんちくりんの少女がいた。
「シアン!?」
思っても見なかった人物の登場に一番驚いていたのは言うまでもなくレイチェルだった。
シアンは海藻のような前髪を分け額に滲む汗を拭う。
「お、お仕事に、来ました…」
深い深呼吸をして乱れた息を整えるとレイチェルの元に歩み寄り、最愛の人の晴れ姿をじっと見つめる。
「とても綺麗です、レイチェル」
「どうしてこんな所にっ…何しに来たの?」
真っ白なワンピースに身を包んだレイチェルを見てシアンは真っ直ぐな感想を述べる。一方でレイチェルは自身の覚悟が揺らぐを恐れながら戸惑ったようにシアンに詰め寄る。
「言ったでしょう。仕事に来たと。俺の、旅の思い出をあなたに届けに来たんです」
そう言ってシアンは右手で大事そうに握っていた小さな白い星のような花の束をレイチェルに手渡す。
「これ、は…エーデルワイスの花……?」
「これじゃ花束とは呼べませんが花嫁ならばブーケは必要でしょう?この花にこの二日間の旅の思い出、そこで得たこと出会った人、俺の想いの全てを込めました。これが俺があなたに贈る門出のお祝いです」
シアンの口から放たれた“門出の祝い”という言葉にヒノワは瞑目する。レイチェルは溢れそうになる涙を堪えながらエーデルワイスの花を受け取る。
「そのバレッタ、持って行くんですね」
レイチェルの頬を伝う涙を拭いながらシアンは彼女の栗毛の髪がまとめられた真紅のリボンのバレッタを見る。
「当たり前でしょう。あなたとの思い出だもの」
レイチェルは赤くなった鼻を啜りながら笑顔で笑って見せる。それはいつも自身の旅の話を楽しそうに聞いてくれた彼女の笑顔そのもの。自身の中でずっと輝き続ける思い出。
「そろそろ行かなきゃですよね。すみません引き止めてしまって」
暫く別れを惜しむように互いに見つめ合っていたシアンとレイチェルは、時の流れが止まることのない事実に向き合うように互いに背を向ける。
「要件は済みましたか、それでは今度こそ我々はこれで………」
「ちょっと待って父上。僕の婚姻相手はあの金髪の女性ではないのですか!?」
シュルツが今度こそ撤退しようとするとマルクがソニアに指を指しながら言う。
「お前写真をきちんと見ていなかったのか!?レイチェルさんはこちらの女性だぞ」
バッカスは慌ててレイチェルを息子の元へ引き寄せる。
「あのおじさんはどうでもいいとして嫁に来るんだからもう少しマシな装いしてると思うじゃないですか。しかも靴も履いていない!アンダーソン家の使用人か何かかと思っていました」
マルクは今度はレイチェルを指指しながら言う。表情からして悪気があって言ってるのではなく、思ったことが素直に口に出てしまう性格なのだろう。この手の発言には覚えがあったがいくらそういう性格だとはいえ、花嫁に対してはもう少し敬意を持つべきものだろう。と、マルク以外のその場にいる全員が思った。
「こら!マルク!社交辞令を身につけろといつも言っているだろ!だからお前はいつまで経っても社交界に出せないんだ!」
バッカスはマルクの頭をこづくと息子の非礼を詫びる。蛙の子は蛙、ということわざがあるが、ここまで百発百中、子供というのはやはり育て親に似るのだとミユは感心した。
「すみません。あっちに行ったらもっと高価で美しいドレスを用意するので」
マルクも眉を下げながらレイチェルに謝罪するが、正直自身の発言の何が悪かったのか理解できていないようだった。レイチェルは苦笑していたがそこまで言われて傷つかない女性などいないだろう。
「いいのは見た目だけかよ」
ヒノワは溜息を吐きボソッと呟くとシアンを見る。すると、シアンは両手を握り何かを決心したかのように歩いて行く。
「シアンさん?」
シアンは顔を真っ赤にしながらいつもとは逆に眉を逆八の字にしてレイチェルとマルクの間に割って立つ。まさかレイチェルを悪く言われたことで逆上したのか、と、ヒノワとシュルツはもしもの際に備えて身構える。
「何だい、君は…」
シアンはじっとマルクを見ると両手を高く挙げる。次の瞬間—————
「レイチェルはとても美しい人です!!!」
この二日間で聞いたシアンのどの声よりも大きな声にミユもヒノワもトーヤも驚くが、皆が一番驚いたのはその光景。シアンはマルクの足下の地面に頭をつけ土下座をしていた。
「どんな服を着ていようと、どんなに煤や蜘蛛の巣で汚れていようと彼女は美しいんです!!!!」
唖然と口を開けてシアンを見下ろしているマルクをよそにシアンは続ける。
「それは彼女の心が美しいから!!それが俺が惚れたレイチェル・アンダーソン!!!!!けど彼女を幸せにできるのは!!彼女の幸せを守れるのは悔しいけどあなただけなんです!!だから!必ず彼女と彼女の幸せを守ると!今ここで俺に誓え!!!!!!」
「ライバルに対し土下座とは相変わらずの意気地無しですねえ、シアンさん」
誰もが予想だにしていなかった光景に流れた沈黙は、突然の来訪者によって破られる。一同が声のする方を見ると、そこには馬と荷車を引いたオリヴァーが立っていた。
「じいさん!?」
「ヒノワ、バザーの会場に荷台と馬が置きっぱなしですよ。馬は借り物なので困ります」
オリヴァーは馬の手綱をヒノワに渡すとヴィクターに歩み寄る。
「ヒノワに依頼の受諾証明書を渡すのを忘れていましてね。ヴィクターさん控えはお持ちですよね。確認のため見せていただけますか」
「あ、ああ…。向こうに口座を作ったらすぐに振り込む…」
ヴィクターはボロボロになったスーツの懐から依頼の受諾証明の控えを取り出すとオリヴァーに渡す。
「…はい、確かに」
オリヴァーは受け取るとポケットから本物の受諾証明書とマッチを取り出したかと思うと、何も躊躇うことなく火を焚べる。
「なっ…何を!?」
オリヴァーは風で舞っていく燃えて塵となった受諾証明書を見届けるとヴィクターを見る。
「我々オリーブ堂はアンダーソン親子の亡命には一切の加担をしていない。そうでしょう?」
戸惑うヴィクターにオリヴァーは有無を言わせない威圧をかける。
「さあ、これで我々の身は潔白。いくら軍が詮索すれど証拠はない。あなた方が心配することなどありません。さてベルマーチ殿」
オリヴァーは今度はマルクとバッカスに向き直ると仮面のような顔で微笑む。
「社交辞令、というものも時に大切ですが、社交界において最も重要なのは外観に捉われず本質を理解すること。あなた方はここで無様に土下座するシアンさんをどう思いますか」
「愛した女性のためにここまでするなんて、まるで御伽噺のような御人だな」
バッカスは拍手をしながら笑うが、マルクはレイチェルを見つめる。どう見ても高価とは言えないが丁寧に作られた手作りのワンピース。ここより数百キロ離れた土地で咲く花。薄汚れても離さない真紅のリボンのバレッタ。その全てが今まで自分が見てきた高価なものより劣っていることは分かっている。しかし、それに決して敵わない何かを感じるのもまた確かであった。
「……あなたはたくさんの人に愛されているのですね」
「ええ、とても幸せなことに」
レイチェルは何一つ謙遜することなく胸に手を当てて自らを包む温かいものに思いを馳せる。
「シアンさんと言いましたか。僕に誓えと言うのなら顔を上げてその答えを見てください」
マルクはそう言うとレイチェルの前に立ち膝を地につく。
「マルク様!」
シュルツが止めようとするがマルクは阻む。
「あなたを愛する人の中に僕を入れてくださいませんか」
マルクはそう言いながら地に両手と頭をつける。
「やめぬかマルク!こんな醜態ベルマーチ家に相応しくないっ……!」
「蛙の子は時に突然変異で美しい白鳥にもなるものですよ」
「何を馬鹿げたことを!」
オリヴァーは拍手をしながらカラカラ笑うがバッカスは理解できないというように呆れ返る。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
レイチェルもワンピースを捲り膝をつくと深々と頭を下げる。地面に近いところで互いに目が合ったレイチェルとマルクは笑い合う。
レイチェルは立ち上がると座ったまま少し涙目で笑いながらこちらを見ているシアンに手を貸す。
「本当に泣き虫ね、あなた」
先程とは変わり今度はレイチェルがシアンの頬を伝う涙を拭う。
陽が沈みもう随分と経った空には点々と星々が輝き始めていた。今度こそ本当に別れの時を悟ったシアンはいつも通りに眉を八の字に下げてはいるが笑顔で最後の言葉を言う。
「お幸せに」
「ありがとう、シアン」
マルクに手を引かれレイチェルはアルカディオの国境を越える。
「皆さん本当にありがとうございました」
振り返ったレイチェルとヴィクターは再び深々と頭を下げると向こうの林に消えていった。
「お前があのお坊ちゃん殴ると思ってヒヤヒヤしたぜ」
ヒノワはシアンに寄りかかると肩を掴む。
「お恥ずかしながらヒノワさんのようにかっこよくビシッと決められる自信はなくて…結局俺は彼女にたった一つしかプレゼントをあげることができなかった」
シアンは笑うが、ヒノワであっても別の国のトップの息子を殴る度胸はないだろう。…まあ自分の国のトップを殴ったのだが。と、ヒノワは心の中で苦笑する。
「ねえ、シアンさん。エーデルワイスの花言葉は“尊い思い出”なのよ」
ソニアは友が旅立っていった方角を見ながら言う。
「レイチェルさん言ってたよ。シアンさんからたくさんのプレゼントをもらったって」
いつまで経っても永遠に色褪せることのない贈り物。そんな素敵なものをもらったのだ、と、ミユは昨晩のレイチェルの言葉をシアンに伝える。
「お世辞抜きで今日のあなたはとても立派でしたよ。これに免じて祝儀代わりの列車代はチャラにして差し上げます」
「は?え?あっ…ありがとう、ございます……?」
「さて、私たちも帰りましょうか。ミユさんたちは列車の往復切符がありますから北部の駅まで送ります」
オリヴァーは皆に荷台に乗るように促す。
各々の思惑が一同に介した二つの国の国境は再びいつも通りの静寂に包まれた。
「はい、これ依頼のお礼です」
帰りの列車でシアンは鞄の中から規定の金額が入った封筒を取り出す。
「受け取れないよ。だって指輪もプロポーズも何一つ依頼の成功していないんだもん」
ミユはシアンの差し出した封筒を押し戻す。
「いいえ、ミユさんは見事に俺の依頼をこなしてくれましたよ。言ったでしょう?俺の想いを伝えるのを手伝って欲しいって。あなたたちに依頼しなければ俺は何も知らないまま何一つ伝えることはできなかった。十分すぎる結果です。ヒノワさんへの借金があるんでしょ?」
シアンはミユの手にそっと封筒を握らせる。ミユは“ヒノワへの借金”という言葉にお金を返したいけど返したくないという感情が芽生え、ううむ…と唸る。その様子を見てシアンとトーヤは顔を見合わせて笑う。
「……どうしてレイチェルさんに告白しなかったの?」
北部の町から向かう時にシアンの大方の答えを聞いていたミユはこの結果に驚くことはしなかった。しかし、何故その答えを選んだかは聞いてはいなかった。
「俺は彼女はもちろん彼女の幸せも大切なものも大切にしたい。その何方も守るために一番いいものを選んだつもりです。ミユさん、あなたが教えてくれたんですよ。本当にありがとうございました」
何方か一方しか選べなくとも、そのもう一方も幸せになれる選択をする—————
ミユは真摯に見つめられ何だか照れ臭くなって頭を掻く。
「それに二度と会えないとは限りません。俺は旅商人です。いつかこの戦争が終わっていろんな国を渡り歩くことができるようになったらいつでも会いに行きますよ」
いつか来る平和を願って—————
シアンは車窓から見える空を見て愛する人に想いを馳せた。
☆ ★ ☆
列車で帰ってきたミユたちの後にヒノワたちが帰ってくると、オリーブ堂にいつも通りの賑やかさが戻ってくる。
「いや~…にしても長い二日間だったな」
ヒノワが背伸びしながら入ってくるなりミユはその服装を見て仰天する。
「うわ、ヒノワ何その変な格好」
「今更かよ」
ヒノワは舌打ちをしなが着慣れないスカーフとシャツのボタンを外す。
「ふふっ。やっぱり似合わないわよね」
「当たり前だろ。和服は俺のアイデンティティなんだからよ」
ヒノワは着替えるために自室へ戻って行く。
「急いでご飯作るわね」
「私も手伝う!」
そう言ってエプロンを着け台所に立つソニアにミユもダボついたセーターを脱いで並ぶ。
これがオリーブ堂の、この家族の日常風景。
仮初の平和に包まれたこの世界。様々な思惑が廻るこの世界でこの光景が本物でありたいと誰もが密かに思っていた。
夕食を済ませ晩酌をするヒノワの元にミユはそそくさと近づくと、シアンからもらった封筒を差し出す。
「その節はご馳走様でした」
ヒノワは猪口を片手に差し出された封筒を受け取ることはせずミユを見る。
「クソガキ、なんであいつ…シアンを連れてきた。あいつの行動一つで亡命が失敗することもそれが何を意味するのかも考えられたはずだ。なんで連れてきた」
ミユはもしや自分は怒られているのかと思い少し身を強張らせる。
「おじいちゃんから聞いてはいたの、落ち合う場所のこと。でもずっと言おうか迷ってた。だけど私自身が後悔すると思ったの。もしものことはあんまり考えてなかった…かもだけど……ごめんなさい……」
やはり仕事というものに私情を挟み危うく全てを台無しにしかねなかった自身を怒っているのだろうと思いミユは謝る。そんなミユの想いとは裏腹にぎゅっと握られた封筒が突き返される。
「この金はお前の功績だ。とっておけ。あれは俺の奢りってことにしといてやるよ」
ヒノワは猪口を軽く揺すって飲み干すとミユの頭に手を置く。
「明日の朝も稽古だ。寝坊すんなよ、ミユ」
ミユは何が何だか分からないというように目をパチクリさせるが、初めて呼ばれたその名に驚く。
「んだよ。俺何か変なこと言ったか?」
「ううん!よろしくお願いします、ヒノワさん」
ミユは改まってヒノワに対しお辞儀する。ヒノワは律儀に自身との約束を守る少女に溜息を吐いて苦笑する。
「ヒノワでいい」
「それじゃあヒノワ!明日からもよろしくね!おやすみ!」
手を振りながら自室に戻って行くミユに手を振り返すと、ヒノワは再び晩酌を再開する。
「秩序と損得勘定に縛られるよりこっちの方が断然性に合ってらあ……」
秩序を破り損をしようともそれでしか得られない結果がある。たとえそれで友を失った今があるとしても—————
酔いが回ったヒノワはうとうとと頬杖をつく。
ガラス張りの天井にはそんな彼を見下ろすように満月が照り輝いていた。
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