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第二章
#9 正しい幸せ
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まだ陽も昇りきっていない薄暗い早朝。オリーブ堂の外では朝霧に紛れて何かをしている五人の影があった。
「おはようございます、お二方。昨晩はよく眠れましたか?」
「あんな粗末なベッドで眠れるわけないだろ!おかげで腰が…」
裕福な暮らしをしていたヴィクターにとって薄っぺらいマットレスのベッドで寝たり、こんな早朝に叩き起こされたりと、色々不機嫌なのか顔をしかめながら腰を摩っている。レイチェルも言葉には出さなかったが同じく腰を摩っているあたり寝心地が悪かったのだろう。
「レイチェルさんも本当にいいんですね」
「はい。決心はついています」
そう言ったレイチェルの表情から昨晩抱えていた迷いが消えており、その迷いを消し去ったのが誰であるかを察したオリヴァーはそっと微笑む。
(その代わりあなたが迷うことになっていそうですが……)
そんなことを考えながらオリヴァーは傍で荷車に野菜がたくさん入った木箱を積んでいるヒノワと、荷台に繋がれた馬に人参をやるソニアを見る。ヒノワはいつもと違って洋服を着ており、ソニアも髪を下ろしていたりと二人とも見慣れない風貌をしている。
「こちらも今一度確認するが本当に大丈夫なのか?娘の未来がかかっているんだ」
ヴィクターはヒノワとソニアを訝しげな目で見る。犯罪紛いの仕事でも何でも受けるという在らぬ噂を信じてオリーブ堂へやってきたヴィクターにとっては自分より一回り二回り、それ以上も歳が若く、尚且つ女子供が依頼を受けている様は何だか拍子抜けであった。
「ヒノワはこう見えて元軍人で今回は武器の所持も許可しています。まあ使わないに越したことはありませんがね。依頼を受けた以上我々も身の危険を感じるギリギリまでは全力を尽くしますのでご安心ください」
オリヴァーが言葉の内容とは裏腹ににっこりと微笑むのを見てヴィクターは思わず固唾を飲んだ。もしかしたら軍よりも恐ろしい存在と関わっているのかもしれない。一時的な関係ではあるが彼らが味方という立場にいて本当によかったと心底思ったのだった。
「おーい、準備できたぞ~」
全ての野菜が入った木箱を荷台に乗せ終わったヒノワがこちらに合図を送る。
「それではお二人にはこちらの一等車にご乗車願います」
そう言ってオリヴァーが指し示したのは、野菜が入った木箱よりも一回り程大きい木箱。丁度人一人がすっぽりと収まるであろう箱の底には気休め程度に毛布が敷かれていた。
「まさか…これに一日中入ってろと言うのか!?」
「大丈夫ですよ、換気できる程度の穴は開いてますから」
「そう言う問題ではっ…!嫁入り前の娘に何てことさせるんだと言っているんだ」
「お父様!私は大丈夫だから!」
オリヴァーに噛みつこうとするヴィクターをレイチェルが制止する。
「昨晩も打合わせしましたが、題して“農家の夫婦野菜も売って一石二鳥大作戦!”です。今日は北西の町外れで月に一度行われるバザーの日。参加者を装って日没頃に国境の平原で待つオルフェンディアの使者と落ち合います」
オリヴァーがヒノワとソニアも集めて昨晩の打合わせの最終確認を行うと、ヴィクターは最後まで渋っていたが開いた二つの木箱の中に各々入る。
「そうですヒノワ、これを」
「豆?こんなもんどうして…」
オリヴァーから渡された巾着を開けると大量の豆が入っていた。
「備えあれば憂いなし。旅におやつはつきものでしょう?」
オリヴァーの意図が読み取れないというように首を傾げるヒノワをよそにオリヴァーはニコニコと笑う。
「それでは成功を祈っております」
見送るオリヴァーを背に鞭を打たれた馬によって荷台が動き始める。
「本当親の心子知らず、とはよく言ったものですねぇ…」
オリヴァーは苦笑しながら一向が見えなくなるまで手を振り続けると、大きな欠伸をしながら家の中へ戻って行った。
☆ ★ ☆
ヒノワたちが出かけて行って数時間。辺りもすっかり明るくなった頃、トーヤとオリヴァーはソニアが作って置いておいた朝食を食べているところだった。
「おはざいます……」
「おはよ、ミユ」
清々しい朝、とは言い難いような表情で眠そうな目を擦りながら起きてきたミユにトーヤは挨拶をする。
「おやおやミユさん、昨日はお疲れで眠れなかったのですか?」
「ううん、ちょっと考え事してたら夜更かししちゃって…」
ミユは席に座るとトーヤが用意してくれた牛乳を一口飲んで目を覚まそうとする。
「レイチェルさんたちはもう出たんだよね?」
「はい、早朝に」
「そっか…亡命、成功しちゃうかな……。っ!ごめんなさい!失敗してほしいみたいな言い方しちゃって……」
ミユはそうポツリと呟くが、すぐにハッと我に返ると慌てて手を振りながら謝る。そんなミユを見てオリヴァーは咎めることなく星明かりに照らされた夜空のような黒髪を優しく撫でた。
「さて…どうでしょうねぇ。正直五分五分と言ったところでしょうけど。ヒノワがついているので安心だとは思いますがドーヴェもきっと亡命を許すつもりはないはずです。それこそドーヴェとの鉢合わせはヒノワにとって判断力を欠く欠点となる。なのでソニアを同行させたのですが……」
オリヴァーは珍しく神妙な顔をしながら顎に手を当てる。あのヒノワが最も苦手とする相手……。昨日ヒノワが元軍人である事実を語られた際に少しだけ二人の因縁を聞いたが一体二人の間に何があったのだろうか。
(総司令官さんを殴ったとか?いや、まさかね……)
ミユは想像しながら黙々とソニアの作ったサンドイッチを食べる。
各々が朝食を済ませ、一旦自室に戻って準備をした後再びホールへと集まる。
「北の町まで行く列車の代金は三人分私が出します」
そう言ってオリヴァーはお金の入った巾着をミユに手渡す。
「いいの?」
「ええ。私からの祝儀だとでも言っておいてください」
首都アルカディオから北の町までの一人分の列車の往復代金は昨晩の四人分の食事代に満たずとも然程金額は変わらない。彼なら三人分の代金を払うと言って聞かないだろう。そんなことをしていれば本当に甲斐性無しになってしまう。
「それとヒノワたちは北西の町で開かれるバザーに参加した後日没にかけて近くの林を抜けて国境に向かいます」
自然な流れで言われたがそんな機密情報を何故今言うのだろう。ミユは一瞬首を傾げたがオリヴァーの意図をすぐに理解して彼の顔を見る。すると、にこやかに笑いながら微かに頷いたオリヴァーにミユは眉を八の字に下げる。
(おじいちゃん意地悪だ…)
「さて二人ともそろそろ出なくては」
「それじゃあ行ってきます」
オリヴァーに背中を押された二人は振り返って挨拶をすると光が満ちる扉の外へ出て行く。
「さしずめ“凹凸コンビ”…と言ったところですかね」
肩を並べて歩いて行く二人を見送りながらオリヴァーはふっと笑みを溢した。
「うっわぁ~人がいっぱい!」
縦横無尽に人が横行している駅の構内でミユは四方八方に首を向けながら辺りを物珍しそうに見ている。
「ミユは列車初めて?」
はしゃぐ少女を見失わないように繋がれているのは手袋越しだというのに相も変わらず冷たい手。迷子にならないようにとミユから提案したのだが側から見れば恋人に見られるのだろうか。ミユは繋がれた手を横目で見ると少しはにかんだ。
「ううん。近くの町に買い出し行く時に何度か乗ったことあるけど…こんなに人がいっぱい行き交ってるのは初めて」
のどかな田舎村にある駅は古い木造の駅舎で、乗車する客も少なく本数も早朝・昼中・日没前の夕方の三本のみである。それに対し、首都であるこの駅は絶え間なく列車が行き来し、そこに行き交う人々もまた一本の線路を行く列車のように迷うことなく目的の列車に乗車する。
「シアンさんは…まだいないみたいだね。先に切符買っちゃおうか」
シアンとは面識がないが昨日のミユ、ヒノワ、そしてオリヴァーの話を聞く限りおおよそどのような人物なのかは見当はつく。少なくとも今目の前の迷うことなく真っ直ぐ前を見て歩く人混みの中にいるとは思えなかった。
ミユとトーヤは切符を購入するべく購入窓口へと向かった。
「キリシア地区(北部最大の都市)までの往復くださいっ!」
「キリシア地区往復ね。兄妹でお出かけかな?二枚でいいかい?」
「は…?」
中年の駅員はミユとトーヤの繋がれた手を見て微笑ましげに聞く。対するミユは駅員の言葉に眉をひくつかせながら固まった。
「可愛らしい妹さんだね」
「いえ、僕らは兄妹では…。あ、大人三人分の切符をお願いします」
トーヤは苦笑しながら否定すると三本の指を立てながら切符の枚数を提示する。ミユは少ししょんぼりしながらオリヴァーからもらった巾着を鞄から出すと三人分の切符の金額を払った。
「これは失敬。はい、キリシア地区往復大人三枚ね。良い旅を、お嬢さん」
駅員はミユに三枚の切符を手渡すとウインクをした。
「うん!ありがとう!」
ミユとトーヤは切符売り場を後にすると再び待ち合わせ場所である改札前に戻ってくる。すると、聞き覚え、トーヤの場合は聞いたことないが予想通りといった声が人混みの中から聞こえてきた。
「すみませんすみませんっ!通勤の邪魔をしてしまいすみませんっ!」
人にぶつかったのだろうか、ひっきりなしに頭を下げる人物こそ今回の依頼主であるシアン。ぶつかられた側の人物はシアンの謝罪など聞く間も無く目的の列車に乗るべく去って行った。
「シアンさん!」
「ミユさん!」
ミユの声に気づいたシアンは拙い足取りでこちらに駆け寄ってくる。
「すみません人混みに飲まれてしまって……あれ?ヒノワさんは?」
相変わらずの第一声から謝罪で始まると、シアンは着流を着た男の影を探して辺りをキョロキョロと見回す。
「ヒノワは別のお仕事入っちゃったから来れないの…。でも安心して!代わりにヒノワよりもかっこいいトーヤが来てくれたから!」
ミユがは隣に立つトーヤを手で示すと、トーヤは苦笑しながら「はじめまして」と小さく会釈をする。
「そうですか…それは仕方ないですね。トーヤさんよろしくお願いします」
シアンは自身より歳が下であるヒノワよりも更に歳下の少年にペコペコと頭を下げる。
「それでは切符を買ってきますね」
「あ、待って!切符はもう買ったの!おじいちゃんがね、祝儀だと思って~って」
早速切符売り場に向かおうとするシアンを、ミユは三枚の切符を見せながら制止する。
「へ?え?そんな…まだプロポーズすらしてないのに…」
シアンは申し訳なさそうに眉を下げながら切符を一枚受け取る。
「ほらほら!列車が出ちゃうよ!」
ミユは後からシアンの背中を押して共に改札をくぐる。
恐らくレイチェルの想い人である彼に今起こっている現状を伝えられぬまま依頼二日目が始まったのだった。
☆ ★ ☆
アルカディオ軍本部の講堂には早朝より多くの兵士が集められており、中央前ではドーヴェが眉間に皺を寄せながら指示を出していた。
「……以上の持ち場に分かれて各自見張りをしろ。ヴィクター・アンダーソン及びレイチェル・アンダーソンの亡命の成功は国の平和を脅かすものである」
普段にも増して物々しい雰囲気を醸し出すドーヴェに兵士たちの間にも緊張が張り詰める。
「それと…もし隻眼の男を見つけたらそいつは恐らく亡命に携わっている可能性がある。見つけ次第直ちに捕縛しろ。我が国の情報を持った彼らを我々アルカディオ軍は何としても止めねばならない。如何なる手段を使ってでも阻止するのだ」
ドーヴェの指示を受けた兵士たちは一斉に散る。
「ああ言ってるけどアンダーソン親子が逃げた日に総司令官殿私用で現場離れてたよな?こんな朝っぱらから自分が現場離れた尻拭いさせるのかよ」
「お前それ本人の前で言ってみろよ」
「嫌だよ!鳩の餌にされちまう!」
ピリリと張り詰めた空気から解放された兵士たちは各々愚痴をこぼし始めながら各々の持ち場へと向かって行く。
「さて…私も向かうとするか」
最後に一人残ったドーヴェは講堂から出ると新たな一日を迎えようとしている空を見上げる
「兄上…今回だけはこの件に関わっていないでくれ……」
徐々に顔を出し始めた太陽に向かって飛ぶ二羽の鳥たちの姿を細めた目で追いながらドーヴェは一歩踏み出した。
☆ ★ ☆
ミユたちが列車に乗り込んだ同時刻頃、大量の野菜を乗せた荷台は険しい山道を登っていた。
「それにしても…」
荷台に座るソニアは手綱を引いているヒノワ見ながらふふっと笑う。オリヴァー曰く田舎農家の夫婦という設定らしく、ヒノワもソニアもいつもとは違う風貌をしていた。ヒノワに至っては洋服に帽子にスカーフ…変装にしては少々やり過ぎな気もするが普段から着流ばかり着ている彼にとっては丁度いいのかもしれない。しかし、和服を自身のアイデンティティとするヒノワにとって洋服を着ることは随分と不服だったらしく、朝から少々不機嫌なのである。
「和服は俺のアイデンティティなのによ……」
軍を抜けて以来ずっと着流を着ているのは何か目に見える形で誇示しないと己を見失ってしまいそうで、言わば戒め…お守りみたいなものだった。
「何を着ていてもヒノワはヒノワなのよ。でもやっぱりいつもの着流の方が素敵ね」
ソニアはそう言ってヒノワの背中越しに笑いかける。ヒノワは手綱を握る手に汗が滲み耳の先まで赤くなっていたが、帽子とスカーフのおかげで背後からは見えないため今この瞬間だけは奇天烈な変装に救われた気がした。
暫し二人きりの空気が流れていたが、突如荷台に積まれた箱の中から喚くヴィクターによってそれは破られる。
「もっとまともな運転はできんのか!これじゃあ腰に衝撃が……」
「仕方ねえだろ。引っ張ってんのは馬なんだから」
オリーブ堂を出てかれこれ四時間は荷台に揺られているため、ヴィクターでなくても皆身体が痛かった。
「レイチェル大丈夫?」
「ちょっとお尻痛いけど私は平気」
箱の隙間をそっと覗いたソニアにレイチェルは尻を摩りながら苦笑する。
「ごめんなさいねお父様が我儘なばかりに…」
レイチェルは箱の中から父親の度重なる非礼を謝る。
「まあ…陰気臭い雰囲気出されるよりマシだ」
ヒノワは素っ気無く答えるがそれが彼なりの優しさであることを察したレイチェルは箱の中で小さく微笑んだ。思えば自分はいつだって人の優しさの中で生きてきた。そう自覚するようになったのは皮肉にもこんな現状になってからだった。楽しかった思い出が次々と蘇ってくる。もう二度と会うことも触れることもできないと察すると途端に思考が鮮明になる。きっと走馬灯というのはこういうものなのだろう。頭の中に浮かぶいくつかの思い出の中で一番大きく浮かび上がったのは最愛の人との思い出。その周りには愛しい家族との思い出。両方を心の天秤にかけてみる。過ごした時間は当然家族より少ないが多くのものを自分にくれた恋人も、長い時間の中で苦楽を共にした家族も何方も重く一方に傾くことはしない。
(何方かなんて選べるわけないじゃない…!)
レイチェルは心の天秤を壊すと目頭に涙を滲ませる。父親だけには心配かけたくはない。なので父親と別々の箱に入っていてよかったと心底思った。ただ一人、箱にもたれかかっているソニアにのみ聞こえる声でレイチェルは嗚咽を漏らした。
☆ ★ ☆
「なんていうか…寂しいとこだね」
北部最大の都市キリシアから移動馬車で小一時間、ミユたちは山間部の小さな町へ来ていた。ミユの育った村も大概な田舎だが村人が少ない分皆顔見知りでアットホームな村だった。しかし、この町は店屋があるにも関わらず殆ど閉まっており、“田舎だから”と言うにはあまりに活気のないさびれた様子に少しだけ不気味ささえ感じて取れた。
「以前仕事で来た時はもう少し活気があったんですが…」
「連なった山のせいで冬の間物資がまともに届かないんだ。戦争による不況で余計にこっちまで手が回せなくなったんだね」
国交を持たないアルカディオが成り立っているのは東西南北に広がる広大な領土のおかげであると言える。しかし、こういった地形や国境に近い土地は物資がまともに届かず貧しい地域が多い。戦争に明け暮れそんな現状を見て見ぬふりしている国に不満を持つ民もいる。
「とりあえずシアンさんが言ってたお花探そ!」
とは言っても春だというのに枯れ果てた大地に花が咲いている気配は微塵もない。人と共に土も活気を失ったと言わんばかりに辺り一面荒地である。
「無闇に歩き回るより村の人に聞いてみた方がよさそうだね」
トーヤはチラッと建物を見る。先程から感じる視線は恐らくこの村にとって久しく訪れた客人に向けられたもの。人が住んでいるのには間違いない。
一行が暫く歩いていると、店が連なった道に数人の女性たちがたむろしていた。標高が高く寒いというのに女性たちは皆薄手のワンピースを着ており、何を生業としているのか十四歳のミユから見ても明白であった。女性たちは三人に気づくと艶やかな笑みを浮かべ手を振ってくる。
「はーい、お兄さんたち。何かお探し?それとも私たちと遊ぶ?」
一人の女性はすかさずシアンの肩に手を回し、もう一人の女性はトーヤの頬に触れようとするが咄嗟にトーヤが一歩退いたため残念そうに引き下がる。完全に蚊帳の外に出されたミユはむっとしてトーヤの上着にしがみついた。
「あ、はい、その…この辺りで花が咲いてる場所を探してまして…。白くて可愛らしい花なんですが」
シアンは頬を赤らめながらも肩に回されている女性の腕をそっと外すと、自身が探す花の咲いている場所を尋ねる。
「あ~…白い花?それならこの花街の向こうの山に咲いてるわ。金のない客が時々摘んでくるのよ」
女性はシアンが自分達に興味を示さないことが分かると途端に冷めた態度に変わった。
「まさか彼女へのプレゼントとか言わないでしょうね」
失笑する女性にそのまさかを突かれたシアンは「お恥ずかしながら…」と、頭を掻きながら苦笑する。
「ウケる!大の大人が花の指輪をプレゼントなんて!私の客の方がまだいい物くれるわ!」
女性は傑作というように手を叩いて笑い、他の女性もシアンを馬鹿にするようにクスクスと笑う。
シアンは耳まで顔を真っ赤にして何も言い返せずにいたものの、眉を下げることなく拳に力を込めて真っ直ぐ前を向いていた。昨日までの彼ならきっと頭を抱えて地面に伏せっていただろう。トーヤの影に隠れていたミユは唇を噛み締めるとシアンと女性の前に立ちはだかる。
「何?」
ミユは訝しげに自身を見下ろす女性たちをキッと睨みつけ、大きく息を吸った。
「何もおかしくなんかないよ!プレゼントしか見てないお姉さんには分からないかもしれないけど!!」
「何なの?この生意気な小娘」
自分よりもずっと歳下でちんちくりんな少女に意見されたのが気に食わなかったのか、女性が眉を引きつらせ右手を宙に挙げる。
(あ、やばい、叩かれる—————)
ミユは咄嗟に目を瞑ることしかできず、その場で身を強張らせる。
パシッ
二、三秒程経ったが一向に平手が来ないのを確認すると、恐る恐る固く閉じられていた目を開ける。すると、女性の宙に挙げられていた手はトーヤの右手によって掴まれていた。
「この手で誰かを傷つけたこと後悔してほしくないので…どうか収めてください」
トーヤは女性の目を見るわけでもなく睫毛を少し伏せるように下を向きながらそっと言う。女性は暫しバツが悪そうにしていたが舌打ちするとトーヤに掴まれている手を振り解く。
「花の場所を教えてくださりありがとうございます。お騒がせしてすみませんでした。では僕らはこれで失礼します」
呆気に取られている女性たちにトーヤは微笑んで一礼するとミユとシアンを連れて逃げるように花街を後にした。
「呑気な輩ね。一夜限りの関係にあんな花を渡されるこっちの気を知りもしないで……」
女性はそうポツリと呟くと、先程掴まれていた手を固く握りしめる。人肌にしてはひんやりとした体温は女性が今まで感じたことないもので、それでも彼女を抱いたどんな手よりも優しく、悲しげだったと言う。
「ごめんね、私が余計なことしたから……」
「俺もまた何も言い返せず…すみません……」
「気にしないで。ヒノワじゃないけど相手が女性じゃなかったら僕も手を出してたかもしれないし…」
トーヤは苦笑しているが、怒っている彼を未だ見たことがないミユにとって半ば想像がつかなかった。
一行が女性に言われた道を行くと、寂しい町並みが続いた先に開けた高原に出る。広がる緑の絨毯には白く星形の小さな花が点々としており、そこだけ空気が澄んでいるように思えた。
「うわー!何だか星空みたい!」
ミユは花を踏まないように草原に足を踏み入れるとしゃがんで花を眺める。
「この花です!俺は指輪によさそうなのを探してくるのでお二人は休憩していてください」
シアンは鞄からルーペと小さな花切りハサミを取り出すと意気揚々と歩いて行く。きっとこの二日間で今が一番楽しそうに見えた。
ミユはそんなシアンを目で追いながら大きく溜息を吐いた。
「どうするか決まった?」
トーヤはよいしょ、とミユの隣に腰を下ろすとミユと同じくシアンを見る。
「……もしかしてトーヤも気づいてたの?」
ミユはまん丸な目に沿って生えた睫毛をはためかせながらトーヤを見る。
「両者の話を聞く限り薄々そうじゃないかなとは思ってたんだけど…今朝からのミユ見てたら確信したよ」
トーヤは要するにミユが分かりやすいんだよ、と笑いながら顔を覆っている少女を見る。
「ミユはどうしたいの?」
「私シアンさんにもレイチェルさんにも幸せになってほしい。でもそんな正解あるのかな…」
ミユは抱えた膝に顎を埋めながら眉をひそめる。隣に座るトーヤは少しの間考えると瞑目しながらそっと言う。
「幸せと正しいって似てるよね」
「え?」
「“正しい”も“幸せ”も“誰かにとって”なんだよ。ミユにとってそうであっても他の誰かから見たらそうじゃないかもしれない。決めつけるのは傲慢だよ」
未だにどうするべきだったか答えの見つからない過去を瞼の裏に映しながらトーヤはそう言った。
「そっか…そうだよ!トーヤありがとう!」
オリヴァーに言われた「人の幸せは他人の尺度で測れない」という言葉。何方か一方を選んだからといってもう一方も幸せになれるのが自身の言う最善。
「もしもの時は僕からもオリヴァーさんに頼むよ」
先程まで悩んでいたのが嘘のように立ち上がるとシアンの元へ駆けて行くミユの姿をトーヤは優しい微笑みで見送った。
「あれ、ミユさんどうしたんですか?」
「あのねっ、シアンさんに言わなきゃいけないことがあるの」
シアンは物言いたげに寄ってきたミユを見るとルーペを置き、ミユの目線に合わせて向き合う。
「ヒノワが今やってるお仕事はある親子のお手伝いなの。娘の婚姻を条件に隣国へ亡命するっていう…」
シアンの手から摘まれた花がこぼれ落ちるのを見てミユは眉を下げる。
「何故…それを俺に伝えたんですか」
「私も知ったのは昨日の夜。ずっと言っていいのか迷ってた。今日の日没北西の国境近くの平原で向こうの人と落ち合うの。亡命の件は失敗してもおじいちゃんがきっと何とかしてくれるから。だからっ…」
ミユはシアンの顔を見ているのが気まずくなり次第に視線を下に落としていく。
「プロポーズお手伝いするって言ったのに、シアンさんに選択を迫る形になっちゃってごめんなさい…」
セーターの袖口ぎゅっと握りながらミユは頭を下げる。さすがのシアンもこれには怒っただろうか。それともこれまで以上の落ち込みモードに入ってしまうか。ミユは覚悟を決めてシアンを見る。すると、シアンは手からこぼれ落ちた花をそっと拾うと予想外にも穏やかな表情をしていた。
「そんな顔をしないでください」
申し訳なさそうにしゅん…とするミユにシアンは笑いかけると手を差し出す。
「散々振り回しておいて恐れ多いんですが…それじゃああと少しだけ俺の想いを伝えるのを手伝ってくれますか?」
「うん!」
パンパンッと自身の頬を二度叩くとミユは差し出された手を取る。
「行こう!西へ!」
ミユは今度こそフォークを持つ手の方角を指すと、一行はアルカディオ北西部の国境へと向かい始めたのだった。
「おはようございます、お二方。昨晩はよく眠れましたか?」
「あんな粗末なベッドで眠れるわけないだろ!おかげで腰が…」
裕福な暮らしをしていたヴィクターにとって薄っぺらいマットレスのベッドで寝たり、こんな早朝に叩き起こされたりと、色々不機嫌なのか顔をしかめながら腰を摩っている。レイチェルも言葉には出さなかったが同じく腰を摩っているあたり寝心地が悪かったのだろう。
「レイチェルさんも本当にいいんですね」
「はい。決心はついています」
そう言ったレイチェルの表情から昨晩抱えていた迷いが消えており、その迷いを消し去ったのが誰であるかを察したオリヴァーはそっと微笑む。
(その代わりあなたが迷うことになっていそうですが……)
そんなことを考えながらオリヴァーは傍で荷車に野菜がたくさん入った木箱を積んでいるヒノワと、荷台に繋がれた馬に人参をやるソニアを見る。ヒノワはいつもと違って洋服を着ており、ソニアも髪を下ろしていたりと二人とも見慣れない風貌をしている。
「こちらも今一度確認するが本当に大丈夫なのか?娘の未来がかかっているんだ」
ヴィクターはヒノワとソニアを訝しげな目で見る。犯罪紛いの仕事でも何でも受けるという在らぬ噂を信じてオリーブ堂へやってきたヴィクターにとっては自分より一回り二回り、それ以上も歳が若く、尚且つ女子供が依頼を受けている様は何だか拍子抜けであった。
「ヒノワはこう見えて元軍人で今回は武器の所持も許可しています。まあ使わないに越したことはありませんがね。依頼を受けた以上我々も身の危険を感じるギリギリまでは全力を尽くしますのでご安心ください」
オリヴァーが言葉の内容とは裏腹ににっこりと微笑むのを見てヴィクターは思わず固唾を飲んだ。もしかしたら軍よりも恐ろしい存在と関わっているのかもしれない。一時的な関係ではあるが彼らが味方という立場にいて本当によかったと心底思ったのだった。
「おーい、準備できたぞ~」
全ての野菜が入った木箱を荷台に乗せ終わったヒノワがこちらに合図を送る。
「それではお二人にはこちらの一等車にご乗車願います」
そう言ってオリヴァーが指し示したのは、野菜が入った木箱よりも一回り程大きい木箱。丁度人一人がすっぽりと収まるであろう箱の底には気休め程度に毛布が敷かれていた。
「まさか…これに一日中入ってろと言うのか!?」
「大丈夫ですよ、換気できる程度の穴は開いてますから」
「そう言う問題ではっ…!嫁入り前の娘に何てことさせるんだと言っているんだ」
「お父様!私は大丈夫だから!」
オリヴァーに噛みつこうとするヴィクターをレイチェルが制止する。
「昨晩も打合わせしましたが、題して“農家の夫婦野菜も売って一石二鳥大作戦!”です。今日は北西の町外れで月に一度行われるバザーの日。参加者を装って日没頃に国境の平原で待つオルフェンディアの使者と落ち合います」
オリヴァーがヒノワとソニアも集めて昨晩の打合わせの最終確認を行うと、ヴィクターは最後まで渋っていたが開いた二つの木箱の中に各々入る。
「そうですヒノワ、これを」
「豆?こんなもんどうして…」
オリヴァーから渡された巾着を開けると大量の豆が入っていた。
「備えあれば憂いなし。旅におやつはつきものでしょう?」
オリヴァーの意図が読み取れないというように首を傾げるヒノワをよそにオリヴァーはニコニコと笑う。
「それでは成功を祈っております」
見送るオリヴァーを背に鞭を打たれた馬によって荷台が動き始める。
「本当親の心子知らず、とはよく言ったものですねぇ…」
オリヴァーは苦笑しながら一向が見えなくなるまで手を振り続けると、大きな欠伸をしながら家の中へ戻って行った。
☆ ★ ☆
ヒノワたちが出かけて行って数時間。辺りもすっかり明るくなった頃、トーヤとオリヴァーはソニアが作って置いておいた朝食を食べているところだった。
「おはざいます……」
「おはよ、ミユ」
清々しい朝、とは言い難いような表情で眠そうな目を擦りながら起きてきたミユにトーヤは挨拶をする。
「おやおやミユさん、昨日はお疲れで眠れなかったのですか?」
「ううん、ちょっと考え事してたら夜更かししちゃって…」
ミユは席に座るとトーヤが用意してくれた牛乳を一口飲んで目を覚まそうとする。
「レイチェルさんたちはもう出たんだよね?」
「はい、早朝に」
「そっか…亡命、成功しちゃうかな……。っ!ごめんなさい!失敗してほしいみたいな言い方しちゃって……」
ミユはそうポツリと呟くが、すぐにハッと我に返ると慌てて手を振りながら謝る。そんなミユを見てオリヴァーは咎めることなく星明かりに照らされた夜空のような黒髪を優しく撫でた。
「さて…どうでしょうねぇ。正直五分五分と言ったところでしょうけど。ヒノワがついているので安心だとは思いますがドーヴェもきっと亡命を許すつもりはないはずです。それこそドーヴェとの鉢合わせはヒノワにとって判断力を欠く欠点となる。なのでソニアを同行させたのですが……」
オリヴァーは珍しく神妙な顔をしながら顎に手を当てる。あのヒノワが最も苦手とする相手……。昨日ヒノワが元軍人である事実を語られた際に少しだけ二人の因縁を聞いたが一体二人の間に何があったのだろうか。
(総司令官さんを殴ったとか?いや、まさかね……)
ミユは想像しながら黙々とソニアの作ったサンドイッチを食べる。
各々が朝食を済ませ、一旦自室に戻って準備をした後再びホールへと集まる。
「北の町まで行く列車の代金は三人分私が出します」
そう言ってオリヴァーはお金の入った巾着をミユに手渡す。
「いいの?」
「ええ。私からの祝儀だとでも言っておいてください」
首都アルカディオから北の町までの一人分の列車の往復代金は昨晩の四人分の食事代に満たずとも然程金額は変わらない。彼なら三人分の代金を払うと言って聞かないだろう。そんなことをしていれば本当に甲斐性無しになってしまう。
「それとヒノワたちは北西の町で開かれるバザーに参加した後日没にかけて近くの林を抜けて国境に向かいます」
自然な流れで言われたがそんな機密情報を何故今言うのだろう。ミユは一瞬首を傾げたがオリヴァーの意図をすぐに理解して彼の顔を見る。すると、にこやかに笑いながら微かに頷いたオリヴァーにミユは眉を八の字に下げる。
(おじいちゃん意地悪だ…)
「さて二人ともそろそろ出なくては」
「それじゃあ行ってきます」
オリヴァーに背中を押された二人は振り返って挨拶をすると光が満ちる扉の外へ出て行く。
「さしずめ“凹凸コンビ”…と言ったところですかね」
肩を並べて歩いて行く二人を見送りながらオリヴァーはふっと笑みを溢した。
「うっわぁ~人がいっぱい!」
縦横無尽に人が横行している駅の構内でミユは四方八方に首を向けながら辺りを物珍しそうに見ている。
「ミユは列車初めて?」
はしゃぐ少女を見失わないように繋がれているのは手袋越しだというのに相も変わらず冷たい手。迷子にならないようにとミユから提案したのだが側から見れば恋人に見られるのだろうか。ミユは繋がれた手を横目で見ると少しはにかんだ。
「ううん。近くの町に買い出し行く時に何度か乗ったことあるけど…こんなに人がいっぱい行き交ってるのは初めて」
のどかな田舎村にある駅は古い木造の駅舎で、乗車する客も少なく本数も早朝・昼中・日没前の夕方の三本のみである。それに対し、首都であるこの駅は絶え間なく列車が行き来し、そこに行き交う人々もまた一本の線路を行く列車のように迷うことなく目的の列車に乗車する。
「シアンさんは…まだいないみたいだね。先に切符買っちゃおうか」
シアンとは面識がないが昨日のミユ、ヒノワ、そしてオリヴァーの話を聞く限りおおよそどのような人物なのかは見当はつく。少なくとも今目の前の迷うことなく真っ直ぐ前を見て歩く人混みの中にいるとは思えなかった。
ミユとトーヤは切符を購入するべく購入窓口へと向かった。
「キリシア地区(北部最大の都市)までの往復くださいっ!」
「キリシア地区往復ね。兄妹でお出かけかな?二枚でいいかい?」
「は…?」
中年の駅員はミユとトーヤの繋がれた手を見て微笑ましげに聞く。対するミユは駅員の言葉に眉をひくつかせながら固まった。
「可愛らしい妹さんだね」
「いえ、僕らは兄妹では…。あ、大人三人分の切符をお願いします」
トーヤは苦笑しながら否定すると三本の指を立てながら切符の枚数を提示する。ミユは少ししょんぼりしながらオリヴァーからもらった巾着を鞄から出すと三人分の切符の金額を払った。
「これは失敬。はい、キリシア地区往復大人三枚ね。良い旅を、お嬢さん」
駅員はミユに三枚の切符を手渡すとウインクをした。
「うん!ありがとう!」
ミユとトーヤは切符売り場を後にすると再び待ち合わせ場所である改札前に戻ってくる。すると、聞き覚え、トーヤの場合は聞いたことないが予想通りといった声が人混みの中から聞こえてきた。
「すみませんすみませんっ!通勤の邪魔をしてしまいすみませんっ!」
人にぶつかったのだろうか、ひっきりなしに頭を下げる人物こそ今回の依頼主であるシアン。ぶつかられた側の人物はシアンの謝罪など聞く間も無く目的の列車に乗るべく去って行った。
「シアンさん!」
「ミユさん!」
ミユの声に気づいたシアンは拙い足取りでこちらに駆け寄ってくる。
「すみません人混みに飲まれてしまって……あれ?ヒノワさんは?」
相変わらずの第一声から謝罪で始まると、シアンは着流を着た男の影を探して辺りをキョロキョロと見回す。
「ヒノワは別のお仕事入っちゃったから来れないの…。でも安心して!代わりにヒノワよりもかっこいいトーヤが来てくれたから!」
ミユがは隣に立つトーヤを手で示すと、トーヤは苦笑しながら「はじめまして」と小さく会釈をする。
「そうですか…それは仕方ないですね。トーヤさんよろしくお願いします」
シアンは自身より歳が下であるヒノワよりも更に歳下の少年にペコペコと頭を下げる。
「それでは切符を買ってきますね」
「あ、待って!切符はもう買ったの!おじいちゃんがね、祝儀だと思って~って」
早速切符売り場に向かおうとするシアンを、ミユは三枚の切符を見せながら制止する。
「へ?え?そんな…まだプロポーズすらしてないのに…」
シアンは申し訳なさそうに眉を下げながら切符を一枚受け取る。
「ほらほら!列車が出ちゃうよ!」
ミユは後からシアンの背中を押して共に改札をくぐる。
恐らくレイチェルの想い人である彼に今起こっている現状を伝えられぬまま依頼二日目が始まったのだった。
☆ ★ ☆
アルカディオ軍本部の講堂には早朝より多くの兵士が集められており、中央前ではドーヴェが眉間に皺を寄せながら指示を出していた。
「……以上の持ち場に分かれて各自見張りをしろ。ヴィクター・アンダーソン及びレイチェル・アンダーソンの亡命の成功は国の平和を脅かすものである」
普段にも増して物々しい雰囲気を醸し出すドーヴェに兵士たちの間にも緊張が張り詰める。
「それと…もし隻眼の男を見つけたらそいつは恐らく亡命に携わっている可能性がある。見つけ次第直ちに捕縛しろ。我が国の情報を持った彼らを我々アルカディオ軍は何としても止めねばならない。如何なる手段を使ってでも阻止するのだ」
ドーヴェの指示を受けた兵士たちは一斉に散る。
「ああ言ってるけどアンダーソン親子が逃げた日に総司令官殿私用で現場離れてたよな?こんな朝っぱらから自分が現場離れた尻拭いさせるのかよ」
「お前それ本人の前で言ってみろよ」
「嫌だよ!鳩の餌にされちまう!」
ピリリと張り詰めた空気から解放された兵士たちは各々愚痴をこぼし始めながら各々の持ち場へと向かって行く。
「さて…私も向かうとするか」
最後に一人残ったドーヴェは講堂から出ると新たな一日を迎えようとしている空を見上げる
「兄上…今回だけはこの件に関わっていないでくれ……」
徐々に顔を出し始めた太陽に向かって飛ぶ二羽の鳥たちの姿を細めた目で追いながらドーヴェは一歩踏み出した。
☆ ★ ☆
ミユたちが列車に乗り込んだ同時刻頃、大量の野菜を乗せた荷台は険しい山道を登っていた。
「それにしても…」
荷台に座るソニアは手綱を引いているヒノワ見ながらふふっと笑う。オリヴァー曰く田舎農家の夫婦という設定らしく、ヒノワもソニアもいつもとは違う風貌をしていた。ヒノワに至っては洋服に帽子にスカーフ…変装にしては少々やり過ぎな気もするが普段から着流ばかり着ている彼にとっては丁度いいのかもしれない。しかし、和服を自身のアイデンティティとするヒノワにとって洋服を着ることは随分と不服だったらしく、朝から少々不機嫌なのである。
「和服は俺のアイデンティティなのによ……」
軍を抜けて以来ずっと着流を着ているのは何か目に見える形で誇示しないと己を見失ってしまいそうで、言わば戒め…お守りみたいなものだった。
「何を着ていてもヒノワはヒノワなのよ。でもやっぱりいつもの着流の方が素敵ね」
ソニアはそう言ってヒノワの背中越しに笑いかける。ヒノワは手綱を握る手に汗が滲み耳の先まで赤くなっていたが、帽子とスカーフのおかげで背後からは見えないため今この瞬間だけは奇天烈な変装に救われた気がした。
暫し二人きりの空気が流れていたが、突如荷台に積まれた箱の中から喚くヴィクターによってそれは破られる。
「もっとまともな運転はできんのか!これじゃあ腰に衝撃が……」
「仕方ねえだろ。引っ張ってんのは馬なんだから」
オリーブ堂を出てかれこれ四時間は荷台に揺られているため、ヴィクターでなくても皆身体が痛かった。
「レイチェル大丈夫?」
「ちょっとお尻痛いけど私は平気」
箱の隙間をそっと覗いたソニアにレイチェルは尻を摩りながら苦笑する。
「ごめんなさいねお父様が我儘なばかりに…」
レイチェルは箱の中から父親の度重なる非礼を謝る。
「まあ…陰気臭い雰囲気出されるよりマシだ」
ヒノワは素っ気無く答えるがそれが彼なりの優しさであることを察したレイチェルは箱の中で小さく微笑んだ。思えば自分はいつだって人の優しさの中で生きてきた。そう自覚するようになったのは皮肉にもこんな現状になってからだった。楽しかった思い出が次々と蘇ってくる。もう二度と会うことも触れることもできないと察すると途端に思考が鮮明になる。きっと走馬灯というのはこういうものなのだろう。頭の中に浮かぶいくつかの思い出の中で一番大きく浮かび上がったのは最愛の人との思い出。その周りには愛しい家族との思い出。両方を心の天秤にかけてみる。過ごした時間は当然家族より少ないが多くのものを自分にくれた恋人も、長い時間の中で苦楽を共にした家族も何方も重く一方に傾くことはしない。
(何方かなんて選べるわけないじゃない…!)
レイチェルは心の天秤を壊すと目頭に涙を滲ませる。父親だけには心配かけたくはない。なので父親と別々の箱に入っていてよかったと心底思った。ただ一人、箱にもたれかかっているソニアにのみ聞こえる声でレイチェルは嗚咽を漏らした。
☆ ★ ☆
「なんていうか…寂しいとこだね」
北部最大の都市キリシアから移動馬車で小一時間、ミユたちは山間部の小さな町へ来ていた。ミユの育った村も大概な田舎だが村人が少ない分皆顔見知りでアットホームな村だった。しかし、この町は店屋があるにも関わらず殆ど閉まっており、“田舎だから”と言うにはあまりに活気のないさびれた様子に少しだけ不気味ささえ感じて取れた。
「以前仕事で来た時はもう少し活気があったんですが…」
「連なった山のせいで冬の間物資がまともに届かないんだ。戦争による不況で余計にこっちまで手が回せなくなったんだね」
国交を持たないアルカディオが成り立っているのは東西南北に広がる広大な領土のおかげであると言える。しかし、こういった地形や国境に近い土地は物資がまともに届かず貧しい地域が多い。戦争に明け暮れそんな現状を見て見ぬふりしている国に不満を持つ民もいる。
「とりあえずシアンさんが言ってたお花探そ!」
とは言っても春だというのに枯れ果てた大地に花が咲いている気配は微塵もない。人と共に土も活気を失ったと言わんばかりに辺り一面荒地である。
「無闇に歩き回るより村の人に聞いてみた方がよさそうだね」
トーヤはチラッと建物を見る。先程から感じる視線は恐らくこの村にとって久しく訪れた客人に向けられたもの。人が住んでいるのには間違いない。
一行が暫く歩いていると、店が連なった道に数人の女性たちがたむろしていた。標高が高く寒いというのに女性たちは皆薄手のワンピースを着ており、何を生業としているのか十四歳のミユから見ても明白であった。女性たちは三人に気づくと艶やかな笑みを浮かべ手を振ってくる。
「はーい、お兄さんたち。何かお探し?それとも私たちと遊ぶ?」
一人の女性はすかさずシアンの肩に手を回し、もう一人の女性はトーヤの頬に触れようとするが咄嗟にトーヤが一歩退いたため残念そうに引き下がる。完全に蚊帳の外に出されたミユはむっとしてトーヤの上着にしがみついた。
「あ、はい、その…この辺りで花が咲いてる場所を探してまして…。白くて可愛らしい花なんですが」
シアンは頬を赤らめながらも肩に回されている女性の腕をそっと外すと、自身が探す花の咲いている場所を尋ねる。
「あ~…白い花?それならこの花街の向こうの山に咲いてるわ。金のない客が時々摘んでくるのよ」
女性はシアンが自分達に興味を示さないことが分かると途端に冷めた態度に変わった。
「まさか彼女へのプレゼントとか言わないでしょうね」
失笑する女性にそのまさかを突かれたシアンは「お恥ずかしながら…」と、頭を掻きながら苦笑する。
「ウケる!大の大人が花の指輪をプレゼントなんて!私の客の方がまだいい物くれるわ!」
女性は傑作というように手を叩いて笑い、他の女性もシアンを馬鹿にするようにクスクスと笑う。
シアンは耳まで顔を真っ赤にして何も言い返せずにいたものの、眉を下げることなく拳に力を込めて真っ直ぐ前を向いていた。昨日までの彼ならきっと頭を抱えて地面に伏せっていただろう。トーヤの影に隠れていたミユは唇を噛み締めるとシアンと女性の前に立ちはだかる。
「何?」
ミユは訝しげに自身を見下ろす女性たちをキッと睨みつけ、大きく息を吸った。
「何もおかしくなんかないよ!プレゼントしか見てないお姉さんには分からないかもしれないけど!!」
「何なの?この生意気な小娘」
自分よりもずっと歳下でちんちくりんな少女に意見されたのが気に食わなかったのか、女性が眉を引きつらせ右手を宙に挙げる。
(あ、やばい、叩かれる—————)
ミユは咄嗟に目を瞑ることしかできず、その場で身を強張らせる。
パシッ
二、三秒程経ったが一向に平手が来ないのを確認すると、恐る恐る固く閉じられていた目を開ける。すると、女性の宙に挙げられていた手はトーヤの右手によって掴まれていた。
「この手で誰かを傷つけたこと後悔してほしくないので…どうか収めてください」
トーヤは女性の目を見るわけでもなく睫毛を少し伏せるように下を向きながらそっと言う。女性は暫しバツが悪そうにしていたが舌打ちするとトーヤに掴まれている手を振り解く。
「花の場所を教えてくださりありがとうございます。お騒がせしてすみませんでした。では僕らはこれで失礼します」
呆気に取られている女性たちにトーヤは微笑んで一礼するとミユとシアンを連れて逃げるように花街を後にした。
「呑気な輩ね。一夜限りの関係にあんな花を渡されるこっちの気を知りもしないで……」
女性はそうポツリと呟くと、先程掴まれていた手を固く握りしめる。人肌にしてはひんやりとした体温は女性が今まで感じたことないもので、それでも彼女を抱いたどんな手よりも優しく、悲しげだったと言う。
「ごめんね、私が余計なことしたから……」
「俺もまた何も言い返せず…すみません……」
「気にしないで。ヒノワじゃないけど相手が女性じゃなかったら僕も手を出してたかもしれないし…」
トーヤは苦笑しているが、怒っている彼を未だ見たことがないミユにとって半ば想像がつかなかった。
一行が女性に言われた道を行くと、寂しい町並みが続いた先に開けた高原に出る。広がる緑の絨毯には白く星形の小さな花が点々としており、そこだけ空気が澄んでいるように思えた。
「うわー!何だか星空みたい!」
ミユは花を踏まないように草原に足を踏み入れるとしゃがんで花を眺める。
「この花です!俺は指輪によさそうなのを探してくるのでお二人は休憩していてください」
シアンは鞄からルーペと小さな花切りハサミを取り出すと意気揚々と歩いて行く。きっとこの二日間で今が一番楽しそうに見えた。
ミユはそんなシアンを目で追いながら大きく溜息を吐いた。
「どうするか決まった?」
トーヤはよいしょ、とミユの隣に腰を下ろすとミユと同じくシアンを見る。
「……もしかしてトーヤも気づいてたの?」
ミユはまん丸な目に沿って生えた睫毛をはためかせながらトーヤを見る。
「両者の話を聞く限り薄々そうじゃないかなとは思ってたんだけど…今朝からのミユ見てたら確信したよ」
トーヤは要するにミユが分かりやすいんだよ、と笑いながら顔を覆っている少女を見る。
「ミユはどうしたいの?」
「私シアンさんにもレイチェルさんにも幸せになってほしい。でもそんな正解あるのかな…」
ミユは抱えた膝に顎を埋めながら眉をひそめる。隣に座るトーヤは少しの間考えると瞑目しながらそっと言う。
「幸せと正しいって似てるよね」
「え?」
「“正しい”も“幸せ”も“誰かにとって”なんだよ。ミユにとってそうであっても他の誰かから見たらそうじゃないかもしれない。決めつけるのは傲慢だよ」
未だにどうするべきだったか答えの見つからない過去を瞼の裏に映しながらトーヤはそう言った。
「そっか…そうだよ!トーヤありがとう!」
オリヴァーに言われた「人の幸せは他人の尺度で測れない」という言葉。何方か一方を選んだからといってもう一方も幸せになれるのが自身の言う最善。
「もしもの時は僕からもオリヴァーさんに頼むよ」
先程まで悩んでいたのが嘘のように立ち上がるとシアンの元へ駆けて行くミユの姿をトーヤは優しい微笑みで見送った。
「あれ、ミユさんどうしたんですか?」
「あのねっ、シアンさんに言わなきゃいけないことがあるの」
シアンは物言いたげに寄ってきたミユを見るとルーペを置き、ミユの目線に合わせて向き合う。
「ヒノワが今やってるお仕事はある親子のお手伝いなの。娘の婚姻を条件に隣国へ亡命するっていう…」
シアンの手から摘まれた花がこぼれ落ちるのを見てミユは眉を下げる。
「何故…それを俺に伝えたんですか」
「私も知ったのは昨日の夜。ずっと言っていいのか迷ってた。今日の日没北西の国境近くの平原で向こうの人と落ち合うの。亡命の件は失敗してもおじいちゃんがきっと何とかしてくれるから。だからっ…」
ミユはシアンの顔を見ているのが気まずくなり次第に視線を下に落としていく。
「プロポーズお手伝いするって言ったのに、シアンさんに選択を迫る形になっちゃってごめんなさい…」
セーターの袖口ぎゅっと握りながらミユは頭を下げる。さすがのシアンもこれには怒っただろうか。それともこれまで以上の落ち込みモードに入ってしまうか。ミユは覚悟を決めてシアンを見る。すると、シアンは手からこぼれ落ちた花をそっと拾うと予想外にも穏やかな表情をしていた。
「そんな顔をしないでください」
申し訳なさそうにしゅん…とするミユにシアンは笑いかけると手を差し出す。
「散々振り回しておいて恐れ多いんですが…それじゃああと少しだけ俺の想いを伝えるのを手伝ってくれますか?」
「うん!」
パンパンッと自身の頬を二度叩くとミユは差し出された手を取る。
「行こう!西へ!」
ミユは今度こそフォークを持つ手の方角を指すと、一行はアルカディオ北西部の国境へと向かい始めたのだった。
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