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第二章
#8 彼の者はその心を知らず
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食欲をそそる香りが四方八方から漂うディナータイム。そのレストランは家族や恋人、友人らと食事に来ている人で賑わっており、いつもとは違う食事に大人も子供も心踊らせている素振りが見て取れた。そしてそんな老若男女笑顔になるような楽しい食事の場で神妙な顔でメニューを睨みつける少女が一人—————
「うむむむ………」
「おいクソガキ早く決めろよ」
向かいに座るヒノワは切長の目を細めながら穴が開くのではないかという程メニューと睨めっこを続けるミユを急かす。
「だってどれも美味しそうなんだもん」
「テメェそうやって食いたいもん全部頼んで俺の金で食ったわけか」
ヒノワの鋭いくらい痛い指摘にミユは返す言葉もない、というように無言で眉間に皺を寄せながら引き続きメニューと葛藤を続ける。
何せ何もない小さな田舎村で育ったミユにとってレストランで食事など一大イベントなのだ。一年に二度、自身と従兄弟であるセンリの誕生日に村を二つ程跨いだ先の町のレストランでお祝いしてもらうくらいしか来たことがない。ミユが伯母の家から飛び出す数日前にも自身の誕生日でレストランを訪れたのだが、その時もこうして何を食べようか頭を悩ませた。現在一張羅であるこのワンピースはその時のプレゼントである。あれからまだ半月も経っていないのだがミユにとって何だか遠い日の出来事のように感じた。
「すみません…俺がもっと稼ぎあればいくらでも好きなもの頼んでもらって構わないんですが……」
眉を下げながら申し訳なさそうに謝る、いかにも気の弱そうな男性はシアン。婚約者へ贈る結婚指輪の購入を手伝って欲しいとの依頼をオリーブ堂に持ち寄ってきたのだが、当人の気の弱さ、稼ぎの無さ、そして贈る相手が有名な資産家の娘であることから指輪の購入は一筋縄ではいかなかった。挙げ句の果てにヒノワが宝石店の店主を殴ってしまったところを運悪くドーヴェ・ソフォス・アルカディオに見つかり、先程釈放され一日で依頼が完了しなかったため延長料金として一行に夕食を奢ることになったのだ。
「まあ大衆の集うようなレストランでの食事の一つや二つ奢れないようじゃ結婚なんて夢のまた夢です」
水を一口飲みながらカラカラ笑うオリヴァーを見てシアンはふと質問する。
「あの、そう言えばオリヴァーさんってご結婚してらっしゃるんですか?……あ、いや、その、変な質問してすみません……」
これには先程からメニューばかり見ているミユもオリヴァーをチラッと見る。娘息子であるソニアとトーヤがいるなら母親がいるはずなのだが、その気配は全くない。離婚したのか既に他界しているのか……何方にせよ安易に触れてはいけない話題であろうとミユもその点については聞かなかった。
「自身に合否をつけるくせに自分はどうなのか、と言いたいんですか?それとも私の妻である人物が気の毒であると?」
「い、いえ!純粋に気になっただけで…話したくないことであるなら大丈夫です…すみません……」
どこまでも下手なシアンにオリヴァーは苦笑しながら意味も無くグラスの中の氷を混ぜるように宙で二、三度傾けた。カラン、と音を立てながら溶けて小さくなった三つの氷がグラスの底にはまって動かなくなったのを見ると、オリヴァーはゆっくりと口を開いた。
「私に妻はいませんよ。今も昔も。正真正銘の独身です」
さらりと語られた真実にシアンはおろかミユも目を丸くしてこちらを見ていた。オリヴァーは恐らくミユが一番聞きたいであろうことを察して加えて続ける。
「ソニアとトーヤ君はいわゆる戦災孤児であり、私たち三人は互いに血の繋がりはありません」
なんと!この親にしてこの子在り、とはこのことであろうと思っていた親子がまさか血の繋がりがなかったとは!
ミユは最早メニューなど上の空というように血の繋がらない三人の親子の姿を想像する。
(じゃあトーヤはソニアさんのこと好きでもおかしくないってこと…!?)
自分でもよく分からない胸の渦巻きが生まれたがその正体にすぐに気づき、バッとヒノワの方を見る。歳下とはいえ、相手があの高スペックなトーヤじゃ少々部が悪いのではないだろうか。ミユは気の毒そうな表情を浮かべ溜息を吐く。
「おいガキ今余計なこと考えてたろ。いいからさっさとメニューを決・め・ろ」
ヒノワはミユから向けられた視線で大方の考えを察したのか、不服極まりないというように眉間に皺が寄る程に目を細め、指で三度テーブルを突く。きっとこの表情は育て親であるドーヴェにそっくりであるのだろう。今なら納得がいく。
「う~ん…それじゃ私ハンバーグにする!」
ミユは視線をメニューに戻すと何周も見たページをペラペラめくった挙句、ハンバーグを指指す。
「分かりました。春キャベツのパスタと鯛のアクアパッツァと…ハンバーグですね。あ、トッピングも選べるそうですがよかったらどうですか?」
各々の注文を確認したシアンは、ミユが先程まで眺めていたメニューの端に書かれた料金プラスのトッピングの欄を示す。そこには目玉焼きやソーセージなど、これまた目移りしそうなものたちの写真が載っていたが、あれ程優柔不断だったにも関わらずミユは一番初めに目についたトッピングを指す。
「これにする!」
ミユの料理が決まるとシアンは店員を呼び四人分の料理を注文した。
「で?明日はどうすんだ?日雇で働いて指輪の代金でも稼ぐのか?」
「あ、そのことなんですけどね…俺旅商人してるって言いましたよね。昔北部の町へ行った際とても綺麗な花が咲いてるのを見つけたことがあるんです。それを指輪にできたらな、なんて……」
シアンは提案するように右手を上げながらおどおどと答える。
「なるほど。それでどうやって指輪を作るんですか?」
「俺小物作りが趣味で店でもそれ売ってて…簡単な指輪なら作れます」
ここまで何の頼りにもなってないシアンの意外な特技に一同驚いていたが、きっと満場一致で皆が思ったであろうことを代表してオリヴァーが言う。
「全くあなたって人は…指輪を買う資金がないと分かっていて何故始めにそれをしなかったんですか」
「だって相手はご令嬢ですよ!?俺なんかが作った指輪なんかより高くて綺麗な宝石が乗った指輪の方が嬉しいに決まってるじゃないですか!」
シアンは八の字の眉をさらに下げて拳をぎゅっと握りながら少し声を張り上げる。
「相手がどう捉えるかなんてあなたが決めることじゃないでしょう。どうです?ミユさん。高価な宝石の指輪と手作りの指輪。何方が嬉しいですか?」
「私は手作りの指輪の方が嬉しいな。だって世界に一つだけの特別なものなんでしょ?キラキラした宝石も素敵だけどそれはお金があれば誰だって買えるもん」
周りのテーブルに運ばれてくる料理たちを眺めながら話を聞いていたミユはオリヴァーに話を振られるやいなやきっぱりと答える。
「こう捉える女性もいるわけですよ。まあ要するに当たって砕けろ、です」
「砕けてるじゃないですか!!」
カラカラ笑うオリヴァーに対しシアンはすかさず突っ込みを入れる。それはつい数時間前の彼からは想像つかない姿で、隣に座るヒノワはシアンを尻目に少しだけ口元を緩めた。
「んじゃ明日は花探しだな」
「ヒノワさんも手伝ってくださるんですか!?」
シアンはくるりとヒノワの方を向くと目を丸くさせながら驚く。
「俺への借金が掛かった大事な依頼だかんな。ガキがちゃんと働くように見張るんだよ」
「言われなくてもちゃんとやるもん!」
ミユはむっと口を尖らせながらメニューを決めるのに必死で一口も飲んでいなかった水を一啜りするが、四人分の料理を乗せたワゴンを店員が押してくるのが見えると蝋燭にも満たない小さな小さな怒りの炎は一瞬にして消え去った。
「お待たせしました。春キャベツのパスタと鯛のアクアパッツァ、キッシュにハンバーグのチーズ乗せになります」
順にテーブルに並べられていく料理を見るミユの目は宝石店で大きなダイヤモンドを見ていた時より輝いており、シアンは賑やかな少女を見ながらくすりと微笑んだ。
「いただきまーす!」
一同が料理の前で手を合わせると、ミユはナイフとフォークでチーズがたっぷりと乗ったハンバーグを切る。一口大に切られたハンバーグからは肉汁が溢れ出ており、フォークで刺して口へ運ぼうとすると濃厚なチーズが糸を引いた。ミユは何となくでチーズを選んだのだが、伸びるチーズを嬉しそうに見つめる少年を頭に浮かべる。
(トーヤと仲直りできるといいな…)
自分の内に生まれつつある小さな感情が何なのか少女は未だ知ることなく、無邪気に一口大に切り分けたハンバーグを頬張った。
「はあ~美味しかった!お腹いっぱい!」
「そりゃデザートまで食えば腹もふくれるだろうよ」
ヒノワはミユの前に置かれた空のパフェグラスをじとっとした目で見ながらボソッと呟く。食事を終えた四人は両手を合わせ「ごちそうさま」をすると店内を出た。
「シアンさんごちそうさまでした!」
会計を済ませ一番最後に店から出てきたシアンにミユがお辞儀をするのにつられてヒノワとオリヴァーも各々お礼を言う。
「いえ、俺はただご飯を奢っただけで…お礼を言いたいのは俺の方です。皆さんのおかげで彼女に想いを伝えたいって強く思えるようになりました。だからありがっ…んむっ!?」
言葉を遮るように口元に置かれたオリヴァーの手を困惑しながらシアンは見つめる。
「お礼を言うのはまだ早いです。あなたの依頼はまだ終わってないんですから」
「そうだぜ。まだスタート地点にも立ててねえんだ」
「彼女さんにプロポーズするまで私たちがしっかりサポートするからね!」
今朝約束の場所にミユとヒノワが現れた時は正直心許ないと思っていたが、今はとても心強く感じる。シアンは常に山を描いている口角を上げると三人に向かってお辞儀をする。
「明日もよろしくお願いします!」
そう言って明日の集合場所を決めると互いに手を振り帰路を辿る。
「そう言えばあいつの彼女はあいつのどんなとこが良かったんだ?随分なお嬢様なんだろ?」
ヒノワは頭の後で手を組み首を傾げながら虚空を見つめる。
「どんな人間にも互いに惹かれ合うものはあるのです。人の想いは身分や年齢、時には我々の想像すら遥かに超える力を持っているのですよ」
「そうだよ!ソニアさんだってヒノワのこと、いい人なのよって言ってたもん。まあ私にとってはそこそこいい人、だけどね!」
「ばっ…てめっクソガキ!ヒノワさんって呼びやがれ!」
ヒノワは顔を真っ赤にしながらミユを睨みつけるが顔を赤くする理由が決して怒りではないことを知っているミユもオリヴァーもニヤニヤと笑う。
当人たちに今言ってもきっと否定するであろうが、シアンだけではなくミユとヒノワの関係も今朝より良好になっている。オリヴァーは優しく見守るように二人の数歩後を歩いた。
☆ ★ ☆
「父様たち依頼人さんのご馳走になるから夕飯はいらないそうよ。どうする?昨日の残り物でよければすぐ用意できるけど」
受話器を置いたソニアは椅子に座って一息ついているトーヤに伝える。
買い出しから帰って来たらヒノワが軍に捕まったという一報を受けたオリヴァーが出かけようとしているところで、じっとヒノワとミユの身を案じていたが、今の連絡から二人は無事で心配は無用らしい。
トーヤも胸を撫で下ろすように少しだけ溜息を吐くと、長い睫毛を伏せてソニアににっこりと笑いかける。
「僕は何でもいいよ」
トーヤはそう答えると、立ち上がり食事の用意ができるようにテーブルを片付け始める。ソニアは棚から二人分の皿を用意すると大きな器に盛られた野菜炒めをフライパンに移し火にかけた。人参、ピーマン、玉ねぎ…色とりどりの野菜と牛肉が少々散らされた野菜炒めは熱を帯びると昨晩のように食欲を掻き立てる香りを放った。温まったものは一方の皿に牛肉が入らぬようにして均等によそわれ食卓へと並べられる。食卓には既に二人分のお茶が注がれたコップが用意されており、ソニアが席に着くと二人は手を合わせて「いただきます」をした。
二人はガラスのドームになった天井が濃紺に白を一滴垂らしたような空から真っ暗な闇に移り変わるまで黙々と食事を摂っていたが、始めに口を開いたのはソニアの方だった。
「静かな食卓は久しぶりね」
食事に目を落としながらくすっとソニアは笑う。
出会った頃の血の繋がらない父親は今より少々寡黙であった。いや、心を閉ざしている、と言った方が正しいのかもしれない。そのため自身が一方的に話していることの方が多かったと思う。その一年後に血の繋がらない弟がやって来た。育った環境からなのか、おおよその意思の疎通は可能であったが言葉を発することできない弟のため、食事中は今日あったことなど、他愛のない話をいっぱい話すようにした。それから数年、ヒノワとミユがやって来て静かな食卓が随分と賑やかになったことで心を閉ざしていた父と弟は次第に笑顔を見せ自ら会話をするようになり、一方的に話をするだけだった少女は微笑みながら相槌を返すようになった。
「ごめん、気の利いた会話できなくて…」
昼間の老人とのことで動揺しているのか、未だ血の繋がらない家族というものの存在に困惑しているのか、それとも沈黙を責められていると思ったのか、トーヤは少しだけ迷った表情を見せると、コップに手を伸ばすつもりがあるわけでもなくフォークをテーブルに置き、そのまま視線をソニアに向ける。
「僕はソニアの作るご飯も皆が集まるこの食卓も大好きだよ」
ソニアは少しだけ驚くと、そっと優しい笑みを浮かべる。
「そう…それはよかったわ」
変わらない日々を彼方へ—————
そう願うことこそがきっと家族で在りたいと思うこと。
「さあ、冷めないうちに早く食べちゃいましょ」
そう言って再び沈黙の中食事を済ませた二人が手分けして片付けていると、ドンドンと荒々しく戸を叩く音が聞こえテーブルを拭いていたトーヤが頭を上げる。ノックの音からして三人が帰って来たわけではないだろう。ならば陽も沈んで暫く経つような時間に一体誰が訪れるのだろうか。そもそも街から離れた丘にぽつんと建ち、在らぬ噂まで流れていたりするせいか滅多に人が近づかない場所だというのに。
明らかに明かりが灯っているのに反応がないことに苛立ったのか、再び荒々しいノックが響く。トーヤはテーブルを拭いていた手を止めると、扉の前に立ち小さな覗き窓から様子を伺いながら扉の向こうの人物へ話しかける。
「何方様でしょうか」
覗き窓から見えたのは小太りな中年の男とソニアと然程歳が変わらないであろう女性だった。二人とも整えられた身なりの割に薄汚れたローブを羽織っており、何か訳ありなのであろうことは一目瞭然だった。
「依頼を頼みに来た」
男はそ言うが何分オリヴァーがいないのに勝手に依頼を引き受けることなどできない。
「すみません、今オリヴァーは留守でして…また日を改めて……」
「何でもしてくれるんだろ!?頼む、私達を助けてくれ!!」
帰ってもらおうとしたトーヤの声を遮るように男の切羽詰まった声が重なる。トーヤとソニアは困ったというように顔を見合わせると仕方なく扉を開けた。
男は入って来るなり薄汚れたローブを扉の前で脱ぎ捨てると辺りをキョロキョロと見回す。
「ここが居住地なのか?質素極まりないな」
「お父様!この人達は庶民なのよ!すみません、夜分に押しかけた上にとんだご無礼を……」
男が脱ぎ捨てたローブを拾いながら謝罪をする女性はどうやらこの男の娘らしい。無自覚とはいえ女性も大概なもので、なるほど、親子だな、とトーヤとソニアは苦笑する。言い草からしてこの二人は余程の上流階級者なのか、男の着ているスーツと小太りの体型から裕福な暮らしをしていることには間違いなかった。
「狭い場所ですみません。もうすぐ父も帰って来ると思うのでお好きな所にお掛けになって」
男と女性はソニアが手で示した来客用のソファーに腰掛ける。オリヴァーが気まぐれに日曜大工で作った物なので座り心地はあまり良くはない。背もたれがある分楽ではあるがこの二人にとっては最悪だろう。
「よかったらどうぞ」
ソニアはローテーブルの上に二人分のティーカップを用意すると、ティーポットを二、三回揺すり均等に注いでいく。
「わっ…良い香り……」
女性は注がれていく黄金色のお茶を目を輝かせながら見つめる。
「少し熱を入れたミルクを足すとリラックス効果もあっておすすめです」
ソニアは温めたミルクを入れた耐熱の容器も隣に添える。
「美味しい…!使用人たちが淹れてくれるどのお茶よりも美味しいわ!ね!お父様」
女性は数口お茶を飲むとミルクを足し始める。淹れた者へ敬意を示すため飲み始めは砂糖やミルクを足してはならない。この女性の育ちの良さが見てとれた。
「これは…たしかに。うちの屋敷で雇いたいくらいだ」
男もミルクを入れようとはしなかったが顎に手を当てながらティーカップの中のお茶を見つめている。
「ねぇ、私レイチェルっていうの。よかったらあなたの名前を教えてくれないかしら?私同世代の友達ってあまりいなくて…」
レイチェルはソニアの手を取ると金色の瞳を近づける。ソニアは少し瞠目したが金色の睫毛を伏せるように微笑み返す。
「ソニアよ」
「ソニア…素敵な名前。お花から取ったのかしら」
「ええ、父が私を拾った時に偶然咲いているのを見かけたかららしいの」
「拾った…ソニアのお父様は本当のお父様ではないの…?」
レイチェルはソニアの手をゆっくりと離すと小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「気にしないで。戦災孤児で本当の両親のことはほとんど覚えていないの。もし本当の両親と変わらず暮らしていたらどうなっていたのか、なんていくら考えても分かりはしないことよ。それに血は繋がらずともこうして今の家族を持てたことが何よりも幸せなの」
ソニアは離れていったレイチェルの手を両手で優しく包むように握り返す。
「やめておけレイチェル。友達など作っても自分が虚しくなるだけだ。どうせこの国の人間とは二度と会うことなどできないのだから」
レイチェルの父親である男から口を挟むようにして放たれた言葉の不可解な点に気づき、傍で聞いていたトーヤが質問しようした時、突然扉が開く。
「ただいまでーす!!」
ちんちくりんの少女を先頭にヒノワとオリヴァーも各々「ただいま」と言いながら入ってくる。
「おや?こちらの方々は?」
「この方達は……」
家族ではない人間の存在に気づいたオリヴァーが尋ねるとトーヤが簡単に説明する。
「…なるほど、ようこそオリーブ堂へ。私はここの主であるオリヴァー。本日はどのようなご用件でしょうか?」
オリヴァーはそう言ってにっこりと仮面のような笑顔を浮かべると、自身の書斎の扉を開け二人を招き入れた。
☆ ★ ☆
「…して、あなた方は何方様でしょうか?」
「ヴィクター。ヴィクター・アンダーソンだ。こっちは娘のレイチェル」
男はヴィクターと名乗り共に紹介されたレイチェルも会釈をする。
「アンダーソン…、資産家のアンダーソン氏でありますか。しかしあなたは…」
「我々親子の亡命に協力してくれ!!」
オリヴァーが言いかけたことを封じるようにヴィクターはテーブルをバンっと叩くと、にっこり笑うオリヴァーと相対する表情で言う。
「それは国に仇なす行為では?すみませんが我々も慈善事業ではないので態々軍に目をつけられる行為は致しません。自業自得でしょう」
オリヴァーは口元に笑みを浮かべたままであるが、ほんの少しだけ低く冷たい声でヴィクターを刺す。
「ボウメイ?って何?あのおじさん何か悪いことしたの?」
「国の情報を敵国に流したんだとよ。道理で本部に人が少なかったわけだ。国への反逆罪は何より重いから情報を渡した国へトンズラしようって魂胆だな」
オリヴァーの書斎に移ったオリヴァーとアンダーソン親子の様子をミユとヒノワは扉の隙間越しに伺う。
「しっかし…そんな一大事なのに何でドーヴェの奴は宝石店なんかにいたんだ…?」
ドーヴェのことはいけ好かないが、一大事を放り出して宝石店で買い物をするような人間でないことは分かっている。それとも国の危機を差し置いてまでしなければならない程の何かがあの宝石店にあったのか……。ヒノワは顎に手を当てながら眉間に皺を寄せる。その姿は正しくドーヴェ・ソフォス・アルカディオそのものであって、血が繋がらずとも親子が似るというのはどうやら本当のようだ。
「それにしても二人とも無事で良かった」
様子を伺う二人に歩み寄りトーヤはふっ、と笑みを溢す。
「まあ…心配かけてすまんかったな」
「ごめんなさい…一緒にエトワールシリーズ壊す仲間なのに私迷惑ばかりかけて……」
ミユは数日の間仕事などの都合で入れ違いになったりと、まともに顔を合わせていなかったせいか、トーヤの顔を見れないまま俯いたままポツリと呟く。
「今回は仕方ないよ。それに誰だって、僕だって完璧じゃない。互いの不完全な部分を埋め合えるのが仲間…なんじゃないのかな。君がいなきゃNo.13は壊せなかった。そうでしょ?」
トーヤがミユの目線にしゃがんで満天の星空のような瞳を向けると、伏せられていた瞼が持ち上げられ、透き通らんばかりの青を集めた小さな青空のような瞳がこちらを見る。
「怒ってない?」
「怒ってないよ。あ~…僕の方こそ変な態度取っちゃってごめん。誰かと関わることあまりないからどうしたらいいかよく分かんなくて…」
トーヤは眉を下げ自身の頭を掻きながら少し照れ臭そうに苦笑して見せる。ミユは大きな瞳をぱっと輝かせると、ぎゅっと唇を噛み締め嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「おいおいあの二人…」
「ふふっ初々しくて可愛いわよね」
何だか自身が邪魔者であると察したヒノワは、ソニアが先程アンダーソン親子に出したお茶の片付けをしている脇に座り頬杖をつきながらミユとトーヤを見る。
「珍しいと思わねえか。あのトーヤが他人と関わろうなんて」
「あの子なりに前に進んでるってことなのよ」
ソニアは空のカップをトレーに乗せながら自身にも父にも、友人であるヒノワにも見せたことないような表情で話す弟を優しい眼差しで見つめる。そんな様子を見つめていると、不意にその優しい視線がこちらに向きヒノワは咄嗟に目を逸らす。
「あなたがいたから今の私達が在るのよ。ヒノワもミユもお日様みたいな人ね」
「太陽とか…あのガキはともかく俺はそんなんじゃ……」
『ヒノワは俺の太陽だから』
ふと心の奥に浮かんだ言葉。右眼と共に失ったはずなのに今でも瞼の裏に焼き付いて離れない昔の友人。
太陽だったのは一体何方だったのだろうか—————
ヒノワは色んな感情に飲み込まれそうになりぐしゃぐしゃと長い前髪を掻く。何とか取り繕わなければ。そんなヒノワの心配は部屋から出てきたオリヴァーによって遠く彼方に飛んで行く。
「ヒノワ、お仕事です」
「俺?」
ヒノワは自身に指を指しながら目を丸くする。
「いや、だって俺は明日……」
「ミユさんが心配なら代わりにトーヤ君をつけます。軍の包囲網を掻い潜るには元軍人であるあなたが最適なのです」
「別に心配はしてねえ……って、はあ!?本当に亡命させる気なのかよ!」
「ええ、依頼ですから」
数十分前とは意見の違うオリヴァーを訝しげな目で見ながらヒノワは溜息を吐いた。オリヴァーに限って報酬に目が眩んだ、なんてことはないと思うが事が軍に知れればいくらアルカディオ家の者であろうとも実刑は免れないだろう。
「いいのか?」
「はい、私も皆が幸せになれるという最善を選んでみたくなりました」
オリヴァーは白くなった睫毛に縁取られた目を伏せ口元を緩める。その表情に何かを読み取ったヒノワは今一度大きな溜息を吐くと頭を掻きながら苦笑する。
「分かったよ。でも危なくなったら即刻中断するからな」
「元よりそのつもりです。それじゃ中で打ち合わせしましょう。ソニアとトーヤ君とミユさんは空部屋の掃除と二人分の寝床を用意してください」
オリヴァーは各々に指示を出すとヒノワと共に再び自身の書斎へ入って行った。
☆ ★ ☆
月も西へ傾き始めた頃、目が開いてしまったミユは水でも飲もうとベッドから抜け出ると、月明かりを頼りに暗い廊下を進んで行く。日中は皆が集まっていて賑やかなホールも夜はしん、と静まり返っており、明かりが消えている分ガラス張りの天井に広がる夜空が綺麗でとても幻想的な空間に見えた。そんな静かな空間に見慣れない人影を見つけたミユは一瞬心臓が縮むような体験をしたが、その正体が誰なのかすぐに察し、少し迷った挙句近寄って行った。
「眠れないの?」
オリヴァーお手製のソファーに腰を掛けていたレイチェルの隣にミユも座る。
「あなたは…」
「私はミユ!ここに居候させてもらってるの」
「あなたのような子供まで働くなんて庶民は大変なのね」
子供に庶民。いつもならむっとするところだが決して悪気があって言っているわけではないと察したミユは苦笑する。
「明日にはもうこの国にはいないんだって思うと何だか眠れなくて……」
レイチェルは金色の瞳に少し憂いを含んだ表情で頭上に広がる夜空を見る。
「綺麗な空ね」
「だよね!もうすぐ満月だからあんまり星が見えないけど普段はもっと綺麗なんだよ」
「オルフェンディアでも同じ空が見られるかしら」
オルフェンディアはアルカディオから見て西に位置する小国であり、他国と同盟を結んだことにより急激に工業化が進んだ国として有名である。しかし人類の発展はいつの世も豊かな自然と引き換えであり環境汚染も酷いと言われている。きっとアルカディオのような綺麗な星空は見られないだろう。
嘘でも元気づけようと思ったが言葉に詰まってしまったミユは視線を下に落とすと、レイチェルが何かを握りしめているのに気づく。
「レイチェルさん、それは?」
「ああ、これ?これは私の大切な人がプレゼントしてくれた髪留めなの」
そう言ってレイチェルが見せてくれたのは、レイチェルの瞳と同じ色の金の刺繍が施された真紅のリボンのバレッタ。裕福な彼女が身に付けるものとしては些か質素に見えるがとても丁寧に作られていて品がいい。
「可愛い!これってもしかして手作り?」
「そうなの!彼手先が器用でね。形として残るプレゼントをもらったのはこれが最初…で最後かな」
レイチェルはバレッタを親指でなぞるとゆっくりと目を閉じる。
「形として残る?」
「ええ。私は今まで彼からたくさんの彼の思い出をもらったの。ほら、私の家厳しいからあまり外を出歩く機会もなくて…。彼はそんな私にいつも旅の話を聞かせてくれたわ」
ミユは目を見張るようにバレッタを見つめながら自身の中に浮かんだ一つの疑問を口にする。
「彼氏さん…どんな人?」
「旅商人をしていて決して繁盛してるわけでもないし、何なら高くて珍しい商品とかを安値やタダであげちゃうくらいお人好しで自分ばかりがいつも損をしてて…いつも困り顔だけどそれでも彼は笑うのよ。自分の仕事は旅先の思い出をお裾分けして笑顔になってもらう素敵なことだって」
微かに瞠目したミユに気づくことなく、レイチェルは苦笑しながらそれでも尚愛おしそうに気弱で意気地無しな旅商人について語る。
「私は随分とたくさんのものをこの国に置いていってしまうのね…」
再び月の光が差し込む天井を見上げながらレイチェルはポツリと呟いた。ミユは聞いたら戻れない気がしたが少し迷って一番聞きたかった質問をする。
「好きな人がいるのになんで亡命しちゃうの?」
「確かに彼と旅をする未来も夢見ていたわ。でもね、彼と同じくらいたった一人の家族であるお父様も大切なのよ」
国に関する情報を他国に売って今や国中に指名手配となったヴィクター・アンダーソン。この情報だけ聞けば大悪人だ。しかし、ミユはこの手のことには身に覚えがあった。
「すごくいいお父さんなんだね」
予想してなかった返答にレイチェルは思わずミユを見るが、その真っ直ぐな目が嫌味というわけでもなく気を遣ったわけでもないことを物語っており、レイチェルは自身の中に浮かんだ疑問を口に出してしまう。
「否定しないの?」
「もう死んじゃっていないんだけど私のパパも結構悪い人だったらしくて…ママの家はそれはそれは大反対でパパが亡くなった時なんて皆パパの悪口ばっかり!でもね、私もママもパパのいいところいっぱい知ってる。他の人がなんて言おうとパパは素敵な人なの」
目を輝かせながら父親のことを語るミユを見てレイチェルは微笑む。
「お父様が他国に情報を売ったのはお母様のためなのよ」
「レイチェルさんのお母さんの?」
「ええ。お母様は病気を患っていて、国中の名医はアルカディオ家の元当主の看病につきっきり。そんな時にオルフェンディアにその病気を治せる医療機関があると聞いたお父様は後先考えずあの手この手でオルフェンディアとの接触を図ったわ。でも結局間に合わずお母様は亡くなりこうして国に追われることになってしまった…」
ミユはレイチェルの話が驚く程自身の両親と似ており、自身に重ねて話を聞く。
父は天才科学者であったが元々は医者志望だったらしい。何がどうなってその道に至ったかは知らないが、父は母の最期の時まで母の病を治す薬の研究をしていた。もしも人の命を奪う冷徹非道な科学者ではなく人の命を救う医者になれていたなら母を助けられていたかもしれない、と時折独り言のように呟いていたのを覚えている。
「ありがとう。ミユさんと話せて今一度決心したわ。私はお父様にも幸せになって欲しい。だからオルフェンディアへ行く」
レイチェルの瞳から先程の憂いの色は消え、強い決心の光が見えた。
「数時間後にはここを出なきゃいけないらしいからもう寝るわね。付き合ってくれてありがとう」
そう言ってレイチェルはミユに手を振ると用意された客間に戻って行った。一人残されたミユは暫く西へ向かって行く月を眺めていたが考えがまとまらず、水を一杯飲むと自室へと戻る。
(レイチェルさんが元気になってくれたのはいいものの……)
互いの知らないところで円を描くように廻る想いたち。それらは決して交わることをしない。
ミユはどうしたものかと布団の中で考えるが、何だか目紛しい一日を過ごした身体はやがて深い眠りに誘われていく。それぞれの思惑が飛び交う一夜が明け、旅立ちの日が訪れようとしていた。
「うむむむ………」
「おいクソガキ早く決めろよ」
向かいに座るヒノワは切長の目を細めながら穴が開くのではないかという程メニューと睨めっこを続けるミユを急かす。
「だってどれも美味しそうなんだもん」
「テメェそうやって食いたいもん全部頼んで俺の金で食ったわけか」
ヒノワの鋭いくらい痛い指摘にミユは返す言葉もない、というように無言で眉間に皺を寄せながら引き続きメニューと葛藤を続ける。
何せ何もない小さな田舎村で育ったミユにとってレストランで食事など一大イベントなのだ。一年に二度、自身と従兄弟であるセンリの誕生日に村を二つ程跨いだ先の町のレストランでお祝いしてもらうくらいしか来たことがない。ミユが伯母の家から飛び出す数日前にも自身の誕生日でレストランを訪れたのだが、その時もこうして何を食べようか頭を悩ませた。現在一張羅であるこのワンピースはその時のプレゼントである。あれからまだ半月も経っていないのだがミユにとって何だか遠い日の出来事のように感じた。
「すみません…俺がもっと稼ぎあればいくらでも好きなもの頼んでもらって構わないんですが……」
眉を下げながら申し訳なさそうに謝る、いかにも気の弱そうな男性はシアン。婚約者へ贈る結婚指輪の購入を手伝って欲しいとの依頼をオリーブ堂に持ち寄ってきたのだが、当人の気の弱さ、稼ぎの無さ、そして贈る相手が有名な資産家の娘であることから指輪の購入は一筋縄ではいかなかった。挙げ句の果てにヒノワが宝石店の店主を殴ってしまったところを運悪くドーヴェ・ソフォス・アルカディオに見つかり、先程釈放され一日で依頼が完了しなかったため延長料金として一行に夕食を奢ることになったのだ。
「まあ大衆の集うようなレストランでの食事の一つや二つ奢れないようじゃ結婚なんて夢のまた夢です」
水を一口飲みながらカラカラ笑うオリヴァーを見てシアンはふと質問する。
「あの、そう言えばオリヴァーさんってご結婚してらっしゃるんですか?……あ、いや、その、変な質問してすみません……」
これには先程からメニューばかり見ているミユもオリヴァーをチラッと見る。娘息子であるソニアとトーヤがいるなら母親がいるはずなのだが、その気配は全くない。離婚したのか既に他界しているのか……何方にせよ安易に触れてはいけない話題であろうとミユもその点については聞かなかった。
「自身に合否をつけるくせに自分はどうなのか、と言いたいんですか?それとも私の妻である人物が気の毒であると?」
「い、いえ!純粋に気になっただけで…話したくないことであるなら大丈夫です…すみません……」
どこまでも下手なシアンにオリヴァーは苦笑しながら意味も無くグラスの中の氷を混ぜるように宙で二、三度傾けた。カラン、と音を立てながら溶けて小さくなった三つの氷がグラスの底にはまって動かなくなったのを見ると、オリヴァーはゆっくりと口を開いた。
「私に妻はいませんよ。今も昔も。正真正銘の独身です」
さらりと語られた真実にシアンはおろかミユも目を丸くしてこちらを見ていた。オリヴァーは恐らくミユが一番聞きたいであろうことを察して加えて続ける。
「ソニアとトーヤ君はいわゆる戦災孤児であり、私たち三人は互いに血の繋がりはありません」
なんと!この親にしてこの子在り、とはこのことであろうと思っていた親子がまさか血の繋がりがなかったとは!
ミユは最早メニューなど上の空というように血の繋がらない三人の親子の姿を想像する。
(じゃあトーヤはソニアさんのこと好きでもおかしくないってこと…!?)
自分でもよく分からない胸の渦巻きが生まれたがその正体にすぐに気づき、バッとヒノワの方を見る。歳下とはいえ、相手があの高スペックなトーヤじゃ少々部が悪いのではないだろうか。ミユは気の毒そうな表情を浮かべ溜息を吐く。
「おいガキ今余計なこと考えてたろ。いいからさっさとメニューを決・め・ろ」
ヒノワはミユから向けられた視線で大方の考えを察したのか、不服極まりないというように眉間に皺が寄る程に目を細め、指で三度テーブルを突く。きっとこの表情は育て親であるドーヴェにそっくりであるのだろう。今なら納得がいく。
「う~ん…それじゃ私ハンバーグにする!」
ミユは視線をメニューに戻すと何周も見たページをペラペラめくった挙句、ハンバーグを指指す。
「分かりました。春キャベツのパスタと鯛のアクアパッツァと…ハンバーグですね。あ、トッピングも選べるそうですがよかったらどうですか?」
各々の注文を確認したシアンは、ミユが先程まで眺めていたメニューの端に書かれた料金プラスのトッピングの欄を示す。そこには目玉焼きやソーセージなど、これまた目移りしそうなものたちの写真が載っていたが、あれ程優柔不断だったにも関わらずミユは一番初めに目についたトッピングを指す。
「これにする!」
ミユの料理が決まるとシアンは店員を呼び四人分の料理を注文した。
「で?明日はどうすんだ?日雇で働いて指輪の代金でも稼ぐのか?」
「あ、そのことなんですけどね…俺旅商人してるって言いましたよね。昔北部の町へ行った際とても綺麗な花が咲いてるのを見つけたことがあるんです。それを指輪にできたらな、なんて……」
シアンは提案するように右手を上げながらおどおどと答える。
「なるほど。それでどうやって指輪を作るんですか?」
「俺小物作りが趣味で店でもそれ売ってて…簡単な指輪なら作れます」
ここまで何の頼りにもなってないシアンの意外な特技に一同驚いていたが、きっと満場一致で皆が思ったであろうことを代表してオリヴァーが言う。
「全くあなたって人は…指輪を買う資金がないと分かっていて何故始めにそれをしなかったんですか」
「だって相手はご令嬢ですよ!?俺なんかが作った指輪なんかより高くて綺麗な宝石が乗った指輪の方が嬉しいに決まってるじゃないですか!」
シアンは八の字の眉をさらに下げて拳をぎゅっと握りながら少し声を張り上げる。
「相手がどう捉えるかなんてあなたが決めることじゃないでしょう。どうです?ミユさん。高価な宝石の指輪と手作りの指輪。何方が嬉しいですか?」
「私は手作りの指輪の方が嬉しいな。だって世界に一つだけの特別なものなんでしょ?キラキラした宝石も素敵だけどそれはお金があれば誰だって買えるもん」
周りのテーブルに運ばれてくる料理たちを眺めながら話を聞いていたミユはオリヴァーに話を振られるやいなやきっぱりと答える。
「こう捉える女性もいるわけですよ。まあ要するに当たって砕けろ、です」
「砕けてるじゃないですか!!」
カラカラ笑うオリヴァーに対しシアンはすかさず突っ込みを入れる。それはつい数時間前の彼からは想像つかない姿で、隣に座るヒノワはシアンを尻目に少しだけ口元を緩めた。
「んじゃ明日は花探しだな」
「ヒノワさんも手伝ってくださるんですか!?」
シアンはくるりとヒノワの方を向くと目を丸くさせながら驚く。
「俺への借金が掛かった大事な依頼だかんな。ガキがちゃんと働くように見張るんだよ」
「言われなくてもちゃんとやるもん!」
ミユはむっと口を尖らせながらメニューを決めるのに必死で一口も飲んでいなかった水を一啜りするが、四人分の料理を乗せたワゴンを店員が押してくるのが見えると蝋燭にも満たない小さな小さな怒りの炎は一瞬にして消え去った。
「お待たせしました。春キャベツのパスタと鯛のアクアパッツァ、キッシュにハンバーグのチーズ乗せになります」
順にテーブルに並べられていく料理を見るミユの目は宝石店で大きなダイヤモンドを見ていた時より輝いており、シアンは賑やかな少女を見ながらくすりと微笑んだ。
「いただきまーす!」
一同が料理の前で手を合わせると、ミユはナイフとフォークでチーズがたっぷりと乗ったハンバーグを切る。一口大に切られたハンバーグからは肉汁が溢れ出ており、フォークで刺して口へ運ぼうとすると濃厚なチーズが糸を引いた。ミユは何となくでチーズを選んだのだが、伸びるチーズを嬉しそうに見つめる少年を頭に浮かべる。
(トーヤと仲直りできるといいな…)
自分の内に生まれつつある小さな感情が何なのか少女は未だ知ることなく、無邪気に一口大に切り分けたハンバーグを頬張った。
「はあ~美味しかった!お腹いっぱい!」
「そりゃデザートまで食えば腹もふくれるだろうよ」
ヒノワはミユの前に置かれた空のパフェグラスをじとっとした目で見ながらボソッと呟く。食事を終えた四人は両手を合わせ「ごちそうさま」をすると店内を出た。
「シアンさんごちそうさまでした!」
会計を済ませ一番最後に店から出てきたシアンにミユがお辞儀をするのにつられてヒノワとオリヴァーも各々お礼を言う。
「いえ、俺はただご飯を奢っただけで…お礼を言いたいのは俺の方です。皆さんのおかげで彼女に想いを伝えたいって強く思えるようになりました。だからありがっ…んむっ!?」
言葉を遮るように口元に置かれたオリヴァーの手を困惑しながらシアンは見つめる。
「お礼を言うのはまだ早いです。あなたの依頼はまだ終わってないんですから」
「そうだぜ。まだスタート地点にも立ててねえんだ」
「彼女さんにプロポーズするまで私たちがしっかりサポートするからね!」
今朝約束の場所にミユとヒノワが現れた時は正直心許ないと思っていたが、今はとても心強く感じる。シアンは常に山を描いている口角を上げると三人に向かってお辞儀をする。
「明日もよろしくお願いします!」
そう言って明日の集合場所を決めると互いに手を振り帰路を辿る。
「そう言えばあいつの彼女はあいつのどんなとこが良かったんだ?随分なお嬢様なんだろ?」
ヒノワは頭の後で手を組み首を傾げながら虚空を見つめる。
「どんな人間にも互いに惹かれ合うものはあるのです。人の想いは身分や年齢、時には我々の想像すら遥かに超える力を持っているのですよ」
「そうだよ!ソニアさんだってヒノワのこと、いい人なのよって言ってたもん。まあ私にとってはそこそこいい人、だけどね!」
「ばっ…てめっクソガキ!ヒノワさんって呼びやがれ!」
ヒノワは顔を真っ赤にしながらミユを睨みつけるが顔を赤くする理由が決して怒りではないことを知っているミユもオリヴァーもニヤニヤと笑う。
当人たちに今言ってもきっと否定するであろうが、シアンだけではなくミユとヒノワの関係も今朝より良好になっている。オリヴァーは優しく見守るように二人の数歩後を歩いた。
☆ ★ ☆
「父様たち依頼人さんのご馳走になるから夕飯はいらないそうよ。どうする?昨日の残り物でよければすぐ用意できるけど」
受話器を置いたソニアは椅子に座って一息ついているトーヤに伝える。
買い出しから帰って来たらヒノワが軍に捕まったという一報を受けたオリヴァーが出かけようとしているところで、じっとヒノワとミユの身を案じていたが、今の連絡から二人は無事で心配は無用らしい。
トーヤも胸を撫で下ろすように少しだけ溜息を吐くと、長い睫毛を伏せてソニアににっこりと笑いかける。
「僕は何でもいいよ」
トーヤはそう答えると、立ち上がり食事の用意ができるようにテーブルを片付け始める。ソニアは棚から二人分の皿を用意すると大きな器に盛られた野菜炒めをフライパンに移し火にかけた。人参、ピーマン、玉ねぎ…色とりどりの野菜と牛肉が少々散らされた野菜炒めは熱を帯びると昨晩のように食欲を掻き立てる香りを放った。温まったものは一方の皿に牛肉が入らぬようにして均等によそわれ食卓へと並べられる。食卓には既に二人分のお茶が注がれたコップが用意されており、ソニアが席に着くと二人は手を合わせて「いただきます」をした。
二人はガラスのドームになった天井が濃紺に白を一滴垂らしたような空から真っ暗な闇に移り変わるまで黙々と食事を摂っていたが、始めに口を開いたのはソニアの方だった。
「静かな食卓は久しぶりね」
食事に目を落としながらくすっとソニアは笑う。
出会った頃の血の繋がらない父親は今より少々寡黙であった。いや、心を閉ざしている、と言った方が正しいのかもしれない。そのため自身が一方的に話していることの方が多かったと思う。その一年後に血の繋がらない弟がやって来た。育った環境からなのか、おおよその意思の疎通は可能であったが言葉を発することできない弟のため、食事中は今日あったことなど、他愛のない話をいっぱい話すようにした。それから数年、ヒノワとミユがやって来て静かな食卓が随分と賑やかになったことで心を閉ざしていた父と弟は次第に笑顔を見せ自ら会話をするようになり、一方的に話をするだけだった少女は微笑みながら相槌を返すようになった。
「ごめん、気の利いた会話できなくて…」
昼間の老人とのことで動揺しているのか、未だ血の繋がらない家族というものの存在に困惑しているのか、それとも沈黙を責められていると思ったのか、トーヤは少しだけ迷った表情を見せると、コップに手を伸ばすつもりがあるわけでもなくフォークをテーブルに置き、そのまま視線をソニアに向ける。
「僕はソニアの作るご飯も皆が集まるこの食卓も大好きだよ」
ソニアは少しだけ驚くと、そっと優しい笑みを浮かべる。
「そう…それはよかったわ」
変わらない日々を彼方へ—————
そう願うことこそがきっと家族で在りたいと思うこと。
「さあ、冷めないうちに早く食べちゃいましょ」
そう言って再び沈黙の中食事を済ませた二人が手分けして片付けていると、ドンドンと荒々しく戸を叩く音が聞こえテーブルを拭いていたトーヤが頭を上げる。ノックの音からして三人が帰って来たわけではないだろう。ならば陽も沈んで暫く経つような時間に一体誰が訪れるのだろうか。そもそも街から離れた丘にぽつんと建ち、在らぬ噂まで流れていたりするせいか滅多に人が近づかない場所だというのに。
明らかに明かりが灯っているのに反応がないことに苛立ったのか、再び荒々しいノックが響く。トーヤはテーブルを拭いていた手を止めると、扉の前に立ち小さな覗き窓から様子を伺いながら扉の向こうの人物へ話しかける。
「何方様でしょうか」
覗き窓から見えたのは小太りな中年の男とソニアと然程歳が変わらないであろう女性だった。二人とも整えられた身なりの割に薄汚れたローブを羽織っており、何か訳ありなのであろうことは一目瞭然だった。
「依頼を頼みに来た」
男はそ言うが何分オリヴァーがいないのに勝手に依頼を引き受けることなどできない。
「すみません、今オリヴァーは留守でして…また日を改めて……」
「何でもしてくれるんだろ!?頼む、私達を助けてくれ!!」
帰ってもらおうとしたトーヤの声を遮るように男の切羽詰まった声が重なる。トーヤとソニアは困ったというように顔を見合わせると仕方なく扉を開けた。
男は入って来るなり薄汚れたローブを扉の前で脱ぎ捨てると辺りをキョロキョロと見回す。
「ここが居住地なのか?質素極まりないな」
「お父様!この人達は庶民なのよ!すみません、夜分に押しかけた上にとんだご無礼を……」
男が脱ぎ捨てたローブを拾いながら謝罪をする女性はどうやらこの男の娘らしい。無自覚とはいえ女性も大概なもので、なるほど、親子だな、とトーヤとソニアは苦笑する。言い草からしてこの二人は余程の上流階級者なのか、男の着ているスーツと小太りの体型から裕福な暮らしをしていることには間違いなかった。
「狭い場所ですみません。もうすぐ父も帰って来ると思うのでお好きな所にお掛けになって」
男と女性はソニアが手で示した来客用のソファーに腰掛ける。オリヴァーが気まぐれに日曜大工で作った物なので座り心地はあまり良くはない。背もたれがある分楽ではあるがこの二人にとっては最悪だろう。
「よかったらどうぞ」
ソニアはローテーブルの上に二人分のティーカップを用意すると、ティーポットを二、三回揺すり均等に注いでいく。
「わっ…良い香り……」
女性は注がれていく黄金色のお茶を目を輝かせながら見つめる。
「少し熱を入れたミルクを足すとリラックス効果もあっておすすめです」
ソニアは温めたミルクを入れた耐熱の容器も隣に添える。
「美味しい…!使用人たちが淹れてくれるどのお茶よりも美味しいわ!ね!お父様」
女性は数口お茶を飲むとミルクを足し始める。淹れた者へ敬意を示すため飲み始めは砂糖やミルクを足してはならない。この女性の育ちの良さが見てとれた。
「これは…たしかに。うちの屋敷で雇いたいくらいだ」
男もミルクを入れようとはしなかったが顎に手を当てながらティーカップの中のお茶を見つめている。
「ねぇ、私レイチェルっていうの。よかったらあなたの名前を教えてくれないかしら?私同世代の友達ってあまりいなくて…」
レイチェルはソニアの手を取ると金色の瞳を近づける。ソニアは少し瞠目したが金色の睫毛を伏せるように微笑み返す。
「ソニアよ」
「ソニア…素敵な名前。お花から取ったのかしら」
「ええ、父が私を拾った時に偶然咲いているのを見かけたかららしいの」
「拾った…ソニアのお父様は本当のお父様ではないの…?」
レイチェルはソニアの手をゆっくりと離すと小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「気にしないで。戦災孤児で本当の両親のことはほとんど覚えていないの。もし本当の両親と変わらず暮らしていたらどうなっていたのか、なんていくら考えても分かりはしないことよ。それに血は繋がらずともこうして今の家族を持てたことが何よりも幸せなの」
ソニアは離れていったレイチェルの手を両手で優しく包むように握り返す。
「やめておけレイチェル。友達など作っても自分が虚しくなるだけだ。どうせこの国の人間とは二度と会うことなどできないのだから」
レイチェルの父親である男から口を挟むようにして放たれた言葉の不可解な点に気づき、傍で聞いていたトーヤが質問しようした時、突然扉が開く。
「ただいまでーす!!」
ちんちくりんの少女を先頭にヒノワとオリヴァーも各々「ただいま」と言いながら入ってくる。
「おや?こちらの方々は?」
「この方達は……」
家族ではない人間の存在に気づいたオリヴァーが尋ねるとトーヤが簡単に説明する。
「…なるほど、ようこそオリーブ堂へ。私はここの主であるオリヴァー。本日はどのようなご用件でしょうか?」
オリヴァーはそう言ってにっこりと仮面のような笑顔を浮かべると、自身の書斎の扉を開け二人を招き入れた。
☆ ★ ☆
「…して、あなた方は何方様でしょうか?」
「ヴィクター。ヴィクター・アンダーソンだ。こっちは娘のレイチェル」
男はヴィクターと名乗り共に紹介されたレイチェルも会釈をする。
「アンダーソン…、資産家のアンダーソン氏でありますか。しかしあなたは…」
「我々親子の亡命に協力してくれ!!」
オリヴァーが言いかけたことを封じるようにヴィクターはテーブルをバンっと叩くと、にっこり笑うオリヴァーと相対する表情で言う。
「それは国に仇なす行為では?すみませんが我々も慈善事業ではないので態々軍に目をつけられる行為は致しません。自業自得でしょう」
オリヴァーは口元に笑みを浮かべたままであるが、ほんの少しだけ低く冷たい声でヴィクターを刺す。
「ボウメイ?って何?あのおじさん何か悪いことしたの?」
「国の情報を敵国に流したんだとよ。道理で本部に人が少なかったわけだ。国への反逆罪は何より重いから情報を渡した国へトンズラしようって魂胆だな」
オリヴァーの書斎に移ったオリヴァーとアンダーソン親子の様子をミユとヒノワは扉の隙間越しに伺う。
「しっかし…そんな一大事なのに何でドーヴェの奴は宝石店なんかにいたんだ…?」
ドーヴェのことはいけ好かないが、一大事を放り出して宝石店で買い物をするような人間でないことは分かっている。それとも国の危機を差し置いてまでしなければならない程の何かがあの宝石店にあったのか……。ヒノワは顎に手を当てながら眉間に皺を寄せる。その姿は正しくドーヴェ・ソフォス・アルカディオそのものであって、血が繋がらずとも親子が似るというのはどうやら本当のようだ。
「それにしても二人とも無事で良かった」
様子を伺う二人に歩み寄りトーヤはふっ、と笑みを溢す。
「まあ…心配かけてすまんかったな」
「ごめんなさい…一緒にエトワールシリーズ壊す仲間なのに私迷惑ばかりかけて……」
ミユは数日の間仕事などの都合で入れ違いになったりと、まともに顔を合わせていなかったせいか、トーヤの顔を見れないまま俯いたままポツリと呟く。
「今回は仕方ないよ。それに誰だって、僕だって完璧じゃない。互いの不完全な部分を埋め合えるのが仲間…なんじゃないのかな。君がいなきゃNo.13は壊せなかった。そうでしょ?」
トーヤがミユの目線にしゃがんで満天の星空のような瞳を向けると、伏せられていた瞼が持ち上げられ、透き通らんばかりの青を集めた小さな青空のような瞳がこちらを見る。
「怒ってない?」
「怒ってないよ。あ~…僕の方こそ変な態度取っちゃってごめん。誰かと関わることあまりないからどうしたらいいかよく分かんなくて…」
トーヤは眉を下げ自身の頭を掻きながら少し照れ臭そうに苦笑して見せる。ミユは大きな瞳をぱっと輝かせると、ぎゅっと唇を噛み締め嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「おいおいあの二人…」
「ふふっ初々しくて可愛いわよね」
何だか自身が邪魔者であると察したヒノワは、ソニアが先程アンダーソン親子に出したお茶の片付けをしている脇に座り頬杖をつきながらミユとトーヤを見る。
「珍しいと思わねえか。あのトーヤが他人と関わろうなんて」
「あの子なりに前に進んでるってことなのよ」
ソニアは空のカップをトレーに乗せながら自身にも父にも、友人であるヒノワにも見せたことないような表情で話す弟を優しい眼差しで見つめる。そんな様子を見つめていると、不意にその優しい視線がこちらに向きヒノワは咄嗟に目を逸らす。
「あなたがいたから今の私達が在るのよ。ヒノワもミユもお日様みたいな人ね」
「太陽とか…あのガキはともかく俺はそんなんじゃ……」
『ヒノワは俺の太陽だから』
ふと心の奥に浮かんだ言葉。右眼と共に失ったはずなのに今でも瞼の裏に焼き付いて離れない昔の友人。
太陽だったのは一体何方だったのだろうか—————
ヒノワは色んな感情に飲み込まれそうになりぐしゃぐしゃと長い前髪を掻く。何とか取り繕わなければ。そんなヒノワの心配は部屋から出てきたオリヴァーによって遠く彼方に飛んで行く。
「ヒノワ、お仕事です」
「俺?」
ヒノワは自身に指を指しながら目を丸くする。
「いや、だって俺は明日……」
「ミユさんが心配なら代わりにトーヤ君をつけます。軍の包囲網を掻い潜るには元軍人であるあなたが最適なのです」
「別に心配はしてねえ……って、はあ!?本当に亡命させる気なのかよ!」
「ええ、依頼ですから」
数十分前とは意見の違うオリヴァーを訝しげな目で見ながらヒノワは溜息を吐いた。オリヴァーに限って報酬に目が眩んだ、なんてことはないと思うが事が軍に知れればいくらアルカディオ家の者であろうとも実刑は免れないだろう。
「いいのか?」
「はい、私も皆が幸せになれるという最善を選んでみたくなりました」
オリヴァーは白くなった睫毛に縁取られた目を伏せ口元を緩める。その表情に何かを読み取ったヒノワは今一度大きな溜息を吐くと頭を掻きながら苦笑する。
「分かったよ。でも危なくなったら即刻中断するからな」
「元よりそのつもりです。それじゃ中で打ち合わせしましょう。ソニアとトーヤ君とミユさんは空部屋の掃除と二人分の寝床を用意してください」
オリヴァーは各々に指示を出すとヒノワと共に再び自身の書斎へ入って行った。
☆ ★ ☆
月も西へ傾き始めた頃、目が開いてしまったミユは水でも飲もうとベッドから抜け出ると、月明かりを頼りに暗い廊下を進んで行く。日中は皆が集まっていて賑やかなホールも夜はしん、と静まり返っており、明かりが消えている分ガラス張りの天井に広がる夜空が綺麗でとても幻想的な空間に見えた。そんな静かな空間に見慣れない人影を見つけたミユは一瞬心臓が縮むような体験をしたが、その正体が誰なのかすぐに察し、少し迷った挙句近寄って行った。
「眠れないの?」
オリヴァーお手製のソファーに腰を掛けていたレイチェルの隣にミユも座る。
「あなたは…」
「私はミユ!ここに居候させてもらってるの」
「あなたのような子供まで働くなんて庶民は大変なのね」
子供に庶民。いつもならむっとするところだが決して悪気があって言っているわけではないと察したミユは苦笑する。
「明日にはもうこの国にはいないんだって思うと何だか眠れなくて……」
レイチェルは金色の瞳に少し憂いを含んだ表情で頭上に広がる夜空を見る。
「綺麗な空ね」
「だよね!もうすぐ満月だからあんまり星が見えないけど普段はもっと綺麗なんだよ」
「オルフェンディアでも同じ空が見られるかしら」
オルフェンディアはアルカディオから見て西に位置する小国であり、他国と同盟を結んだことにより急激に工業化が進んだ国として有名である。しかし人類の発展はいつの世も豊かな自然と引き換えであり環境汚染も酷いと言われている。きっとアルカディオのような綺麗な星空は見られないだろう。
嘘でも元気づけようと思ったが言葉に詰まってしまったミユは視線を下に落とすと、レイチェルが何かを握りしめているのに気づく。
「レイチェルさん、それは?」
「ああ、これ?これは私の大切な人がプレゼントしてくれた髪留めなの」
そう言ってレイチェルが見せてくれたのは、レイチェルの瞳と同じ色の金の刺繍が施された真紅のリボンのバレッタ。裕福な彼女が身に付けるものとしては些か質素に見えるがとても丁寧に作られていて品がいい。
「可愛い!これってもしかして手作り?」
「そうなの!彼手先が器用でね。形として残るプレゼントをもらったのはこれが最初…で最後かな」
レイチェルはバレッタを親指でなぞるとゆっくりと目を閉じる。
「形として残る?」
「ええ。私は今まで彼からたくさんの彼の思い出をもらったの。ほら、私の家厳しいからあまり外を出歩く機会もなくて…。彼はそんな私にいつも旅の話を聞かせてくれたわ」
ミユは目を見張るようにバレッタを見つめながら自身の中に浮かんだ一つの疑問を口にする。
「彼氏さん…どんな人?」
「旅商人をしていて決して繁盛してるわけでもないし、何なら高くて珍しい商品とかを安値やタダであげちゃうくらいお人好しで自分ばかりがいつも損をしてて…いつも困り顔だけどそれでも彼は笑うのよ。自分の仕事は旅先の思い出をお裾分けして笑顔になってもらう素敵なことだって」
微かに瞠目したミユに気づくことなく、レイチェルは苦笑しながらそれでも尚愛おしそうに気弱で意気地無しな旅商人について語る。
「私は随分とたくさんのものをこの国に置いていってしまうのね…」
再び月の光が差し込む天井を見上げながらレイチェルはポツリと呟いた。ミユは聞いたら戻れない気がしたが少し迷って一番聞きたかった質問をする。
「好きな人がいるのになんで亡命しちゃうの?」
「確かに彼と旅をする未来も夢見ていたわ。でもね、彼と同じくらいたった一人の家族であるお父様も大切なのよ」
国に関する情報を他国に売って今や国中に指名手配となったヴィクター・アンダーソン。この情報だけ聞けば大悪人だ。しかし、ミユはこの手のことには身に覚えがあった。
「すごくいいお父さんなんだね」
予想してなかった返答にレイチェルは思わずミユを見るが、その真っ直ぐな目が嫌味というわけでもなく気を遣ったわけでもないことを物語っており、レイチェルは自身の中に浮かんだ疑問を口に出してしまう。
「否定しないの?」
「もう死んじゃっていないんだけど私のパパも結構悪い人だったらしくて…ママの家はそれはそれは大反対でパパが亡くなった時なんて皆パパの悪口ばっかり!でもね、私もママもパパのいいところいっぱい知ってる。他の人がなんて言おうとパパは素敵な人なの」
目を輝かせながら父親のことを語るミユを見てレイチェルは微笑む。
「お父様が他国に情報を売ったのはお母様のためなのよ」
「レイチェルさんのお母さんの?」
「ええ。お母様は病気を患っていて、国中の名医はアルカディオ家の元当主の看病につきっきり。そんな時にオルフェンディアにその病気を治せる医療機関があると聞いたお父様は後先考えずあの手この手でオルフェンディアとの接触を図ったわ。でも結局間に合わずお母様は亡くなりこうして国に追われることになってしまった…」
ミユはレイチェルの話が驚く程自身の両親と似ており、自身に重ねて話を聞く。
父は天才科学者であったが元々は医者志望だったらしい。何がどうなってその道に至ったかは知らないが、父は母の最期の時まで母の病を治す薬の研究をしていた。もしも人の命を奪う冷徹非道な科学者ではなく人の命を救う医者になれていたなら母を助けられていたかもしれない、と時折独り言のように呟いていたのを覚えている。
「ありがとう。ミユさんと話せて今一度決心したわ。私はお父様にも幸せになって欲しい。だからオルフェンディアへ行く」
レイチェルの瞳から先程の憂いの色は消え、強い決心の光が見えた。
「数時間後にはここを出なきゃいけないらしいからもう寝るわね。付き合ってくれてありがとう」
そう言ってレイチェルはミユに手を振ると用意された客間に戻って行った。一人残されたミユは暫く西へ向かって行く月を眺めていたが考えがまとまらず、水を一杯飲むと自室へと戻る。
(レイチェルさんが元気になってくれたのはいいものの……)
互いの知らないところで円を描くように廻る想いたち。それらは決して交わることをしない。
ミユはどうしたものかと布団の中で考えるが、何だか目紛しい一日を過ごした身体はやがて深い眠りに誘われていく。それぞれの思惑が飛び交う一夜が明け、旅立ちの日が訪れようとしていた。
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