グレープフルーツを食べなさい

美森 萠

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「運転手さん、黎明れいめいホテルまでお願いします」
 上村が告げたのは、繁華街から少し離れた、高台にあるホテルだった。
「街中に戻らないの?」
「会社のやつらに会ったら面倒でしょう? ゆっくり夜景でも眺めながら飲みませんか」
 確かに、一次会の間、上村は女の子たちに囲まれつつ、上司の相手もこなして大変そうだった。さすがの上村も、気を遣いすぎて疲れたんだろう。
「わかったわ」
 私がうなずくと、上村は笑顔を見せた。
                                    
「それで、向こうはどうだった?」
 窓ガラス越しに、煌く夜景が広がる。
 寡黙なバーテンダーが鳴らすリズミカルなシェイカーの音を聞きながら、私と上村は静かにグラスを合わせた。
「勉強になりましたよ。まさか新人の自分が事業立ち上げのメンバーに入れてもらえるなんて思ってもみなかったですし」
「よっぽど期待されているのね。次の配属先が外食事業部っていうのはちょっと意外だったけれど」
 うちの会社で出世コースといったら、やっぱりエネルギー事業部だろう。
それを敢えてうちの部に配属したのは、会社にも何か考えがあってのことなのかもしれないけれど。
「まあ、色々な部署で経験を積むのは、自分にとってもプラスになりますからね。俺も先輩のように部内で関わってる案件は一通り把握したいんで、これからよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
 上村の言葉に驚いた。
 一般職の私は、営業職の事務サポートが主な仕事で、仕事の範囲はごく限られている。
それを超えて、私が顧客情報や交渉中の契約内容のすみずみまで把握しているのは、万が一の時のため保険だ。
いつでも色々な形で、部内全ての営業をサポートできるようにしていたい。自己満足と言われればそれまでだけれど。
 表立ってやっていることではないのに、この短期間に上村は、私の仕事ぶりをそこまで観察していたのかと正直驚いた。

「先輩おかわりは?」
「あ、ありがとう」
 最後の一口を飲み干して、私はグラスを上村に手渡した。
 上村は、仕事中もそうでない時も、周りを良く見ているし、とても気が利く。
そういえば、新入社員の時から、こちらが教えなくても、自然とそれができる子だった。
「お待たせしました」
 バーテンダーが音もなく新しいグラスをカウンターに置く。私は二杯目のジントニックに手を伸ばした。
「先輩、そろそろ白状したらどうです?」
「……何を?」
 グラスを片手に私を流し見る上村に、一瞬胸が音を立てる。
「俺の異動の後、鳴沢なるさわさんとはどうなったんですか?」
 ずばり核心を突かれて、私は息を呑んだ。
 私の変化の原因が鳴沢さんにあるってことが、どうして上村にわかったのだろう。
 部内の誰か……たとえば美奈子あたりからすでに聞いていて、実は上村も、全て知っているのかもしれない。
「本当はもう誰かに聞いているんじゃないの?」
「まあ、多少は。男にも女にも、そういう話が好きなヤツっていますしね」
 そう言って上村は指で頬を掻く。
 みんな裏ではまだ、私のことを面白おかしく噂しているのだろうか。
 当時のことを思い出すと、それだけでげんなりしてしまう。
「でも、本当に鳴沢さんと別れたことだけが原因ですか? それにしてはちょっと極端な気がするんですよね。確かに先輩は元々仕事に厳しい人でしたけれど、俺には今の先輩はわざと嫌われ者を演じているように見えます」
 上村の何もかも見透かしたような物言いに、反抗心が湧いた。
「……たとえ周りに嫌われてでも、厳しいことをいう人間が一人くらいは必要でしょう?」
「そうですね。……それは、まあ」
 納得したのか、上村は肩を竦めた。
「でも、どうして先輩がその役を引き受けなきゃいけないんですか? ひょっとして上からの指示? 俺には先輩が無理しているようにも見えるんですけど」
「それは違うわ。私は、自分の意思でやってるの。みんながそうとは言わないけれど、会社勤めは結婚までの腰掛けで、会社では仕事そっちのけでお婿さん探しだなんて、社会人としての自覚が足りなさすぎるわ。第一そんないい加減な考えで仕事をされたら、あなたたち営業だって迷惑でしょう?」
「まあ、確かに」
「それに中堅の私は、事務仕事だけじゃなくて後進の指導も込みでお給料を貰ってるんだから。たとえ指導が厳しすぎて嫌われようと、彼女たちを事務のエキスパートとして立派に育て上げるのが私の役割だって思ってるわ」
「随分と勇ましいですね。先輩を社内に閉じ込めておくなんて、なんだか勿体ないな」
 口元に笑みを浮かべ、上村は丸い氷の浮いたグラスに口をつけた。
 上村のチョイスはタンカレー。まあまあお酒好きな私でも、この度数の酒をロックで飲むことなんて滅多にない。
そういえば私は、上村が酒に酔ったのを見たことがない。どれだけ強いのだろう。
 美味そうに酒を口に運ぶ上村に、私は思い切って質問をぶつけた。
「話は変わるけど……上村は私と鳴沢さんのことどう聞いてるの?」
 突然の私の質問に、上村は手にしていたグラスをカウンターに置いた。
「気になりますか?」
「まあね……」
 裏で私はどんなふうに言われているんだろう? 大体は予想できる気もするけれど、一度ちゃんと聞いてみたいとも思っていた。
 私はこれまで、誰かに鳴沢さんとの恋の顛末を話したことはない。
いや、本当のことなんて、誰にも言えなかったのだ。
「先輩、ジントニックもう一杯いかがですか」
「……いただくわ」
 話してもいいという返事の代わりだろう。上村は早速、二人分のおかわりをバーテンダーに頼んだ。
「俺が聞いたのはなんともえげつない話ですよ。外食部のお局社員が不釣合いなエネルギー部のエリート社員に取り入って、どうにかして結婚に持ち込もうと画策した挙句、最後はびびった男に捨てられた。その後、男は若くて美人の受付嬢と結婚したのに、そのお局社員は図々しくも未だに会社に居座ってる、とかそんな感じかな」
「そう……」
 やっぱり。聞いただけで気が滅入る。
 人の噂なんて本当にいい加減だ。
うちの会社に限ったことではない。身近に好奇心を刺激するような事件があれば、みんな真偽も確かめずに飛びついて、憶測だけで好き勝手にものを言う。
社内の噂話なんてテレビのワイドショーみたいなものだ。
自分の好奇心と優越感さえ満たされれば、当事者の事情なんてどうでもいい。
 私の失恋話なんて、誰かの退屈な日常を美味しくするためのスパイスのようなものでしかない。
「それで、本当のところはどうなんですか?」
「え?」
「だって先輩って、仕事の時は厳しいけれど、実際はそういう強かなタイプでもないでしょう」
「……何を根拠に」
 今まで会社や社内の飲み会以外で顔を合わせたことなんてないのに、どうして上村に私の性格までわかるっていうの?
「俺でよければ、話を聞きますよ。いつまでも一人で抱えてるの、しんどくないですか?」
「……別に、平気よ。今までだってずっと一人でやってきたんだし」
「先輩も案外強情だなあ」
 なかなか口を割らない私に腹を立てるどころか、上村の表情は楽しそうだ。
ひょっとして、何か企んでいるのだろうか?
 上村の腹の内を探ろうとジッと目を凝らす。そんな私を見て上村はため息交じりに笑みをこぼすと、口を開いた。
「わかりました。それならば、俺と勝負しませんか?」
「は? 勝負?」
「そうです。このタンカレー、ストレートで早く飲みきった方が勝ち。先輩が勝てばここは全て俺が持ちます。でも俺が勝ったら、先輩は真実を話す。どうです? まあ、先輩に勝ち目なんてないと思いますけど」
 自信あり気に笑う上村にメラメラと対抗心が芽生える。
「……いいわ。受けて立つ」
 私だって、飲めない方じゃない。勝算は十分にある。
「いいんですね? 俺、絶対負けませんよ」
「私だって、あんたなんかに負ける気がしないわ」
 私と上村は、カウンターに新たに置かれた飾り気のないショットグラスに手を伸ばした。

「……ムリ! もうこれ以上飲めない」
 グラスにお酒の半分を残したまま、私はカウンターに突っ伏した。
 初めて飲むタンカレーは、はじめの一口からかなりきつかった。
それでもまだ、一杯目は顔には出さずにいられた。すぐに負けを認めるなんて、悔しすぎるから。
でも、三杯目に口をつけたところで、体中に酔いが回っていくのを感じた。
一口、二口と飲み込むたびにお腹の底から熱の塊が這い上がってくるようで、私はとうとう、それ以上口に運ぶのを諦めた。
「俺の勝ちですね。約束は守ってもらいますよ」
 上村は三杯目のグラスを空にしても平然としている。
「あんたのだけ本当は水だったんじゃないの?」
「まさか」
 私は上村が手にしていたグラスを奪い取り、自分の鼻先へ近づけた。確かに私が飲んだものと同じ、タンカレーのフルーティな香りがした。
 上村とこうやってまともに話をするのは、ほぼ三年ぶり。それも業務上のことがほとんどで、プライベートな話なんてしたことがない。
いいやつだとは思うけれど、本当に彼のことを信用しても大丈夫だろうか?
「口外はしません、約束します」
 上村は酔いを少しも感じさせない強い瞳で私を見た。
「……わかったわ。私の負けよ」
 私は潔く負けを認め、自分のスツールに腰を下ろした。
 飲み慣れない強い酒のせいでまだ顔が熱い。
本格的に酔いが回り始めたのか、頭がくらくらする。堪えきれなくて思わず目を閉じると、上村がバーテンダーに何かをオーダーする声が聞こえた。
「お待たせしました」
 バーテンダーはしなやかな動きで、背の高い華奢なグラスを私の目の前に置いた。
「これは何?」
「大丈夫、お酒じゃありませんよ。ピンクグレープフルーツのジュースです。酔い覚ましにもいいんですよ」
「……へえ。上村、詳しいのね」
「これでも一応飲料部にいましたからね。だいぶ勉強させられました」
 上村はそう言って、目を細めて笑った。
 私は淡いピンクのかわいらしいドリンクに手を伸ばした。
口に含むとシャリっとした、細かい氷を食べているような食感がした。適度な酸味と果実のほのかな甘さが舌で溶け、喉を滑り落ちていく。冷たさが、酔いで火照った体に心地いい。
「これ、とっても美味しいわ」
「良かった」
 キンと冷えたジュースのおかげで、少しだけ酔いも覚めた気がする。
私は、グラスを置くと一度大きく深呼吸した。

「さっきの話だけど……上村が聞いてる話は、本当じゃない。彼はたぶん、嵌められたの」
「どういうことですか?」
 上村はスツールごと体を捻ると、隣に座る私の方へと向きを変えた。
「あのね……」
 エネルギー事業部のエースこと鳴沢幸二こうじとは、同期入社だった。
 仕事も出来るし、人当りも良い彼はとにかくモテて、給湯室や更衣室でも、よく女の子たちの話題に上っていた。
順調に出世街道を進み、華やかな彼と地味で目立たない私とは、同期という以外に接点なんてなかったし、おそらく今後も関わることはないだろうと思っていた。
 それがある時、私は彼と同じ社内委員会に入ることになった。
委員会は部署を跨いでの活動で、年の近いメンバーが多く、皆仲が良かった。
そのことをきっかけに、会えば挨拶を交わす程度だった彼とも、少しずつだけれど話をするようになった。
 驚いたことに、彼は私が入れるお茶が社内で一番美味しいと委員会のたびに褒めてくれた。
そんなことを言ってくれたのは、今まで外食部の野々村部長くらいだったから、私は彼の言葉が素直に嬉しかった。
 ――告白は、彼からだった。
 社内でも目立っていた彼に近寄ってくるのは下心見え見えの女の子たちばかりで、それまで私のようにじっくり仕事のことなんかを話せる女友達なんていなかったらしい。
一緒にいる時間が増えるにつれ、彼はぽろりぽろりと私に本音をこぼすようになったし、私は私で、他の誰でもなく真っ先に彼に仕事の悩みを相談するくらい、彼のことを信頼するようになっていた。
 そうして、いつの間にか信頼は恋心に形を変えていて。
 ……だから私は、喜んで彼の告白を受け入れた。
 つき合いは、うまくいっていたと思う。
会社では張り詰めた顔をしている彼も、私といる時は心から寛いでいるように見えた。
 結婚のことだって、先に口にしたのは彼だ。
彼となら、穏やかで温かい家庭を築いていけるかもしれない。漠然とだけれど、私も二人の未来を想像するようになっていた。
 でも……。
そろそろお互いの親に挨拶に行こうか、そう話していた矢先、彼の様子がおかしいことに気がついた。
仕事で疲れている時とはまた違って、ふとした時にひどく沈んだ表情をしている。
『最近どうしたの? 疲れてるみたい。仕事が大変なの?』
『うん……実は、さ』
『……え?』
『だから……子供が出来た、って言うんだよ……』
 彼の口から聞かされたのは、衝撃の事実だった。
一度きりと割り切って一晩過ごした相手を妊娠させてしまったというのだ。
 私には何でも話せると言っていたのに、この人は私にずっと隠し事をしていた。
そのことが虚しくて、私には彼を問い詰める気力もなかった。
今まで二人で築いてきたと思っていたものは、一体何だったんだろう?
『浮気って、だってそんな……』
『……幼馴染みなんだよ、その相手。俺のことを追って、この会社にも入ったらしいんだ。俺、結婚決まってるから、って言ったんだけど言うこと聞かなくて。それなら諦めるかわりに一度だけ、なんて言って泣きつくから、つい……』
 
「……失礼を承知で訊きますけど、それは本当に鳴沢さんの子どもだったんですか?」
 それまで、ただ黙って私の話を聞いていた上村が、そんなことを聞いてきた。
 ここまで一気に話して喉が渇いた私は、今度は自分でウーロン茶を頼んだ。
「それは間違いないみたい。よくよく聞いたらその時は彼も結構酔っ払ってたらしくて、身に覚えなくはないって」
「なんですかそれ」
「ホントよねぇ」
 普段から落ち着いた表情を崩さない上村が眉間に皺を寄せるのを見て、思わず私は吹き出してしまった。
私につられたのか、上村の表情もすぐに緩んだ。
 ……なんだか、おかしな感覚だった。
当時はあんなに悩んで苦しんだのに、今の私はあの時のことを上村と笑って話せている。
上村がこのまま笑い話にしてくれるかもしれない。
そんな淡い期待が胸を過る。
「……なんというか、鳴沢さんも案外詰めが甘いんですね」
 会社ではきっちりと仕事をこなし結果も残している鳴沢の不手際が、上村には意外に思えたのだろう。
「きっと相手は、初めからそのつもりだったのよね。でも彼は、自分が嵌められたってことに全く気がつかないし。私と彼女の間で煮え切らない彼のことが段々情けなく思えてきちゃって、最後はもうどうでもよくなっちゃった」
 それにお腹の子どもには罪はない。
そのうち生まれてくる子どものことを考えると、私には迷っている暇なんてなかった。
「だから私の方から婚約破棄を申し出たの。その時の彼の反応がまた凄くて」
「まさか、引き止められたんですか?」
「違うわ。別れを告げた途端、彼ったらへなへなと座り込んでこう言ったの。『安心した』って。今思えば、出来ちゃった子どもへの責任と結婚を約束した私への罪悪感でずっと板ばさみになっていたのよね」
「でもそれって、本当に罪悪感だけなのかな……」
「え?」
「本当は好きな女を手放したくなかったんじゃないですか。だから、先輩と浮気相手の間で迷った」
「……そうかしら。でも、私がいたのに彼はその子を受け入れた。私への気持ちなんて、その程度のものだったんだってその時は思ったわ」
「先輩はそうやって、折り合いをつけてきたんですか? 今まで、一人で」
 自分の本心を見破られたような気がして、私は誤魔化すようにウーロン茶を飲み干した。
「それにしても、婚約までしていてそんなにあっさり引き下がるなんて、先輩はやっぱりお人好しですね。……自分だって苦しんだでしょうに」
 上村が話しの矛先を変えたことに安堵する。
「確かに苦しかったけれど、でも私はそんなに善人じゃないわ。彼に対して腹も立ったし、相手の女の子のことを恨みもした。それでも、子どものことをないがしろには出来なかった。だって子どもはもう存在しているのよ。その命を脅かすようなこと、私には言えないわ」
 そう、問題は初めから、私と彼と彼女、三人のものではなかった。
子どもの存在がある以上、私は諦めるしかない。
――私は最初から、蚊帳の外だったのだ。
「一人で、よく乗り切りましたね」
「……そうね。おかげでずいぶん厚かましくなったわ」
 新入社員の頃から知っている後輩に慰められるのがなんだか気恥ずかしくて、私はわざと茶化して答えた。
「寿退社を撤回するなんて前代未聞だって散々言われたわ。でも、ちょうど私の結婚がダメになった頃、母が病気だってわかったの。お金も必要になるし、社内でどんなに心無い言葉を掛けられても、皆に嫌われても、私はここを辞めるわけにはいかなかった」
「病気……ですか」
 私が母のことを口にした途端、上村は口元に手を当て黙り込んでしまった。どうしたんだろう? 明らかに、様子がおかしい。
「……上村?」
「あ、すみません」
「どうかした?」
「いや、なんでもないです」
 そう言うと、上村はグラスを一気に呷った。
「ちょっと、大丈夫?」
 上村は勝負の後も、そのまま度数の強いタンカレーを飲んでいた。
「大丈夫ですよ。そろそろ出ましょうか」
「う……ん」
 上村は手の甲で口を拭うと、ゆっくりと席を立った。
 その仕草が、話の続きを拒んでいる証のように見えて、私は何だか納得いかないまま、上村の後に続いた。


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