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豹変
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また今日も残業になった。
年度初めからの二週間の大半を新入社員指導に費やしたつけがまわり、四月の後半は毎年目の回るような忙しさになる。
この時間はもう、社屋の裏側にある通用口しか開いていないはず。
せめて終バスを逃すまいと、私はエレベーターを降りると早足で通用口目指した。
会社の裏手から出て、社屋の正面側に出ようと数メートル歩いたところで、誰かが言い争うような声が聞こえた。
立ち止まり辺りを見回すと、従業員用の駐車場にぼんやりと二つシルエットが浮かんで見える。
妙な胸騒ぎがして、私は彼らに気づかれないように足音を忍ばせそっと近付いた。
「どうして別れなきゃいけないの? 私には距離なんて苦じゃない!!」
「そんなこと一言も言ってねえだろ。……迷惑なんだよ」
聞こえてきた冷たい声音に、ハッと息を呑んだ。
この声……上村だ。でも、本当に?
普段会社で見せる姿とあまりにかけ離れた上村の口調に、私は愕然とした。
「ねえ、達哉……お願い」
「いい加減諦めて帰れよ」
上村はそう冷たく言い放つと、彼のシャツの背中に縋った女性の手を振り払った。
「飽きたんだよ。俺には未練なんてない」
上村はその場に泣き崩れる女性をそのままに、こちらへと歩いてくる。
次の瞬間、覚束ない視界の中で、上村と視線がぶつかった気がした。
「……三谷先輩?」
――声が、出ない。
上村の足音だけが真っ暗な駐車場に響く。
どうしよう、こっちに来るわ。
逃げ出したいのに、どういうわけか足が竦み動けなかった。
その時、突然足音が止み、目の前に上村の姿が浮かび上がった。
暗闇から街灯の下に現れた上村の、私を見下ろす眼光の鋭さに圧倒される。
「こんなところで何してるんですか?」
「ごっ、ごめん。立ち聞きするつもりは……」
普段の穏やかで優しい口調とは全く違う、上村の冷たい声音に思わず後ずさる。
「……へえ?」
「痛っ!」
いきなり手首をきつく握られて驚いた。
ギリギリと締め付ける痛みに顔が歪む。
「痛いよ上村。お願いだから手を放して」
どうにかして逃げ出そうと、上村の手を振り払おうとしたその時、駐車場の方から先ほどの女性の涙まじりの声がした。
「……達哉ぁ、その人誰?」
聞こえてきたその声に、ようやく上村の力が緩んだ。
しかしその手は私の手首をしっかりと掴んだままだ。
「ああ、こいつ? 俺の新しい女。ってわけで、おまえもう用済みだから、さっさと帰れよ」
上村の言葉に女性はヒッとしゃくりあげ、再び泣き出してしまった。
「行きましょう、先輩」
「えっ? あの人は……」
「いいから」
上村は、わけがわからず狼狽える私の手を取ると、強引に引っ張った。
「ちょ、ちょっと!!」
私の抗議の声も上村には届かない。
私はそのまま引きずられるようにして、上村についていった。
「上村、お願いだからちょっと待って!!」
「……なんですか」
歩幅の広い上村に合わせてずっと駆け足で着いてきたけれど、もう限界だった。
このまま私をどこに連れて行くつもりなんだろう。
四月の夜はまだ肌寒いのに、額には薄っすらと汗が浮かんでいた。
「ちょっと……、どういうことなの? ちゃんと説明してよ」
「どうって、ずっと覗き見してたならわかるでしょ」
「覗き見って、上村……」
本当に目の前の男はあの上村なんだろうか?
冷ややかに私を見下ろす瞳、片方だけ僅かに上がった唇。
混乱している私を見て、上村は明らかに面白がっている。
「先輩も案外ひどいよね。他人のことなんて興味なさそうな顔して、ちゃっかり……」
「それは違う! たまたまよ。会社を出たら、駐車場から人の声がしたから――」
「あー、はいはい。言い訳はいいから」
「だから、言い訳なんかじゃ……」
上村はふっ、と口元を歪めて笑うと、冷たい瞳で私を見下ろした。
これ……本当に上村?
私が知っている上村と、この別人のような上村とのギャップをどうしても埋められない。
「ところで先輩、もう帰るの?」
呆然としていた私は、上村の声でようやく我に返った。
「そうだけど……」
「じゃあ飲みに行くよ。はい、決まり」
勝手に決めると、上村はまた無理やり私の手を取って歩き出した。
「ちょっ、上村! 何でよ? 私残業続きで疲れてーー」
「聞こえない」
上村の有無を言わさない一言に気圧され、私は黙って彼の後に続いた。
「まあ、飲みましょう。はいカンパイ」
何故か上機嫌の上村は、気後れしている私になど全く構わず、勝手にワイングラスを合わせた。
丁寧に磨かれ、テーブル上のキャンドルの灯りを反射してきらめくグラスが、キン――と余韻の残る涼やかな音を立てる。
あの後、上村はすぐにタクシーを捕まえた。
煌々とライトが照らすアーケード街を抜け、入り組んだ路地に入る。雑居ビルが立ち並ぶ一角にその店はあった。
レンガ調のタイルが施された壁面を濃い緑の蔦が覆うその店は、ドアの横に『空-KU-』と書いてある看板が掛けてあるだけで、パッと見何の店なのかわからなかった。
木製の重いドアを開けると、地下へと続く細く急な階段が現れる。その階段を下りたところに、この店はあった。
控えめな照明に低いボリュームでジャズが流れる店内は、まるで隠れ家のような雰囲気だった。
「上村、よくこんなお店知ってるわね」
この辺りは繁華街からは少し離れていて、私も来たことのないエリアだ。
お店自体も店員のサービスに気取ったところはなくリラックスできるのに、店内のセンスのいいインテリアや、高価な花を使ったアレンジが特別な気分にさせてくれる。素直にいい店だと思った。
……ただし、これが恋人とのデートであれば。
まずいところを見られた私をこんな店に連れてくるなんて、何か裏があるはずだわ。
上村が考えてることを見極めないと。やっかいなことに巻き込まれたくはない。
「まあ、こういう店も知ってなきゃ、隠れてうまく遊ぶなんてできませんからね」
それはやっぱり女性関係のことなのだろうか。
会社の駐車場で崩れ落ちた先ほどの女性の姿が頭に浮かんだ。
「飲まないんですか、先輩」
「飲むけど……」
ここで酔っ払ったりしたら上村の思う壺だ。
涼しい顔でチーズをつまむ上村を盗み見ながら、私は、苦手なワインを舌先で舐めた。
テーブルの上には、見た目もカラフルで美味しそうなアンティパストが並んでいる。
いつもなら喜んで口にするのに、動揺しているせいか箸が進まない。
「あの……本当に大丈夫かな、さっきの人。こんな時間だし、一人にしたら危ないんじゃない?」
「ああ、ほっといていいです。もう俺には関係ないし」
「関係ないって……付き合ってるんじゃないの? 彼女、泣いてたじゃない」
上村はグラスを傾けて一気にワインを飲み干すと、ボトルを手に取り再びグラスにワインを注いだ。
ボトルの中身はもう半分以上減っている。
料理が届いてまだ間もないというのに、上村は驚くほど飲むペースが速い。
どうしたものかと眺めていると、一度口をつけただけの私のグラスにも上村が更にワインを注ぎ入れた。
上村のこの有無を言わせない感じのせいで、私はどうでしてもワインが苦手だと言い出せなかった。
「確かに彼女とは二、三度寝ましたけど、それ以上は何も。それなのに、どうしてあんな勘違いするんだか」
表情も変えずにそう口にする上村に唖然とする。
……これ、本当にあの上村なの?
「驚いた。上村って本当はこんなやつだったの? 今までみんなのこと騙してたわけ?」
「職場でいい顔をすることを騙してるというのなら、まあそうですね」
そう言って上村は目を細める。
いつもと同じ穏やかな笑顔なのに、何故か恐ろしく感じて、私は正面から彼の顔を捉えることが出来なかった。
「誰だって仕事とプライベートの顔は違うものでしょう?」
「それはそうかもしれないけど……」
どうしてそんなことをしているの? いつからなの?
聞いてみたいことは山ほどあるのに、上村はうまくはぐらかしてしまう。
――こうなったら、お酒の力でも借りてみる?
私は思い切って、グラスのワインを一気に呷った。
「なんだ、先輩ワインも飲めるんじゃないですか。嬉しいな」
上村は嬉々としてまた私のグラスにワインを注ぐ。
最初のボトルはあっという間に空になった。
「今日は楽しく飲みましょうよ。俺がごちそうします」
ひょっとして、口止め料のつもりなんだろうか?
でも、食事やお酒で簡単に上村なんかに屈したくはない。
それにアルコールが入って気分が良くなれば、上村も口を滑らせるかも。
「わかった。遠慮なくいただくわ」
満足そうに頷く上村を見据え、今度は私からグラスを合わせた。
おかしい、と思ったのは、お手洗いに立った時だった。
鏡の前に立つと、やけに視界が霞む。
残業続きで疲れが溜まっているのに、上村にうまく乗せられて慣れないワインを飲みすぎたのかもしれない。
席に戻ったら何かソフトドリンクを頼もう。
そう思いながらふらふらと店内を歩いた。
「あっ!」
椅子に腰掛けようとした私は、何かに足を取られふらついた。上村が咄嗟に支えてくれたおかげで、私はその場で転倒せずにすんだ。
「大丈夫ですか、先輩」
「平気よ。でも、今週忙しかったから疲れて少しだけ酔いがまわっちゃったかも。……あ、ごめん!」
上村の腕を掴んだままだったことに気付いて、慌てて手を離した。
これは、自分で思っている以上に酔っているのかもしれない。
「そろそろ出ましょうか?」
上村はそのまま私の腰に手を添え、私を店の外へと連れ出した。
「上村、お代は?」
私がお手洗いに行っている間に、会計も済ませていたらしい。
「今日は本当にいいです。この間は割り勘だったし」
「あ、ありがとう。でも……」
「いいから。そんなことより、先輩どこに住んでるんでしたっけ? 俺、送りますよ」
「ああ、大丈夫よ。荒田だからここから近いし、タクシー拾って帰るから」
「そんなに酔ってるのに? 女の人一人では危ないでしょう」
そう言って私を支える上村は、いつも会社で見る紳士的な上村だ。
さっき見たあの光景は、本当に起きたことなんだろうか。夢でも見てたのではないかと思ってしまう。
「俺は鴨池なんで先輩の家は通り道ですよ。相乗りして帰りましょう」
そう言うと、上村はたまたま少し先で客を降ろしたばかりのタクシーを捕また。
「あっ、上村……」
「いいから」
断わる間もなく、上村は私をタクシーに押し込んだ。
「運転手さん、まずは荒田までお願いします」
無口な運転手は頷きもせずアクセルを踏み込んだ。
やっぱり私は、飲み過ぎたようだ。
車の心地よい振動が眠気を誘い、私はあっけなく眠りに落ちた。
「……先輩、……先輩!」
揺さ振られて光が戻る。
返事をする間もなく、上村は私をタクシーの外へと引っ張り出した。よろける体を必死で立て直す。
「あ……、上村?」
眼前に、上村の仏頂面。タクシーに乗り込む前とは打って変わり、不機嫌そうに眉をしかめている。
「あー、ごめん。寝ちゃったんだね、私」
「まったく。何度起こしても起きないから、悪いけど財布の中の免許証見せてもらいました。マンションここで間違いないですよね?」
そう言われて辺りを見回すと、そこはよく見慣れたマンションのエントランスだった。
……やってしまった。
情けないことに、私は上村の肩を借りて寝入ってしまったらしい。何とか一人でも立てるけれど、まだ頭がぐらぐらする。
「部屋は何階ですか?」
「ううん、もう大丈夫だか……わっ!?」
一人で立とうと上村から体を離した途端、また頭がぐらりとして私はその場に座り込んだ。目が回ってなかなかか立ち上がることができない。
……驚いた。ワインの酔いってこんなにひどいんだ。
「頼むからこれ以上世話焼かせんなよ。部屋は何号室?」
上村は、もう苛立ちを隠さなかった。さすがに、酔った私を持て余したのか、いつの間にか素に戻ってる。
「えっと……306号室……」
こうなってしまったらもう、断わるのも面倒だ。上村がさらに機嫌を悪くする前に、私は素直に部屋番号を告げた。
無言で腕を取られ、上村に引きずられるようにしてエレベーターに乗り込んだ。私は四角い箱の中で、再び襲う眠気と必死で戦った。
エレベーターの階数表示が数字の3に変わる。上村は再び私の手を取り、薄暗い廊下に足を踏み出した。
夜更けのマンションの廊下を、二人の足音だけが固く響く。
上村はもう私を支えようとはしない。早く私を送り届けて解放されたいんだろう。私は先を行く彼の背中を無言で追いかけた。
「開けて、鍵」
「あ、はい」
上村に促され、慌てて鞄の中を探る。酔いが回っているせいで、なかなか鍵を見つけられない。
ようやく鞄の内ポケットの奥に鍵を見つけた。覚束ない手つきでなんとか鍵を取り出すと、これ以上は待てなかったのか、上村は私から鍵を奪い取り、さっさとドアを開けてしまった。
上村に手を引かれ、中に入る。自分の部屋の匂いに安心した私は、電気もつけずにそのまま玄関先に座り込んだ。
「ごめん上村。本当にありがとう」
頭を抱えそう言っても、上村が部屋を出る気配はない。
顔を上げると、何故か挑戦的な笑みで私を見下ろす上村がいた。
「あ、鍵。そこに置いといてくれる?」
私はシューズボックスの上を指差した。でも、上村はなかなか鍵を返そうとしない。
「上村、だから鍵。まだ持ってるよね?」
声に苛立ちを交え、今度は上村に向かって手を伸ばした。
早く楽な服に着替えて、ベッドに飛び込みたいのに。何を考えているのか、上村はやはりにやけた顔で私を見つめている。
「ここまでしてやっても、先輩が俺のこと黙っているっていう保証はないよね」
「はあ? この期に及んで何言ってるの? 口外なんてしないわよ。なんでそんな面倒くさいこと……」
余計なことを言いかけて、慌てて口を噤んだ。上村がきゅっと眉根を寄せる。
……ああ私、また上村を怒らせた?
「ふーん、先輩は俺のことが面倒くさいんだ」
そう言いながら、上村はようやく手のひらを開いてみせた。私は、彼の手のひらの上にある鍵に手を伸ばす。
「あ、ありが――」
「これは、預かっておきます。俺も保険が欲しいんで」
チャリ……と玄関に金属音が響く。上村はその場にしゃがみ込むと、指先でチャームを摘み、私の目の前に鍵をぶら下げた。
「ちょっと、ふざけてないで返しなさい」
けれども、伸ばした手は虚しく空を切る。
『チャリン!』
上村の掌で、また私の鍵がチャームとぶつかって音を立てた。
「合鍵くらい持ってるでしょ?」
鋭い視線とはうらはらに、上村は口元だけで笑みを作る。
「……そういう問題じゃないでしょう?」
「とにかく、このことは二人だけの秘密ですよ。誰かに知れたら面倒だもんね」
言葉は優しげなのに、上村の声は実に冷たく脳裏に響く。酔いで淀んでいた思考も、少しずつクリアになっていく。
「また来ますよ。まあ、そのうちに」
開いたドアの隙間から外の空気が入り込み、怒りで上気した私の頬を撫でる。先ほどよりも冷たくなった夜気に思わず自分の肩を抱いた。
「それじゃあ、また会社でね、三谷先輩」
上村の広い背中が無機質な壁のように視界を塞ぐ。
僅かに私を振り返った上村の横顔に廊下の白っぽい蛍光灯の光が当たり、彼はまた笑っているんだと気がついた。
一瞬見せた笑みの冷たさに、頭が真っ白になる。
目の前でゆっくりとドアが動き、漏れる光の幅が徐々に狭まっていく。
そうして私は、一人暗闇の中に取り残された。疲労が体を埋め尽くし、もう一ミリも動けなかった。
年度初めからの二週間の大半を新入社員指導に費やしたつけがまわり、四月の後半は毎年目の回るような忙しさになる。
この時間はもう、社屋の裏側にある通用口しか開いていないはず。
せめて終バスを逃すまいと、私はエレベーターを降りると早足で通用口目指した。
会社の裏手から出て、社屋の正面側に出ようと数メートル歩いたところで、誰かが言い争うような声が聞こえた。
立ち止まり辺りを見回すと、従業員用の駐車場にぼんやりと二つシルエットが浮かんで見える。
妙な胸騒ぎがして、私は彼らに気づかれないように足音を忍ばせそっと近付いた。
「どうして別れなきゃいけないの? 私には距離なんて苦じゃない!!」
「そんなこと一言も言ってねえだろ。……迷惑なんだよ」
聞こえてきた冷たい声音に、ハッと息を呑んだ。
この声……上村だ。でも、本当に?
普段会社で見せる姿とあまりにかけ離れた上村の口調に、私は愕然とした。
「ねえ、達哉……お願い」
「いい加減諦めて帰れよ」
上村はそう冷たく言い放つと、彼のシャツの背中に縋った女性の手を振り払った。
「飽きたんだよ。俺には未練なんてない」
上村はその場に泣き崩れる女性をそのままに、こちらへと歩いてくる。
次の瞬間、覚束ない視界の中で、上村と視線がぶつかった気がした。
「……三谷先輩?」
――声が、出ない。
上村の足音だけが真っ暗な駐車場に響く。
どうしよう、こっちに来るわ。
逃げ出したいのに、どういうわけか足が竦み動けなかった。
その時、突然足音が止み、目の前に上村の姿が浮かび上がった。
暗闇から街灯の下に現れた上村の、私を見下ろす眼光の鋭さに圧倒される。
「こんなところで何してるんですか?」
「ごっ、ごめん。立ち聞きするつもりは……」
普段の穏やかで優しい口調とは全く違う、上村の冷たい声音に思わず後ずさる。
「……へえ?」
「痛っ!」
いきなり手首をきつく握られて驚いた。
ギリギリと締め付ける痛みに顔が歪む。
「痛いよ上村。お願いだから手を放して」
どうにかして逃げ出そうと、上村の手を振り払おうとしたその時、駐車場の方から先ほどの女性の涙まじりの声がした。
「……達哉ぁ、その人誰?」
聞こえてきたその声に、ようやく上村の力が緩んだ。
しかしその手は私の手首をしっかりと掴んだままだ。
「ああ、こいつ? 俺の新しい女。ってわけで、おまえもう用済みだから、さっさと帰れよ」
上村の言葉に女性はヒッとしゃくりあげ、再び泣き出してしまった。
「行きましょう、先輩」
「えっ? あの人は……」
「いいから」
上村は、わけがわからず狼狽える私の手を取ると、強引に引っ張った。
「ちょ、ちょっと!!」
私の抗議の声も上村には届かない。
私はそのまま引きずられるようにして、上村についていった。
「上村、お願いだからちょっと待って!!」
「……なんですか」
歩幅の広い上村に合わせてずっと駆け足で着いてきたけれど、もう限界だった。
このまま私をどこに連れて行くつもりなんだろう。
四月の夜はまだ肌寒いのに、額には薄っすらと汗が浮かんでいた。
「ちょっと……、どういうことなの? ちゃんと説明してよ」
「どうって、ずっと覗き見してたならわかるでしょ」
「覗き見って、上村……」
本当に目の前の男はあの上村なんだろうか?
冷ややかに私を見下ろす瞳、片方だけ僅かに上がった唇。
混乱している私を見て、上村は明らかに面白がっている。
「先輩も案外ひどいよね。他人のことなんて興味なさそうな顔して、ちゃっかり……」
「それは違う! たまたまよ。会社を出たら、駐車場から人の声がしたから――」
「あー、はいはい。言い訳はいいから」
「だから、言い訳なんかじゃ……」
上村はふっ、と口元を歪めて笑うと、冷たい瞳で私を見下ろした。
これ……本当に上村?
私が知っている上村と、この別人のような上村とのギャップをどうしても埋められない。
「ところで先輩、もう帰るの?」
呆然としていた私は、上村の声でようやく我に返った。
「そうだけど……」
「じゃあ飲みに行くよ。はい、決まり」
勝手に決めると、上村はまた無理やり私の手を取って歩き出した。
「ちょっ、上村! 何でよ? 私残業続きで疲れてーー」
「聞こえない」
上村の有無を言わさない一言に気圧され、私は黙って彼の後に続いた。
「まあ、飲みましょう。はいカンパイ」
何故か上機嫌の上村は、気後れしている私になど全く構わず、勝手にワイングラスを合わせた。
丁寧に磨かれ、テーブル上のキャンドルの灯りを反射してきらめくグラスが、キン――と余韻の残る涼やかな音を立てる。
あの後、上村はすぐにタクシーを捕まえた。
煌々とライトが照らすアーケード街を抜け、入り組んだ路地に入る。雑居ビルが立ち並ぶ一角にその店はあった。
レンガ調のタイルが施された壁面を濃い緑の蔦が覆うその店は、ドアの横に『空-KU-』と書いてある看板が掛けてあるだけで、パッと見何の店なのかわからなかった。
木製の重いドアを開けると、地下へと続く細く急な階段が現れる。その階段を下りたところに、この店はあった。
控えめな照明に低いボリュームでジャズが流れる店内は、まるで隠れ家のような雰囲気だった。
「上村、よくこんなお店知ってるわね」
この辺りは繁華街からは少し離れていて、私も来たことのないエリアだ。
お店自体も店員のサービスに気取ったところはなくリラックスできるのに、店内のセンスのいいインテリアや、高価な花を使ったアレンジが特別な気分にさせてくれる。素直にいい店だと思った。
……ただし、これが恋人とのデートであれば。
まずいところを見られた私をこんな店に連れてくるなんて、何か裏があるはずだわ。
上村が考えてることを見極めないと。やっかいなことに巻き込まれたくはない。
「まあ、こういう店も知ってなきゃ、隠れてうまく遊ぶなんてできませんからね」
それはやっぱり女性関係のことなのだろうか。
会社の駐車場で崩れ落ちた先ほどの女性の姿が頭に浮かんだ。
「飲まないんですか、先輩」
「飲むけど……」
ここで酔っ払ったりしたら上村の思う壺だ。
涼しい顔でチーズをつまむ上村を盗み見ながら、私は、苦手なワインを舌先で舐めた。
テーブルの上には、見た目もカラフルで美味しそうなアンティパストが並んでいる。
いつもなら喜んで口にするのに、動揺しているせいか箸が進まない。
「あの……本当に大丈夫かな、さっきの人。こんな時間だし、一人にしたら危ないんじゃない?」
「ああ、ほっといていいです。もう俺には関係ないし」
「関係ないって……付き合ってるんじゃないの? 彼女、泣いてたじゃない」
上村はグラスを傾けて一気にワインを飲み干すと、ボトルを手に取り再びグラスにワインを注いだ。
ボトルの中身はもう半分以上減っている。
料理が届いてまだ間もないというのに、上村は驚くほど飲むペースが速い。
どうしたものかと眺めていると、一度口をつけただけの私のグラスにも上村が更にワインを注ぎ入れた。
上村のこの有無を言わせない感じのせいで、私はどうでしてもワインが苦手だと言い出せなかった。
「確かに彼女とは二、三度寝ましたけど、それ以上は何も。それなのに、どうしてあんな勘違いするんだか」
表情も変えずにそう口にする上村に唖然とする。
……これ、本当にあの上村なの?
「驚いた。上村って本当はこんなやつだったの? 今までみんなのこと騙してたわけ?」
「職場でいい顔をすることを騙してるというのなら、まあそうですね」
そう言って上村は目を細める。
いつもと同じ穏やかな笑顔なのに、何故か恐ろしく感じて、私は正面から彼の顔を捉えることが出来なかった。
「誰だって仕事とプライベートの顔は違うものでしょう?」
「それはそうかもしれないけど……」
どうしてそんなことをしているの? いつからなの?
聞いてみたいことは山ほどあるのに、上村はうまくはぐらかしてしまう。
――こうなったら、お酒の力でも借りてみる?
私は思い切って、グラスのワインを一気に呷った。
「なんだ、先輩ワインも飲めるんじゃないですか。嬉しいな」
上村は嬉々としてまた私のグラスにワインを注ぐ。
最初のボトルはあっという間に空になった。
「今日は楽しく飲みましょうよ。俺がごちそうします」
ひょっとして、口止め料のつもりなんだろうか?
でも、食事やお酒で簡単に上村なんかに屈したくはない。
それにアルコールが入って気分が良くなれば、上村も口を滑らせるかも。
「わかった。遠慮なくいただくわ」
満足そうに頷く上村を見据え、今度は私からグラスを合わせた。
おかしい、と思ったのは、お手洗いに立った時だった。
鏡の前に立つと、やけに視界が霞む。
残業続きで疲れが溜まっているのに、上村にうまく乗せられて慣れないワインを飲みすぎたのかもしれない。
席に戻ったら何かソフトドリンクを頼もう。
そう思いながらふらふらと店内を歩いた。
「あっ!」
椅子に腰掛けようとした私は、何かに足を取られふらついた。上村が咄嗟に支えてくれたおかげで、私はその場で転倒せずにすんだ。
「大丈夫ですか、先輩」
「平気よ。でも、今週忙しかったから疲れて少しだけ酔いがまわっちゃったかも。……あ、ごめん!」
上村の腕を掴んだままだったことに気付いて、慌てて手を離した。
これは、自分で思っている以上に酔っているのかもしれない。
「そろそろ出ましょうか?」
上村はそのまま私の腰に手を添え、私を店の外へと連れ出した。
「上村、お代は?」
私がお手洗いに行っている間に、会計も済ませていたらしい。
「今日は本当にいいです。この間は割り勘だったし」
「あ、ありがとう。でも……」
「いいから。そんなことより、先輩どこに住んでるんでしたっけ? 俺、送りますよ」
「ああ、大丈夫よ。荒田だからここから近いし、タクシー拾って帰るから」
「そんなに酔ってるのに? 女の人一人では危ないでしょう」
そう言って私を支える上村は、いつも会社で見る紳士的な上村だ。
さっき見たあの光景は、本当に起きたことなんだろうか。夢でも見てたのではないかと思ってしまう。
「俺は鴨池なんで先輩の家は通り道ですよ。相乗りして帰りましょう」
そう言うと、上村はたまたま少し先で客を降ろしたばかりのタクシーを捕また。
「あっ、上村……」
「いいから」
断わる間もなく、上村は私をタクシーに押し込んだ。
「運転手さん、まずは荒田までお願いします」
無口な運転手は頷きもせずアクセルを踏み込んだ。
やっぱり私は、飲み過ぎたようだ。
車の心地よい振動が眠気を誘い、私はあっけなく眠りに落ちた。
「……先輩、……先輩!」
揺さ振られて光が戻る。
返事をする間もなく、上村は私をタクシーの外へと引っ張り出した。よろける体を必死で立て直す。
「あ……、上村?」
眼前に、上村の仏頂面。タクシーに乗り込む前とは打って変わり、不機嫌そうに眉をしかめている。
「あー、ごめん。寝ちゃったんだね、私」
「まったく。何度起こしても起きないから、悪いけど財布の中の免許証見せてもらいました。マンションここで間違いないですよね?」
そう言われて辺りを見回すと、そこはよく見慣れたマンションのエントランスだった。
……やってしまった。
情けないことに、私は上村の肩を借りて寝入ってしまったらしい。何とか一人でも立てるけれど、まだ頭がぐらぐらする。
「部屋は何階ですか?」
「ううん、もう大丈夫だか……わっ!?」
一人で立とうと上村から体を離した途端、また頭がぐらりとして私はその場に座り込んだ。目が回ってなかなかか立ち上がることができない。
……驚いた。ワインの酔いってこんなにひどいんだ。
「頼むからこれ以上世話焼かせんなよ。部屋は何号室?」
上村は、もう苛立ちを隠さなかった。さすがに、酔った私を持て余したのか、いつの間にか素に戻ってる。
「えっと……306号室……」
こうなってしまったらもう、断わるのも面倒だ。上村がさらに機嫌を悪くする前に、私は素直に部屋番号を告げた。
無言で腕を取られ、上村に引きずられるようにしてエレベーターに乗り込んだ。私は四角い箱の中で、再び襲う眠気と必死で戦った。
エレベーターの階数表示が数字の3に変わる。上村は再び私の手を取り、薄暗い廊下に足を踏み出した。
夜更けのマンションの廊下を、二人の足音だけが固く響く。
上村はもう私を支えようとはしない。早く私を送り届けて解放されたいんだろう。私は先を行く彼の背中を無言で追いかけた。
「開けて、鍵」
「あ、はい」
上村に促され、慌てて鞄の中を探る。酔いが回っているせいで、なかなか鍵を見つけられない。
ようやく鞄の内ポケットの奥に鍵を見つけた。覚束ない手つきでなんとか鍵を取り出すと、これ以上は待てなかったのか、上村は私から鍵を奪い取り、さっさとドアを開けてしまった。
上村に手を引かれ、中に入る。自分の部屋の匂いに安心した私は、電気もつけずにそのまま玄関先に座り込んだ。
「ごめん上村。本当にありがとう」
頭を抱えそう言っても、上村が部屋を出る気配はない。
顔を上げると、何故か挑戦的な笑みで私を見下ろす上村がいた。
「あ、鍵。そこに置いといてくれる?」
私はシューズボックスの上を指差した。でも、上村はなかなか鍵を返そうとしない。
「上村、だから鍵。まだ持ってるよね?」
声に苛立ちを交え、今度は上村に向かって手を伸ばした。
早く楽な服に着替えて、ベッドに飛び込みたいのに。何を考えているのか、上村はやはりにやけた顔で私を見つめている。
「ここまでしてやっても、先輩が俺のこと黙っているっていう保証はないよね」
「はあ? この期に及んで何言ってるの? 口外なんてしないわよ。なんでそんな面倒くさいこと……」
余計なことを言いかけて、慌てて口を噤んだ。上村がきゅっと眉根を寄せる。
……ああ私、また上村を怒らせた?
「ふーん、先輩は俺のことが面倒くさいんだ」
そう言いながら、上村はようやく手のひらを開いてみせた。私は、彼の手のひらの上にある鍵に手を伸ばす。
「あ、ありが――」
「これは、預かっておきます。俺も保険が欲しいんで」
チャリ……と玄関に金属音が響く。上村はその場にしゃがみ込むと、指先でチャームを摘み、私の目の前に鍵をぶら下げた。
「ちょっと、ふざけてないで返しなさい」
けれども、伸ばした手は虚しく空を切る。
『チャリン!』
上村の掌で、また私の鍵がチャームとぶつかって音を立てた。
「合鍵くらい持ってるでしょ?」
鋭い視線とはうらはらに、上村は口元だけで笑みを作る。
「……そういう問題じゃないでしょう?」
「とにかく、このことは二人だけの秘密ですよ。誰かに知れたら面倒だもんね」
言葉は優しげなのに、上村の声は実に冷たく脳裏に響く。酔いで淀んでいた思考も、少しずつクリアになっていく。
「また来ますよ。まあ、そのうちに」
開いたドアの隙間から外の空気が入り込み、怒りで上気した私の頬を撫でる。先ほどよりも冷たくなった夜気に思わず自分の肩を抱いた。
「それじゃあ、また会社でね、三谷先輩」
上村の広い背中が無機質な壁のように視界を塞ぐ。
僅かに私を振り返った上村の横顔に廊下の白っぽい蛍光灯の光が当たり、彼はまた笑っているんだと気がついた。
一瞬見せた笑みの冷たさに、頭が真っ白になる。
目の前でゆっくりとドアが動き、漏れる光の幅が徐々に狭まっていく。
そうして私は、一人暗闇の中に取り残された。疲労が体を埋め尽くし、もう一ミリも動けなかった。
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