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【46】世界の臓腑
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過去からずっと進んできた。
たぶん次が最後の扉で、この遺跡の最深部になる。
兄、ケレス、アレクの姿をした盗賊の神。
兄とケレスは死者で、アレクはいま一番、ヒューが会いたい者だった。
次も誰かに会うのだろうか。
扉が開くと、ヒューは石造りの部屋に戻っていた。
さっきまでと違うのは、壁や天井に広がっていた文字が無くなっている。
ただの、装飾の無い部屋だった。
でもここが、最深部なのだと分かった。
胸と腹に手を置いて、息をゆっくり吸う。埃と黴の匂いとは別に、澄んだ魔素が体内に充満する。体という器に、ぬるい水が満ちていくようだ。そこにミストが揺蕩い、ヒューはただ静かに、呼吸だけを繰り返す。
この瞬間、肉体を失ったような感覚に陥るときがある。自分は竜と世界を繋ぐ媒介でしかなくて、この竜もまた、世界と神を繋ぐ媒介だ。
意識が無くなりそうになる。
いっそ手放したら、心地好いまま楽になれるのに。
生きるのは、悩んだり、苦しんだりするばかりだった。
世界と溶けあってしまったほうが、自然で、幸せなんだろうと思う。
兄と弟、ケレスやみんなにも会える。
目を閉じ、もう何も見ないまま、このまま夜に包まれてしまいたい。
そんな甘美な誘いから、ヒューはゆっくりと瞼を開き、意識を戻した。
「……アレク……」
まだ、全部は手放せない。
「……はっ……」
吸い込んだ息を、ヒューは一気に吐き出した。多量の魔素を、人間は分解できない。出来ないぶんは、毒になる。けれどその毒すら、ミストは引き受けて成長する。
この旅で分かってきたのは、魔毒を貯め込みやすい自分の体質だ。たぶん普通の人間よりずっと、魔毒が体に合っている。合っているからこそ、限界まで溜め込んでしまった。
ヒューの体は、ミストが食いきれなかった魔素を魔毒として溜め込み、生きた食糧庫のようになっている。
グロテスクで、気味が悪いはずなのに、受け入れている。
「……は、くるし……」
へたり込み、胸を押さえながら、ヒューは息を整えた。黒い血を吐いていたときよりましか、それより辛いと思うときがある。ミストが育てば育つほど、多量の栄養が必要で、最初は心地好い程度だった魔素も、もうとっくに容量オーバーしている。
「……大丈夫だ……まだ、大丈夫……」
腹をさすって、言い聞かせる。竜だけではない、自分にも。
まだ死なない。まだ生きなきゃいけない。
アレクだけを《勇者》として、戦わせているのだから。
もっと、必死で、生きなきゃ――。
「夜の神ナウレア……闇でもあり、月でもあり、夢でもある……」
神の言葉を思い返し、ぶつぶつと、ヒューは口の中で繰り返した。
夜は暗く、恐ろしいものだと、人々は恐れる。
だが、夜が無ければ、育たない命もある。
光だけでは、人は安らぎを得られない。
「夜と昼、闇と光……月と太陽……全部対になるものがあるとしたら、夢は……?」
咳き込みながら、酸素の減った頭で考える。
夢の反対なら、現実? 眠りと、覚醒?
夜が明けると、この遺跡の真の姿は夢のように消える。
触れられないのが夢だが、この世界には、夢は現実に侵蝕させる手段がある。
「――ああ、そっか……」
夢でなら、俺とアレクは離れてても繋がれた。
現実だったら、距離や立場に阻まれていても。
「接続と、断絶だ」
この遺跡の役割は、想い出を蘇らせることではない。
その答えを導けたら、おそらく、真に隠されたものが現れる。
カチリ、と何かが嵌るような音がした。
「……扉……」
顔を上げると、何も無かった壁に、扉が現れた。
最深部より先は無い。だからこれは、本当に別の場所へとつながる扉だ。
「……すごい。正しく進むだけじゃない、答えに辿り着いたら、違う場所へ接続するんだ……」
壮大な装置に、ヒューは思わず感嘆の声を漏らした。
「記憶を読み取るだけじゃない……それを追憶させることでも、未来を選ばせることでもない……ナウレアの神性を正しく理解すれば、転送の扉が開くのか……」
ミストは満足しているのか、静かになっている。立ち上がり、扉に手を触れた。
扉を抜けた瞬間、空気が変わった。
石の部屋だったはずなのに、壁が無くなっている。
薄暗いのにあちこち光っている。
熱いとも寒いとも言えない不快感が、皮膚の内側までじっとりと撫でてくるようだった。
床を歩いているはずなのに、石の床とは違う感触。大地のようで違う何かだ。ところどころ継ぎ目を合わせたように歪に縫い合わされ、その隙間から脈のようなものが見える。ゆっくり、一定の間隔で、脈打っている。巨大な生き物の体内に佇んでいるみたいだ。
「……世界の、裏側……?」
声にすると、空気が揺れた。
教典の読み聞かせで、聴いたことがある。世界には裏側があると。そこは恐ろしい場所で、人では辿り着けない。
縫合したような線は、よく見れば糸ではなく、根のようだった。その隙間を塗って噴き出てくるのが瘴気だと、ヒューは気づいた。
吸ったら不味い、と口を押さえたが、腹の奥で蹲っていたミストが、待ち構えたようにその毒素を吸収していく。
「駄目だ……っ」
慌てて腹を軽く叩いたが、これこそがご馳走だと言わんばかりに、瘴気の毒素を吸収していく。せっかく綺麗な魔素を吸わせていたのに。
「ここは穢れてる……! これは裂け目だ……!」
普通なら、すぐに死んでいる。致死量の瘴気で満ちているはずなのに、死なないのは、ミストのお陰だ。
「っ!」
腹の奥じゃない、全身が軋んだ。器にひびが入るような感覚。それが自分に起きている。
ヒューは扉を振り返ったが、無くなっている。あの扉から、世界の裂け目へ飛ばされた?
夜の遺跡から、世界の裂け目へ飛ぶ手段があるとは思えない。関連性があるとしたら、ここがヒューか、“竜”に関連している場所だからだ。
「冗談じゃない……!」
本当に死ぬ。足の裏で、脈が蠢くような感覚。ブーツ越しに細い神経が這うように、ヒューの表面に上がってくる。
ヒューは異物だ。ここが“世界の体内”だとしたら、異物は排除されるか、同化される。“排出”されるか“用途”になるか、どちらにしろ生物としての“死”が訪れる。
いまはまだ、食われている場合じゃない。
腰のバッグに手を突っ込み、転移の石を取り出した。旧夜の神が無慈悲でないことを祈り、放り投げる。
直後、転移の魔法は発動した。
茶色い地面に膝を着くように崩れ落ち、ヒューは激しく咳き込んだ。
「かはっ……! は、ぁっ……!」
口から黒い血が大量に吐き出される。久々に、抱え込めない瘴気に全身の器官が痛んだ。“竜”を体内に抱えてなお、数秒しかその場にいなかったのに、これほどの毒素だ。こんなものを四百年も封じた魔王ヴァルナオグに、よく勝てたなと改めて畏怖した。
魔王も化け物だし、勇者も化け物だ。そして、その上にいる神さえも、世界は内包して存在している。
あの裂け目の下に、旧神が封じられ、蓋をされて、それでも漏れ出る腐臭が、魔瘴なのか。そこに自分は立って、直接それを吸い込んだのだ。生理的な嫌悪と根源的恐怖に、ヒューは吐き気を覚えた。口から出るのは黒い血ばかりだった。
見たくなかった。自分たちが守ろうとした世界の内側を。
どれだけ辛くて残酷なことがあっても、見上げればどこまでも澄んだ空や、優しい風や、初めて踏みしめた森の柔らかな土、川のせせらぎ、夕焼け、星空――美しいと思っていた世界が、その本質は、腐って、毒に満ちていた。
表面だけは美しくて、中身はそうではない。それが世界の本質だった。
腹の奥に、痛みが走る。さっきまでに比べたら可愛い痛みだが、ミストが警戒し、ヒューの体の周りに冷たい霧が舞った。
「人間?」
「ここは、魔族領ガイアデイラだぞ」
「最近、魔境線に群がっている者たちか。帝国とかいう」
――魔族領?
顔を上げると、魔族の集団が近づいていた。ヒューを見下ろしていた。五人いる。さらに、馬ほどのサイズがある黒狼のような魔獣を三頭連れていた。
「……ガイアデイラの、どの魔公の統治だ?」
「は?」
「ここは、魔境線に近いのか……」
血だまりに手をつきながら、ふらりと立ち上がり、ぶつぶつと呟くヒューに、魔族たちが目をひそめた。ヒューが蹲っていた場所に、黒い血だまりが出来ている。
「あー、駄目だ、こいつ、魔毒に冒されてますよ」
「あの吐血、末期ね」
ヒューを見下ろす彼らは、見た目は人間に近いが、いずれも体躯が大きい。女性でもヒューより遥かに背が高く大柄だ。
肌が灰鉄色の者、獣のような耳や角が生えている者、翼や鱗を持っている者――獣と人をかけ合わせたような身体的特徴がある。
人間の中ではすらりとした美青年だったヴェルゼが、ここでは小柄で弱そうに見えても無理はない。ヒューなど子供のように見えるかもしれない。
五人と三頭の魔獣。この組み合わせで動く魔軍を知っている。
「《獣嵐公》の部下か……」
先の戦いで、勇者側に討たれた魔公だ。たしかガインが斬った。その治めた地は、生き残った魔公に接取されたはずだ。
灰がかった岩肌、ところどころに黒い鉄が混じっている。土は乾いていて、植物はほとんど生えていない。だが、岩に生えた雑草だけが、くすんだ色の小さな花をつけている。
土の性質、生息している植物、乾いた空気、温度、風の強さ、魔瘴の濃さ、そのおおよそで、自分がどこにいるのか、ヒューには見当がついた。
「《霜雹公》の統治下っぽいな……てことは、長を失って、吸収されたのか」
「コソコソ調べあげて、なんのつもりだ、人間!」
魔族たちが不快感を表す。推測だが、当たっているようだ。ヒューは片手を顔の前に上げた。
「迷い込んだだけだ、すぐに立ち去るから……」
よろりと歩を進めようとすると、魔族の一人が号令を出した。三頭の魔獣が駆け出し、ヒューに群がってきた。
「食い散らかせ! どうせその体では死ぬだろうが」
まだ重みの感じる体で、ヒューは素早く飛びのいた。
黒い血だまりに混じって、黒紛が撒かれている。そこに獣たちが足を踏み入れると、脚や爪の間に血ごと黒粉が混ざり合う。
昔、ケレスから習って、自分でアレンジした調合だ。特殊な鉱石を細かく砕いて組み合わせることで造っている。粉を細く伸ばせばそのまま爆線になり、一定量以上を盛れば一気に弾け飛ぶ。
ヒューは手の中に隠した石を打ち、火種を投げる。火は爆線に落ち、細い線火が血だまりまで走る。
飛びのきながら、首に下げた竜笛を吹いた。
「ワーテイル! 引っ張ってくれ!」
現れた飛竜が、ヒューのフードを咥えて、宙に放り投げる。
爆裂音と共に、空気が弾けた。
血と粉が白く爆ぜ、獣たちの脚が揃って跳ね上がる。
乾いた閃光と爆圧。
耳より先に皮膚が震え、遅れて耳鳴りがきた。
ワーテイルは羽ばたきながら、宙に放ったヒューを体で受け止めた。ヒューは飛竜の首にしがみつきながら、鱗を撫でた。
「ありがとな、お前は本当にいい子だ」
ワーテイルが嬉しそうに鼻を鳴らす。
折り畳んで腰に装着している弩をヒューは引き抜き、一瞬で組み立て、空中から魔族たちに向けた。
「竜使いか!」
魔族の一人が戦斧を召喚し振るったが、ワーテイルがぐんと高度を上げる。
「俺の弩は、魔獣の皮膚でもぶち抜く。ここには咄嗟の転移で逃れてきただけだ。敵意は無い」
脚を焼かれた魔獣たちは、煙を嫌がって後ずさっている。
「治療すれば治る程度だ。本当に敵意は無い。俺のことは見逃してくれ」
「そうはいくか。侵入者をみすみす逃すと思うか?」
「あんたらは、《獣嵐公》の配下だろ? いまは《霜雹公》の下か? 《霜雹公》は、いま穏健派か? それとも強硬派なのか?」
ヒューの態度に、魔族たちが顔を見合わせる。
「なーんか、調子に乗ってません?」
「待って、あいつ、《勇者》の仲間じゃない? 爆炎使いの」
「え、勇者って、あの?」
特殊な材料と調合ではあるが、撒いて火を点けるだけだ。それが魔導師かのように扱われていたとは。
「じゃあ、お前が勇者の“雌”か」
最悪の呼び名が付いている。蔑称で呼ぶということは、人間に好意的ではないのだろう。
「まあ、そうだけど……」
いちいち本気で取り合っても仕方が無い。ヒューは腹を撫で、ミストの様子を確かめた。いまは落ち着いて大人しい。毒を大量に吸ったのではないかと心配したが、ただ腹がいっぱいでくつろいでいるようだ。ヒューもほっとした。
少しだけ、戦闘になりそうだ。
たぶん次が最後の扉で、この遺跡の最深部になる。
兄、ケレス、アレクの姿をした盗賊の神。
兄とケレスは死者で、アレクはいま一番、ヒューが会いたい者だった。
次も誰かに会うのだろうか。
扉が開くと、ヒューは石造りの部屋に戻っていた。
さっきまでと違うのは、壁や天井に広がっていた文字が無くなっている。
ただの、装飾の無い部屋だった。
でもここが、最深部なのだと分かった。
胸と腹に手を置いて、息をゆっくり吸う。埃と黴の匂いとは別に、澄んだ魔素が体内に充満する。体という器に、ぬるい水が満ちていくようだ。そこにミストが揺蕩い、ヒューはただ静かに、呼吸だけを繰り返す。
この瞬間、肉体を失ったような感覚に陥るときがある。自分は竜と世界を繋ぐ媒介でしかなくて、この竜もまた、世界と神を繋ぐ媒介だ。
意識が無くなりそうになる。
いっそ手放したら、心地好いまま楽になれるのに。
生きるのは、悩んだり、苦しんだりするばかりだった。
世界と溶けあってしまったほうが、自然で、幸せなんだろうと思う。
兄と弟、ケレスやみんなにも会える。
目を閉じ、もう何も見ないまま、このまま夜に包まれてしまいたい。
そんな甘美な誘いから、ヒューはゆっくりと瞼を開き、意識を戻した。
「……アレク……」
まだ、全部は手放せない。
「……はっ……」
吸い込んだ息を、ヒューは一気に吐き出した。多量の魔素を、人間は分解できない。出来ないぶんは、毒になる。けれどその毒すら、ミストは引き受けて成長する。
この旅で分かってきたのは、魔毒を貯め込みやすい自分の体質だ。たぶん普通の人間よりずっと、魔毒が体に合っている。合っているからこそ、限界まで溜め込んでしまった。
ヒューの体は、ミストが食いきれなかった魔素を魔毒として溜め込み、生きた食糧庫のようになっている。
グロテスクで、気味が悪いはずなのに、受け入れている。
「……は、くるし……」
へたり込み、胸を押さえながら、ヒューは息を整えた。黒い血を吐いていたときよりましか、それより辛いと思うときがある。ミストが育てば育つほど、多量の栄養が必要で、最初は心地好い程度だった魔素も、もうとっくに容量オーバーしている。
「……大丈夫だ……まだ、大丈夫……」
腹をさすって、言い聞かせる。竜だけではない、自分にも。
まだ死なない。まだ生きなきゃいけない。
アレクだけを《勇者》として、戦わせているのだから。
もっと、必死で、生きなきゃ――。
「夜の神ナウレア……闇でもあり、月でもあり、夢でもある……」
神の言葉を思い返し、ぶつぶつと、ヒューは口の中で繰り返した。
夜は暗く、恐ろしいものだと、人々は恐れる。
だが、夜が無ければ、育たない命もある。
光だけでは、人は安らぎを得られない。
「夜と昼、闇と光……月と太陽……全部対になるものがあるとしたら、夢は……?」
咳き込みながら、酸素の減った頭で考える。
夢の反対なら、現実? 眠りと、覚醒?
夜が明けると、この遺跡の真の姿は夢のように消える。
触れられないのが夢だが、この世界には、夢は現実に侵蝕させる手段がある。
「――ああ、そっか……」
夢でなら、俺とアレクは離れてても繋がれた。
現実だったら、距離や立場に阻まれていても。
「接続と、断絶だ」
この遺跡の役割は、想い出を蘇らせることではない。
その答えを導けたら、おそらく、真に隠されたものが現れる。
カチリ、と何かが嵌るような音がした。
「……扉……」
顔を上げると、何も無かった壁に、扉が現れた。
最深部より先は無い。だからこれは、本当に別の場所へとつながる扉だ。
「……すごい。正しく進むだけじゃない、答えに辿り着いたら、違う場所へ接続するんだ……」
壮大な装置に、ヒューは思わず感嘆の声を漏らした。
「記憶を読み取るだけじゃない……それを追憶させることでも、未来を選ばせることでもない……ナウレアの神性を正しく理解すれば、転送の扉が開くのか……」
ミストは満足しているのか、静かになっている。立ち上がり、扉に手を触れた。
扉を抜けた瞬間、空気が変わった。
石の部屋だったはずなのに、壁が無くなっている。
薄暗いのにあちこち光っている。
熱いとも寒いとも言えない不快感が、皮膚の内側までじっとりと撫でてくるようだった。
床を歩いているはずなのに、石の床とは違う感触。大地のようで違う何かだ。ところどころ継ぎ目を合わせたように歪に縫い合わされ、その隙間から脈のようなものが見える。ゆっくり、一定の間隔で、脈打っている。巨大な生き物の体内に佇んでいるみたいだ。
「……世界の、裏側……?」
声にすると、空気が揺れた。
教典の読み聞かせで、聴いたことがある。世界には裏側があると。そこは恐ろしい場所で、人では辿り着けない。
縫合したような線は、よく見れば糸ではなく、根のようだった。その隙間を塗って噴き出てくるのが瘴気だと、ヒューは気づいた。
吸ったら不味い、と口を押さえたが、腹の奥で蹲っていたミストが、待ち構えたようにその毒素を吸収していく。
「駄目だ……っ」
慌てて腹を軽く叩いたが、これこそがご馳走だと言わんばかりに、瘴気の毒素を吸収していく。せっかく綺麗な魔素を吸わせていたのに。
「ここは穢れてる……! これは裂け目だ……!」
普通なら、すぐに死んでいる。致死量の瘴気で満ちているはずなのに、死なないのは、ミストのお陰だ。
「っ!」
腹の奥じゃない、全身が軋んだ。器にひびが入るような感覚。それが自分に起きている。
ヒューは扉を振り返ったが、無くなっている。あの扉から、世界の裂け目へ飛ばされた?
夜の遺跡から、世界の裂け目へ飛ぶ手段があるとは思えない。関連性があるとしたら、ここがヒューか、“竜”に関連している場所だからだ。
「冗談じゃない……!」
本当に死ぬ。足の裏で、脈が蠢くような感覚。ブーツ越しに細い神経が這うように、ヒューの表面に上がってくる。
ヒューは異物だ。ここが“世界の体内”だとしたら、異物は排除されるか、同化される。“排出”されるか“用途”になるか、どちらにしろ生物としての“死”が訪れる。
いまはまだ、食われている場合じゃない。
腰のバッグに手を突っ込み、転移の石を取り出した。旧夜の神が無慈悲でないことを祈り、放り投げる。
直後、転移の魔法は発動した。
茶色い地面に膝を着くように崩れ落ち、ヒューは激しく咳き込んだ。
「かはっ……! は、ぁっ……!」
口から黒い血が大量に吐き出される。久々に、抱え込めない瘴気に全身の器官が痛んだ。“竜”を体内に抱えてなお、数秒しかその場にいなかったのに、これほどの毒素だ。こんなものを四百年も封じた魔王ヴァルナオグに、よく勝てたなと改めて畏怖した。
魔王も化け物だし、勇者も化け物だ。そして、その上にいる神さえも、世界は内包して存在している。
あの裂け目の下に、旧神が封じられ、蓋をされて、それでも漏れ出る腐臭が、魔瘴なのか。そこに自分は立って、直接それを吸い込んだのだ。生理的な嫌悪と根源的恐怖に、ヒューは吐き気を覚えた。口から出るのは黒い血ばかりだった。
見たくなかった。自分たちが守ろうとした世界の内側を。
どれだけ辛くて残酷なことがあっても、見上げればどこまでも澄んだ空や、優しい風や、初めて踏みしめた森の柔らかな土、川のせせらぎ、夕焼け、星空――美しいと思っていた世界が、その本質は、腐って、毒に満ちていた。
表面だけは美しくて、中身はそうではない。それが世界の本質だった。
腹の奥に、痛みが走る。さっきまでに比べたら可愛い痛みだが、ミストが警戒し、ヒューの体の周りに冷たい霧が舞った。
「人間?」
「ここは、魔族領ガイアデイラだぞ」
「最近、魔境線に群がっている者たちか。帝国とかいう」
――魔族領?
顔を上げると、魔族の集団が近づいていた。ヒューを見下ろしていた。五人いる。さらに、馬ほどのサイズがある黒狼のような魔獣を三頭連れていた。
「……ガイアデイラの、どの魔公の統治だ?」
「は?」
「ここは、魔境線に近いのか……」
血だまりに手をつきながら、ふらりと立ち上がり、ぶつぶつと呟くヒューに、魔族たちが目をひそめた。ヒューが蹲っていた場所に、黒い血だまりが出来ている。
「あー、駄目だ、こいつ、魔毒に冒されてますよ」
「あの吐血、末期ね」
ヒューを見下ろす彼らは、見た目は人間に近いが、いずれも体躯が大きい。女性でもヒューより遥かに背が高く大柄だ。
肌が灰鉄色の者、獣のような耳や角が生えている者、翼や鱗を持っている者――獣と人をかけ合わせたような身体的特徴がある。
人間の中ではすらりとした美青年だったヴェルゼが、ここでは小柄で弱そうに見えても無理はない。ヒューなど子供のように見えるかもしれない。
五人と三頭の魔獣。この組み合わせで動く魔軍を知っている。
「《獣嵐公》の部下か……」
先の戦いで、勇者側に討たれた魔公だ。たしかガインが斬った。その治めた地は、生き残った魔公に接取されたはずだ。
灰がかった岩肌、ところどころに黒い鉄が混じっている。土は乾いていて、植物はほとんど生えていない。だが、岩に生えた雑草だけが、くすんだ色の小さな花をつけている。
土の性質、生息している植物、乾いた空気、温度、風の強さ、魔瘴の濃さ、そのおおよそで、自分がどこにいるのか、ヒューには見当がついた。
「《霜雹公》の統治下っぽいな……てことは、長を失って、吸収されたのか」
「コソコソ調べあげて、なんのつもりだ、人間!」
魔族たちが不快感を表す。推測だが、当たっているようだ。ヒューは片手を顔の前に上げた。
「迷い込んだだけだ、すぐに立ち去るから……」
よろりと歩を進めようとすると、魔族の一人が号令を出した。三頭の魔獣が駆け出し、ヒューに群がってきた。
「食い散らかせ! どうせその体では死ぬだろうが」
まだ重みの感じる体で、ヒューは素早く飛びのいた。
黒い血だまりに混じって、黒紛が撒かれている。そこに獣たちが足を踏み入れると、脚や爪の間に血ごと黒粉が混ざり合う。
昔、ケレスから習って、自分でアレンジした調合だ。特殊な鉱石を細かく砕いて組み合わせることで造っている。粉を細く伸ばせばそのまま爆線になり、一定量以上を盛れば一気に弾け飛ぶ。
ヒューは手の中に隠した石を打ち、火種を投げる。火は爆線に落ち、細い線火が血だまりまで走る。
飛びのきながら、首に下げた竜笛を吹いた。
「ワーテイル! 引っ張ってくれ!」
現れた飛竜が、ヒューのフードを咥えて、宙に放り投げる。
爆裂音と共に、空気が弾けた。
血と粉が白く爆ぜ、獣たちの脚が揃って跳ね上がる。
乾いた閃光と爆圧。
耳より先に皮膚が震え、遅れて耳鳴りがきた。
ワーテイルは羽ばたきながら、宙に放ったヒューを体で受け止めた。ヒューは飛竜の首にしがみつきながら、鱗を撫でた。
「ありがとな、お前は本当にいい子だ」
ワーテイルが嬉しそうに鼻を鳴らす。
折り畳んで腰に装着している弩をヒューは引き抜き、一瞬で組み立て、空中から魔族たちに向けた。
「竜使いか!」
魔族の一人が戦斧を召喚し振るったが、ワーテイルがぐんと高度を上げる。
「俺の弩は、魔獣の皮膚でもぶち抜く。ここには咄嗟の転移で逃れてきただけだ。敵意は無い」
脚を焼かれた魔獣たちは、煙を嫌がって後ずさっている。
「治療すれば治る程度だ。本当に敵意は無い。俺のことは見逃してくれ」
「そうはいくか。侵入者をみすみす逃すと思うか?」
「あんたらは、《獣嵐公》の配下だろ? いまは《霜雹公》の下か? 《霜雹公》は、いま穏健派か? それとも強硬派なのか?」
ヒューの態度に、魔族たちが顔を見合わせる。
「なーんか、調子に乗ってません?」
「待って、あいつ、《勇者》の仲間じゃない? 爆炎使いの」
「え、勇者って、あの?」
特殊な材料と調合ではあるが、撒いて火を点けるだけだ。それが魔導師かのように扱われていたとは。
「じゃあ、お前が勇者の“雌”か」
最悪の呼び名が付いている。蔑称で呼ぶということは、人間に好意的ではないのだろう。
「まあ、そうだけど……」
いちいち本気で取り合っても仕方が無い。ヒューは腹を撫で、ミストの様子を確かめた。いまは落ち着いて大人しい。毒を大量に吸ったのではないかと心配したが、ただ腹がいっぱいでくつろいでいるようだ。ヒューもほっとした。
少しだけ、戦闘になりそうだ。
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千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される
水凪しおん
BL
「お前の匂いがないと、私は息ができない」
宮廷薬師のルチアーノは、オメガであることを隠し、自作の抑制薬でベータと偽って生きてきた。
しかしある日、冷徹無比と恐れられる「氷の宰相」アレクセイにその秘密がバレてしまう。
処刑を覚悟したルチアーノだったが、アレクセイが求めたのは、ルチアーノの身体から香る「匂い」だった!?
強すぎる能力ゆえに感覚過敏に苦しむ宰相と、彼の唯一の安らぎとなった薬師。
秘密の共有から始まる、契約と執着のオメガバース・ロマンス!
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