56 / 75
【55】約束の価値
しおりを挟む
「バルディオンのギルセン商会。あたしが代表のエルダ・ギルセンだ」
「では、お名前を」
ペンを握らされ、女商人のエルダは目を見開いた。
名を聞かれることも、ましてや記名させられるなど、今までは無かった。
値段ではない、責任が問われている。
こんなことは初めてだった。
魔境線で、魔族がいきなり始めた簡易市、興味はあっても実際に踏み込もうという商人はほぼ居なかった。
行っていきなり襲われることも覚悟していたが、魔族たちは拙いなりに商品を用意し、細々とした交易が始まった。
それにしても、魔族の用意する品のセンスときたら――物が悪いわけではない。扱いに困るのだ。たとえば、一帯を凍結させる氷結核――貴重な氷を生み出せるのは魅力的だ。が、あまりに危険過ぎる。兵器など持って来られても、こちらは武器商人ではない。
大型魔獣の皮も、骨も、牙も、どれもが珍しく、人間の世界では稀少だった。だが大き過ぎる。輸送にも加工にもコストがかかり過ぎる。
それでも、多少は話せる魔族がいて、人間から見ても見栄えの良い加工をした干し肉を作ってきた者もいた。製法も丁寧に説明してくれ、低温で熟成させた肉は東大陸では稀少で、惹かれるものはあったが、魔瘴濃度が気になり、買いつけには至らなかった。
「今回は、どうかねえ」
風の吹きつける荒野。
魔獣の気配が完全に消えたわけでもない。
それでも人は集まり、荷を広げている。
カリステリスのベテラン商人。南のコルドからやって来た貿易商。財力を持った商人がわざわざやって来ている。
魔族はまだ商売に不慣れだ。だが、ガイアデイラの資源に、将来性を見込んでいる。
野心高きカルドヴェイン帝国が、西から多額の軍事費をかけ、駐屯地を建設し始めている。それほどに、未知の資源は魅力的だ。
しかし、それをこちらに持ち出せるのは魔族だけだ。英雄級の人間でもない限り、魔瘴に満ちたガイアデイラには深く足を踏み入れられない。
ガイアデイラの品を得るには、魔族の商人の力が必要なのだ。
市場がどよめいた。
ガイアデイラ側から、魔獣が現れたからだ。
「ご心配なく、《夜冠公妃》様の車です」
市場を取り仕切る魔族が、淡々と説明した。
「本日より正式な市とするため、夜冠公妃様がお立ち合いになられます」
馬ではなく、馬より巨大な漆黒の豹が車を牽いている。魔族たちが膝をつき、降りてきたのは、黒いドレスに身を包んだ小柄な女だった。
「……人間?」
魔族の体格ではない。エルダは思わず呟いた。その場にいる全員が思ったことでもある。
「夜冠公妃様は人にあらせられます」
「まさか、魔公が、人間の奥さん娶ったって言うのかい?」
「それはもう、大変仲睦まじいお二人でございます」
「信じられない……」
しかし、夜冠公ジルディウスが革新的な皇子であることは、すでにバルディオンでも知られている。
魔族領を国とし、バルディオンと友好を結んだ。そんな魔族だから、人間を妻に娶ると言うことも、あるのかもしれない。
(夜冠公妃、ね……)
エルダは商人の癖で、値踏みをした。
ただの人間であるわけがない。
細身の体、凛と伸びた背筋、品のある所作。
夜霧のようなヴェールで顔はよく分からないが、輪郭だけで美しさが分かる。
(……似てる……)
ガイアデイラに踏み込んだ、数少ない人間。
その《英雄》の一人に。
「いつから女の子になったのかしら……」
小さく呟き、エルダはくすりと笑った。
《前線国家》バルディオンの王都バルドで、最も大きな商会であるギルセン商会。当然様々な冒険者が立ち寄る。
ときには、物だけではなく、情報を求めて。
“彼”は、そのタイプだった。気さくで、物よりも情報を、それ以上に、人との繋がりを得ることに長けていた。
だからエルダも知っている。言葉を交わしたこともある。
勇者のパーティーに、一人だけ《盗賊》がいるらしい、となんて噂も、ちょっと面白かった。当の本人は綺麗な顔をした若者だったが。
ギルセン商会は父と兄が仕切っているが、女だてらにその道に足を踏み入れたエルダは、現場主義だ。
店で客の顔を覚え、買いつけは必ず現地へ同行する。いま客たちは、何を求めているのか。いつだって商売はリアルタイムで動き続けている。
(バレたな)
見知った商人がいて、ヴェール越しに彼女を確認した。
ギルセン商会。バルディオンで一番の交易商。その末娘のエルダとは、何度か店先で話したことがある。
商人と盗賊は真逆だが、必要とされる能力は似ている。優れた商人は目ざとく、記憶力も優れている。顔だけでなく、背格好や仕草で人を見分けるし、先入観を捨てている。
彼女なら、女の格好をしたぐらいでは、誤魔化せないだろう。ヴェールの向こうで、ふっとエルダが笑ったのが見えた。
(バルディオンには長居したから、仕方ないか)
「――本日、この地において」
ヒューの声が通ると、ざわつきが収まった。ゆっくりと周囲を見渡す。
「魔族と人間による、正式な交易を開始します」
簡潔な言葉に、場の空気が変わる。
なんとなく物を持ち寄っていた魔族側が、初めて本気で商売の意思を見せた。人間側の商人たちも、顔つきが変わった。
「ここで交わされる品は、それぞれの土地と文化の価値です」
もうざわめきはなく、ヒューの言葉が静かに通る。
「我々は、この場に力を誇示するために来たわけではありません。生かすための知恵と、交換の意思によって、取引を行います」
商人たちの目線が、ヴェール越しに集まる。
ヒューは傍らのナハトに目配せした。彼は頷き、運搬役の魔族たちに指示を出すと、大きな荷を一つ中央に運ばせた。
「本日の市において、わたくしどもが提供する品の中から、まずは是非、ご覧いただきたいものがございます」
荷が解かれると、ざわめきが戻った。
「霜雹公領より――溶けにくい氷、ならびに魔瘴を抑える保存素材を提供いたします」
東大陸では稀少な氷が、荷箱いっぱいに敷き詰められている。
さすがに商人たちも息を呑んだ。
「本市における交易は従来通り、原則として物々交換を基本とします。その価値の等価性については、取引を行う双方の合意によって定められるものとします」
ヒューは指輪をはめた手を上げた。淡色の石を軽く叩くと、手の中に銀の縁取りが入った紙が現れた。
視線がその一枚の紙に注がれる。
この交易の地で、人と魔族が約束を果たすための、初めての形だ。
「合意に至った取引については、ここに証文を発行いたします。本証文は、この地ガイアデイラと、《夜冠公》ジルディウスの名において、正式に保証されるものです」
にこりと微笑んで、夜冠公妃が市の始まりを宣言した。
「以上です。互いに良い取引となりますよう。本日の市を開いてください」
「コルドの商人が、あんなに氷を買いつけてくれるとは」
ナハトが驚いたように言った。
「コルドは南の《海洋国家》だ。でかい船を持つ貿易商が多い。こんなとこまで来てる商人がいるのは驚いたが」
遠目に市を眺めながら、ヒューは呟いた。
交易が盛んな国の商人は、フットワークが違う。
「魔瘴測定器、こっちでも用意してみたが、必要無かったな」
これもジルに作ってもらったが、さすがに数度の取引を得たからか、商人たちがそれぞれで用意していた。氷からは基準値以下の魔瘴反応が出て、コルドの商人をはじめ、数人の商人が買ってくれた。
「……測定器持って来たってことは、とうとう買う気で来てくれたわけだ」
「あの干し肉などですか?」
「うん。慣れない簡易の市でも、みんなが誠実にやってきた証だよ。これまでの何度かの交易で、商品は上手く売買出来なかったかもしれないけど、ちゃんと信頼は積んでたんだ」
「……信頼を積む、という考えは魔族にはありませんでしたが……」
「サウラたちが、真面目にやってくれてたってことだ」
そのサウラの様子を見ると、バルディオンの女商人エルダが近づいてきていた。
「彼女は大商人の娘だ、場慣れしてる。ちょっと見て来るよ」
「バルディオン人には、ヒュー様の顔が割れていると仰っていましたが……」
「多分もうバレてるからいいよ」
心配げなナハトも慌てて後をついて来た。
「氷もいいけどさ、この皮、見せておくれよ」
エルダが魔獣皮を手に取る。小屋の隅に積まれていた皮だ。出来る限り丁寧に処理したが、素材のそのものの風合いは残したままだ。
「よくいる魔獣の皮ですよ」
「そっちによくいても、こっちにはいないからね。あんたのことはいつも見かけるが、この商品は初めて見た」
手触りが良い、軽くて、加工も楽そうだ。それでいて、魔獣皮はやはり丈夫だ。
「服、靴、鞄……女性や子供用に、悪くない。こんな良さげなもの、なんで持ってこなかったの?」
「……こっちでは、価値が無かった。夜冠公妃様に、人間には価値ある物だと教えてもらった」
「なるほどね、お妃様は、ただの立会人じゃないわけだ」
ちょうどその妃が近づいて来る。その姿をサウラはちらりと見て、俯いた。
「俺たちに、人間から見た価値を教えてくれた……商売のこと、まだよく分かってないから……」
「じゃあ、試しにこの三束、香辛料八袋とどう?」
交渉の場にやって来たヒューは、相場が違う、とすぐに見抜いた。
様子見の値段だ。それで売っても損ではないが、もう少し取れる。
サウラが首を横に振る。
「……あと二袋、付けてほしい。よくいる魔物だが、処理に手間はかかってる」
「分かった。それで」
熟練の商人相手に、毅然と交渉したサウラに、ヒューはほっとした。
エルダもあっさりと条件を飲んだ。
「それから、氷を一度の買いつけじゃなく、定期的に買いたいんだけど」
数を聞いて、サウラはまた首を振った。
「……その量の安定供給は、今の俺たちにはおそらく無理だ」
声は小さいが、言葉は少しも揺らがない。
「氷は幾らでもあるが、切り出せる人材が少ないし、運び出すのにも手間がかかっている。守れない約束は出来ない」
「へえ? 魔族の口から約束って言葉は、初めて聞いたわ」
「それが、商売だろ? それぐらいは、学んできた……」
ぼそぼそ頼りない口調だが、主張ははっきりと聞き取れる。
ぼったくられそうなら助けるつもりだったヒューだが、余計なお世話だった。
「あんた、本当に初心者?」
「サウラ。商売は始めたばかりだ……今後とも、勉強させていただきたい」
「馬鹿にしたわけじゃないよ、悪かったね。あたしはギルセン商会のエルダ。じゃあ、出来るだけでいいから、取引したい。そっちの言い値でね」
「分かりました。では、鉱物と引き換えにしたい。……証文を」
滞りなく商談が進むのを見届け、ヒューは声をかけた。
「ギルセン商会様、証文はこちらで発行いたします」
「……どうも」
声色は変えても、エルダの目はヴェール越しに値踏みをしているのが分かる。あえて声をかけたのは、こちらも知られていることを分かっている、という意図だ。
「魔族側の不慣れを承知の上で、きちんと条件を切ってくださり、ありがとうございます」
「我々、ね……」
エルダは肩を竦める。
「あたしたちは商人だ、より良い商売が出来ることを感謝する」
エルダがヒューに近づくと、ナハトが止めようとする。それをヒューは手で制した。
ヴェールの近くで、女商人がこそっと囁く。
「正直言って、英雄の中ではあんたが一番好きだった。人間の匂いがするからね」
「……ギルセン商会の看板娘が、こんな僻地まで買いつけに来てるなんて、驚いたよ。雰囲気も全然違うし」
「そっちに言われたくないわ。でもドレス似合ってる」
「ありがと。良かったら、氷を少し相場より融通するよ」
「……何か欲しいの?」
「勇者は、最近現れてないのか?」
物より情報好きの盗賊――変わってないな、とエルダは思った。
そして、勇者と袂を分かったという噂も、本当らしい。
「……英雄たちは仲違いしたって、もっぱら噂だよ。《盗賊》様は、魔族側についたんだ?」
「調停役を頼まれてる。中立だが、《夜冠公妃》の立場は偽ってない。だからこの地での商売は安心して行ってほしい」
エルダは周囲を伺いながら、ヒューにだけ聴こえるように言った。
「強過ぎた勇者様、孤独な勇者様――悲劇の英雄譚として、広まりつつあるよ。なにせ最近、人前で姿を見ないから。もうバルディオンにもいないって話」
「魔獣の被害は?」
「少ない。だから、勇者はいまも孤独に戦ってるって、バルドじゃ人気の物語さ」
それから、少し言いにくそうに告げた。
「……仲間は勇者を裏切って、栄光だけ手にした。そんなふうに脚色する奴もいる。あんたらを良く知ってる城下の人間は、そうは思ってないけど……娯楽ってすぐ広まるんだよ。それが本当かどうかなんて、関係なく」
「分かった。ありがとう。――証文を切るから、天幕へ」
ヒューは礼を言って、エルダを促した。
その日、多くの証文が発行され、印が押された。
等価に満たないぶんは紙に書き足され、次の市へ、次の取引へと繰り越される。
魔王を倒したのは勇者だ。
だが、戦の後の世界を回すのは、名も無い繋がりと、約束だ。
(……アレク)
人間と魔族が、今では小さな市を開いている。
かつて、俺たちが武器だけを携えて踏み入れた荒野で。
(お前が救った世界は、ちゃんと生きてるよ)
どうして、いつも後から気づくんだろう。
一緒に世界を旅していた頃、そのことをもっと言ってやれたら良かったのに、と。
「では、お名前を」
ペンを握らされ、女商人のエルダは目を見開いた。
名を聞かれることも、ましてや記名させられるなど、今までは無かった。
値段ではない、責任が問われている。
こんなことは初めてだった。
魔境線で、魔族がいきなり始めた簡易市、興味はあっても実際に踏み込もうという商人はほぼ居なかった。
行っていきなり襲われることも覚悟していたが、魔族たちは拙いなりに商品を用意し、細々とした交易が始まった。
それにしても、魔族の用意する品のセンスときたら――物が悪いわけではない。扱いに困るのだ。たとえば、一帯を凍結させる氷結核――貴重な氷を生み出せるのは魅力的だ。が、あまりに危険過ぎる。兵器など持って来られても、こちらは武器商人ではない。
大型魔獣の皮も、骨も、牙も、どれもが珍しく、人間の世界では稀少だった。だが大き過ぎる。輸送にも加工にもコストがかかり過ぎる。
それでも、多少は話せる魔族がいて、人間から見ても見栄えの良い加工をした干し肉を作ってきた者もいた。製法も丁寧に説明してくれ、低温で熟成させた肉は東大陸では稀少で、惹かれるものはあったが、魔瘴濃度が気になり、買いつけには至らなかった。
「今回は、どうかねえ」
風の吹きつける荒野。
魔獣の気配が完全に消えたわけでもない。
それでも人は集まり、荷を広げている。
カリステリスのベテラン商人。南のコルドからやって来た貿易商。財力を持った商人がわざわざやって来ている。
魔族はまだ商売に不慣れだ。だが、ガイアデイラの資源に、将来性を見込んでいる。
野心高きカルドヴェイン帝国が、西から多額の軍事費をかけ、駐屯地を建設し始めている。それほどに、未知の資源は魅力的だ。
しかし、それをこちらに持ち出せるのは魔族だけだ。英雄級の人間でもない限り、魔瘴に満ちたガイアデイラには深く足を踏み入れられない。
ガイアデイラの品を得るには、魔族の商人の力が必要なのだ。
市場がどよめいた。
ガイアデイラ側から、魔獣が現れたからだ。
「ご心配なく、《夜冠公妃》様の車です」
市場を取り仕切る魔族が、淡々と説明した。
「本日より正式な市とするため、夜冠公妃様がお立ち合いになられます」
馬ではなく、馬より巨大な漆黒の豹が車を牽いている。魔族たちが膝をつき、降りてきたのは、黒いドレスに身を包んだ小柄な女だった。
「……人間?」
魔族の体格ではない。エルダは思わず呟いた。その場にいる全員が思ったことでもある。
「夜冠公妃様は人にあらせられます」
「まさか、魔公が、人間の奥さん娶ったって言うのかい?」
「それはもう、大変仲睦まじいお二人でございます」
「信じられない……」
しかし、夜冠公ジルディウスが革新的な皇子であることは、すでにバルディオンでも知られている。
魔族領を国とし、バルディオンと友好を結んだ。そんな魔族だから、人間を妻に娶ると言うことも、あるのかもしれない。
(夜冠公妃、ね……)
エルダは商人の癖で、値踏みをした。
ただの人間であるわけがない。
細身の体、凛と伸びた背筋、品のある所作。
夜霧のようなヴェールで顔はよく分からないが、輪郭だけで美しさが分かる。
(……似てる……)
ガイアデイラに踏み込んだ、数少ない人間。
その《英雄》の一人に。
「いつから女の子になったのかしら……」
小さく呟き、エルダはくすりと笑った。
《前線国家》バルディオンの王都バルドで、最も大きな商会であるギルセン商会。当然様々な冒険者が立ち寄る。
ときには、物だけではなく、情報を求めて。
“彼”は、そのタイプだった。気さくで、物よりも情報を、それ以上に、人との繋がりを得ることに長けていた。
だからエルダも知っている。言葉を交わしたこともある。
勇者のパーティーに、一人だけ《盗賊》がいるらしい、となんて噂も、ちょっと面白かった。当の本人は綺麗な顔をした若者だったが。
ギルセン商会は父と兄が仕切っているが、女だてらにその道に足を踏み入れたエルダは、現場主義だ。
店で客の顔を覚え、買いつけは必ず現地へ同行する。いま客たちは、何を求めているのか。いつだって商売はリアルタイムで動き続けている。
(バレたな)
見知った商人がいて、ヴェール越しに彼女を確認した。
ギルセン商会。バルディオンで一番の交易商。その末娘のエルダとは、何度か店先で話したことがある。
商人と盗賊は真逆だが、必要とされる能力は似ている。優れた商人は目ざとく、記憶力も優れている。顔だけでなく、背格好や仕草で人を見分けるし、先入観を捨てている。
彼女なら、女の格好をしたぐらいでは、誤魔化せないだろう。ヴェールの向こうで、ふっとエルダが笑ったのが見えた。
(バルディオンには長居したから、仕方ないか)
「――本日、この地において」
ヒューの声が通ると、ざわつきが収まった。ゆっくりと周囲を見渡す。
「魔族と人間による、正式な交易を開始します」
簡潔な言葉に、場の空気が変わる。
なんとなく物を持ち寄っていた魔族側が、初めて本気で商売の意思を見せた。人間側の商人たちも、顔つきが変わった。
「ここで交わされる品は、それぞれの土地と文化の価値です」
もうざわめきはなく、ヒューの言葉が静かに通る。
「我々は、この場に力を誇示するために来たわけではありません。生かすための知恵と、交換の意思によって、取引を行います」
商人たちの目線が、ヴェール越しに集まる。
ヒューは傍らのナハトに目配せした。彼は頷き、運搬役の魔族たちに指示を出すと、大きな荷を一つ中央に運ばせた。
「本日の市において、わたくしどもが提供する品の中から、まずは是非、ご覧いただきたいものがございます」
荷が解かれると、ざわめきが戻った。
「霜雹公領より――溶けにくい氷、ならびに魔瘴を抑える保存素材を提供いたします」
東大陸では稀少な氷が、荷箱いっぱいに敷き詰められている。
さすがに商人たちも息を呑んだ。
「本市における交易は従来通り、原則として物々交換を基本とします。その価値の等価性については、取引を行う双方の合意によって定められるものとします」
ヒューは指輪をはめた手を上げた。淡色の石を軽く叩くと、手の中に銀の縁取りが入った紙が現れた。
視線がその一枚の紙に注がれる。
この交易の地で、人と魔族が約束を果たすための、初めての形だ。
「合意に至った取引については、ここに証文を発行いたします。本証文は、この地ガイアデイラと、《夜冠公》ジルディウスの名において、正式に保証されるものです」
にこりと微笑んで、夜冠公妃が市の始まりを宣言した。
「以上です。互いに良い取引となりますよう。本日の市を開いてください」
「コルドの商人が、あんなに氷を買いつけてくれるとは」
ナハトが驚いたように言った。
「コルドは南の《海洋国家》だ。でかい船を持つ貿易商が多い。こんなとこまで来てる商人がいるのは驚いたが」
遠目に市を眺めながら、ヒューは呟いた。
交易が盛んな国の商人は、フットワークが違う。
「魔瘴測定器、こっちでも用意してみたが、必要無かったな」
これもジルに作ってもらったが、さすがに数度の取引を得たからか、商人たちがそれぞれで用意していた。氷からは基準値以下の魔瘴反応が出て、コルドの商人をはじめ、数人の商人が買ってくれた。
「……測定器持って来たってことは、とうとう買う気で来てくれたわけだ」
「あの干し肉などですか?」
「うん。慣れない簡易の市でも、みんなが誠実にやってきた証だよ。これまでの何度かの交易で、商品は上手く売買出来なかったかもしれないけど、ちゃんと信頼は積んでたんだ」
「……信頼を積む、という考えは魔族にはありませんでしたが……」
「サウラたちが、真面目にやってくれてたってことだ」
そのサウラの様子を見ると、バルディオンの女商人エルダが近づいてきていた。
「彼女は大商人の娘だ、場慣れしてる。ちょっと見て来るよ」
「バルディオン人には、ヒュー様の顔が割れていると仰っていましたが……」
「多分もうバレてるからいいよ」
心配げなナハトも慌てて後をついて来た。
「氷もいいけどさ、この皮、見せておくれよ」
エルダが魔獣皮を手に取る。小屋の隅に積まれていた皮だ。出来る限り丁寧に処理したが、素材のそのものの風合いは残したままだ。
「よくいる魔獣の皮ですよ」
「そっちによくいても、こっちにはいないからね。あんたのことはいつも見かけるが、この商品は初めて見た」
手触りが良い、軽くて、加工も楽そうだ。それでいて、魔獣皮はやはり丈夫だ。
「服、靴、鞄……女性や子供用に、悪くない。こんな良さげなもの、なんで持ってこなかったの?」
「……こっちでは、価値が無かった。夜冠公妃様に、人間には価値ある物だと教えてもらった」
「なるほどね、お妃様は、ただの立会人じゃないわけだ」
ちょうどその妃が近づいて来る。その姿をサウラはちらりと見て、俯いた。
「俺たちに、人間から見た価値を教えてくれた……商売のこと、まだよく分かってないから……」
「じゃあ、試しにこの三束、香辛料八袋とどう?」
交渉の場にやって来たヒューは、相場が違う、とすぐに見抜いた。
様子見の値段だ。それで売っても損ではないが、もう少し取れる。
サウラが首を横に振る。
「……あと二袋、付けてほしい。よくいる魔物だが、処理に手間はかかってる」
「分かった。それで」
熟練の商人相手に、毅然と交渉したサウラに、ヒューはほっとした。
エルダもあっさりと条件を飲んだ。
「それから、氷を一度の買いつけじゃなく、定期的に買いたいんだけど」
数を聞いて、サウラはまた首を振った。
「……その量の安定供給は、今の俺たちにはおそらく無理だ」
声は小さいが、言葉は少しも揺らがない。
「氷は幾らでもあるが、切り出せる人材が少ないし、運び出すのにも手間がかかっている。守れない約束は出来ない」
「へえ? 魔族の口から約束って言葉は、初めて聞いたわ」
「それが、商売だろ? それぐらいは、学んできた……」
ぼそぼそ頼りない口調だが、主張ははっきりと聞き取れる。
ぼったくられそうなら助けるつもりだったヒューだが、余計なお世話だった。
「あんた、本当に初心者?」
「サウラ。商売は始めたばかりだ……今後とも、勉強させていただきたい」
「馬鹿にしたわけじゃないよ、悪かったね。あたしはギルセン商会のエルダ。じゃあ、出来るだけでいいから、取引したい。そっちの言い値でね」
「分かりました。では、鉱物と引き換えにしたい。……証文を」
滞りなく商談が進むのを見届け、ヒューは声をかけた。
「ギルセン商会様、証文はこちらで発行いたします」
「……どうも」
声色は変えても、エルダの目はヴェール越しに値踏みをしているのが分かる。あえて声をかけたのは、こちらも知られていることを分かっている、という意図だ。
「魔族側の不慣れを承知の上で、きちんと条件を切ってくださり、ありがとうございます」
「我々、ね……」
エルダは肩を竦める。
「あたしたちは商人だ、より良い商売が出来ることを感謝する」
エルダがヒューに近づくと、ナハトが止めようとする。それをヒューは手で制した。
ヴェールの近くで、女商人がこそっと囁く。
「正直言って、英雄の中ではあんたが一番好きだった。人間の匂いがするからね」
「……ギルセン商会の看板娘が、こんな僻地まで買いつけに来てるなんて、驚いたよ。雰囲気も全然違うし」
「そっちに言われたくないわ。でもドレス似合ってる」
「ありがと。良かったら、氷を少し相場より融通するよ」
「……何か欲しいの?」
「勇者は、最近現れてないのか?」
物より情報好きの盗賊――変わってないな、とエルダは思った。
そして、勇者と袂を分かったという噂も、本当らしい。
「……英雄たちは仲違いしたって、もっぱら噂だよ。《盗賊》様は、魔族側についたんだ?」
「調停役を頼まれてる。中立だが、《夜冠公妃》の立場は偽ってない。だからこの地での商売は安心して行ってほしい」
エルダは周囲を伺いながら、ヒューにだけ聴こえるように言った。
「強過ぎた勇者様、孤独な勇者様――悲劇の英雄譚として、広まりつつあるよ。なにせ最近、人前で姿を見ないから。もうバルディオンにもいないって話」
「魔獣の被害は?」
「少ない。だから、勇者はいまも孤独に戦ってるって、バルドじゃ人気の物語さ」
それから、少し言いにくそうに告げた。
「……仲間は勇者を裏切って、栄光だけ手にした。そんなふうに脚色する奴もいる。あんたらを良く知ってる城下の人間は、そうは思ってないけど……娯楽ってすぐ広まるんだよ。それが本当かどうかなんて、関係なく」
「分かった。ありがとう。――証文を切るから、天幕へ」
ヒューは礼を言って、エルダを促した。
その日、多くの証文が発行され、印が押された。
等価に満たないぶんは紙に書き足され、次の市へ、次の取引へと繰り越される。
魔王を倒したのは勇者だ。
だが、戦の後の世界を回すのは、名も無い繋がりと、約束だ。
(……アレク)
人間と魔族が、今では小さな市を開いている。
かつて、俺たちが武器だけを携えて踏み入れた荒野で。
(お前が救った世界は、ちゃんと生きてるよ)
どうして、いつも後から気づくんだろう。
一緒に世界を旅していた頃、そのことをもっと言ってやれたら良かったのに、と。
21
あなたにおすすめの小説
片想いの相手が「そろそろ恋愛したい」と言ったので、用済みの俺はニートになることにしました。
はぴねこ
BL
高校生の頃、片想いの親友に告白した。
彼はノンケだったから玉砕して友人関係も終わるものだと思っていた。
もしかすると気持ち悪いと軽蔑される覚悟までしていたのに、彼は「今は恋愛をしている時間がないんだ」と自分の夢を語ってくれた。
彼は会社を興した祖父のことをとても尊敬していて、自分も起業したいと熱く語ってくれた。
そして、俺の手を握って「できれば親友のお前には俺の右腕になってほしい」と言われた。
同性愛者の俺のことを気持ち悪いと遠ざけることもせずに、親友のままでいてくれた彼に俺は感謝して、同じ大学に進学して、大学の頃に彼と一緒にゲームを作成する会社を起業した。
あれから二十年間、本当に二人三脚で駆け抜けてきた。
そして、昨年売り出したVRMMOが世界的に大ヒットし、ゲーム大賞を取ったことを祝うパーティーで親友が語った言葉に俺の覚悟も決まった。
「俺もそろそろ恋愛したい」
親友のその言葉に、俺は、長年の片想いを終わらせる覚悟をした。
不憫な拗らせアラフォーが”愛”へと踏み出すお話です。
お兄様の指輪が壊れたら、溺愛が始まりまして
みこと。
恋愛
お兄様は女王陛下からいただいた指輪を、ずっと大切にしている。
きっと苦しい片恋をなさっているお兄様。
私はただ、お兄様の家に引き取られただけの存在。血の繋がってない妹。
だから、早々に屋敷を出なくては。私がお兄様の恋路を邪魔するわけにはいかないの。私の想いは、ずっと秘めて生きていく──。
なのに、ある日、お兄様の指輪が壊れて?
全7話、ご都合主義のハピエンです! 楽しんでいただけると嬉しいです!
※「小説家になろう」様にも掲載しています。
おしまいのそのあとは
makase
BL
悪役令息として転生してしまった神楽坂龍一郎は、心を入れ替え、主人公のよき友人になるよう努力していた。ところがこの選択肢が、神楽坂の大切な人を傷つける可能性が浮上する。困った神楽坂は、自分を犠牲にする道を歩みかけるが……
夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた
今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。
レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。
不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。
レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。
それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し……
※短め
昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
ーーーーーー
主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される
水凪しおん
BL
「お前の匂いがないと、私は息ができない」
宮廷薬師のルチアーノは、オメガであることを隠し、自作の抑制薬でベータと偽って生きてきた。
しかしある日、冷徹無比と恐れられる「氷の宰相」アレクセイにその秘密がバレてしまう。
処刑を覚悟したルチアーノだったが、アレクセイが求めたのは、ルチアーノの身体から香る「匂い」だった!?
強すぎる能力ゆえに感覚過敏に苦しむ宰相と、彼の唯一の安らぎとなった薬師。
秘密の共有から始まる、契約と執着のオメガバース・ロマンス!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる