世界を救ったあと、勇者は盗賊に逃げられました

芦田オグリ

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【58】生まれる世界

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「勇者の資質……」
 ヒューは涙に濡れた顔を上げた。
「……それは、違うよ。ヴォルケリオン」
 涙はまだ止まりきらず、声が震えた。鼻を啜って、息を吐き出す。

「大切なものを護りたい。それは、多くの人間が願ってることだ。俺だけ特別なわけじゃない」
 見上げるヴォルケリオンに、ヒューは少し笑った。

「アレクはさ、世界なんて、本当にどうでもいいのかもしれない。俺がそうしてほしいから、勇者をやってるだけかもしれない。でも――それだけのことで、本当に世界を守っちまうんだ、あいつは」

 ヒューが願った、それだけで。
 たった一人でも、戦い続けてくれた。
 世界を守りたいだとか、誰かを救いたいだとか、大それた欲なんて一つも無い。

「《勇者》は、やっぱりアレクだよ」

 俺は、アレクみたいに強くなりたかった。
 なんでも守れる強さが欲しかった。
 あいつが羨ましかった。

 でも、それは俺が、アレクの強さしか見てなかったからだ。

「あいつ、感情とか、興味とか、薄いんだ。勇者って変わってんのかな、ぐらいに思ってたけどさ、それは、勇者に感情は、邪魔だからだったんだな」

 かつて、旅の仲間たちを失ったとき。
 涙の一つも出ないアレクが、最初は信じられなかった。
 だけど、アレクもそんな自分に、驚いていた。
 ああ、こいつは、まだ“分からない”んだ。
 そうヒューは気づいた。
 悲しいとか、寂しいとか、そんな感情を知らない自分に戸惑っている。
 
「図体あんなだし、もう二十四歳だけどさ、あいつはまだ子供なんだよ。これから、もっと色んな気持ちを覚えると思う。だから本当に剣を置ける日がきて、平和になった世界で、生きてほしい」

 そのとき、俺は《盗賊》でも、《伴侶》でも、なんでもいい。
 どんな姿になったとしても、アレクの傍にいてやりたい。

「いつか、あいつに、新しい世界を見てほしい。――それと」

 涙を全部拭う。泣くだけ泣いたらすっきりした。

「その世界の一部でも、俺も作れたらなって、大それたことは思ってる。俺は欲深いから、やっぱり盗賊だよ」

 体の中で、ぱきぱきと何かが割れるような音がした。

「氷の弟の、霜が割れたか。世界竜が眠りから目覚める」

 ヴォルケリオンが、ヒューの下腹部に手を当てた。

「覚悟があるなら、力を添える。この竜を、世界に解き放ちたいのなら」

 その言葉に、反射的に体が強張った。
 解き放ったら死ぬと、ジルディウスが言っていた。
 魔毒に侵された体だけが残って、ヒューは死ぬ。

「……まだ、死ねない……」
「では、体に収めておくか? それもよかろう」
「ミストを解き放っても、俺が死なない方法は、あるのか?」

 はは、とヴォルケリオンが笑った。

「たしかに欲深い。しかしその欲深さこと、神に愛された人間という種族の特権でもある。運が良ければ、弟の氷が残るかもしれん。そうなれば、魔毒に侵された体の時もしばし止まるだろう」

「運か……俺に神様の祝福はあんまねえけど……」

 でも、盗賊の神はいまも見守ってくれている気がする。
 弱い者を許してくれる、優しい神様が。

「賭けるよ。俺、賭けにはけっこう強いから」
「覚悟が出来たのなら」

 ぐ、とヴォルケリオンが手のひらに力を込めた。子供の小さな手から、大きな力が奔流となって、ヒューの内側に流れ込んだ。

「……あ……」

 その情報量の多さに、ヒューは思わず声を漏らした。

 ヴォルケリオンが受け継いできた、世界の記憶。
 神話の時代から、竜が見届けてきた世界。

 それらが、濃縮されて、小さな器に無理やり詰め込まれているみたいだ。

「ひ……、いや」

 腰を引きそうになるヒューの手を、ヴォルケリオンが優しく掴んだ。

「苦しかろうが、耐えよ。霜は割れても新たに凝固し、時を止め続ける。だから緩やかに育っているはずだ」

 手を強く握ってもらったが、立っているのがやっとだ。膝をつきたい。覚悟したのに、すぐに後悔した。

「……は、……くるし、い……」

「竜の記憶と知識を、出来る限り与える。こやつはお主の中で、感情、言葉、思考、経験――様々なものを吸収し、喰ってきた。旧神の遺跡で、漂う過去の――記憶の残滓を、そしてお主を通し、現神たちが愛するこの世界を」

 ヴォルケリオンの声が遠い。

「お前の記憶にある、世界のすべてを。勇者と過ごした、時間を」

 頭はもう、言葉を理解していなかった。
 ただひたすらに、解放されたかった。
 息が詰まって苦しい。
 頭が真っ白だ。
 自分という体の中身が書き換えられて、そこにミストの存在が隅々まで広がっていくようだ。
 そうして、自分というものを失くしてしまいそうだった。

「……いやだ……」

 ヒューは頭を振った。

 消えてしまう。
 どんなに覚悟をしていても、やっぱり世界は重い。ヒューの手の中では抱えきれない。こんなものを、アレクは守っていたのか。

「……あ……、あ……」

 止まったはずの涙が、また溢れ出した。
 感情で出るものではなく、生理的な、拒絶の涙だった。
 自分の体だったものが、異物で満たされていく。

「あ……、お、れ……死……ぬ?」

 毒が回るより先に、壊れそうだ。けれど体の内側で、竜は少しずつ解き放たれていた。零れ落ちるように、炎や霧が辺りを舞う。それらはヒューをまだ親と思ってくれているのか、心配げにうろうろと漂っていて、ヒューは苦しみの中で微笑んだ。

 大丈夫、とヒューは腹に手を当てた。
 何度もこうして、言葉をかけた。

 大丈夫だから。

「――出て……おいで……」

 パリンと氷が割れる音がした。
 ヒューの背から、まずは輝く巨大な翼だけが広がった。実体の無い翼が、冷たくない霧のように、散っては集まり、形を作っていく。

 ヒューは自分の体を掻き抱いた。羽が好き勝手にはためき、もっと外に出たいとねだっているようだった。

「あ、あ……っ、ま、って……!」

 優しいから舐められている、とアレクに言われたことを思い出した。世界竜は外の世界に触れてはしゃぐように、まだ接続されているヒューなどお構いなしに、急かすように翼を動かす。

「まっ、て、いたい……!」

 まだ、繋がっているのに。
 体がバラバラになりそうで、ヒューは思わず悲鳴を上げた。
 折れ曲がった体を、ヴォルケリオンが支えてくれた。幼い身だが、ヒューを支えてもびくともしない。

「……ミス、ト……もっと、ゆっくり……」

 もうほとんど吐くだけしか出来ない息の中で、ヒューは竜の子に懇願した。

「おね、が……い」

 上手く息が吸えない。空気が肺から出ていくばかりで、酸欠で頭がぼうっとする。まだこれで、翼しか出ていない。早く出て行ってほしいという思いと同時に、行ってしまうのが寂しいという感情があるのが不思議だった。

 最初は、卵だった。
 魔毒で死にかけたヒューを、救ってくれた。
 それからは、一つの体を分け合って、一緒に眠った。
 何度も助けられた。
 それほど長く一緒に過ごしたわけじゃない。
 でも、ずっと傍にいた。ヒューが泣いているときも、笑っているときも。

「――出たがっておらぬ」

 ヴォルケリオンが、意外そうに呟いた。

「拒んでおる……ずいぶん懐かれておるな」

「か、感心、してない、で……!」

 だめだ、もう立っていられない。その巨大な情報量を受け取ることを、体が拒んでしまう。苦しいと口走ってしまう。
 出るときでさえ苦しいのに、こんな中途半端なままにされたら、それこそ死ぬ。
 ミストも、完全に出るのは怖いのだ。まだ甘えているだけかもしれない。だが、そのわずかな身じろぎでも、ヒューの体を、魂を、引き裂いてしまいそうな衝撃だった。

 もう駄目だ、とヒューは一瞬、生きることを諦めた。
 このまま、世界の一部になるのも、悪くはないのかもしれない。

 意識がふっと遠のく。
 膝が折れ曲がって、頭から後ろに倒れ込んだ。

 床にぶつかると思ったら、ふわりと背を支えられた。後ろから、しっかりと抱き留めてくれている。ヴォルケリオン? と思ったが、彼はヒューの目の前にいて、下腹部に手を当てたままだ。

 ……誰……。

 言いかけて、言葉にならなかった。
 知っている、痛いほどに。
 この腕が、誰のものか。

「……ア……レク……」

 乾いた唇と舌を震わせる。

「僕に合わせて、呼吸して」

 耳許で、優しく囁かれる。

 大きく武骨な手のひらが、ヒューの胸の真ん中に当てられ、呼吸を促すように撫でられた。

「ゆっくりでいいから、息してごらん」

 喉を懸命に動かし、少しずつ息を吸う。手のひらの動きに合わせて、浅く吐く。息をすることが気持ちいいと思うなんて、初めてだ。頭はぼうっとしたまま、彼の腕の中でヒューはまどろんでしまう。

「……うあっ」

 びくん、と体が跳ね、意識を引きずり出された。ミストが体の中で、ただ身じろいだだけでも、ヒューには世界がひっくり返りそうなほどの衝撃がある。

「……や、……も、や……だ……」

 苦しさに耐えかねて、かぶりを振ると、腕の中で優しく抱き留められる。

 ああ、知ってる。この腕の、力強さを。
 少し恐れるように、ヒューを抱き締めることも。

「大丈夫。ヒュー。――僕がいるから」

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