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【59】刃
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胸を撫でていた手のひらが、そのまま臍の下まで降りる。ようやく、ヴォルケリオンの手がそっと離れた。小さな手が触れていた場所を、今度は大きな手のひらがさすった。
「……あ……」
濡れた睫毛から、涙が零れる。それを硬い指先がそっと掬った。うっすらと瞼を開くと、碧の瞳と目が合った。
うっすらとぼやけた世界に、見慣れた輪郭が滲む。
彼はヒューの目許にそっと口づけ、幾度となく見た顔で、微笑んだ。
「僕が君を、死なせはしないから」
あれく、と唇だけが動いて、音にならなかった。
本物だ。
体が引き千切れられそうな苦痛の中、アレクが触れているところだけが、痛みが和らぐようだった。
「外へ出ようとする本能と、ヒューから離れがたいという思慕が、上手く自身を切り離せないでいるのだな」
ヴォルケリオンが、竜に話しかけるように呟いた。
「だがそのままだと、ヒューが苦しいだけだ」
「いいや」
とアレックスが静かに呟いた。
「竜は全部出さない。ヒューの毒を引き受けてもらわないといけないから。僕が、一部だけを切り離す」
探るように、ヒューの体の上に手を滑らせる。
「……ひ」
ヒューの喉が震え、体が強張る。ずっと守ってきたものを奪われると察して、本能的な恐怖がわいた。
「ヒューには不要の力だ」
アレックスはヒューの体を抱きかかえ、探っていた手を、胸の下あたりで止めた。
「ここから出すね」
鼓動の音が、アレックスに直に伝わる。
「ま、まって」
置かれた手のひらが熱い。ヴォルケリオンに触れられていたときより、強引だった。体の中から内臓を引きずり出されるみたいな感覚。
「あ……アレク……やめ、て……」
「ごめんね。僕は、ヒューの嫌がることばかりしちゃうね……」
寂しげに言いながらも、言葉を覆さない強さがあった。ヒューが息を呑んだ瞬間、輝く霧のような光が、繋がったアレックスの手のほうに、引っ張られるように漏れ出てきた。
「……あ、連れていかないで……」
「大丈夫、これはヒューにとって、要らない部分だよ」
アレックスが腕を引くと、光が引きずり出されていく。
痛みではなく、喪失感が広がっていく。それはどんな痛みよりも、苦しかった。
彼はもう一方の手を、力無く落ちたヒューの手に絡めて、そっと握った。ヒューも耐えるように強く握り返した。
何を失っているのか、分からない。
けれど、戻ってこないことだけは分かった。
ミストがむずかるように、身を捩らせている。その力と、アレクの力が、ヒューの中でぶつかって、体じゃなく魂がバラバラになりそうだった。
「……っ、あ……っ!」
「おい、無茶苦茶するな」
ヴォルケリオンが双方を諫めるように言った。
「お前たち、どちらも甘え過ぎだ。耐えてくれているからと……」
まったく、と息をついて、ヴォルケリオンがヒューの胸の上で輝く光に、そっと触れた。
「世界竜よ。このぐらい勇者に渡してやれ」
そう言って、手のひらで光を掬うような仕草をする。
光は霧散したが、すぐには剥がれなかった。迷うように、留まるように、ヒューの内側に留まろうとした。
「――ミスト……ごめん……くるしい……」
ヒューが弱々しい言葉を漏らす。
すると、急に抵抗が終わった。
抜けきれずに留まっていた“力”がするりと抜けた。
「あっ……!」
ミストが悲しく鳴いた気がして、ヒューが慌てて手を伸ばすと、ヴォルケリオンがその頭をそっと撫でた。
「大丈夫だ、上手く“刃”だけが抜けた」
体の外に出てきた光は、剣に似た形をしていた。アレックスはそれを掴むように掲げ、金とも銀ともつかない輝きに、目を細めた。
「……これが、刃か」
「お主の手に馴染む形になって出てきただけだ」
ヒューの胸が激しく上下し、ヴォルケリオンが心臓の上をそっと撫でる。
「刃を握っていては、満足に抱き締めてもやれまい」
幼い声に貫かれたように、アレックスは眉をしかめた。
「お前も辛いかもしれん。だが、焦って斬る気か、《運命》を。その後で、何が起こるのかも考えずに」
「……どうせ、壊れていく。これは慈悲の刃なんじゃないのか?」
「振るうお主にその慈悲があるのか?」
二人の会話を、ヒューは意識の外で聞いた。
でも、何も理解出来ない。
ただアレクが、辛そうで、頭を撫でてやりたいのに、腕が動かない。
体の一部が消失した感覚は、ヒューから力も何もかも奪った。頭が働かないし、目もほとんど見えない。声が出せない。
外に出かかっていた光の翼が、すうっと体内に戻った。
ヒューの喪った部分を、補うように、そこに収まっていく。
ああ、ミストが、還ってきてしまった。
ごめんな、とヒューは心の中で詫びた。
出してやりたかったのに、ようやく翼を広げたのに、ヒューが苦しんでいるから、戻ってきてしまった。
ヒューの意識が失われると、アレックスは片腕で、その細い体を抱き寄せた。
「ヒュー? 眠ったの?」
「眠りもするわ」
アレックスの呼びかけに、ヴォルケリオンが呆れたように言った。
「……ミュルグレスのほうが、よほどヒューを気遣っている。せっかく翼を広げたところだったのに、まだ戻ってしまった。ヒューの欠けた苦しみを補おうとしてな」
「お主の言う、救ってやるというのは、何かを斬ることばかりのようだな」
「じゃあ、誰が斬るんだ?」
「本当に、勇者というのは“壊し屋”だのう。これまでも様々な勇者がいたが、お前のそれはとびきりだな」
「……僕は、それしか知らない」
「知ろうとしないだけだろう」
光の漂う場に、一瞬、闇が満ちた。
夜の気配と共に、魔族の男が降り立った。
「……ジルディウス」
アレックスは鋭く目を細め、ぐったりとしたヒューを片腕に抱えたまま、立ち上がった。片手には輝く刃があり、ヒューを支えてやれない。アレックスは苦々しい表情を浮かべた。
ジルディウスはヒューを一瞥し、アレックスを見据えた。
「世界は、変革されるべきだ。勇者ではなく、そこに生きる者たちの手で」
静かに睨みつけられて、アレックスはふっと笑った。
「夢見がちだよ。神にも手が届かない者たちが、どうやって? 地に生きる者たちは、運命を紡がれて生きるだけだ。女神の気まぐれにすら抗えない」
「だが、その一人の人間が、“竜”を育んで、“刃”を生んだ。お前はその力だけを振るおうというのか?」
「ヒューには、負担をかけた。もう刃なんて抱えさせない」
「ヒューは、無作為に選ばれた生贄じゃない。望んで、ミュルグレスを育て、孵そうとした。そんなことも分からないのか?」
「分かってるよ、この子は、優しいから……」
アレックスは、片腕で不器用にヒューを抱き締めた。
「優しさだけか。ヒューには、世界を変えようという覚悟がある。一人の勇者が剣を振るい続けていては、何も変わらない」
「ガイアデイラに引っ込んでることしか出来ないお前が、演説だけは得意だな。王には向いてるよ、ジルディウス」
「こらこら。しょうもない口喧嘩をするな」
ヴォルケリオンが呆れ切った顔で仲裁する。
「この外道勇者が」
「雑魚魔族。ヒューのことを厭らしい目で見るなよ」
「女神に負けてくたばれ」
「やめんか」
アレックスはジルディウスに近づき、ヒューを預けた。
「僕が戻るまで、護れ」
「おい」
ジルディウスは呆気に取られた顔で、眠ったままのヒューの体を抱えた。ジルディウスの腕に収まったヒューを、アレックスは少し切なそうな瞳で見つめ、すぐに冷たい眼差しを恋敵に向けた。
「それまでは、手足のようにヒューに仕えてろ。絶対に死なせるな。ヒューに何かあったら、ガイアデイラごと滅ぼす」
「勇者のセリフか、それが」
ジルディウスは顔をしかめ、踵を返そうとするアレックスに言った。
「何故、目覚めるまで待ってやらない。ヒューは強い人間だ。だが、お前を想って泣く。そのぐらい、お前のことを――」
「ヒューは、けっこう泣き虫だよ。昔からすぐ泣く」
ジルディウスの言葉を遮り、アレックスは振り返った。
「その子を、知った風に語るなよ。僕に向かって」
「そうじゃない、せめて目を醒ましてから行け!」
怒鳴るジルディウスに背を向け、アレックスは神殿の外に向かって歩き出した。
その姿に霞がかかっていき、アレックスの姿が溶けていく。
ジルディウスは抱えたヒューを見下ろしたが、色が抜けきったかのような真っ白な顔色で、目覚める様子はまったく無かった。
けれど、睫毛がかすかに震え、指先が僅かに動いた。
閉じた瞼の奥から、涙が一筋落ちた。
ジルディウスは息を呑んだ。
呼び止めている。声にならないまま。深い眠りの底から。
愛しい男の名を、ちゃんと呼んでいる。
「おい――」
気づいてもいないアレックスに、ジルディウスは苛立ちを隠さず叫んだ。
だが、アレックスはもう振り向きもしなかった。
「負けたら、ヒューを頼む」
最後に、ぽつりと言い残し、勇者の姿は消えた。
「……あ……」
濡れた睫毛から、涙が零れる。それを硬い指先がそっと掬った。うっすらと瞼を開くと、碧の瞳と目が合った。
うっすらとぼやけた世界に、見慣れた輪郭が滲む。
彼はヒューの目許にそっと口づけ、幾度となく見た顔で、微笑んだ。
「僕が君を、死なせはしないから」
あれく、と唇だけが動いて、音にならなかった。
本物だ。
体が引き千切れられそうな苦痛の中、アレクが触れているところだけが、痛みが和らぐようだった。
「外へ出ようとする本能と、ヒューから離れがたいという思慕が、上手く自身を切り離せないでいるのだな」
ヴォルケリオンが、竜に話しかけるように呟いた。
「だがそのままだと、ヒューが苦しいだけだ」
「いいや」
とアレックスが静かに呟いた。
「竜は全部出さない。ヒューの毒を引き受けてもらわないといけないから。僕が、一部だけを切り離す」
探るように、ヒューの体の上に手を滑らせる。
「……ひ」
ヒューの喉が震え、体が強張る。ずっと守ってきたものを奪われると察して、本能的な恐怖がわいた。
「ヒューには不要の力だ」
アレックスはヒューの体を抱きかかえ、探っていた手を、胸の下あたりで止めた。
「ここから出すね」
鼓動の音が、アレックスに直に伝わる。
「ま、まって」
置かれた手のひらが熱い。ヴォルケリオンに触れられていたときより、強引だった。体の中から内臓を引きずり出されるみたいな感覚。
「あ……アレク……やめ、て……」
「ごめんね。僕は、ヒューの嫌がることばかりしちゃうね……」
寂しげに言いながらも、言葉を覆さない強さがあった。ヒューが息を呑んだ瞬間、輝く霧のような光が、繋がったアレックスの手のほうに、引っ張られるように漏れ出てきた。
「……あ、連れていかないで……」
「大丈夫、これはヒューにとって、要らない部分だよ」
アレックスが腕を引くと、光が引きずり出されていく。
痛みではなく、喪失感が広がっていく。それはどんな痛みよりも、苦しかった。
彼はもう一方の手を、力無く落ちたヒューの手に絡めて、そっと握った。ヒューも耐えるように強く握り返した。
何を失っているのか、分からない。
けれど、戻ってこないことだけは分かった。
ミストがむずかるように、身を捩らせている。その力と、アレクの力が、ヒューの中でぶつかって、体じゃなく魂がバラバラになりそうだった。
「……っ、あ……っ!」
「おい、無茶苦茶するな」
ヴォルケリオンが双方を諫めるように言った。
「お前たち、どちらも甘え過ぎだ。耐えてくれているからと……」
まったく、と息をついて、ヴォルケリオンがヒューの胸の上で輝く光に、そっと触れた。
「世界竜よ。このぐらい勇者に渡してやれ」
そう言って、手のひらで光を掬うような仕草をする。
光は霧散したが、すぐには剥がれなかった。迷うように、留まるように、ヒューの内側に留まろうとした。
「――ミスト……ごめん……くるしい……」
ヒューが弱々しい言葉を漏らす。
すると、急に抵抗が終わった。
抜けきれずに留まっていた“力”がするりと抜けた。
「あっ……!」
ミストが悲しく鳴いた気がして、ヒューが慌てて手を伸ばすと、ヴォルケリオンがその頭をそっと撫でた。
「大丈夫だ、上手く“刃”だけが抜けた」
体の外に出てきた光は、剣に似た形をしていた。アレックスはそれを掴むように掲げ、金とも銀ともつかない輝きに、目を細めた。
「……これが、刃か」
「お主の手に馴染む形になって出てきただけだ」
ヒューの胸が激しく上下し、ヴォルケリオンが心臓の上をそっと撫でる。
「刃を握っていては、満足に抱き締めてもやれまい」
幼い声に貫かれたように、アレックスは眉をしかめた。
「お前も辛いかもしれん。だが、焦って斬る気か、《運命》を。その後で、何が起こるのかも考えずに」
「……どうせ、壊れていく。これは慈悲の刃なんじゃないのか?」
「振るうお主にその慈悲があるのか?」
二人の会話を、ヒューは意識の外で聞いた。
でも、何も理解出来ない。
ただアレクが、辛そうで、頭を撫でてやりたいのに、腕が動かない。
体の一部が消失した感覚は、ヒューから力も何もかも奪った。頭が働かないし、目もほとんど見えない。声が出せない。
外に出かかっていた光の翼が、すうっと体内に戻った。
ヒューの喪った部分を、補うように、そこに収まっていく。
ああ、ミストが、還ってきてしまった。
ごめんな、とヒューは心の中で詫びた。
出してやりたかったのに、ようやく翼を広げたのに、ヒューが苦しんでいるから、戻ってきてしまった。
ヒューの意識が失われると、アレックスは片腕で、その細い体を抱き寄せた。
「ヒュー? 眠ったの?」
「眠りもするわ」
アレックスの呼びかけに、ヴォルケリオンが呆れたように言った。
「……ミュルグレスのほうが、よほどヒューを気遣っている。せっかく翼を広げたところだったのに、まだ戻ってしまった。ヒューの欠けた苦しみを補おうとしてな」
「お主の言う、救ってやるというのは、何かを斬ることばかりのようだな」
「じゃあ、誰が斬るんだ?」
「本当に、勇者というのは“壊し屋”だのう。これまでも様々な勇者がいたが、お前のそれはとびきりだな」
「……僕は、それしか知らない」
「知ろうとしないだけだろう」
光の漂う場に、一瞬、闇が満ちた。
夜の気配と共に、魔族の男が降り立った。
「……ジルディウス」
アレックスは鋭く目を細め、ぐったりとしたヒューを片腕に抱えたまま、立ち上がった。片手には輝く刃があり、ヒューを支えてやれない。アレックスは苦々しい表情を浮かべた。
ジルディウスはヒューを一瞥し、アレックスを見据えた。
「世界は、変革されるべきだ。勇者ではなく、そこに生きる者たちの手で」
静かに睨みつけられて、アレックスはふっと笑った。
「夢見がちだよ。神にも手が届かない者たちが、どうやって? 地に生きる者たちは、運命を紡がれて生きるだけだ。女神の気まぐれにすら抗えない」
「だが、その一人の人間が、“竜”を育んで、“刃”を生んだ。お前はその力だけを振るおうというのか?」
「ヒューには、負担をかけた。もう刃なんて抱えさせない」
「ヒューは、無作為に選ばれた生贄じゃない。望んで、ミュルグレスを育て、孵そうとした。そんなことも分からないのか?」
「分かってるよ、この子は、優しいから……」
アレックスは、片腕で不器用にヒューを抱き締めた。
「優しさだけか。ヒューには、世界を変えようという覚悟がある。一人の勇者が剣を振るい続けていては、何も変わらない」
「ガイアデイラに引っ込んでることしか出来ないお前が、演説だけは得意だな。王には向いてるよ、ジルディウス」
「こらこら。しょうもない口喧嘩をするな」
ヴォルケリオンが呆れ切った顔で仲裁する。
「この外道勇者が」
「雑魚魔族。ヒューのことを厭らしい目で見るなよ」
「女神に負けてくたばれ」
「やめんか」
アレックスはジルディウスに近づき、ヒューを預けた。
「僕が戻るまで、護れ」
「おい」
ジルディウスは呆気に取られた顔で、眠ったままのヒューの体を抱えた。ジルディウスの腕に収まったヒューを、アレックスは少し切なそうな瞳で見つめ、すぐに冷たい眼差しを恋敵に向けた。
「それまでは、手足のようにヒューに仕えてろ。絶対に死なせるな。ヒューに何かあったら、ガイアデイラごと滅ぼす」
「勇者のセリフか、それが」
ジルディウスは顔をしかめ、踵を返そうとするアレックスに言った。
「何故、目覚めるまで待ってやらない。ヒューは強い人間だ。だが、お前を想って泣く。そのぐらい、お前のことを――」
「ヒューは、けっこう泣き虫だよ。昔からすぐ泣く」
ジルディウスの言葉を遮り、アレックスは振り返った。
「その子を、知った風に語るなよ。僕に向かって」
「そうじゃない、せめて目を醒ましてから行け!」
怒鳴るジルディウスに背を向け、アレックスは神殿の外に向かって歩き出した。
その姿に霞がかかっていき、アレックスの姿が溶けていく。
ジルディウスは抱えたヒューを見下ろしたが、色が抜けきったかのような真っ白な顔色で、目覚める様子はまったく無かった。
けれど、睫毛がかすかに震え、指先が僅かに動いた。
閉じた瞼の奥から、涙が一筋落ちた。
ジルディウスは息を呑んだ。
呼び止めている。声にならないまま。深い眠りの底から。
愛しい男の名を、ちゃんと呼んでいる。
「おい――」
気づいてもいないアレックスに、ジルディウスは苛立ちを隠さず叫んだ。
だが、アレックスはもう振り向きもしなかった。
「負けたら、ヒューを頼む」
最後に、ぽつりと言い残し、勇者の姿は消えた。
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