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大師 ヘーゼン
しおりを挟むグレースとともに自室を出ると、対面に皇太子――エルヴィダースが見えた。イルナスは、スッと廊下の端に寄ってお辞儀をする。そんな童子を一瞥することなく、エルヴィダースは隣のグレースに話しかける。
「大変だな。そなたのような有能な星読みが、見込みのない皇子の家庭教師とは」
「あら? イルナス皇子殿下は大変優秀な生徒ですよ。その聡明さは帝国の中でも群を抜いておりますわ」
満面の笑顔を浮かべる彼女に、エルヴィダースは軽く舌打ちをした。そして、イルナスの方を向き、軽く頭をなでる。
「そう言えば弟よ。我の婚約者であるマリンフォーゼがベッドの上で言っていたぞ。『今度の婚約者は抱きかかえて、あやさなくてもいいから本当に楽だ』とな」
「……っ」
クスクスと聞こえる嘲笑に、イルナスの顔は真っ赤に染まる。
しかし、彼には言い返すだけの実力がない。付き従っている側近はエルヴィダースが20人。対してイルナスが1人。この帝国内において、相手の派閥は圧倒的な力を持っている。
「では、我は忙しいのでな。弟よ、今度はマリンフォーゼも連れて花見にでも行こうか? そなたも婚約者を連れてくればいい。まあ、酒の宴だから、恋人に童子を連れてくるのは勘弁だが」
クルリと側近たちの方を向くと、ドッと笑い声が響く。そんな彼らの姿を満足そうに見届け、エルヴィダースは悠々と闊歩して行った。グレースは気遣わしそうにイルナスの表情を見つめる。
「イルナス皇子殿下。よく我慢なさいました。ご立派です」
「……我慢などしていない。行こう」
それは、本心だった。自分は、笑われても仕方がない。弱くて、惨めで、もうここから消えてしまいたかった。グレースの優しさが、なおさら自分が哀れに思えて、せぐりくる涙をこらえながら、ただ一心に歩いた。
部屋に到着して、グレースがノックをすると、側近の女性が出てきた。青色の髪は腰まで長く、顔は非常に小さく整っている。彼女の黄土の瞳に侮りや同情などは一切なく、イルナスは安堵した。
「ヘーゼン大師はいらっしゃいますか?」
「はい。ご案内します」
女性は、笑顔でイルナスたちを招き入れる。
部屋の中は本棚で埋め尽くされていた。本、本、本。見渡す限りの本ばかり。
そんな中、黒髪の男が、長椅子に座って本を読んでいた。彼は、イルナスに気づくと鋭い眼光でジッと眺める。
「ほぉ……あなたが童皇子ですか。本当に小さいのですね」
「ヘーゼン大師。不敬ですよ」
「……グレース、いい」
イルナスはそう答え、笑顔を浮かべた。影で嘲笑の的になっていることは知っている。今さら、外聞を取り繕ったって、自分が5歳児の身体であることは変えられない。
「っと、これは失礼。ヘーゼン=ハイムです。以後、お見知りおきを」
「……よろしく頼む」
お世辞にも印象がいい男とは言えなかった。先ほどの発言もだが、まるで観察するような視線も気に触る。礼は知っているようだが、礼は尽くさぬと決めているような尊大な態度が見え隠れする。
「しかし、本当に興味深い現象ですね。どうです、私に触診などさせてもらえないでしょうか?」
「はぁ……大師。戯れはやめてください」
グレースは大きくため息をつく。このヘーゼンという男、どうやら相当の変わり者であるらしい。まるで取り繕う気もなさそうに、未だイルナスの身体を興味深げに見つめる。
「なぜですか? イルナス皇子殿下もご自分が抱えられている現象の正体を知りたいでしょう。互いに得することはあっても、損することはないのに」
「……帝国中の魔医に診せても駄目だったのだ。武人であるそなたに、我の病気がわかるとでも?」
「イルナス皇子殿下、誤解なさっているようですが、私は武人ではありませんよ。魔法使いです。それも、とびきりのね」
ヘーゼンは低く笑った。変わり者であるだけでなく、相当な自信家でもあるらしい。
イルナスはフッとため息をついた。どちらかと言えば、自分よりもエルヴィダースのような者と気が合うのだろう。
「悪いが、まだそなたに身体を診せられるほど心を開いていないのでな。それに、そなたには我の病気を治せるとは思えん」
「病気? これはおかしなことをおっしゃる。ボンクラの魔医どもからそう言われたのですか?」
「……病気でないなら、なんなのだ? 呪いか?」
イルナスは尋ねた。まったく成長しない5歳児の身体。これが、病気でないなら呪いだ。
しかし、それも同じこと。病気であろうが、呪いであろうが、魔医の管轄であり、治せないことには変わりないのだから。
「ククク……イルナス皇子殿下。さっきから言ってるじゃありませんか。これは、病気でも呪いでもありません。現象です」
「現象?」
「そう。他人と比べて身長がなかなか伸びずに成長しない子がいるとします。それを病気だと言いますか? 呪いだと思いますか? それと同じです。単に、イルナス皇子殿下は成長が他人より遅いだけです」
「……」
ヘーゼンの答えに、イルナスは呆れた。この身体を見て病気や呪いでなく現象などと。そんなものは言葉遊びだ。
目の前にいる男は、自分をおちょくっている。あのエルヴィダースと同じように自分をからかっているのだと思った。
「わかった。そなたに診せよう」
「えっ? いいのですか?」
「……もう、どうでもいい」
イルナスは自暴自棄気味に自身のシャツをめくった。
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