婚約者が記憶喪失になりました。

ねーさん

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 夏期休暇ってこんなに長かったかしら。
 街を歩きながらセシリアは思う。
 ディナやクラリッサが遊びに来てくれたり、ショッピング、観劇、読書、手芸、お菓子作り…色々やった気がするのに、二か月ある夏期休暇のまだ半分も過ぎてないわ。
 去年はシルとの婚約話があって、挨拶とかでお互いの家を行き来したり、書類を作ったり、もちろんデートもしたし、とにかくシルとほぼ一緒だったな…
 その前の年はまだシルとお付き合いしてなかったから、教会のバザーに参加したり、ディナの家の別荘へ招待されたり、ディナをうちの領地へ招待したりしたんだわ。
 今年は…そろそろ結婚の準備を始める筈だった。
 まあシルの記憶喪失がなかったとしても、あんな大怪我をして、今も自宅療養とリハビリをしてるんだから結婚の準備どころじゃないけど。
「…結婚…できるのかな…」
 ボソリと呟くと、セシリアの背中に冷たいものが走った。
 今のシルは私を好きじゃないどころか多分私の存在自体に困惑してる。ううんもしかしたら「知らない婚約者」なんて迷惑で…疎ましいのかも。

 セシリアの目に、丘の上の大きな木が映る。
 無意識に「いつもの場所」に来ていた。
 芝生を踏みながら大きな木に近付いて、根本に座る。いつものように。
 …隣にシルがいない。
 シルと付き合う前にはこうしてここに座って景色を眺めたり、本を読んだり、一人でも、楽しく過ごしていたのに。
「シル…」
 膝枕をして、頭を撫でて、あの銀色のサラサラした髪を指で漉きたい。
 優しい眼で私を見て、名前を呼んで欲しい。
「シル……寂しいよ……」
 俯いたセシリアの手の甲に涙がポトリと落ちた。

「セシリア嬢」
 遠くから声が聞こえて、セシリアは慌てて手の甲で目を擦る。
 声の方へ視線を向けると、近付いて来るアルヴェルの姿が見えた。
「殿下?」
 アルヴェルの後ろにはシルベスト。
 二人はシンプルなシャツにベスト、綿のボトムの庶民的な姿。アルヴェルはキャスケット型の帽子で髪を隠しているので王子の身分を隠したお忍びの外出のようだ。
 シルベストは杖もつかず、特に足を気にする素振りもなく普通に歩いていてセシリアは驚く。
 立ちあがろうとするセシリアをアルヴェルが手で制した。
「ご覧の通りお忍びだから挨拶はいいよ」
「ありがとうございます。シルベスト様、もう杖なしで歩けるんですね」
 座ったままでシルベストを見上げる。
「まだ走るのは覚束ないが、歩くのには支障はない」
「良かったです」
 リハビリがんばったんだろうな。とセシリアは微笑んだ。
「シルベストはもうすぐ仕事に復帰するんだ。だからまだ休みの間にこうして僕に付き合わせてる」
 セシリアの隣、少し離れた所にアルヴェルは腰を下ろす。シルベストはアルヴェルの隣、セシリアから更に離れるように移動した。
「何に付き合わせてるんですか?」
 シルが離れちゃった…残念。
「思い出の場所巡りに」
「え?」
「この三年間でシルベストと行った店や場所、学園の行事が行われた場所などへ行ってみたんだ」
 シルの記憶を呼び起こそうと?
「……」
 それで、少しでも何か思い出したの…?
 シルベストの表情を見ると、いつも通り無表情。しかしほんの少し眉間に皺が寄っている。
 …思い出してないんだわ。

「最後に来たのがここ。一度だけシルベストが言った事があるんだ。『あの場所は特別だ』と」
「特別…」
 セシリアが呟くと、シルベストの眉間の皺が深くなった。
「どんな些細な事でも、何か思い出さないか?シルベスト」
 アルヴェルがシルベストを見上げる。
 シルベストは首を横に振った。
「いいえ」
「そうか…」
 ため息混じりのアルヴェル。
「……」
 セシリアはシルベストの表情を見たくなくて下を向く。
 シルベストもセシリアの落胆した表情を見たくなくて視線を逸らした。

 アルヴェルはシルベストとセシリアを見た後、目を閉じる。
 そして目を開けると、意を決した様子で話し出した。
「いつ思い出すか、何かきっかけがあるのか、それともいつまでも思い出さないままのか。確定したものは何もないが…二人ともそろそろ先の事を考えた方が良いんじゃないかな?」
「先?」
「先…とは?」
 セシリアとシルベストがアルヴェルに注目する。
 アルヴェルはふっと息を吐いた。
「このまま結婚するのか、それとも婚約解消するのか、だ」



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