コントレイルとちぎれ雲

葉月凛

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          ◆

 ──7年後──


 未夏川みなつがわの水は、今日も澄んでいた。
 水底を覗き込むようにしながら、きれいな白い鳥がゆったりと優雅に歩く。

 さらさらと流れる水の音を聞きながら、川沿いのいつもの道で薫はふと足を止めた。
 見上げる12月の空は紺を溶かしたようなきれいな青で、雲1つ浮いていなかった。

 昨日、薫のスマートフォンに櫻井からメッセージが届いた。

『明日、帰る』

 たったその1行を、信じられない気持ちで食い入るように見つめた。

 ──明日、帰る? 日本に?

 え、明日って……いつだろう。
 ボストンの時差は14時間だったか。こっちが進んでいる筈だから……え、明日って、いつだ?

 混乱した薫は結局返信もせず、動揺のあまりそのままベッドに入り目をつむった。

 そして今日は、動揺を通り越してある種冷静な気持ちに立ち返り、いつも通り出勤している。どうしたらいいか分からない時は、取りあえずいつも通りに行動するのが一番だろう。

 事務所が入っている建物の1階の花屋は、3年前からカフェに変わっていた。おかげで入口は分かりやすくなったが、季節ごとの花々を目にすることがなくなってしまったのは少し寂しい。この季節なら、色鮮やかなポインセチアが並んでいた筈だ。

 というか、普段は特に気にもしていなかった昔の花屋のことをやけに考えようとしていること自体がもう冷静ではないことに、無意識の薫は気付いていなかった。

 それどころか、ここのカフェのチーズケーキが絶品で甘い物をあまり食べない美奈子ですら気に入り度々テイクアウトしてくることなどを、意味なく考えている始末だ。

 その美奈子は、朝から興奮状態だった。

「もうっ! 何で出ないのよっ」

 美奈子が苛々と受話器を置いた。

「……寝てるんじゃないですか? 休みだし」

 電話をかけている相手は、後輩社員の相川だ。彼は今日、公休日である。

「──っ、また出ない!」

 美奈子の苛々の原因は、相川だった。
 どうやら相川が、某ラウンジのピアノオーディションを勝手に受けたらしいのだ。

 事務所に所属している奏者が、事務所に断りもなく勝手によそのオーディションを受けるのはタブーらしい。

 相川は今月から新規参入のホテルに音響で入っているのだが、その初日に、そこの最上階ラウンジのピアノオーディションを勝手に受けてきた。

 しかも、受かっている。

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