Bloody Monster

ナナメ

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「うーん、逃がしたか……」

 何度かの攻防の後分が悪いと察したか一瞬の差で捕まえ損ねた男が霧のように消えて、ソラは溜め息をつくと振り返った。貴斗はまだ尻餅をついたまま固まっている。

「大丈夫?危なかったねぇ」

「あれ、……」

 数回声にならない声を発して、それ以上逃げ場はないのに懸命に体を縮める彼に伸ばした手は叩き落とされた。

「あれ、何だよ……?こないだの、やっぱり夢じゃないんだな!?あんた何なんだ、何で嘘つくんだよッ!?」

「あー、そうだなぁ……」

 怯える相手に何て説明しよう、と頭を掻いて考えを巡らせる。まだ微かに幼さを残す大きな琥珀の瞳から今にも涙が零れそうだ。
 彼は母似だろうか、と思ってしまうのはその潤んだ瞳と怯えて縮こまる小柄な体を女子の服でくるめば美少女にしか見えないからである。黒曜石のように輝くさらさらの髪はこの年頃の青年にしては珍しく天使の輪。恐らくもう少し大人になれば美青年になるであろう将来有望そうな顔立ちの彼は可哀想な程に青ざめ震えている。

 暫く逡巡したものの結局真っ先に告げたそれは、彼をさらに怯えさせる物だった。

「とりあえず、アイツは君に目をつけた。だからきっとまた来るよ」

 言われた貴斗はびくん、と肩を跳ねさせる。だけど、ソラの声音は嘘を言っているような響きはなくて。

「……っ」

 あの男がまた来る。
 それは死刑宣告に等しい。聞いた瞬間この世の終わりが来たような気になったくらいだ。
 掴まれた肩はまだ痺れて痛いし、そういえば舐められた頬は何だかベタベタするし。
 思い出して力任せに擦った。

 ――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 頬を擦り続ける腕をソラが優しく掴んで、瞬きの拍子に零れた涙を手の平で拭うとビクッと体を強張らせ、固く目を閉じる。
 ソラは全身で拒絶する様にこれ以上怯えさせるのも可哀想だ、とひんやりした手を離したけれどでもこれだけは理解してほしいと口を開く。

「……あのね、今は何にも教えてあげられないけどこれだけは信じて?俺は君を守りに来たんだ」

 それだけは嘘偽りない本当の事だと。
 恐る恐る視線を上げた貴斗の前で、どちらかと言えばへらへらしている顔しか思い出せない青年は真摯な眼差しをしている。

「守りに、って……」

「今はそれしか言えない。ごめんね。ムシがいいのはわかってるけど、信じて欲しいな」

 明らかに不審な顔をして見上げる彼に困ったように微笑んで、帰ろう、と差し伸べた手を随分迷ったあと貴斗がようやく掴む。
 まだ震えているそれを、大丈夫、守るよ、と握りしめた。

 ※ ※ ※ ※

「と、ゆーわけでぇ!俺のリムジン!」

 はい、乗って!!とベシベシ叩いたのはカラカラ音をさせる古びた自転車の荷台。

「乗って、じゃないよ!しかもそれ俺のッ!!」

 旧倉庫を出て投げられた携帯を見つけたあと、校門から出るのは憚られ近くのフェンスを乗り越えた。
 結局校門前を通らないと帰れないけれど、校内から見知らぬ誰かと出てきた、なんて尾ビレ背ビレついた噂の元になりそうで避けたかったのだ。
 校門前に集っていた女子生徒はもういなくなっていてホッとする。

 ちょっと歩いてから手を繋いでいる事に気が付いて慌てて離したらえらく悲しそうな顔をされ飼い犬にお留守番だよ、と告げた飼い主の気分を味わってしまった。

 いやそれよりも。ちょっと待て、さっきまで真剣な話をしていなかったか、幻か、やっぱり夢だったのか。しかもいつの間に人の自転車を校門近くに移動させやがった。

 そんな不信感を胸に見たソラはまだ目をキラキラさせたまま乗るのを待っている。

「道路交通法違反ですよ」

「決まり事とは破るためにある!」

「おい大人ッ!!」

 えへん!と胸を張る青年を思わず鞄で殴り付けてしまった。

「やだ、家庭内暴力!?あぁ、このボヤける視界は涙かしら……、でもいいの。いつか貴方が元の優しい貴方に戻るってアタシ信じて……って置いてかないで~」

 付き合ってられないとばかりに歩き出す貴斗を慌てて追いかける長身の男を、通りすがりの女子達がチラチラ見ながら通り過ぎて行く。

 古びた自転車を押して、待ってよ~、と情けない声を出していてもモデルばりのイケメンだ。注目を集めている。

「……ちょっと、寄らないでもらえますか」

「え、何でそんなこと言うの!?俺何かした!?」

 何かしたというか、何もしてないけれどいるだけで男としての矜持が傷付くというか。出来れば色々コンプレックスを刺激されるから側を歩かないで欲しい。
 完全な言い掛かりだが。

「まぁいいやー。今日の晩ごはん何にする?」

「……」

 思わずポカンと隣の男を見上げた。横を見てさらにちょっと目線を上げなければ視線が合わないこの身長差が結構傷付く。
 いや今はそれよりも。

「一緒に食べる気ですか?」

「うん」

「俺外食嫌いなんで」

 友達との付き合いで外食する事はあるが、出来るだけ出費を抑える為に月に何度か、と決めている。
 今年の誕生日で19歳にしてすでにベテラン主夫の域に達した節約術は遊びたい盛りの大学生とは思えない。
 バイトもしているがとにかく親からの金に頼りたくないのだ。

「んーん。俺が作るから、何食べたい?」

 この男は何を言ってるんだ?と道のど真ん中で立ち止まってしまった。
 ソラが首を傾げて同じように立ち止まる。俺、変なこと言った?とでも言いそうな顔だ。

「え、っと……うち、でとか言いませんよね?」

「え!?ダメ!?」

「駄目に決まってるじゃないですか!!何ナチュラルにうち来ようとしてんの!?」

 怖い、この人本当に怖い!
 ものすごく傷付いた顔をされ、若干良心が痛む。そういえば助けてもらったのにまだ礼を言っていない。
 せめて礼を、と口を開きかけたときソラがしょぼんとしたまま言う。

「だってね、アイツまた来るよ?」

「……それ、確信あるんですか」

 2度撃退された。諦めが早ければもう他に、ってなっているかも知れないじゃないか、と恐怖から解放された頭が楽観的意見を述べ始める。と、いうか是非そうであって欲しいという願望だ。

 しかしソラはあっさり、でも随分固い声でそれを否定した。

「それはないよ」

「何で」

「……諦められるなら、あんな姿になってまで襲いかかってこないでしょ」

 あんな姿、とはあの化け物じみた姿の事か。CGを駆使した映画の一場面を観ている気分だった。
 でもそれが実際目の前にいて、襲いかかってきたのである。
 ソラが居なければ目にする筈のなかった異様な光景だが、もしあの時救助がなかったら。あの光景を見なくて済んだ代わりに自分の身がどうなっていたかは定かではない。

 一度去った恐怖が甦って、ギュッと拳を握り締めた時頭の上で優しい手の平がポンポンと二度ほど弾んだ。
 見ればソラは手つきと同じく優しく笑っている。

「大丈夫大丈夫。お兄さんが守ってあげるから」

 悔しいほどのイケメンである。その甘い声音も相まって、自分が女子ならば卒倒しそうな程に。男の貴斗でさえ僅かにキュンとしてしまったくらいだ。

「……てゆーか、あれは何なんですか?」

 手を下ろした彼はその問いに困った顔をした。
 さっきは恐怖が勝って、守ると言われてつい追及をやめたけどあんな化け物じみた姿を目の前で見せられたら、ヤラセだ!とも思えない。それも人間だった相手が姿を変えたのだ。夢じゃなければ一体何なのだ。
 そして、あんな化け物相手に素手で対等にやり合うこの青年も一体何者なのか。

「ご飯の後で教えてあげる」

 へらー、と笑ったソラに、やっぱり来るのかと諦めが過った。
 でも本当にまたあの男が来たらと思うと正直今一人になるのは心細い。
 警察に言おうにも事件が起きてからでなければ動いてくれない彼らが貴斗の話をまともに聞いてくれるとは思えないし、こんな何を考えているのかよくわからない相手でもあれを撃退してくれるなら、いてくれた方がありがたいのは事実だ。
 でも何かあった時の為に後で春樹にメールしとこう、と予防線を張った。

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