70 / 82
最終幕 茶番劇 一
しおりを挟む
第十幕 茶番劇
一
夜が明けていた。
漆黒の闇が、光に浸食され始め、空が白み始める。赤みを帯びた朝日が、赤みを取り払っていく。気の早いセミ達が鳴き始め、小鳥の囀りも聞こえる。
夏の夜明けは早い。
だが、そんな夏の夜明けと共に起きる男がいた。
屋敷内において、朝一番早いのは、無論、機械のような正確さを誇る第一秘書の水島だ。主人は勿論のこと、使用人の誰よりも早く起き、誰よりも勤勉に一日を始める。夏は夜明けとともに目覚め、冬は夜明け前に目覚める。
目を開けた瞬間から、意識は完全に覚醒しており、伸びや欠伸などを必要とせずに、ベッドから機敏で無駄のない動作で立ち上がる。立ち上がった瞬間に、既に顔にはフレームのない薄いレンズの眼鏡が装着されている。
いつものように皺一つない制服のスーツを着込み、鏡を見ながらネクタイを結ぶ。
一筋のほつれもなく髪型をセットし終えて、一日の準備が整った時、不意に扉が叩かれた。
コンコンコン
規則正しいノックの音。
使用人の使う別棟の、最上階の一番奥。水島に宛がわれている部屋は、滅多なことでは他人が寄り付かない場所に配置されている。その上、こんな早朝に、誰かが尋ねてくるなどということはありえない。
数々の疑念が宿り、一瞬躊躇を見せたが、機械のように冷然とした男は、すぐに無駄のない動作で扉を開いた。
「どなたですか?」
「おはようございます。」
扉の前では、早朝だというのに乱れた様子のない、隙のない探偵が仰々しく頭を下げていた。
まるで鏡に映った虚像のように、二人の姿はダブる。冷然とした態度、隙のない物腰、感情のない声音。唯一つ違うのは、探偵の顔に浮かんでいる仮面のような微笑だけだろう。
突然の訪問に驚いた様子はなく、水島は尋ねる。
「おはようございます、凍神様。どうしました?」
「いえ、貴方はこの家で誰よりもお忙しくしておられるようですから、こんな早朝でないと捉まらないと思いまして。すみません。こんな朝早くから。ですが、少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
あくまでも慇懃な口調、どこまでも低姿勢な物腰。しかし、サファイアの瞳に浮かぶのは威圧だ。有無を言わせぬ迫力だ。
迫力に圧倒されたわけでもなく、水島は提案を受け入れた。
「どうぞ。」
訪問者を室内へと招き入れる。
扉を開けた時には、ヒョウ一人だけの訪問のようにも見えたが、ヒョウの背後には眠そうに目をこすっているリンの姿があった。
「失礼します。」
水島の部屋は、第一秘書というだけあって、第二秘書の野村の部屋よりも広い造りになっていた。野村の部屋がワンルームマンションのようだったことに比べると、水島の部屋はその二倍以上はあった。その扱いからしても、水島がどれだけこの屋敷で重宝されているかが分かる。しかし、備え付けられた調度品以外の私物が殆ど見当たらず、写真や装飾品などもないところは、客室のようにも見えた。部屋は住んでいる人間の個性を表すが、第二秘書の野村の部屋とは違い、水島の部屋は殺風景でよそよそしかった。
応接セットといった風情のソファを、ヒョウたちに勧める水島。
ヒョウとリンがソファに腰を下ろした後で、水島も向かいのソファに腰掛けた。テーブルを挟んで、両者は向かい合う。
「出来れば手短にお願いします。」
機械のような声音が響き、薄いレンズ越しに鋭い視線がヒョウに投げかけられる。
ヒョウは堂々と迎え撃つように微笑を浮かべた。
「はい、そのつもりです。」
しっかりと頷き、ヒョウは懐から一枚の紙を取り出す。
「まず、こちらの方を渡しておきましょう。」
黒地に白の文字。それは、温室にいた巧にも渡したヒョウ自身の名刺である。水島に差し出すように、テーブルに名刺を置く。
ヒョウの名刺を受け取り、丹念に表と裏を確認する水島。
「名刺ですか?」
「ええ。」
軽く頷き、ヒョウは長い足を組む。
「実は、今日にでも事務所の方に戻ろうと思いまして。」
「情報収集にでも行かれるんですか?」
ヒョウの言葉の真意をつかめずに、水島は瞳の奥の真意を読み取ろうとしていた。
ヒョウは変わらぬ微笑のまま首を振る。
「いえ。そうではありません。依頼を終えて帰るという意味です。」
不気味なほど微笑に変化を見せずに、軽い口調のヒョウ。
煙に巻かれているような、からかわれているような気分で、水島は眉を顰めた。
「依頼を完遂される気がないということですか?」
「いいえ。」
自信を漲らせてヒョウは首を振る。もったいぶった口調は、目の前の機械のような男を焦らせるつもりのものではなく、ヒョウ特有のものだ。
視線を鋭くしながらも、水島は落ち着いた声音で尋ねる。
「では、事件解決の目処がついたということですか?」
一
夜が明けていた。
漆黒の闇が、光に浸食され始め、空が白み始める。赤みを帯びた朝日が、赤みを取り払っていく。気の早いセミ達が鳴き始め、小鳥の囀りも聞こえる。
夏の夜明けは早い。
だが、そんな夏の夜明けと共に起きる男がいた。
屋敷内において、朝一番早いのは、無論、機械のような正確さを誇る第一秘書の水島だ。主人は勿論のこと、使用人の誰よりも早く起き、誰よりも勤勉に一日を始める。夏は夜明けとともに目覚め、冬は夜明け前に目覚める。
目を開けた瞬間から、意識は完全に覚醒しており、伸びや欠伸などを必要とせずに、ベッドから機敏で無駄のない動作で立ち上がる。立ち上がった瞬間に、既に顔にはフレームのない薄いレンズの眼鏡が装着されている。
いつものように皺一つない制服のスーツを着込み、鏡を見ながらネクタイを結ぶ。
一筋のほつれもなく髪型をセットし終えて、一日の準備が整った時、不意に扉が叩かれた。
コンコンコン
規則正しいノックの音。
使用人の使う別棟の、最上階の一番奥。水島に宛がわれている部屋は、滅多なことでは他人が寄り付かない場所に配置されている。その上、こんな早朝に、誰かが尋ねてくるなどということはありえない。
数々の疑念が宿り、一瞬躊躇を見せたが、機械のように冷然とした男は、すぐに無駄のない動作で扉を開いた。
「どなたですか?」
「おはようございます。」
扉の前では、早朝だというのに乱れた様子のない、隙のない探偵が仰々しく頭を下げていた。
まるで鏡に映った虚像のように、二人の姿はダブる。冷然とした態度、隙のない物腰、感情のない声音。唯一つ違うのは、探偵の顔に浮かんでいる仮面のような微笑だけだろう。
突然の訪問に驚いた様子はなく、水島は尋ねる。
「おはようございます、凍神様。どうしました?」
「いえ、貴方はこの家で誰よりもお忙しくしておられるようですから、こんな早朝でないと捉まらないと思いまして。すみません。こんな朝早くから。ですが、少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
あくまでも慇懃な口調、どこまでも低姿勢な物腰。しかし、サファイアの瞳に浮かぶのは威圧だ。有無を言わせぬ迫力だ。
迫力に圧倒されたわけでもなく、水島は提案を受け入れた。
「どうぞ。」
訪問者を室内へと招き入れる。
扉を開けた時には、ヒョウ一人だけの訪問のようにも見えたが、ヒョウの背後には眠そうに目をこすっているリンの姿があった。
「失礼します。」
水島の部屋は、第一秘書というだけあって、第二秘書の野村の部屋よりも広い造りになっていた。野村の部屋がワンルームマンションのようだったことに比べると、水島の部屋はその二倍以上はあった。その扱いからしても、水島がどれだけこの屋敷で重宝されているかが分かる。しかし、備え付けられた調度品以外の私物が殆ど見当たらず、写真や装飾品などもないところは、客室のようにも見えた。部屋は住んでいる人間の個性を表すが、第二秘書の野村の部屋とは違い、水島の部屋は殺風景でよそよそしかった。
応接セットといった風情のソファを、ヒョウたちに勧める水島。
ヒョウとリンがソファに腰を下ろした後で、水島も向かいのソファに腰掛けた。テーブルを挟んで、両者は向かい合う。
「出来れば手短にお願いします。」
機械のような声音が響き、薄いレンズ越しに鋭い視線がヒョウに投げかけられる。
ヒョウは堂々と迎え撃つように微笑を浮かべた。
「はい、そのつもりです。」
しっかりと頷き、ヒョウは懐から一枚の紙を取り出す。
「まず、こちらの方を渡しておきましょう。」
黒地に白の文字。それは、温室にいた巧にも渡したヒョウ自身の名刺である。水島に差し出すように、テーブルに名刺を置く。
ヒョウの名刺を受け取り、丹念に表と裏を確認する水島。
「名刺ですか?」
「ええ。」
軽く頷き、ヒョウは長い足を組む。
「実は、今日にでも事務所の方に戻ろうと思いまして。」
「情報収集にでも行かれるんですか?」
ヒョウの言葉の真意をつかめずに、水島は瞳の奥の真意を読み取ろうとしていた。
ヒョウは変わらぬ微笑のまま首を振る。
「いえ。そうではありません。依頼を終えて帰るという意味です。」
不気味なほど微笑に変化を見せずに、軽い口調のヒョウ。
煙に巻かれているような、からかわれているような気分で、水島は眉を顰めた。
「依頼を完遂される気がないということですか?」
「いいえ。」
自信を漲らせてヒョウは首を振る。もったいぶった口調は、目の前の機械のような男を焦らせるつもりのものではなく、ヒョウ特有のものだ。
視線を鋭くしながらも、水島は落ち着いた声音で尋ねる。
「では、事件解決の目処がついたということですか?」
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
~後宮のやり直し巫女~私が本当の巫女ですが、謂れのない罪で処刑されたので後宮で人生をやり直すことにしました
深水えいな
キャラ文芸
明琳は国を統べる最高位の巫女、炎巫の候補となりながらも謂れのない罪で処刑されてしまう。死の淵で「お前が本物の炎巫だ。このままだと国が乱れる」と謎の美青年・天翼に言われ人生をやり直すことに。しかし巫女として四度人生をやり直すもののうまくいかず、次の人生では女官として後宮入りすることに。そこで待っていたのは後宮で巻き起こる怪事件と女性と見まごうばかりの美貌の宦官、誠羽で――今度の人生は、いつもと違う!?
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる