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最終幕 十二 「触るな」

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      十二

「待って、待てよ!」
 竹川の呼びかけは、怒りに変わっていた。人懐っこさなど全てかなぐり捨てて、一目散にヒョウの背中目掛けて走っていく。竹川の顔に浮かんでいたのは、剥き出しの憎悪だった。
 ヒョウと竹川の距離が、あと一歩というところまで近づく。
 針のような視線で黒い背中を射抜き、引き止めるための腕を竹川は振り上げた。
 憎悪の対象となった黒いスーツの肩を、握りつぶすような強さで捕らえる。
 だが、捕らえるはずの手が掴んだのは虚空だった。
 半歩分、横に身体をずらし、ヒョウは竹川の襲撃をかわしていた。
 敵意を剥き出しにした氷のような視線で、竹川を睨みつける。
 両者の敵意と憎悪が火花を出してぶつかる。
「触るな。」
「うおおおおおおおお!」
 廊下に響く絶叫。
 力の限りの咆哮。
 憎悪は理性を打ち砕く、憎悪は武装する。それは、全て、敵意に対しての防衛反応だった。最善で最悪の対処方法だった。
 竹川は手の届く範囲にあった美術品を握り締め、高く高く振り上げる。
「うわああああ!」
 憎悪は引き金を引き、鈍器は振り下ろされた。
 しかし、残ったのは沈黙。訪れたのは静寂。
 床には粉々になった美術品の残骸が散らばっていた。鈍器は役目を果たさずに、ただ破壊されただけだった。
「気安く触れないでいただけますか?私を穢す権利など、誰にもありはしないのですよ。」
 先に口を開いたのは、凍りつきそうな怒りを含んだヒョウだった。激昂するのでもなく、頭に血を上らせるのでもない。血の気が引いていくような怒りは、感情の爆発などよりも空恐ろしかった。
 ヒョウの冷たい怒りに、竹川の頭は急速に冷えていく。激昂も、血の気も、恐怖の前には、全てが無意味になる。
 眼前の黒服の男という存在は、生物の根幹的恐怖を呼び起こさせた。
「あ・・・・、う・・・・・。」
 口をパクパクとさせるだけで、言葉が出てこない竹川。
 そんな竹川の耳に、眼前の男の齎した言葉は静かに響いた。
「大丈夫ですよ。貴方の楽しみを奪うつもりはありませんから。警察相手に、くだらぬままごとでも続けていてください。」
 黒い背中は去っていく。
 足が震えて立っているのが精一杯な竹川は、黒い背中を追うことはなかった。追えるはずもなかった。
 
  悲劇は終わった。
   茶番劇も終わった。
    全ての演出を手がけた死神は、
      それぞれの登場人物に何を残したのだろう。
      残り香のような闇の存在は、
        誰に気づかれるわけでもない。
        だが、確実に巣食っている。
          消えることはないだろう。
          ああ、蝉が啼いている。
           夏を惜しむように、蝉が啼いている。
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