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お釣り、あります。
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(ああもう、嫌だ嫌だ嫌だ…誰か助けて…ここはどこ)
中学二年の林間学校。あまり遠くへ行くなという先生達の言葉なんか、もちろん「ガン無視」で、俺は皆からは少し離れた林の中で、俺の友達と一緒に拾ったドングリをぶつけ合うサバゲーもどきをやってたはずだった。
だけど、
(ちょっと踏み込んだだけで…)
林はすぐに森になる。上を見てもうっそうと茂る木の葉っぱの間から、太陽がちょっと見えるだけ。
友達から見つからないように、でも友達とはぐれないように気をつけていたはずなのに、位置感覚が完全に狂ってしまった。自分がどこにいるのか分からない。
(誰か…)
森の中にいても、体のあちこちからじっとりと汗は滲み出てくる。そんな俺の肌を集まってきた薮蚊があちこち刺して、うっとうしいことこの上ない…ムカついて、心細くてたまらない。
(助けて…誰か)
自分が迷ったとはっきり自覚してから、何度も助けを求めて叫んだ声は、喉がカラカラに渇いてしまってもう出ない。気がつけば、辺りはどんどん暗くなっていって、情けないけど生まれて初めて、心の底から怖くてたまらなくなった…声を上げて泣きたくなった。
普段は自分で自分のこと、もう何でも出来るんだって…煩い親なんかいらないって思って、家の窓ガラスをぶち破ったり、夜中に遊びに行ったことだってあるのに、こんな時になって初めて、やっぱり俺はたったの十四のガキなんだって思い知った。
(だからお願い…誰か、助けて…ごめんなさい。今までのことは謝るから…お父さんお母さん)
…何にも出来ないガキなんだって、我ながらゲンキンだとは思ったけど、ただそれだけを思って、やみくもに森の中を歩いてた。
少しでも立ち止まったら、闇の中の何かにつかまりそうな…普段だったら、くだらない作り話だって笑い飛ばしてたような「怪談」が、もしかしたらありえるかもしれないって思えてしまうほど真っ暗で、怖くて怖くてたまらない。
いや、怪談じゃなくても、毎日のようにニュースでやってる「事件」の一つに自分がなってしまうのも怖かった。
どっかで高校生が行方不明になったとか、学校の屋上から転落死した恋人の後を追って歩道橋から飛び降りて自動車に轢かれて滅茶苦茶になった男とか、睡眠薬を盛られて眠らされて火をつけられて大学生のカップルが殺されたとか、夜の海で落し物探してて波にさらわれて大学生が溺れ死んだとか、高校生の女が同級生に毒を飲ませて殺したとか、なんか賞を取ったっていう芸術家気取りが女の生き血を石膏像に塗りたくったとか、家に床下から白骨死体が出てきた家の女とその従弟が頭狂って入院したとか、そういうニュースの一つに俺もなるのかと思ったらそれが怖かった。
どれくらい歩いたんだろう。夕方から歩き回ってるから、長い長い時間が経ったように思えたけれど、ひょっとしたら二時間程度とか、そこらへんだったかもしれない。俺の視線の先には、闇の中に浮かび上がる光。
(…助かった…明かり…明かり!)
そうだ、間違いなく電気の明かりだ。
額からダラダラ流れる汗が、目の中にも落ちてきて痛い。それを思い切り拭いながら、確かめるみたいに何度も何度もそれを見て、
(…人…家)
誰かが住んでいる家があったんだ、って思って、急に安心して、どっと力が抜けていく足で、一歩一歩地面を踏みしめながら、俺はその家に近づいていった。
「…すみません…誰か、いませんか」
最後の力を振り絞って、俺は玄関の扉を叩く。
すると、中で何かゴソゴソ音がして、
「おやおや、お若い坊ちゃんだこと。どうしたのかね。松さん、松さん! ちょっとおいでな」
「竹さん。何事じゃ?」
「お客さんじゃないのかや、梅さん」
とか何とか、まるで人形みたいな同じ顔をしたお婆さんが三人、わちゃわちゃ動きながら出てくる。
それを見た瞬間、映画の撮影の中にでも迷い込んだのかと思った…そう思えたってことは、俺もやっと安心できたってことなんだろうけど、
「…迷ったんです…一晩でいいから、休ませて…先生達に連絡を」
やっぱりまだ口は干からびたままだ。必死に声を絞り出したら、
「おややぁ、そりゃ大変じゃ」
「風呂風呂!」
「お腹は空いていないのかえ?」
どれが松さんで、梅さんで、竹さんなのか全然分らない、三つ子のお婆さんはバタバタしながら、それでも俺を家の中へあげてくれた。
「ほれ、井戸水じゃ。冷たくて美味しいよ」
「…ありがとう」
外から見た時は暗くてよく分からなかったけど、この家は相当大きくて古い。廊下を曲がって通された部屋は、俺の部屋の二倍は間違いなくある広さだ。
「軽いもので申し訳ないんじゃがね。もうすぐご飯も持ってくるで」
松さんか梅さんか竹さんか分からないけど皺くちゃの顔をもっと皺くちゃにして笑いながらお婆さんが言ってくれた。
「ありがとう、お婆さん」
水をもらった途端、腹が鳴った。人の親切っていうのが、生まれて初めて心に染みて、俺は初めて人へ頭を素直に下げたと思う。そしたらお婆さんは、
「ここが気に入ったら、ゆっくりしていくがええ」
とかニコニコしながら言い出した。
「ありがとうございます」
この時はまだ、明日迎えに来てもらうから今夜はゆっくりしていっていいっていう意味なんだと思って丁寧にお礼を言った。
その後で、お婆さんたちが俺に出してくれた晩御飯は、こんな山の中でよくもこれだけ、って思えるくらいに豪華だった。刺身の盛り合わせとか、ステーキまであった。
それを夢中になって食べていたら、
「お前さんのような人のために、この家と私らは存在るんじゃよ。ほほほほ」
「そうじゃそうじゃ。ゆるりと遊んでいかれたらええわ」
「ナンボでもおればええ」
…センセに連絡とか、お父さんやお母さんが心配しているとか、そんな思いは、お婆さんたちが口々にそういうもんだから、俺の中から吹っ飛んでしまった。
(そうだよな…ここにずっといるってのも悪くない)
朝になるまでとかじゃなくて、正直、ずっとここにいてもいいかなって俺も思い始めてた。
だって、家に帰ったって両親は二人とも煩いだけ。ガッコだって授業も全然分らないから、行ったってつまらない。だったら、何もなさそうだけど、ここん家でのんびり楽しんでてもいいんじゃないかって、頭をよぎってた。
メシの後に入らせてもらった風呂だって、古い家のボロくて汚いのとかを想像してたのに、旅館みたいな「露天風呂」でものすげえ広かったし、朝になってお婆さんたちが出してくれたメシも美味くて、「帰るのは昼メシもらってからでもいいよな」と思って昼メシにしたらそれも美味くて、そしたら「もう帰らなくていいや」って完全に思ってしまって。
家っていうより屋敷みたいな旅館みたいな広さのある、薄暗い家の中を探検して、俺の家ほどある大きな「蔵」とか家の周りとかをそれこそ小さなガキみたいに一日中探検して、猿とか猪とか狸とか雉とかがちょくちょく現れてそれの様子を見てたりして、ゲームもスマホもパソコンもないのになんでかすごく楽しくて、いつの間にか季節は変わっていた。
「お婆さん、ホントに俺、いつまでもここにいていいんだ?」
「ああ、構わんよ」
少し古いが、なんて言いながら、俺の冬の着物まで出してくれるお婆さん達へ恐る恐る尋ねても、お婆さん達は笑うだけ。
「だけど、タダでいいんだ?」
だから俺、ついそんな風に尋ねた。ずっといていい、っていっても、俺はここん家の手伝いとか何もしてないし、ホントに旅館に泊まってるだけみたいになってるのに、お金だって払ってない。
なのに、お婆さんは、
「…おやおや」
「何を言うのかねえ。お代なら払ってもらってるよ、ちゃあんと」
「ちゃあんと、ねえ?」
口々に言って、やっぱり笑うだけだった。
(払ってもらってるって…)
お婆さん達が何を言ってるのか、俺には全然分からない。だけどその時俺は深く考えることもせずに、
(ボケてんのかな? ま、いいや)
タダでいい、っていうからにはいいんだろう、なんて考えて…毎日をただ、遊んで食べて広い風呂に入って、楽しく暮らしていたんだ。
だけど、
(…どうしてるのかな、お父さんとお母さんと…俺の友達)
ここん家に迷い込んで、二回目の夏が来たとき、俺はさすがにそう思った。
山の中は涼しくて、昼でもクーラーとかがいらなくて、だけど家じゃ本当に暑いから、すぐにクーラーをつけようとしていた俺を、いつだってお母さんは怒ったっけ。
思いだしたら、以前はあんなにウザがってたのに急に寂しくなって、あれだけ鬱陶しかった前の生活が懐かしくてたまらなくなった。
だから、
「お婆さん。いきなりで悪いんだけどさ。俺、帰るわ」
蝉が煩いくらいに鳴いてるのを聞きながら、俺はお婆さんにそう告げた。
てっきり引き止められるかと思ったんだけど、
「おやおや、帰るのかえ」
「ならほれ。このトマトやキュウリも持っていきなさい」
「気をつけてねえ」
言いながら、やけにあっさりと土産物まで持たせてくれて、
「この道をねえ、まっすぐ行くと大きな道に当たるよ。トラックもようけ通るし、ヒッチハイクとやらも出来るじゃろ。そんでもって、これ、今まで払ってもろうたお代のお釣り」
500円玉を俺に握らせてくれた。
「お釣りって…?」
俺が三人の顔を見ながら尋ねたけれど、
「お釣りはお釣りじゃて。アンタからは余分にお代をいただいたからのう」
「長くいてくれてありがとうなあ」
「いやいや、よかったよかった。達者でな」
わけの分らないことを言って、お婆さんは笑いながら俺へ手を振る。
なんだか本当に、言ってることが分からない。分らないまま、俺もなんとなく三人へ手を振って、教えてくれた坂道を下り始める。
長い長い一本道を降りて降りて…朝にお婆さん家を出たのに、国道らしきところへ出た時には、もう昼過ぎになっていた。
(なんだ、あの時のユースホステル、あんな近くだったのか)
それでも、お婆さんに言われた通りにヒッチハイクしたら止まってくれたトラックがあって、事情を話したらちょうど俺の家のある辺りが通り道だって言うから乗せてもらって窓の外を見たら、二年前の林間学校の時の少年の家とやらが走り出してすぐ近くにあって、拍子抜けしてしまった。
あの時、あれだけ焦って心細い思いをしていた俺自身を思うと、ふと苦笑がこみ上げてくる。
それよりも、心配をかけたお父さんやお母さんへまず謝って、それから…って考えているうちに、眠ってしまったらしい。
「ほら、ついたよ。気をつけて」
目を覚ますと、俺が住んでいた家のすぐ側に、わざわざ少し回り道をしてくれたトラックの運ちゃんが笑いかけてくれてた。
「ありがとう。おっちゃんも気をつけてね」
俺が素直にお礼を言ったのに、
「はっははは! アンタに『おっちゃん』って言われるなんてなあ。慣れないトラックに乗ったから気疲れしたのかもしれないけど、乗った時より老けたんじゃないか? そんなわきゃないか。まあ気をつけてな。転ぶんじゃねえぞ」
トラックの運ちゃんは、とかなんとか訳の分からないことを言って、トラックを走らせていってしまった。
(まあいいや。それより、俺の家)
その家は、林間学校へ行く前と同じように立っていて、表札も変わっていない。
トマトときゅうりの入ったビニール袋を片手にぶら下げて、もう片方の手には500円玉、そして着ているものは少し古臭い夏用の着物、っていう自分の格好にちょっと苦笑しながら、
「…お父さん、お母さん! 誰かいないか?」
俺はよくやっていたみたいに、玄関の扉を開けて叫んだ。
右側にある鏡もそのままだ、なんて、懐かしく眺めた途端、
(あ…あああ?)
これは、一体誰なんだ。
中に映っているのは、あの家のお婆さんと同じくらい皺くちゃの、髪の毛だって真っ白になってる「爺さん」。鏡を見てるはずの俺の姿はどこにもない。
「…う、そ、だ」
思わず鏡に伸ばした手も、同じくらい皺だらけで骨と皮だけになって…信じられなくて、でも見ているうちにも、どんどんその手は干からびて、カサカサになっていく。
「良太? 良太なの!?」
俺の名前を呼びながら、二階から階段を降りてきた人へ、
「…お母、さん…」
言った途端、土産物を持ってた俺の腕が、まるで枯れ枝が重さに耐えきれなくなって折れるようにぽきりと下に落ちた。なのに、痛みすらない。しかも、500円玉を握ってただけのもう一方の手も、その重さに耐え切れなくて折れて落ちる。それから今度は両脚が、体の重さに耐えきれなくなる。
(ああ、お釣りって…そういうことだったのか)
バラバラに崩れ落ちていく自分の体を感じながら、俺はやっと悟った。
…あの家にいた時、俺がお婆さんたちへ払っていたのは…。
薄れ行く意識の中で最後に聞いたのは、近所中に響き渡るようなお母さんの悲鳴だった。
FIN~
中学二年の林間学校。あまり遠くへ行くなという先生達の言葉なんか、もちろん「ガン無視」で、俺は皆からは少し離れた林の中で、俺の友達と一緒に拾ったドングリをぶつけ合うサバゲーもどきをやってたはずだった。
だけど、
(ちょっと踏み込んだだけで…)
林はすぐに森になる。上を見てもうっそうと茂る木の葉っぱの間から、太陽がちょっと見えるだけ。
友達から見つからないように、でも友達とはぐれないように気をつけていたはずなのに、位置感覚が完全に狂ってしまった。自分がどこにいるのか分からない。
(誰か…)
森の中にいても、体のあちこちからじっとりと汗は滲み出てくる。そんな俺の肌を集まってきた薮蚊があちこち刺して、うっとうしいことこの上ない…ムカついて、心細くてたまらない。
(助けて…誰か)
自分が迷ったとはっきり自覚してから、何度も助けを求めて叫んだ声は、喉がカラカラに渇いてしまってもう出ない。気がつけば、辺りはどんどん暗くなっていって、情けないけど生まれて初めて、心の底から怖くてたまらなくなった…声を上げて泣きたくなった。
普段は自分で自分のこと、もう何でも出来るんだって…煩い親なんかいらないって思って、家の窓ガラスをぶち破ったり、夜中に遊びに行ったことだってあるのに、こんな時になって初めて、やっぱり俺はたったの十四のガキなんだって思い知った。
(だからお願い…誰か、助けて…ごめんなさい。今までのことは謝るから…お父さんお母さん)
…何にも出来ないガキなんだって、我ながらゲンキンだとは思ったけど、ただそれだけを思って、やみくもに森の中を歩いてた。
少しでも立ち止まったら、闇の中の何かにつかまりそうな…普段だったら、くだらない作り話だって笑い飛ばしてたような「怪談」が、もしかしたらありえるかもしれないって思えてしまうほど真っ暗で、怖くて怖くてたまらない。
いや、怪談じゃなくても、毎日のようにニュースでやってる「事件」の一つに自分がなってしまうのも怖かった。
どっかで高校生が行方不明になったとか、学校の屋上から転落死した恋人の後を追って歩道橋から飛び降りて自動車に轢かれて滅茶苦茶になった男とか、睡眠薬を盛られて眠らされて火をつけられて大学生のカップルが殺されたとか、夜の海で落し物探してて波にさらわれて大学生が溺れ死んだとか、高校生の女が同級生に毒を飲ませて殺したとか、なんか賞を取ったっていう芸術家気取りが女の生き血を石膏像に塗りたくったとか、家に床下から白骨死体が出てきた家の女とその従弟が頭狂って入院したとか、そういうニュースの一つに俺もなるのかと思ったらそれが怖かった。
どれくらい歩いたんだろう。夕方から歩き回ってるから、長い長い時間が経ったように思えたけれど、ひょっとしたら二時間程度とか、そこらへんだったかもしれない。俺の視線の先には、闇の中に浮かび上がる光。
(…助かった…明かり…明かり!)
そうだ、間違いなく電気の明かりだ。
額からダラダラ流れる汗が、目の中にも落ちてきて痛い。それを思い切り拭いながら、確かめるみたいに何度も何度もそれを見て、
(…人…家)
誰かが住んでいる家があったんだ、って思って、急に安心して、どっと力が抜けていく足で、一歩一歩地面を踏みしめながら、俺はその家に近づいていった。
「…すみません…誰か、いませんか」
最後の力を振り絞って、俺は玄関の扉を叩く。
すると、中で何かゴソゴソ音がして、
「おやおや、お若い坊ちゃんだこと。どうしたのかね。松さん、松さん! ちょっとおいでな」
「竹さん。何事じゃ?」
「お客さんじゃないのかや、梅さん」
とか何とか、まるで人形みたいな同じ顔をしたお婆さんが三人、わちゃわちゃ動きながら出てくる。
それを見た瞬間、映画の撮影の中にでも迷い込んだのかと思った…そう思えたってことは、俺もやっと安心できたってことなんだろうけど、
「…迷ったんです…一晩でいいから、休ませて…先生達に連絡を」
やっぱりまだ口は干からびたままだ。必死に声を絞り出したら、
「おややぁ、そりゃ大変じゃ」
「風呂風呂!」
「お腹は空いていないのかえ?」
どれが松さんで、梅さんで、竹さんなのか全然分らない、三つ子のお婆さんはバタバタしながら、それでも俺を家の中へあげてくれた。
「ほれ、井戸水じゃ。冷たくて美味しいよ」
「…ありがとう」
外から見た時は暗くてよく分からなかったけど、この家は相当大きくて古い。廊下を曲がって通された部屋は、俺の部屋の二倍は間違いなくある広さだ。
「軽いもので申し訳ないんじゃがね。もうすぐご飯も持ってくるで」
松さんか梅さんか竹さんか分からないけど皺くちゃの顔をもっと皺くちゃにして笑いながらお婆さんが言ってくれた。
「ありがとう、お婆さん」
水をもらった途端、腹が鳴った。人の親切っていうのが、生まれて初めて心に染みて、俺は初めて人へ頭を素直に下げたと思う。そしたらお婆さんは、
「ここが気に入ったら、ゆっくりしていくがええ」
とかニコニコしながら言い出した。
「ありがとうございます」
この時はまだ、明日迎えに来てもらうから今夜はゆっくりしていっていいっていう意味なんだと思って丁寧にお礼を言った。
その後で、お婆さんたちが俺に出してくれた晩御飯は、こんな山の中でよくもこれだけ、って思えるくらいに豪華だった。刺身の盛り合わせとか、ステーキまであった。
それを夢中になって食べていたら、
「お前さんのような人のために、この家と私らは存在るんじゃよ。ほほほほ」
「そうじゃそうじゃ。ゆるりと遊んでいかれたらええわ」
「ナンボでもおればええ」
…センセに連絡とか、お父さんやお母さんが心配しているとか、そんな思いは、お婆さんたちが口々にそういうもんだから、俺の中から吹っ飛んでしまった。
(そうだよな…ここにずっといるってのも悪くない)
朝になるまでとかじゃなくて、正直、ずっとここにいてもいいかなって俺も思い始めてた。
だって、家に帰ったって両親は二人とも煩いだけ。ガッコだって授業も全然分らないから、行ったってつまらない。だったら、何もなさそうだけど、ここん家でのんびり楽しんでてもいいんじゃないかって、頭をよぎってた。
メシの後に入らせてもらった風呂だって、古い家のボロくて汚いのとかを想像してたのに、旅館みたいな「露天風呂」でものすげえ広かったし、朝になってお婆さんたちが出してくれたメシも美味くて、「帰るのは昼メシもらってからでもいいよな」と思って昼メシにしたらそれも美味くて、そしたら「もう帰らなくていいや」って完全に思ってしまって。
家っていうより屋敷みたいな旅館みたいな広さのある、薄暗い家の中を探検して、俺の家ほどある大きな「蔵」とか家の周りとかをそれこそ小さなガキみたいに一日中探検して、猿とか猪とか狸とか雉とかがちょくちょく現れてそれの様子を見てたりして、ゲームもスマホもパソコンもないのになんでかすごく楽しくて、いつの間にか季節は変わっていた。
「お婆さん、ホントに俺、いつまでもここにいていいんだ?」
「ああ、構わんよ」
少し古いが、なんて言いながら、俺の冬の着物まで出してくれるお婆さん達へ恐る恐る尋ねても、お婆さん達は笑うだけ。
「だけど、タダでいいんだ?」
だから俺、ついそんな風に尋ねた。ずっといていい、っていっても、俺はここん家の手伝いとか何もしてないし、ホントに旅館に泊まってるだけみたいになってるのに、お金だって払ってない。
なのに、お婆さんは、
「…おやおや」
「何を言うのかねえ。お代なら払ってもらってるよ、ちゃあんと」
「ちゃあんと、ねえ?」
口々に言って、やっぱり笑うだけだった。
(払ってもらってるって…)
お婆さん達が何を言ってるのか、俺には全然分からない。だけどその時俺は深く考えることもせずに、
(ボケてんのかな? ま、いいや)
タダでいい、っていうからにはいいんだろう、なんて考えて…毎日をただ、遊んで食べて広い風呂に入って、楽しく暮らしていたんだ。
だけど、
(…どうしてるのかな、お父さんとお母さんと…俺の友達)
ここん家に迷い込んで、二回目の夏が来たとき、俺はさすがにそう思った。
山の中は涼しくて、昼でもクーラーとかがいらなくて、だけど家じゃ本当に暑いから、すぐにクーラーをつけようとしていた俺を、いつだってお母さんは怒ったっけ。
思いだしたら、以前はあんなにウザがってたのに急に寂しくなって、あれだけ鬱陶しかった前の生活が懐かしくてたまらなくなった。
だから、
「お婆さん。いきなりで悪いんだけどさ。俺、帰るわ」
蝉が煩いくらいに鳴いてるのを聞きながら、俺はお婆さんにそう告げた。
てっきり引き止められるかと思ったんだけど、
「おやおや、帰るのかえ」
「ならほれ。このトマトやキュウリも持っていきなさい」
「気をつけてねえ」
言いながら、やけにあっさりと土産物まで持たせてくれて、
「この道をねえ、まっすぐ行くと大きな道に当たるよ。トラックもようけ通るし、ヒッチハイクとやらも出来るじゃろ。そんでもって、これ、今まで払ってもろうたお代のお釣り」
500円玉を俺に握らせてくれた。
「お釣りって…?」
俺が三人の顔を見ながら尋ねたけれど、
「お釣りはお釣りじゃて。アンタからは余分にお代をいただいたからのう」
「長くいてくれてありがとうなあ」
「いやいや、よかったよかった。達者でな」
わけの分らないことを言って、お婆さんは笑いながら俺へ手を振る。
なんだか本当に、言ってることが分からない。分らないまま、俺もなんとなく三人へ手を振って、教えてくれた坂道を下り始める。
長い長い一本道を降りて降りて…朝にお婆さん家を出たのに、国道らしきところへ出た時には、もう昼過ぎになっていた。
(なんだ、あの時のユースホステル、あんな近くだったのか)
それでも、お婆さんに言われた通りにヒッチハイクしたら止まってくれたトラックがあって、事情を話したらちょうど俺の家のある辺りが通り道だって言うから乗せてもらって窓の外を見たら、二年前の林間学校の時の少年の家とやらが走り出してすぐ近くにあって、拍子抜けしてしまった。
あの時、あれだけ焦って心細い思いをしていた俺自身を思うと、ふと苦笑がこみ上げてくる。
それよりも、心配をかけたお父さんやお母さんへまず謝って、それから…って考えているうちに、眠ってしまったらしい。
「ほら、ついたよ。気をつけて」
目を覚ますと、俺が住んでいた家のすぐ側に、わざわざ少し回り道をしてくれたトラックの運ちゃんが笑いかけてくれてた。
「ありがとう。おっちゃんも気をつけてね」
俺が素直にお礼を言ったのに、
「はっははは! アンタに『おっちゃん』って言われるなんてなあ。慣れないトラックに乗ったから気疲れしたのかもしれないけど、乗った時より老けたんじゃないか? そんなわきゃないか。まあ気をつけてな。転ぶんじゃねえぞ」
トラックの運ちゃんは、とかなんとか訳の分からないことを言って、トラックを走らせていってしまった。
(まあいいや。それより、俺の家)
その家は、林間学校へ行く前と同じように立っていて、表札も変わっていない。
トマトときゅうりの入ったビニール袋を片手にぶら下げて、もう片方の手には500円玉、そして着ているものは少し古臭い夏用の着物、っていう自分の格好にちょっと苦笑しながら、
「…お父さん、お母さん! 誰かいないか?」
俺はよくやっていたみたいに、玄関の扉を開けて叫んだ。
右側にある鏡もそのままだ、なんて、懐かしく眺めた途端、
(あ…あああ?)
これは、一体誰なんだ。
中に映っているのは、あの家のお婆さんと同じくらい皺くちゃの、髪の毛だって真っ白になってる「爺さん」。鏡を見てるはずの俺の姿はどこにもない。
「…う、そ、だ」
思わず鏡に伸ばした手も、同じくらい皺だらけで骨と皮だけになって…信じられなくて、でも見ているうちにも、どんどんその手は干からびて、カサカサになっていく。
「良太? 良太なの!?」
俺の名前を呼びながら、二階から階段を降りてきた人へ、
「…お母、さん…」
言った途端、土産物を持ってた俺の腕が、まるで枯れ枝が重さに耐えきれなくなって折れるようにぽきりと下に落ちた。なのに、痛みすらない。しかも、500円玉を握ってただけのもう一方の手も、その重さに耐え切れなくて折れて落ちる。それから今度は両脚が、体の重さに耐えきれなくなる。
(ああ、お釣りって…そういうことだったのか)
バラバラに崩れ落ちていく自分の体を感じながら、俺はやっと悟った。
…あの家にいた時、俺がお婆さんたちへ払っていたのは…。
薄れ行く意識の中で最後に聞いたのは、近所中に響き渡るようなお母さんの悲鳴だった。
FIN~
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