11 / 94
第一幕 子猫は勝手気ままに散歩に出かける
両替商『狐屋』 2
しおりを挟む
「まぁ良い。父上が亡くなって四十五日も過ぎた。これからは私がこの狐屋を背負って立たねばいけないからね、今までのようにボヤボヤしてられないよ。そうであろう雷蔵」
「若旦那……」
雷蔵の黒目がちな目にホロリと熱いものが浮かぶ。
子供の頃は極道の使い走りをしていた雷蔵だが、十二になった年に縁があってこの狐屋の先代に拾われた。
それ以来、雷蔵は己を表の世界に引き上げてくれた先代のために骨身を削る思いで狐屋のために働いてきた。
それから十八年。
ようやくこの狐屋が天下一の大棚になったその矢先、仕えていた主人が病に倒れ、呆気なくこの世を去り、その跡取りがどうしようもなく阿呆なのを心底心配していた。
狐屋もこれで終わりかと思っていたのだが、そのどうしようもない若旦那の思わぬ言葉に胸が熱くなった。
「若旦那。……ご立派になられましたなぁ」
つぃっと雷蔵は己の袂を掴んで目尻を押さえた。
これならこの店も大丈夫。そんな暖かい気持ちが雷蔵の心を明るくした。
「今すぐ茶をお持ちいたしやす。ところで、どのような鍛錬をしておいでだったんで?」
「うむ、見ておれ。こうするのだ」
青太郎は松の木に巻きつけた帯を手にすると「よいではないかー!」と掛け声を発して帯を思いっきり引いた。
気の抜けた顔のわりに剛力と言って差し支えない筋力を持った青太郎の腕で引かれた帯はパシーンと小気味よい音を立てて松の木を大きく揺らす。
「どうじゃ見事なものであろう? 毎日の密かな鍛錬の成果で、ようやく私にもこの技の極意が見えた気がするぞ。ふっふっふっ、これが才能というものであろうかのう、なぁ雷蔵?」
自信満々の顔で振り向く青太郎。
「すみません若旦那。やはりあっしにゃ何の鍛錬なのかさっぱり理解できやせん」
じわじわと不審顔になる雷蔵。
もしこの家が武家ならば柔術の習練をしているのかと思うところだが、狐屋は商家である。
商人の鍛錬といえば一に算盤、二に読み書き。そして交渉術と腹芸だ。
それなのに、まるで漁師の網引きのように女物の帯を引く鍛錬で商人としての何が養われるのか雷蔵には全くわからなかった。
「おぬしも鈍いのぅ。よいか? 一流の商人ともなれば遊びも一流でなくてはならん」
「……で?」
いやな予感が雷蔵の胸に湧き上がる。
「『女独楽』って技を知っておるか? 嫌がる娘の帯を掴んで『よいではないかー!』って、思いっきり引っ張るのだ。そうすると女が『あーれー』って言いながら独楽のようにクルクル回って素っ裸! 父上は吉原でこの技の達人だったそうじゃ」
「なるほど。わかりました」
雷蔵は思いっきり冷めた目で青太郎の正面に立つと、両手に拳を作って青太郎のこめかみをグリグリとねじ回した。
「ぎゃぁーーー! いっ、痛っ! 痛っ! 痛いっ!」
「何をしていやがるかと思えばこのアホ太郎め!」
「主人に向かってアホ太郎とはなんだ! 痛っ! やめろ! こらっ!」
「ソロバンも満足に弾けねぇくせに、店表にまで聞こえるほどの大きさで奇声を発して女遊びの鍛錬なんかしてんじゃねぇやド阿呆め! 死ね、死にさらせこの穀潰しがぁ!」
「うぎゃぁぁーー!」
「若旦那……」
雷蔵の黒目がちな目にホロリと熱いものが浮かぶ。
子供の頃は極道の使い走りをしていた雷蔵だが、十二になった年に縁があってこの狐屋の先代に拾われた。
それ以来、雷蔵は己を表の世界に引き上げてくれた先代のために骨身を削る思いで狐屋のために働いてきた。
それから十八年。
ようやくこの狐屋が天下一の大棚になったその矢先、仕えていた主人が病に倒れ、呆気なくこの世を去り、その跡取りがどうしようもなく阿呆なのを心底心配していた。
狐屋もこれで終わりかと思っていたのだが、そのどうしようもない若旦那の思わぬ言葉に胸が熱くなった。
「若旦那。……ご立派になられましたなぁ」
つぃっと雷蔵は己の袂を掴んで目尻を押さえた。
これならこの店も大丈夫。そんな暖かい気持ちが雷蔵の心を明るくした。
「今すぐ茶をお持ちいたしやす。ところで、どのような鍛錬をしておいでだったんで?」
「うむ、見ておれ。こうするのだ」
青太郎は松の木に巻きつけた帯を手にすると「よいではないかー!」と掛け声を発して帯を思いっきり引いた。
気の抜けた顔のわりに剛力と言って差し支えない筋力を持った青太郎の腕で引かれた帯はパシーンと小気味よい音を立てて松の木を大きく揺らす。
「どうじゃ見事なものであろう? 毎日の密かな鍛錬の成果で、ようやく私にもこの技の極意が見えた気がするぞ。ふっふっふっ、これが才能というものであろうかのう、なぁ雷蔵?」
自信満々の顔で振り向く青太郎。
「すみません若旦那。やはりあっしにゃ何の鍛錬なのかさっぱり理解できやせん」
じわじわと不審顔になる雷蔵。
もしこの家が武家ならば柔術の習練をしているのかと思うところだが、狐屋は商家である。
商人の鍛錬といえば一に算盤、二に読み書き。そして交渉術と腹芸だ。
それなのに、まるで漁師の網引きのように女物の帯を引く鍛錬で商人としての何が養われるのか雷蔵には全くわからなかった。
「おぬしも鈍いのぅ。よいか? 一流の商人ともなれば遊びも一流でなくてはならん」
「……で?」
いやな予感が雷蔵の胸に湧き上がる。
「『女独楽』って技を知っておるか? 嫌がる娘の帯を掴んで『よいではないかー!』って、思いっきり引っ張るのだ。そうすると女が『あーれー』って言いながら独楽のようにクルクル回って素っ裸! 父上は吉原でこの技の達人だったそうじゃ」
「なるほど。わかりました」
雷蔵は思いっきり冷めた目で青太郎の正面に立つと、両手に拳を作って青太郎のこめかみをグリグリとねじ回した。
「ぎゃぁーーー! いっ、痛っ! 痛っ! 痛いっ!」
「何をしていやがるかと思えばこのアホ太郎め!」
「主人に向かってアホ太郎とはなんだ! 痛っ! やめろ! こらっ!」
「ソロバンも満足に弾けねぇくせに、店表にまで聞こえるほどの大きさで奇声を発して女遊びの鍛錬なんかしてんじゃねぇやド阿呆め! 死ね、死にさらせこの穀潰しがぁ!」
「うぎゃぁぁーー!」
0
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる