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真夜と孝介
69 長谷の十一面観音像
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「あなたも何か悩み事があって、ここに来たのでしょうな? 先ほどから、随分と難しい顔をされていましたから」
まるで真夜の心情を見抜いているかのような言葉を、老人は優しい口調で繰り出す。真夜はそれにぎこちない苦笑で返すと、
「あぁ、やはり……。ここはそういう人が、心の垢を流し落とすために訪れるところですからね。首都圏での日常に疲れた人、家族や恋人との関係で悩んでいる人、人生に思い詰めている人がこの長谷寺に足を運び、観音様に相談するのですよ。私も定年前は、そんな疲れ切った都市部在住者のひとりでした」
老人はそう言葉を続けた。そして放生池の水面に目をやりながら、
「巷にいると、どうしてもモノが欲しくなる。モノを買うにはカネが必要、そしてカネを得るにはコネもいる……ということで、何から何まで己の唾をつけてしまおうとしていつの間にか人を傷つけ、衝突の果てに疲弊してしまいます。そんな時は、必ずここを訪れて砂の流れを目で追ったものです。すると……これは気の持ちようの話かもしれませんが、巷にあるものの殆どが価値あるものには見えなくなり、代わりに本当の意味で必要なものだけが見えるようになるんですな。自分にとって、これこそが一番大事な存在だと気づくわけです」
「大事な存在……?」
「私の場合は心身の健康でした。というのも、実際に患っていたんですよ。胃癌をね……」
老人はそう言って笑顔を向け、
「いざ大病を患うと、心の中の整理が自然とついてきます。自分にとって何が必要で、何がそうでないかを。そして、それを突き詰めてしまうと……我々は“必要性”という概念に囚われ過ぎていると分かるんですな」
「……え?」
「何が必要でそうでないか、というのは殆どの場合は自己判断に過ぎません。勝手にそう思い込んでいる、ということですな。それは言い換えればエゴというもの。そしてエゴを魚の鱗のようにポロポロと落としていけば、いずれは自己判断によるものではない本物の価値にたどり着く。それはこの長谷寺の観音様が教えてくださったことです」
そう言い切った老人は、
「あぁ、申し訳ない。ついつい妙な話をしてしまいました」
と、我に返ったかのように付け足した。
「それでは、これで失礼を……」
老人は真夜に背を向け、その場を立ち去ろうとした。
3mほど離れたあたりで真夜が、
「あ、あのっ!」
と、老人を呼び止める。
「えぇと……興味深いお話をしていただいて、勉強になりました」
「いいえ、こちらこそ」
「それで——」
真夜は若干の勇気と声を胸から引き出し、
「観音様というのは、どこにいるのですか?」
と、老人に問いかけた。
*****
長谷寺の本尊は十一面観音像という、高さ9.18mの木造仏である。これを納めている観音堂は、かつて大地震で崩壊したがその後60年以上もかけて鉄筋で立て直したとのことだ。
重厚な印象の堂内で立脚する、金箔を纏った観音像。真夜はその顔を見ながら深くため息をつき、同時に目から一筋の涙を流した。
なぜ涙が出たのかは、自分でも分からない。が、もしかしたらこの観音像は何百年もの間、自分の来訪をただただ待ってくれていたのでは……と真夜は感じてしまった。
そして私は、この観音像と出会うために生まれてきたのではないか……とも。
それだけ長谷寺の十一面観音像は、柔らかい印象の佇まいだった。ただの物体として見るとかなり大きな代物のはずだが、威圧感や圧倒感はまったく見受けられない。代わりに、手を伸ばせばそれを優しく取ってくれるような雰囲気がある。
真夜は涙を拭いながら、あるひとつのことを確信した。
もしも私が天寿を全うするとしたら、それまでにこの長谷寺へ幾度と足を運ぶことになるだろう。
私はもう、あなたの心の一部なのだから。
まるで真夜の心情を見抜いているかのような言葉を、老人は優しい口調で繰り出す。真夜はそれにぎこちない苦笑で返すと、
「あぁ、やはり……。ここはそういう人が、心の垢を流し落とすために訪れるところですからね。首都圏での日常に疲れた人、家族や恋人との関係で悩んでいる人、人生に思い詰めている人がこの長谷寺に足を運び、観音様に相談するのですよ。私も定年前は、そんな疲れ切った都市部在住者のひとりでした」
老人はそう言葉を続けた。そして放生池の水面に目をやりながら、
「巷にいると、どうしてもモノが欲しくなる。モノを買うにはカネが必要、そしてカネを得るにはコネもいる……ということで、何から何まで己の唾をつけてしまおうとしていつの間にか人を傷つけ、衝突の果てに疲弊してしまいます。そんな時は、必ずここを訪れて砂の流れを目で追ったものです。すると……これは気の持ちようの話かもしれませんが、巷にあるものの殆どが価値あるものには見えなくなり、代わりに本当の意味で必要なものだけが見えるようになるんですな。自分にとって、これこそが一番大事な存在だと気づくわけです」
「大事な存在……?」
「私の場合は心身の健康でした。というのも、実際に患っていたんですよ。胃癌をね……」
老人はそう言って笑顔を向け、
「いざ大病を患うと、心の中の整理が自然とついてきます。自分にとって何が必要で、何がそうでないかを。そして、それを突き詰めてしまうと……我々は“必要性”という概念に囚われ過ぎていると分かるんですな」
「……え?」
「何が必要でそうでないか、というのは殆どの場合は自己判断に過ぎません。勝手にそう思い込んでいる、ということですな。それは言い換えればエゴというもの。そしてエゴを魚の鱗のようにポロポロと落としていけば、いずれは自己判断によるものではない本物の価値にたどり着く。それはこの長谷寺の観音様が教えてくださったことです」
そう言い切った老人は、
「あぁ、申し訳ない。ついつい妙な話をしてしまいました」
と、我に返ったかのように付け足した。
「それでは、これで失礼を……」
老人は真夜に背を向け、その場を立ち去ろうとした。
3mほど離れたあたりで真夜が、
「あ、あのっ!」
と、老人を呼び止める。
「えぇと……興味深いお話をしていただいて、勉強になりました」
「いいえ、こちらこそ」
「それで——」
真夜は若干の勇気と声を胸から引き出し、
「観音様というのは、どこにいるのですか?」
と、老人に問いかけた。
*****
長谷寺の本尊は十一面観音像という、高さ9.18mの木造仏である。これを納めている観音堂は、かつて大地震で崩壊したがその後60年以上もかけて鉄筋で立て直したとのことだ。
重厚な印象の堂内で立脚する、金箔を纏った観音像。真夜はその顔を見ながら深くため息をつき、同時に目から一筋の涙を流した。
なぜ涙が出たのかは、自分でも分からない。が、もしかしたらこの観音像は何百年もの間、自分の来訪をただただ待ってくれていたのでは……と真夜は感じてしまった。
そして私は、この観音像と出会うために生まれてきたのではないか……とも。
それだけ長谷寺の十一面観音像は、柔らかい印象の佇まいだった。ただの物体として見るとかなり大きな代物のはずだが、威圧感や圧倒感はまったく見受けられない。代わりに、手を伸ばせばそれを優しく取ってくれるような雰囲気がある。
真夜は涙を拭いながら、あるひとつのことを確信した。
もしも私が天寿を全うするとしたら、それまでにこの長谷寺へ幾度と足を運ぶことになるだろう。
私はもう、あなたの心の一部なのだから。
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