摩天楼の君主(His Majesty of Manhattan)

H・カザーン

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第2章 中世 フランス

モン・トンブ(墓の山)に聖堂を建てよ

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 いつの間にか二人の後ろに立っていたのは、イングランドの夜会服姿の男性だ。

 ――もしかしたら今ギヨームさまのお話にのぼった人……? ま、まさかイングランド国王……!?
「ああ、またヘンリー国王の声色を使って、私をからかおうとしましたね。ウェールズ公リチャード叔父」
「おやおや、そんなつもりはさらさらないのだが、兄と私はもともと声が似ているのだよ」
 ギヨームはくすりと笑う。
「遅くなって申し訳ありませんシャルロット殿下、海峡が急に荒れてきたもので……」
「まあそれは……、ご無事でご到着何よりでした」
 すみやかに迎賓の礼をとるシャルロット。
 初対面の挨拶の前に冗談を交わしたおかげだろうか、彼女の差し出した手を取るウェールズ公から敵対心は伝わってこなかった。最初に聞いた挑発するような物言いや態度は、ヘンリー王を模倣したこの人独特のユーモアということらしい。公爵のまとう夜会用の真紅の礼装軍服は、まばゆいほどの金糸で縁取られている。

 ――たぶんそこに縫い付けられているのは、本物の宝石……。だからといって、一瞬でも国王なのかと勘違いするなんて軽率だったわ。おのずと注目を集める王たるもの、気配をおさえて近づくことなんてありえないのに。
 王女の頬がほんのり赤らんだ。

「もう一人の伯父上ヘンリーに告げ口したりはしないから、安心しなさいギヨーム」
「ヘンリー王に聞かれても、いっこうに構いませんけど。未来の義父ちちとなる人を尊敬することは、倫理的にも社会的にも許されるわけですから」
「ぅむむ……婚姻を結ぶ年頃になると理屈っぽくなるのかね、この国の人間は」
「そんなことをおっしゃって……イングランドの貴族も、みんな元ノルマン人ではありませんか」
「ふっふっふっ、まぁ私相手にならそういう態度でもいいが、『あのお方』には気をつけたほうがいい。特にここのところ、利害の一致しない者はすぐに捕らえられて、反逆の罪に処せられておるのでな。朝の低血圧で不機嫌な時にでも何か気に触ることが耳に入ったら……」
「だから、冗談の通じる叔父上にだけ、こんな風に接することが許されるのです」
 楽しげにギヨームと笑い合っている様子は、どちらかというと戯れに少し意地悪な人物を装っていただけのように見える。

 ウェールズ公リチャードは、ギヨームの母方の叔母の夫にあたる人で、その兄ヘンリーはイングランドの現国王だ。だから、ノルマンディー公とイングランド王は姻族なのだが、互いに祖先は初代ノルマンディー公国の創設者でもある。要するに何代も前に遡れば、二人は薄い血族だけれど、今のところは婚姻による親等の方が近い……という複雑な繋がりがあるらしい。しかし婚姻によるややこしい関係は、まあヨーロッパ中どこの国の王室も同じような状況だった。いずれ国王に王子が生まれたら、ウェールズ公の爵位を譲らなくてはならない立場の人なのだが、その地位には案外長く座していられるかもしれなかった。
 イングランドの国王ヘンリー八世は、男子を産めない王妃に見切りをつけ、別の妃と再婚するために、結婚の誓約書を無効にするようローマ教皇に許しを求めているという傍若無人ぶりだ。その噂はシャルロットも耳にしていた。
 だから将来もしヘンリー王に接する機会があったら、周到な心構えをしたほうがよさそうだ。

「とにかく、私は驚かせにきたわけではない。もうすぐ晩餐が始まるのを知らせに来ただけだ。では……」
 そう言い残すと、公爵は屋内に戻っていった。

 大広間からこぼれていた舞踏曲は、静かなセレナードに変わっている。ギヨームは彼女に腕を差し出した。
「それではシャルロットさま、我われもまいりましょう。魚介類はお好きですか?」
「ええ」
「塩の効いたバター炒めの魚介類を、そば粉のクレープで包んだ『ガレット』という料理があります」
「まあそれは、甘くないクレープなのですか? とても楽しみ」
 夜風から王女を守るように立つギヨームはすらりと細い身体なのに、彼女をエスコートするために曲げられた腕には、若者らしい筋肉が服の上からでも見受けられる、たくましい公太子でもあった。

 中に入る直前、今度こそ誰にも絶対聞かれないように、シャルロットの耳元に彼はささやく。
「ヘンリー王のことは、心配しなくて大丈夫ですよ。……つまりリチャード叔父が忠告してくれたのは、朝はご機嫌斜めでも、午後は融通がきく国王だって意味ですから。それに、頻繁に会うこともないでしょう。ここだけの話ですが、『あの方』はフランス王の今後の出方に不安を抱いています。ですからその愛娘のシャルロットさまとの謁見も、おそらく……」
 その先をあえて続けなかった。語ってしまえば、彼女を危険な立場に追いやることにもなりかねない。怪物という二つ名を持つイングランド王が、実は密かにフランス王を恐れているなどということは、口に出さずそっと胸にしまっておいたほうがいい……。

 しかし政治の面白さを教え込まれ、すでにその魅力の虜になったシャルロットには、聞かずともギヨームの言わんとすることが何となく予想できてしまうのだ。
 彼女にとってそれは、どんな甘い愛の言葉よりも、心を躍らせるささやきに思える。
 ――ここに嫁いでこれば、フランスとノルマンディーとイングランドが権力のバランスを保って制御し合う、その真っ只中にいられるってこと……なのね。

 ノルマンディー公国は、現在この陸続きのフランスに誠実な態度を示している。けれどノルマンディー公が、ほんのわずか好意を持つ相手の矛先を変えるだけで――たとえば少し北に向けるだけで、ルイ王の崇拝者から敵に転じてしまうのだ。しかも昨今の戦は、シャルロットやルイ・ド・ヴァロワがエドワール二世の反感を買うようなことをした、などという小さな原因で起こるのではなく……、世の中はすでに大きく変わり始めている。むしろ外国からの働きかけによって、公国の利害関係や民たちの生活均衡が崩れてしまうようなことが、戦争の原因となるのだ。
 それでもノルマンディーの誇り高き民衆が、どれだけシャルロットに親しみを持ってくれるかは、ひとつの重要な鍵には違いなかった。未来の役目を思うと、まるで戦いに赴く自分を父に鼓舞されているかのごとき高揚が、湧き上がってくるのだった。
 
 ――これは、ただの公国へ嫁ぐのとはわけが違うみたい。
 彼女にかけられた父の期待は、とても大きくて重要なのだと、王女は喜びを噛み締めた。


 ◇ ◇ ◇

「なんだか、シャルロットさまとお話が弾んでいたようね」
「母上、私のことはともかく、彼女をあまりからかわないでくださいね」
「あら、そんなことしませんよ。それで、どう? お互いお気に召したのかしら?」
「ええ、政治にも情熱を持っている方で……、ひと言で言えば、相手の気分を害さずに自分の意見をしっかり言える女性だと思います」
「そうね」
 アンリエット公妃は晩餐の食卓テーブルの端――主婦人ホステス席から、シャルロットにグラスを掲げて微笑む。さっき乾杯した発泡酒が注がれたそれは、甘い空気の粒を弾けさせる、アップル・シードルである。ガレットはカリッとクリスピーに焼いたそば粉のクレープに、バターとワインの香るオマール海老などの魚介を乗せ、四方を折り返して具を包むように正方形に盛りつけてあった。ナイフを入れた時のサクッとした感触が珍しいのか、瞬きしているシャルロット……。そんな気取らない王女の様子を、アンリエットとギヨームは優しく見守る。

「それにお姿もご意見も大人っぽいのに、全体的な印象は何だか可愛らしい方よね」
「……ですね」
 久しぶりに母と、思わずこぼれてくるといった笑みを交わすギヨームだった。

 ◇ ◇ ◇

 モン=サン=ミシェルの回廊(クロイスター)に通じる階段、その踊り場の壁には、とある有名な場面のレリーフが刻まれている。それは「司教オベールが、大天使ミカエルからお告げを受けている瞬間」を文字通り浮き彫りにした彫刻だ。

 西暦708年のある晩、ノルマンディーのアヴランシュという街で、オベール司教はまた「あの夢」を見ていた。もうこれで三度目になる。一回目は何か声を聞いたような気がしたが、すぐに我に返ってまぼろしを頭から振り払った。二度目は、恐れ多くも天使を装った夢魔(インキュバス)の悪戯だと思うことにした。
 だが今回の大天使には、今までにはない真剣さがみなぎっている。これは本物のミカエルさまに違いない。羽根を広げ、全身から迫力を漂わせて……、そう、甲冑をまとった天軍の総帥そのものだ。

「なぜ我の言うことがきけぬのか?」
「ミ、ミカエルさま」
 大天使の手が、司教に近づく。ビリビリと光が走り、全身が固まった。
 ――殺される!
 オベールは目を閉じた。
 ――指が、ミカエル様の指が、額に押しつけられて……。
「ぅあ、熱い、み……身動きが取れぬ」
 焼けつく指が押し当てられたその場所に、稲妻が突き抜けた。
「モン・トンブに聖堂を建てよ」

 ――モン・トンブ……とは、モン(Mont)山……、トンブ(Tombe)墓……、つまり墓の山?
 そう、確かにあるのだ。その名の山は間違いなく存在する。サン・マロの湾に浮かぶ島……、地元のケルト人が聖地と呼ぶ墓の山が。
「良いか、もう二度と繰り返さぬぞ。モン・トンブに、天から露が降りた場所を乾かし、そこに我の聖堂を建てよ」
 雷は咆哮し、夜を切り裂いた。
 目を開けた時には、大天使の姿は消えていた。
「二度と言わぬということは、つまり……今やらなければ、次にミカエルさまの声を聞いた時は、我が命は……」

 翌朝目を覚ますや否や、彼は出かける準備を始めた。
「し、司教さま、どちらへ?」
「アヴランシュ市長の所じゃ」
「いえ、ちょ……、お待ちください。オベール司教! ひ、ひた、額に……」
 司祭は必死で自分の額を指差し、彼に注意をうながす。だが虚しくも司教にはその意味が通じなかったようだ。
「オベールさま……ぁ」
 司教が出て行った後の扉に向かい、ただひたすら口をぱくぱくさせるだけだった。

 しばらくして、司祭の耳に届いたのは、部屋の外から聞こえてくる、信者たちのざわめきだ。
「お、おい見たか? あれ」
「今のって、もしかして穴? だよな」
「ああ、間違いねえ」
「どうしちまったんだよ、オベール司教」

 ――穴か。やはり見間違いではなかった。確かに見えたのだ。オベール司教の額の小さな空洞を通して、入口から差し込んでくる光が……。
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