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第3章 ニューヨーク
オートクチュールの舞台裏
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リサがマンハッタンのミッドタウンにあるガレット・デ・ロワの店を訪れたのは、翌週のことだった。クライアントのテレビ局に提出する、最初のデザイン・ドラフトが完成したらしい。ジェレミー宛に送ってもらう予定だったが、ラングロワ氏からルイス・エンタープライズのスタッフに直接渡したいとの申し出があり、彼女が資料を取りに出向くことに決まったのだ。
到着した時、57thストリートの店の前には、記念撮影をしている観光客の女の子たちが何人かいた。
ショーウィンドウ前の地面に、黒くペイントされたマンホールの蓋がある。ガレット・デ・ロワのロゴマーク、GとRのイニシャルが、白いゴシック体で黒地の蓋に描かれている。もちろんGは左右反転した鏡文字でRと組み合わされた有名なブランドマークだ。
彼女たちはそのマンホールの上で、友人の構えるスマートフォンに向かってポーズをとっていた。そのうちに制服ドアマンまで引きずり込んだ撮影会が始まった。
「あれはね、ユベールのアイデアなんだ。公共物のデザインを変える許可を取るために、何度も市役所に通ったんだよ」
聞き覚えのある声……。リサが振り向くと、彼もちょうど今店に戻ってきたところなのか、いつの間にかジャン=ピエール・グザビエ・ドルレアンが通りに立っていた。
ということは、あれは飾りではなく本物のマンホールらしい。
「それは素敵な思いつきね。……この蓋だけなの? それともいずれ、マンハッタン中のあちこちに、ガレット・デ・ロワのマンホールが出現するの?」
「ははは、そんなことになったら大変だね。今だって夜中に盗まれないように、セキュリティカメラで監視してるんだから」
「すごく人気があるみたいですものね。ムッシュー・ラングロワの作品は、女性をみんな虜にしてしまうらしいわ。父も何着か、彼のドレスを母のために買わされたのよ、東京のお店で。プレタポルテだけど」
オートクチュールほど高価でないとはいえ、ガレット・デ・ロワの既製服は、全身をコーディネートすると、日本円で軽く七桁の金額になってしまう。
近年ではごく少数のブランドを除いて、オートクチュール のオーダーメイドだけでやっていける店は少ないのだ。たいていは既製服やアクセサリー、化粧品なども手がけてようやく経営が成り立っているのがフランスのコレクション・ブランドの実情だった。
「プレタポルテは、日常と美を仲介する大切な芸術だよ。ああ、そうなんだ。……ということは、そのブランド物のショルダーバッグも、ジェレミーじゃなくてリッチなお父さんに買ってもらったの? だって学生の身分で全てまかなえるとも思えないし。この前のラップドレスだってうちのブランドのだよね、元祖のダイアンからインスピレーションを得てデザインされた、かなり高額なやつ。でもそういう女の子って、男にとってはすごく誘いにくいんだよね。……ま、わざとそうしてるのかもしれないけど」
リサは小さく吐息をついた。
「自分のお金で買ったのよ。言っとくけど、上司に食事はごちそうになったことはあっても、身につけるものを買ってもらったことはないの」
いや財源を彼女の資産というには、多少語弊があるかもしれない。
インターンを始めたばかりの頃、ジェレミーはリサの名義で10万ドルのFX取引口座を開設した。
最初のうちは、ルイス社長に指示された通りに外国為替の売り買いの注文を出すと、いつのまにかお金が儲かる仕組みになっていた。
最近では取り引きのコツを覚えたリサが、自分でも予測して、その結果が正しかったことも何度かある。彼を驚かせ始めるまでに進歩した。
先日のミーティングの時に着ていた、クライアントの好みに合わせたドレスを買ったのは、この口座の利益だ。服を買いに行くのはリサ本人だが、どれを買うかの指示はジェレミーから出されていた。ルイス夫人の洋服選びにもいろいろ干渉している彼が、リサの仕事上必要な衣装選びをするのは、至極当然なことだった。もちろん彼にとっては……という意味でだ。
「あ、手首に何か……」
ジャン=ピエールが店の扉を開けようとした時、彼の腕の外側に、絵の具みたいなものがついているのにリサは気づいた。
「ん? あ、こんなとこにも……? やっるなぁ、あの悪戯っ子」
彼は明るく笑う。
「養護学校でアートを教えてるんだ。僕は定期的にこっち来るから、ボランティアで」
「ふふ、なんか嬉しそう」
「楽しいよ。子供たちが笑うと、すっごく可愛いし」
そう言いながらジャン=ピエールがドアに手をかけると、さっきの観光客から解放されたドアマンが戻ってきた。
店内に入り、数々のドレスがトルソーに展示されている中を、リサはジャン=ピエールに続いて通り過ぎていく。彼は奥の大理石の階段を、気取った足取りで上がり始めた。
二階まで吹き抜けになった天井から吊り下げられているのは、大きなシャンデリアで、表面をおおう何百というクリスタルの粒が、光をもこの店にふさわしい輝きに変えてしまうようだ。
階段近くの壁の大型スクリーンには、今秋冬のガレット・デ・ロワのファッションショーの録画が映し出されていた。
「グラン・パレだよ」
リサは頷く。
アール・デコ・スタイルの鉄とガラスから差し込む光……、パリのシャンゼリゼ通りにあるグラン・パレの特徴ある天井だ。ランウェイには実物大のカルーゼルのセットが設置されている。この間ミーティングの時、NBCのディレクターが話していた回転木馬だろう。しかもその周りには、ステージの上なのに木立や小さな池まであった。
すべては、ケーキの生クリームのように乳白色で統一された世界……。淡くかすかに色づいたパステルカラーがアクセントとなって、木馬や馬車を彩っている。
やがてツイードやリネンのドレスを着たモデルたちが現れた。一人ずつまわりを歩き、ポーズをとる。彼女たちはランウェイを一周すると、カルーゼルに乗ってセットの一部と化した。
そしてショーの終わりに、老年であっても誰よりも洗練された男性、ユベール・ラングロワ氏の登場で、会場から大きく拍手が湧き上がった。画面は、すぐ後ろから出てくるジャン=ピエールのクローズド・アップへと続く。
最後にモデルたち全員が再登場する。メインモデルのレイラは、ユベールとジャン=ピエールに合流し、拍手に迎えられ三人は観客のほうへ進んで行った。
若く背の高いジャン=ピエールは、一見男性モデルかと見まごうほどの着こなしぶりだが、ラングロワ氏と彼の二人だけがオーディエンスに向かって手を振り、拍手に応えることを許されている。それが、最後までマネキンに徹しなくてはならないモデルたちと、デザイナーとの大きな違いだった。
彼がラングロワ氏にとって、そんなに重要なアシスタントだということに、リサは少なからず驚いて画面に見入っていた。目を上げると、ジャン=ピエールは、「当然でしょ」という顔で済ましている。
店内を通り抜け、さらに上の階の奥にあるスタッフ専用扉を開けて、彼はリサをオフィスに案内した。
「好きな椅子に座って」
窓からは、小さな中庭が見下ろせた。
――あ、そういえばムッシュー・ラングロワって……?
このオフィス部分に入る時、今どき珍しい旧式の出勤ボードが壁にかけられていた。今日は直接伝えたいことがあるとかで、ここで会うはずだったのに、ボードの彼の名前が赤字になっていたような気がする。
「そうなんだ。わざわざ来てもらったのに、申し訳ない。急に仕事が入って……」
その時、開け放されたままだった部屋の扉の向こうから、ジャン=ピエールの名を呼ぶ女性の声が近づいてきた。
「お帰りなさい! 会えて嬉しいわ、ジャン=ピエール」
裏の廊下からオフィスを通りがかりに彼に声をかけたのは、さっき階下のスクリーンで見たばかりの人――トップモデルのレイラだ。さすがに普通の人とは違う佇まいに、部屋の空気は一掃された。
「ああ、ボンジュール」
彼女はジャン=ピエールを抱きしめるようにビズー(bisous)の挨拶を交わす。
さらさらのプラチナ・ブロンドが、思わず見とれてしまうほど美しい女性だ。12センチのハイヒールを履いているため彼女は、彼より少し身長が高かった。たとえ靴のヒールの高さを除いたとしても、180に近いだろう。
思わず見つめていた視線を感じたのか、レイラはリサのほうを向いた。
「ああ彼女は、ルイス社長のアシスタントのリサ。リサはたぶん、レイラのこと知ってるよね」
互いの頬と頬を合わせるフランス式のハグを、彼女と交わす。そこにはなんの不自然さもなかった。
「ああジャン、もっと話したいんだけど私時間に遅れてるから、行かなくちゃ。ごめんなさい。それから……」
レイラは部屋を出る直前にジャン=ピエールに向き直り、さらりとその続きを口走った。
「……私ね、ようやく体調が……サイクルが戻って、また始まったの。だからあなたはもう、心配しなくて大丈夫よ」
「ふうん、それは良かったね」
答える彼のほうは、顔色ひとつ変えない。
「じゃ、また後で」
挨拶と同時に片手を軽く上げて、彼女は優雅に部屋を立ち去る。
――え!? な、な……。
あっけにとられて言葉を捜していたリサが、ようやくひと言だけ見つけ出した。
「い、今の、いったい何?」
「打ち合わせの邪魔が入ってごめん。ここはだいたいいつも、こんな風に人の出入りが激しいんだ」
――そうじゃなくて、確か……。
「あ、僕がそういう原因になるようなことを、彼女にしたのかと質問しているのなら、答えは『ノン』だ。レイラとは、個人的な付き合いはないし、彼女に特別な感情も抱いていない。あの娘は痩せすぎで、ずっとサイクルが不順だったんだよ。だけど、ユベール・ラングロワのお気に入りのモデルだし、とにかく体調を整えるために、栄養バランスの取れた食事や、規則正しい生活をするよう提案させてもらった。うちで長く働いてもらえるようにね。それだけだ」
「それで…ご丁寧に、あなたに報告しに来たってわけ? しかも、今じゃなくちゃダメだったの?」
「うーーん、わざわざここで言ったのは……、これはたぶんだけど、君に妬いてるんだよ。めったに嫉妬したりしないモデルなんだけどな」
自然にリサの口もとから、笑みがこぼれてくる。
「ふふふ、なんかちょっと可愛いって感じだったわ」
ジャン=ピエールに対する気持ちが抑えきれなくて、レイラは思わず大人げない態度を取ってしまったのだろうか。
それはどちらかというと、醜い感情よりもひたむきさに溢れていた。
――だけどパリコレのモデルが妬くような、そんな必要なんて全然ないのに……。
視線を戻すと、部屋の大部分を占めている大きなテーブルの上にジャン=ピエールが並べた資料の中で、一枚のデッサン画が一際目を引いている。その力強い線は、おそらくユベール・ラングロワ氏直筆のものに違いない。
「ああ、そういえばムッシュー・ラングロワからの伝言……。今度のドラマの撮影予定の場所で、うちのドレスを着て写真を撮るのに協力して欲しいって頼んでた。今後の参考にするために」
「ふうん、レイラに?」
「そうじゃない。君にだよ」
「わ、わたし!? どうして……? まだラングロワ氏にお会いしたこともないのに」
「僕が、何度か君の印象を伝えてたからかな……。リサは歩き方がきれいだし、身長もうちのモデルより一般女性の平均に近いから。と言ってもむしろモデル寄りなんだけど。来週あたりどうかな?」
「えっと……」
「ちゃんとギャラは払うよ」
――とまどってるのはそんな理由じゃなくて……。
どうしよう……。でも、ガレット・デ・ロワの服を着られるのはとても光栄なことだし、巨匠ユベール・ラングロワの意向を大切にしたい。
「……おもしろそうね」
確かに、ものすごく興味がある。本当に自分でいいのかというとまどいは感じるが、こんな栄誉ある依頼をラングロワ氏から直々に指名されることなんて、またとない幸運だ。
「君のボスはドバイだし」
ジャン=ピエールがそう言ったのは、彼女が少しでも迷っているのなら、その理由を取り除こうと思ったからだ。
ルイス夫妻が招かれている就任式は来週末だった。
「大丈夫だよ。ジェレミーのいない隙に、君に何かしたりするつもりはないから」
「わ、わたしは別に……」
「それに今日は仕事中だから、あの……ランチの時にした話の続きはまた今度にでも。僕の名刺まだ持ってるよね?」
「ええ……」
誘導されてしまったような返事だと思った。
――ま、いいけど……。モデルのお話のほうもOKするつもりだったんだから。
結局その日リサは、立ち去る前に、個人連絡先を彼に教えるという展開になった。
到着した時、57thストリートの店の前には、記念撮影をしている観光客の女の子たちが何人かいた。
ショーウィンドウ前の地面に、黒くペイントされたマンホールの蓋がある。ガレット・デ・ロワのロゴマーク、GとRのイニシャルが、白いゴシック体で黒地の蓋に描かれている。もちろんGは左右反転した鏡文字でRと組み合わされた有名なブランドマークだ。
彼女たちはそのマンホールの上で、友人の構えるスマートフォンに向かってポーズをとっていた。そのうちに制服ドアマンまで引きずり込んだ撮影会が始まった。
「あれはね、ユベールのアイデアなんだ。公共物のデザインを変える許可を取るために、何度も市役所に通ったんだよ」
聞き覚えのある声……。リサが振り向くと、彼もちょうど今店に戻ってきたところなのか、いつの間にかジャン=ピエール・グザビエ・ドルレアンが通りに立っていた。
ということは、あれは飾りではなく本物のマンホールらしい。
「それは素敵な思いつきね。……この蓋だけなの? それともいずれ、マンハッタン中のあちこちに、ガレット・デ・ロワのマンホールが出現するの?」
「ははは、そんなことになったら大変だね。今だって夜中に盗まれないように、セキュリティカメラで監視してるんだから」
「すごく人気があるみたいですものね。ムッシュー・ラングロワの作品は、女性をみんな虜にしてしまうらしいわ。父も何着か、彼のドレスを母のために買わされたのよ、東京のお店で。プレタポルテだけど」
オートクチュールほど高価でないとはいえ、ガレット・デ・ロワの既製服は、全身をコーディネートすると、日本円で軽く七桁の金額になってしまう。
近年ではごく少数のブランドを除いて、オートクチュール のオーダーメイドだけでやっていける店は少ないのだ。たいていは既製服やアクセサリー、化粧品なども手がけてようやく経営が成り立っているのがフランスのコレクション・ブランドの実情だった。
「プレタポルテは、日常と美を仲介する大切な芸術だよ。ああ、そうなんだ。……ということは、そのブランド物のショルダーバッグも、ジェレミーじゃなくてリッチなお父さんに買ってもらったの? だって学生の身分で全てまかなえるとも思えないし。この前のラップドレスだってうちのブランドのだよね、元祖のダイアンからインスピレーションを得てデザインされた、かなり高額なやつ。でもそういう女の子って、男にとってはすごく誘いにくいんだよね。……ま、わざとそうしてるのかもしれないけど」
リサは小さく吐息をついた。
「自分のお金で買ったのよ。言っとくけど、上司に食事はごちそうになったことはあっても、身につけるものを買ってもらったことはないの」
いや財源を彼女の資産というには、多少語弊があるかもしれない。
インターンを始めたばかりの頃、ジェレミーはリサの名義で10万ドルのFX取引口座を開設した。
最初のうちは、ルイス社長に指示された通りに外国為替の売り買いの注文を出すと、いつのまにかお金が儲かる仕組みになっていた。
最近では取り引きのコツを覚えたリサが、自分でも予測して、その結果が正しかったことも何度かある。彼を驚かせ始めるまでに進歩した。
先日のミーティングの時に着ていた、クライアントの好みに合わせたドレスを買ったのは、この口座の利益だ。服を買いに行くのはリサ本人だが、どれを買うかの指示はジェレミーから出されていた。ルイス夫人の洋服選びにもいろいろ干渉している彼が、リサの仕事上必要な衣装選びをするのは、至極当然なことだった。もちろん彼にとっては……という意味でだ。
「あ、手首に何か……」
ジャン=ピエールが店の扉を開けようとした時、彼の腕の外側に、絵の具みたいなものがついているのにリサは気づいた。
「ん? あ、こんなとこにも……? やっるなぁ、あの悪戯っ子」
彼は明るく笑う。
「養護学校でアートを教えてるんだ。僕は定期的にこっち来るから、ボランティアで」
「ふふ、なんか嬉しそう」
「楽しいよ。子供たちが笑うと、すっごく可愛いし」
そう言いながらジャン=ピエールがドアに手をかけると、さっきの観光客から解放されたドアマンが戻ってきた。
店内に入り、数々のドレスがトルソーに展示されている中を、リサはジャン=ピエールに続いて通り過ぎていく。彼は奥の大理石の階段を、気取った足取りで上がり始めた。
二階まで吹き抜けになった天井から吊り下げられているのは、大きなシャンデリアで、表面をおおう何百というクリスタルの粒が、光をもこの店にふさわしい輝きに変えてしまうようだ。
階段近くの壁の大型スクリーンには、今秋冬のガレット・デ・ロワのファッションショーの録画が映し出されていた。
「グラン・パレだよ」
リサは頷く。
アール・デコ・スタイルの鉄とガラスから差し込む光……、パリのシャンゼリゼ通りにあるグラン・パレの特徴ある天井だ。ランウェイには実物大のカルーゼルのセットが設置されている。この間ミーティングの時、NBCのディレクターが話していた回転木馬だろう。しかもその周りには、ステージの上なのに木立や小さな池まであった。
すべては、ケーキの生クリームのように乳白色で統一された世界……。淡くかすかに色づいたパステルカラーがアクセントとなって、木馬や馬車を彩っている。
やがてツイードやリネンのドレスを着たモデルたちが現れた。一人ずつまわりを歩き、ポーズをとる。彼女たちはランウェイを一周すると、カルーゼルに乗ってセットの一部と化した。
そしてショーの終わりに、老年であっても誰よりも洗練された男性、ユベール・ラングロワ氏の登場で、会場から大きく拍手が湧き上がった。画面は、すぐ後ろから出てくるジャン=ピエールのクローズド・アップへと続く。
最後にモデルたち全員が再登場する。メインモデルのレイラは、ユベールとジャン=ピエールに合流し、拍手に迎えられ三人は観客のほうへ進んで行った。
若く背の高いジャン=ピエールは、一見男性モデルかと見まごうほどの着こなしぶりだが、ラングロワ氏と彼の二人だけがオーディエンスに向かって手を振り、拍手に応えることを許されている。それが、最後までマネキンに徹しなくてはならないモデルたちと、デザイナーとの大きな違いだった。
彼がラングロワ氏にとって、そんなに重要なアシスタントだということに、リサは少なからず驚いて画面に見入っていた。目を上げると、ジャン=ピエールは、「当然でしょ」という顔で済ましている。
店内を通り抜け、さらに上の階の奥にあるスタッフ専用扉を開けて、彼はリサをオフィスに案内した。
「好きな椅子に座って」
窓からは、小さな中庭が見下ろせた。
――あ、そういえばムッシュー・ラングロワって……?
このオフィス部分に入る時、今どき珍しい旧式の出勤ボードが壁にかけられていた。今日は直接伝えたいことがあるとかで、ここで会うはずだったのに、ボードの彼の名前が赤字になっていたような気がする。
「そうなんだ。わざわざ来てもらったのに、申し訳ない。急に仕事が入って……」
その時、開け放されたままだった部屋の扉の向こうから、ジャン=ピエールの名を呼ぶ女性の声が近づいてきた。
「お帰りなさい! 会えて嬉しいわ、ジャン=ピエール」
裏の廊下からオフィスを通りがかりに彼に声をかけたのは、さっき階下のスクリーンで見たばかりの人――トップモデルのレイラだ。さすがに普通の人とは違う佇まいに、部屋の空気は一掃された。
「ああ、ボンジュール」
彼女はジャン=ピエールを抱きしめるようにビズー(bisous)の挨拶を交わす。
さらさらのプラチナ・ブロンドが、思わず見とれてしまうほど美しい女性だ。12センチのハイヒールを履いているため彼女は、彼より少し身長が高かった。たとえ靴のヒールの高さを除いたとしても、180に近いだろう。
思わず見つめていた視線を感じたのか、レイラはリサのほうを向いた。
「ああ彼女は、ルイス社長のアシスタントのリサ。リサはたぶん、レイラのこと知ってるよね」
互いの頬と頬を合わせるフランス式のハグを、彼女と交わす。そこにはなんの不自然さもなかった。
「ああジャン、もっと話したいんだけど私時間に遅れてるから、行かなくちゃ。ごめんなさい。それから……」
レイラは部屋を出る直前にジャン=ピエールに向き直り、さらりとその続きを口走った。
「……私ね、ようやく体調が……サイクルが戻って、また始まったの。だからあなたはもう、心配しなくて大丈夫よ」
「ふうん、それは良かったね」
答える彼のほうは、顔色ひとつ変えない。
「じゃ、また後で」
挨拶と同時に片手を軽く上げて、彼女は優雅に部屋を立ち去る。
――え!? な、な……。
あっけにとられて言葉を捜していたリサが、ようやくひと言だけ見つけ出した。
「い、今の、いったい何?」
「打ち合わせの邪魔が入ってごめん。ここはだいたいいつも、こんな風に人の出入りが激しいんだ」
――そうじゃなくて、確か……。
「あ、僕がそういう原因になるようなことを、彼女にしたのかと質問しているのなら、答えは『ノン』だ。レイラとは、個人的な付き合いはないし、彼女に特別な感情も抱いていない。あの娘は痩せすぎで、ずっとサイクルが不順だったんだよ。だけど、ユベール・ラングロワのお気に入りのモデルだし、とにかく体調を整えるために、栄養バランスの取れた食事や、規則正しい生活をするよう提案させてもらった。うちで長く働いてもらえるようにね。それだけだ」
「それで…ご丁寧に、あなたに報告しに来たってわけ? しかも、今じゃなくちゃダメだったの?」
「うーーん、わざわざここで言ったのは……、これはたぶんだけど、君に妬いてるんだよ。めったに嫉妬したりしないモデルなんだけどな」
自然にリサの口もとから、笑みがこぼれてくる。
「ふふふ、なんかちょっと可愛いって感じだったわ」
ジャン=ピエールに対する気持ちが抑えきれなくて、レイラは思わず大人げない態度を取ってしまったのだろうか。
それはどちらかというと、醜い感情よりもひたむきさに溢れていた。
――だけどパリコレのモデルが妬くような、そんな必要なんて全然ないのに……。
視線を戻すと、部屋の大部分を占めている大きなテーブルの上にジャン=ピエールが並べた資料の中で、一枚のデッサン画が一際目を引いている。その力強い線は、おそらくユベール・ラングロワ氏直筆のものに違いない。
「ああ、そういえばムッシュー・ラングロワからの伝言……。今度のドラマの撮影予定の場所で、うちのドレスを着て写真を撮るのに協力して欲しいって頼んでた。今後の参考にするために」
「ふうん、レイラに?」
「そうじゃない。君にだよ」
「わ、わたし!? どうして……? まだラングロワ氏にお会いしたこともないのに」
「僕が、何度か君の印象を伝えてたからかな……。リサは歩き方がきれいだし、身長もうちのモデルより一般女性の平均に近いから。と言ってもむしろモデル寄りなんだけど。来週あたりどうかな?」
「えっと……」
「ちゃんとギャラは払うよ」
――とまどってるのはそんな理由じゃなくて……。
どうしよう……。でも、ガレット・デ・ロワの服を着られるのはとても光栄なことだし、巨匠ユベール・ラングロワの意向を大切にしたい。
「……おもしろそうね」
確かに、ものすごく興味がある。本当に自分でいいのかというとまどいは感じるが、こんな栄誉ある依頼をラングロワ氏から直々に指名されることなんて、またとない幸運だ。
「君のボスはドバイだし」
ジャン=ピエールがそう言ったのは、彼女が少しでも迷っているのなら、その理由を取り除こうと思ったからだ。
ルイス夫妻が招かれている就任式は来週末だった。
「大丈夫だよ。ジェレミーのいない隙に、君に何かしたりするつもりはないから」
「わ、わたしは別に……」
「それに今日は仕事中だから、あの……ランチの時にした話の続きはまた今度にでも。僕の名刺まだ持ってるよね?」
「ええ……」
誘導されてしまったような返事だと思った。
――ま、いいけど……。モデルのお話のほうもOKするつもりだったんだから。
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