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第4章 中世 フランス
モン=サン=ミシェル 2
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王女は立ち止まったまま、腕をふらつかせて、何とかバランスを保ちながらジャン=ピエールに訴えかける。
「う、動けない……の」
靴のかかとが泥にめり込んで抜けない。
「だからさっき、危ないって言っただろ」
「だって……、子犬の後を追っていたんですもの」
「犬は四本足だから、体重が分散して泥沼に埋まらないんだよ。それに君より軽い」
「やめてよ、その言い方。まるでわたくしが重いみたいな……」
ジャン=ピエールは、笑いながら歩み寄った。
潮が満ちてくるまでには、まだまだ時間がある。彼女も動けないだけで、沈んでいく様子はない。
自分まで泥に足を取られてしまっては助けられなくなるので、気をつけてシャルロットの傍まで近づいた。
「やっぱここは……さ、もう一人のプリンスに助けてもらったほうがいいのかな」
「え? もう一人?」
一瞬シャルロットは、何のことかわからないという顔をした。
――あ……、そういえば、二人とも公太子なんだったわ。
年はずいぶん上だが、ジャン=ピエールもオルレアン公の存命中は、公太子には違いなかった。
息を切らせながらちょうどジャン=ピエールに追いついたギヨームとリシャールは、ぬかるみの直前で立ち止まった。
「はぁ、はぁ、シャルロットさま!」
「大丈夫ですか?」
「それが……普段のわたくしの慎重な行ないからは、想像もつかないことだけど……、だ、大丈夫ではないわ」
彼女は、いったい誰に助けを求めるべきか逡巡する。一緒にいたのがジャン=ピエールだから、とっさに彼の名を呼んだ。でも、彼に助けてもらえばギヨームが傷つく。かといってギヨームを選べば、オルレアン公爵家との諍いの原因を作ってしまうかもしれない。
「ぇ……と、あの」
――ぁあ、もう……!
このままでは、そのうち満ち潮がやって来て溺れてしまう。
「お、お願い……、わたくしをこのままにしないで……」
シャルロットは意を決して、一人の男性に手を差し伸べた。
必死に伸ばしてすがりつこうとする両腕を肩に回し、リシャールは王女を軽々と抱き上げる。
……というわけで、王女さまがお姫さま抱っこされたのは、プリンスではなくて彼女の護衛騎士だった。
「あーあ」
ジャン=ピエールが仕方なさそうに、シャルロットの靴を泥から抜き取ろうとすると、ギヨームもすかさず屈みこんでもう片方の靴を掴んだ。
泥にまみれた踵を、二人はそれぞれのハンカチで拭う。シャルロットが履けるように靴を地面に降ろそうとした……。
ところが、後ろを振り返った時には、リシャールは彼女を両腕で抱え上げたままずんずん先へ進み、遠ざかってしまっていた。
もうすでに、聖堂へ戻る門をくぐりそうなところまで進んでいる。
「あいつ、細っこいくせにわりと頑丈なんだな」
「私も華奢な王女さまくらいなら、なんなく抱き上げられます。リシャールと似たような体格ですが……」
「さすがは無骨なノルマン人の血を引く頼もしいプリンスだ。……でもそんなこと言ってるより、僕らは仲良くした方がいいと思うよ。どうやらしばらく、一緒に旅に出ることになりそうだし」
「あなたも、カーンにいらっしゃるんですか? まあ構いませんけど。父も歓迎すると思います」
「いや、そうじゃない。だが……ギヨーム、彼女の行くところには、必ず同行するんだろ?」
「どこかに出かけるんですか、シャルロットさま?」
「たぶんな……」
「それは聞き捨てなりませんね。ならば私も……」
ギヨーム・エティエンヌ・ド・ノルマンディーは、長くしなやかな指で金髪を後ろにかきあげる。
「間もなく陛下もノルマンディーにお越しになるそうですが、どうやらブルゴーニュ訪問が長引いているご様子……。ならば国王陛下の代理として私が責任を持って王女に付き添い、この剣にかけてもシャルロットさまを守り抜きます」
「なんかさ……、似てるな二人とも。いつも気取ってとり澄ましてるとこ」
「光栄です」
「そうやって憎まれ口を返すところも、親子以上にそっくりだよ」
ジャン=ピエールが言っているのは、ルイ・ド・ヴァロワのことだ。
シャルロットの行くところに、婚約者である彼が兵を伴って付き添うのはまあ予想していたし、自分が彼の立場だったら間違いなくそうするだろう。だからその件についての不満はジャン=ピエールにはない。一生懸命に、シャルロットを守ろうとしているギヨームの真摯さはむしろ共感できる。
ただジャン=ピエールの心を覆っている暗雲は、十年前に国王に自分がした仕打ちの仕返しを、国王が娘のために選んだ婚約者から、いま間接的に受けているような気がしてならないことだ。
ジェレミー・ダヴィー・ルイ・ド・ヴァロワは、この男にシャルロットをくれてやることによって、あの時のジャン=ピエールへの鬱憤を晴らそうとしているのではないかと、そんな風にも考えられなくないのだ。
そう思えるというより、むしろそうに違いないかった。
今この場にいないはずのルイ・ド・ヴァロワが、優雅なドレープの国王のマントを身につけ、十字架の飾りのついた王笏を持って、この世に権威を知らしめるような……、誰も踏み入ることを許さない絶対王政の圧力を、まざまざと見せつけられている。
二人のプリンスは軽口を叩きつつ、先行くシャルロットとリシャールたちを追いかけて、モン=サン=ミシェルへと戻って行った。
砂浜に乱れた足跡を残しながら……。
おそらくシャルロット王女にはこのあと部屋で休息を取ってもらうことになるだろう。潮風で乱れた髪に、侍女のミレイユに叱られながら櫛を入れられているシャルロットが眼に浮かぶようだ。
◇ ◇ ◇
老シスターが二人、足早に修道院から教会へ向かっていた。
修道院と聖堂を結ぶのは、細い渡り廊下だ。
教会建物だけでいうなら通路の高さは三階に当たる。ここが平地に建っていたら驚くほどの高度ではない。だが、ミシェルという名の小さな山の頂上に立地しているものだから、その渡り廊下の窓からは、どれほど急な崖に聖堂が切り開かれたのかがよくわかった。いかにも脅威の景色を見下ろす場所なのだ。
翌日の大礼拝のオルガン伴奏を練習するため、司祭を待たせないよう急いでいたのに、廊下を渡りながら一人の老修道女はふと羽音を聞いたような気がして、しばし立ち止まり上を見上げた。
「おや……」
「どうかなさいましたか? シスター」
建物と屋根との境目に、長い首を突き出している雨樋のガルグイユたちは、今日もじっと海を睨みつけている。
教会などの聖なる建築物に取り付けられたグロテスクな怪物を型どった雨樋は、ふだん信者たちから、この飾りが聖堂から罪を吐き出してくれている魔除けだと信じられていた。
「いえ……、なんだかガルグイユの数が増えているような気がして……」
そこまで言いかけると、自分で自分の口にした言葉が急におかしくなって、彼女はクスクスと笑いだす。
「そんなことが、あるはずはございませんよね。急ぎましょう。明日の礼拝は、王女さまと公太子さまたちが出発される前の、特別なお祈りですから」
「そうですね」
シスターは一瞬胸のロザリオに手をやると神に短い祈りを捧げ、礼拝堂に続く階段を再び登り始めた。
◇ ◇ ◇
翌日の朝、礼拝の後……、モン=サン=ミシェル島へ出入りする唯一の門である前哨門の外には、五〇の騎馬兵が整列していた。
その名の示す通り哨を置く門なので、入り口の両側には切石で築かれた張り出し塔が一つずつ建てられている。海からの攻撃に対する第一防衛ラインという過酷な任務にもかかわらず、二つの塔は美しく丸みを帯びた円柱を成し、どこか貴婦人のようですらあった。特にこの朝は、門の前で隊に指令を与えている麗しい王女の影響で、塔の佇まいは極めて優雅に見える。傍にある百年戦争中にイングランド軍が捨てていった二門の大砲すら、彼女に手なずけられたライオンのブロンズ像のように、おとなしく並んでひれ伏していた。
「シャルロットさま」
護衛隊長は王女の前に進み出た。
騎乗しているのはシャルロットと二人の公太子たちだけ……、騎馬兵たちはそれぞれ馬の手綱を取り横に並んで整列している。
戦時には兵士も馬に乗ったまま列を作ることもあったが、平時の待機は、王族に敬意を払うことが優先されるから、兵士は命令を受けるまでは騎乗しない慣習だった。
騎兵のほとんどは貴族の出だ。騎兵一人につき二、三人の歩兵がそれを介助し、彼らの予備の武器や荷物を持ったり移動後に馬の世話をしたりする。もちろん戦いの最中は歩兵自身も攻撃するし、介助している騎兵の危機を救ったり、自己防衛したりもしなくてはならないという忙しさだ。
しかし今回の旅におけるシャルロット王女の二個中隊は、特別に編隊されていた。アンボワーズを発つ時に宰相にも言い訳した通り、移動時間を短縮するため王女は歩兵の数を大幅に減らした。その影響で、貴族の騎兵たちにどうしても雑用を強いねばならない場面も出てくる。
とはいえ、もし本当に戦地に赴くのならば、彼らも厳しい野営生活を避けられないのだから、そんな緊迫した状況を生き抜く事態に比べれば、旅行中の雑役を自らこなすくらいのことに不満の声は上がらなかった。なにしろ道中休息に立ち寄る貴族の館はもちろんのこと、特にギヨームの居城カーンでは、未来の配偶者を守る大切な護衛隊として、来賓並みの手厚いもてなしを受けていたからだ。
「オーギュスト、あなたの隊は、わたくしと一緒にル・グラットシエルまで同行して」
「はっ」
歯切れの良い返事をして、彼は王女の前を退いた。
「ユア・ハイネス……」
次に控えていたダントン少佐が進み出て片膝をつき、シャルロットの言葉を待つ。
ここで命令を下す前に、王女はちらりとギヨームらを見やった。
これは彼女の軍隊なのだから、公太子たちの今の立場は、横に退いてただ見守っているだけだった。もちろんそれは、シャルロットが年上の男性に頼らなくとも、ちゃんと自分で判断して的確な指示ができるという信頼に基づいている。
実際のところ、自分より上位のヒエラルキーに属する人物の軍隊に口を出す権利は、彼らにはなかった。
「ダントン、……あなたたちはカーン城へ戻り、ノルマンディー公エドワールさまに、ちょっと寄り道することになった旨を伝えて」
「はっ」
「それから……、ボルドワン大尉」
「はっ」
「フランドルのブルゴーニュ公爵領を発って、カーンへ向かっているはずの父上に、わたくしたちの予定変更をお知らせする役目は、あなたにお願いするわ」
「ははっ」
「五人くらいで隊を組んで。街道沿いに進めば、国王の一行とすれ違ったりしないはずよ。……以上!」
「ははっ」
一糸乱れぬ平伏だった。指令を受けた者のうち、彼女に同行しない騎士隊はいっせいに馬にまたがり、早々にサン=ミシェル島を後にする。王女の前で方向転換する際に、一人ずつ敬礼していくきびきびした兵士の動作を、ジャン=ピエールとギヨームは感嘆したようすで眺めていた。
この采配により、彼女は自分に伴う護衛隊の人数をさらに半分の二十五人に減らしたことになる。
「さすがです。シャルロットさま」
モン=サン=ミシェル島と陸をつなぐ一本道を渡りながら、ギヨームは馬を近づけ王女に賞賛を浴びせた。
褒められて面映い気持ちにくすぐられ、彼女はギヨームになんと答えていいのか少しためらう……。ただの「メルシー」より、他にもっとふさわしい言葉があるように感じたからだ。けれどそこに割り込んできたのは、ジャン=ピエールだ。
「僕もちょっと驚かされたよ、護衛の数をまた減らすなんて。陛下に教わったことがしっかり身についてるんだね、シャルロット」
彼が間に入ってくれたおかげで、ノルマンディーのプリンスにはにっこり微笑みかけるだけにとどめておいても、たぶん無作法には当たらないだろう。
「もちろんよ。道中ノルマンディー領主たちの館にお世話にならなければいけないのに、大勢連れて行ったりしては迷惑ですもの」
新しく公太子妃となる女性が、非常識な人間だと思われてしまうのは望ましくない。
もし騎馬兵五〇、馬五〇を同行すれば、それだけの数の休憩のための食事や馬の飼料、加えて寝床の準備までを、領内の貴族の館でまかなわせることになってしまい、それは臣下である彼らにとって、大きな負担になる。未来の総領主の婚約者が常識外れなことをすれば、シャルロットばかりでなくギヨームまでもが疎まれ、果てはノルマンディー公の評判をも傷つけかねない。だから彼女は半数に減らしたのだった。
その朝三手に分かれて旅立った隊のうち、国王に向けての伝令ボルドワン大尉らの後をつけて、パタパタと羽音をさせながら修道院の屋根から飛び立ったのは、またしても怪物の顔をした小型のグロテスクな守護神――ガルグイユだった。
ただし、あまりにも上空高くの飛行だったせいか、その姿に気づいたものは誰もいない。
「う、動けない……の」
靴のかかとが泥にめり込んで抜けない。
「だからさっき、危ないって言っただろ」
「だって……、子犬の後を追っていたんですもの」
「犬は四本足だから、体重が分散して泥沼に埋まらないんだよ。それに君より軽い」
「やめてよ、その言い方。まるでわたくしが重いみたいな……」
ジャン=ピエールは、笑いながら歩み寄った。
潮が満ちてくるまでには、まだまだ時間がある。彼女も動けないだけで、沈んでいく様子はない。
自分まで泥に足を取られてしまっては助けられなくなるので、気をつけてシャルロットの傍まで近づいた。
「やっぱここは……さ、もう一人のプリンスに助けてもらったほうがいいのかな」
「え? もう一人?」
一瞬シャルロットは、何のことかわからないという顔をした。
――あ……、そういえば、二人とも公太子なんだったわ。
年はずいぶん上だが、ジャン=ピエールもオルレアン公の存命中は、公太子には違いなかった。
息を切らせながらちょうどジャン=ピエールに追いついたギヨームとリシャールは、ぬかるみの直前で立ち止まった。
「はぁ、はぁ、シャルロットさま!」
「大丈夫ですか?」
「それが……普段のわたくしの慎重な行ないからは、想像もつかないことだけど……、だ、大丈夫ではないわ」
彼女は、いったい誰に助けを求めるべきか逡巡する。一緒にいたのがジャン=ピエールだから、とっさに彼の名を呼んだ。でも、彼に助けてもらえばギヨームが傷つく。かといってギヨームを選べば、オルレアン公爵家との諍いの原因を作ってしまうかもしれない。
「ぇ……と、あの」
――ぁあ、もう……!
このままでは、そのうち満ち潮がやって来て溺れてしまう。
「お、お願い……、わたくしをこのままにしないで……」
シャルロットは意を決して、一人の男性に手を差し伸べた。
必死に伸ばしてすがりつこうとする両腕を肩に回し、リシャールは王女を軽々と抱き上げる。
……というわけで、王女さまがお姫さま抱っこされたのは、プリンスではなくて彼女の護衛騎士だった。
「あーあ」
ジャン=ピエールが仕方なさそうに、シャルロットの靴を泥から抜き取ろうとすると、ギヨームもすかさず屈みこんでもう片方の靴を掴んだ。
泥にまみれた踵を、二人はそれぞれのハンカチで拭う。シャルロットが履けるように靴を地面に降ろそうとした……。
ところが、後ろを振り返った時には、リシャールは彼女を両腕で抱え上げたままずんずん先へ進み、遠ざかってしまっていた。
もうすでに、聖堂へ戻る門をくぐりそうなところまで進んでいる。
「あいつ、細っこいくせにわりと頑丈なんだな」
「私も華奢な王女さまくらいなら、なんなく抱き上げられます。リシャールと似たような体格ですが……」
「さすがは無骨なノルマン人の血を引く頼もしいプリンスだ。……でもそんなこと言ってるより、僕らは仲良くした方がいいと思うよ。どうやらしばらく、一緒に旅に出ることになりそうだし」
「あなたも、カーンにいらっしゃるんですか? まあ構いませんけど。父も歓迎すると思います」
「いや、そうじゃない。だが……ギヨーム、彼女の行くところには、必ず同行するんだろ?」
「どこかに出かけるんですか、シャルロットさま?」
「たぶんな……」
「それは聞き捨てなりませんね。ならば私も……」
ギヨーム・エティエンヌ・ド・ノルマンディーは、長くしなやかな指で金髪を後ろにかきあげる。
「間もなく陛下もノルマンディーにお越しになるそうですが、どうやらブルゴーニュ訪問が長引いているご様子……。ならば国王陛下の代理として私が責任を持って王女に付き添い、この剣にかけてもシャルロットさまを守り抜きます」
「なんかさ……、似てるな二人とも。いつも気取ってとり澄ましてるとこ」
「光栄です」
「そうやって憎まれ口を返すところも、親子以上にそっくりだよ」
ジャン=ピエールが言っているのは、ルイ・ド・ヴァロワのことだ。
シャルロットの行くところに、婚約者である彼が兵を伴って付き添うのはまあ予想していたし、自分が彼の立場だったら間違いなくそうするだろう。だからその件についての不満はジャン=ピエールにはない。一生懸命に、シャルロットを守ろうとしているギヨームの真摯さはむしろ共感できる。
ただジャン=ピエールの心を覆っている暗雲は、十年前に国王に自分がした仕打ちの仕返しを、国王が娘のために選んだ婚約者から、いま間接的に受けているような気がしてならないことだ。
ジェレミー・ダヴィー・ルイ・ド・ヴァロワは、この男にシャルロットをくれてやることによって、あの時のジャン=ピエールへの鬱憤を晴らそうとしているのではないかと、そんな風にも考えられなくないのだ。
そう思えるというより、むしろそうに違いないかった。
今この場にいないはずのルイ・ド・ヴァロワが、優雅なドレープの国王のマントを身につけ、十字架の飾りのついた王笏を持って、この世に権威を知らしめるような……、誰も踏み入ることを許さない絶対王政の圧力を、まざまざと見せつけられている。
二人のプリンスは軽口を叩きつつ、先行くシャルロットとリシャールたちを追いかけて、モン=サン=ミシェルへと戻って行った。
砂浜に乱れた足跡を残しながら……。
おそらくシャルロット王女にはこのあと部屋で休息を取ってもらうことになるだろう。潮風で乱れた髪に、侍女のミレイユに叱られながら櫛を入れられているシャルロットが眼に浮かぶようだ。
◇ ◇ ◇
老シスターが二人、足早に修道院から教会へ向かっていた。
修道院と聖堂を結ぶのは、細い渡り廊下だ。
教会建物だけでいうなら通路の高さは三階に当たる。ここが平地に建っていたら驚くほどの高度ではない。だが、ミシェルという名の小さな山の頂上に立地しているものだから、その渡り廊下の窓からは、どれほど急な崖に聖堂が切り開かれたのかがよくわかった。いかにも脅威の景色を見下ろす場所なのだ。
翌日の大礼拝のオルガン伴奏を練習するため、司祭を待たせないよう急いでいたのに、廊下を渡りながら一人の老修道女はふと羽音を聞いたような気がして、しばし立ち止まり上を見上げた。
「おや……」
「どうかなさいましたか? シスター」
建物と屋根との境目に、長い首を突き出している雨樋のガルグイユたちは、今日もじっと海を睨みつけている。
教会などの聖なる建築物に取り付けられたグロテスクな怪物を型どった雨樋は、ふだん信者たちから、この飾りが聖堂から罪を吐き出してくれている魔除けだと信じられていた。
「いえ……、なんだかガルグイユの数が増えているような気がして……」
そこまで言いかけると、自分で自分の口にした言葉が急におかしくなって、彼女はクスクスと笑いだす。
「そんなことが、あるはずはございませんよね。急ぎましょう。明日の礼拝は、王女さまと公太子さまたちが出発される前の、特別なお祈りですから」
「そうですね」
シスターは一瞬胸のロザリオに手をやると神に短い祈りを捧げ、礼拝堂に続く階段を再び登り始めた。
◇ ◇ ◇
翌日の朝、礼拝の後……、モン=サン=ミシェル島へ出入りする唯一の門である前哨門の外には、五〇の騎馬兵が整列していた。
その名の示す通り哨を置く門なので、入り口の両側には切石で築かれた張り出し塔が一つずつ建てられている。海からの攻撃に対する第一防衛ラインという過酷な任務にもかかわらず、二つの塔は美しく丸みを帯びた円柱を成し、どこか貴婦人のようですらあった。特にこの朝は、門の前で隊に指令を与えている麗しい王女の影響で、塔の佇まいは極めて優雅に見える。傍にある百年戦争中にイングランド軍が捨てていった二門の大砲すら、彼女に手なずけられたライオンのブロンズ像のように、おとなしく並んでひれ伏していた。
「シャルロットさま」
護衛隊長は王女の前に進み出た。
騎乗しているのはシャルロットと二人の公太子たちだけ……、騎馬兵たちはそれぞれ馬の手綱を取り横に並んで整列している。
戦時には兵士も馬に乗ったまま列を作ることもあったが、平時の待機は、王族に敬意を払うことが優先されるから、兵士は命令を受けるまでは騎乗しない慣習だった。
騎兵のほとんどは貴族の出だ。騎兵一人につき二、三人の歩兵がそれを介助し、彼らの予備の武器や荷物を持ったり移動後に馬の世話をしたりする。もちろん戦いの最中は歩兵自身も攻撃するし、介助している騎兵の危機を救ったり、自己防衛したりもしなくてはならないという忙しさだ。
しかし今回の旅におけるシャルロット王女の二個中隊は、特別に編隊されていた。アンボワーズを発つ時に宰相にも言い訳した通り、移動時間を短縮するため王女は歩兵の数を大幅に減らした。その影響で、貴族の騎兵たちにどうしても雑用を強いねばならない場面も出てくる。
とはいえ、もし本当に戦地に赴くのならば、彼らも厳しい野営生活を避けられないのだから、そんな緊迫した状況を生き抜く事態に比べれば、旅行中の雑役を自らこなすくらいのことに不満の声は上がらなかった。なにしろ道中休息に立ち寄る貴族の館はもちろんのこと、特にギヨームの居城カーンでは、未来の配偶者を守る大切な護衛隊として、来賓並みの手厚いもてなしを受けていたからだ。
「オーギュスト、あなたの隊は、わたくしと一緒にル・グラットシエルまで同行して」
「はっ」
歯切れの良い返事をして、彼は王女の前を退いた。
「ユア・ハイネス……」
次に控えていたダントン少佐が進み出て片膝をつき、シャルロットの言葉を待つ。
ここで命令を下す前に、王女はちらりとギヨームらを見やった。
これは彼女の軍隊なのだから、公太子たちの今の立場は、横に退いてただ見守っているだけだった。もちろんそれは、シャルロットが年上の男性に頼らなくとも、ちゃんと自分で判断して的確な指示ができるという信頼に基づいている。
実際のところ、自分より上位のヒエラルキーに属する人物の軍隊に口を出す権利は、彼らにはなかった。
「ダントン、……あなたたちはカーン城へ戻り、ノルマンディー公エドワールさまに、ちょっと寄り道することになった旨を伝えて」
「はっ」
「それから……、ボルドワン大尉」
「はっ」
「フランドルのブルゴーニュ公爵領を発って、カーンへ向かっているはずの父上に、わたくしたちの予定変更をお知らせする役目は、あなたにお願いするわ」
「ははっ」
「五人くらいで隊を組んで。街道沿いに進めば、国王の一行とすれ違ったりしないはずよ。……以上!」
「ははっ」
一糸乱れぬ平伏だった。指令を受けた者のうち、彼女に同行しない騎士隊はいっせいに馬にまたがり、早々にサン=ミシェル島を後にする。王女の前で方向転換する際に、一人ずつ敬礼していくきびきびした兵士の動作を、ジャン=ピエールとギヨームは感嘆したようすで眺めていた。
この采配により、彼女は自分に伴う護衛隊の人数をさらに半分の二十五人に減らしたことになる。
「さすがです。シャルロットさま」
モン=サン=ミシェル島と陸をつなぐ一本道を渡りながら、ギヨームは馬を近づけ王女に賞賛を浴びせた。
褒められて面映い気持ちにくすぐられ、彼女はギヨームになんと答えていいのか少しためらう……。ただの「メルシー」より、他にもっとふさわしい言葉があるように感じたからだ。けれどそこに割り込んできたのは、ジャン=ピエールだ。
「僕もちょっと驚かされたよ、護衛の数をまた減らすなんて。陛下に教わったことがしっかり身についてるんだね、シャルロット」
彼が間に入ってくれたおかげで、ノルマンディーのプリンスにはにっこり微笑みかけるだけにとどめておいても、たぶん無作法には当たらないだろう。
「もちろんよ。道中ノルマンディー領主たちの館にお世話にならなければいけないのに、大勢連れて行ったりしては迷惑ですもの」
新しく公太子妃となる女性が、非常識な人間だと思われてしまうのは望ましくない。
もし騎馬兵五〇、馬五〇を同行すれば、それだけの数の休憩のための食事や馬の飼料、加えて寝床の準備までを、領内の貴族の館でまかなわせることになってしまい、それは臣下である彼らにとって、大きな負担になる。未来の総領主の婚約者が常識外れなことをすれば、シャルロットばかりでなくギヨームまでもが疎まれ、果てはノルマンディー公の評判をも傷つけかねない。だから彼女は半数に減らしたのだった。
その朝三手に分かれて旅立った隊のうち、国王に向けての伝令ボルドワン大尉らの後をつけて、パタパタと羽音をさせながら修道院の屋根から飛び立ったのは、またしても怪物の顔をした小型のグロテスクな守護神――ガルグイユだった。
ただし、あまりにも上空高くの飛行だったせいか、その姿に気づいたものは誰もいない。
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