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第4章 中世 フランス
摩天楼 in フランス
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王女一行は、東を目指していた。
天を擦る地――ル・グラットシエル――摩天楼に向けて、ジャン=ピエールの案内で馬を進めていく。
「シャルロット、いったい……なんのために国王は、ブルゴーニュを訪ねる経緯に?」
「だって諸国へ赴くことが、君主の仕事みたいなものでしょ」
「つまり、視察というわけですね」
ギヨームの答えた通り、絶対王政の確立する前――つまりヴェルサイユ宮殿が築かれるまでは、基本的に国王は移動に次ぐ移動がお役目のようなものだった。
ディジョンを首都とするフランドル地方が、昔はフランスよりもパリよりも、ヨーロッパで最も文化の先進地域だったことは、王女も学んでいた。音楽教師とダンス教師がフランドルから呼び寄せられていたため、そういう恐れ多い事実も王室の耳に入ってしまうのだ。
ブルゴーニュは羊毛取引の盛んな地方で、資産家ぞろいだ。彼らが芸術家のパトロンとなり、学校やギルドが発展していった。もともとフランドルの冬は厳しく、雨や雪の多い影響で人びとはおもに室内で過ごす。そこに貿易による資産が加われば、高度な技術を持つ職人や芸術家たちも、自然に集まってくる。
ブルゴーニュの職人にシャルロットを模して作らせたビスクドールは、幼児期まで遊んでいたから彼女もよく覚えている。
「そういえばシャルロットって、小さい頃ブルゴーニュ公のまねをして金羊毛騎士団のフランス版とか作ってなかったっけ?」
「あ、それ入団させられました。私もポール王太子も」
「リシャール!」
「あの金の羊がぶら下がった首飾りを、宮殿の職人に作らせようとして陛下に止められ……」
「ちょっと、おしゃべりが過ぎてよ! リシャール」
金羊毛騎士団とは、ブルゴーニュ公フィリップ三世によって、一四三〇年に創立された騎士団のことだ。猫のように吊るされて、どことなくユーモラスな金の羊の首飾りや勲章を騎士団員は全員身につけている。
それまで笑いを噛み殺していたギヨームが、我慢できず口を挟んだ。
「いいではありませんか。あの騎士団には皆憧れているのですから。私だって騎士団長の勲章は欲しいですし、きっと父エドワールも……。いえそればかりか恐れ多くも国王陛下が、同じ物を作らせようとしたシャルロットさまを止められたのは、おそらく……」
「おそらく?」
「たぶん本物を、いずれ手に入れるお心づもりがあるから……なのでは?」
「天才かよ」とジャン=ピエールのギヨームを見つめる目は言っていた。もちろん認めたくはなかったが。
「そうなの? ではやはりスペイン王も現在ブルゴーニュに?」
「そういうことになるでしょうね。たくさんある爵位の一つはブルゴーニュ公なのですし、都会を好む人なのだから、生まれ故郷に頻繁に帰ってきても何の不思議もありません。もっともブルゴーニュは、昨今の洗練されたパリにかなわなくなって、悔しがっていると聞きました」
――父上と、カルロス一世の会見?
近年スペイン国王になったばかりのこのハプスブルク家の青年君主は、神聖ローマ皇帝マクシミリアンと最後の女ブルゴーニュ公マリーを父方の祖父母に、そしてアラゴン王フェルディナンドとカスティーリャ女王イザベルを母方の祖父母に持つというヨーロッパの広きに渡る土地の君主だった。
ところが……だ。父フィリップが神聖ローマ皇帝を継ぐ前に亡くなってしまったこの期に及んで、ローマ皇帝の選帝侯たちは突然、ハプスブルク家から皇帝を選ぶ世襲制をやめようと言い出したのだ。カルロスにとってはとんでもない災難だが、この選帝侯たちが対立候補に挙げているのが――何を隠そうシャルロットの父、フランス王だ。
ルイ王のブルゴーニュ訪問は、囲まれた国ぐにからの圧力を牽制するためだった。だが旅立つ前に、そんな不安の種を子供たちの耳に入れたりなど彼がするはずもなく、シャルロットは当然聞かされていない。
西と南は父が……、だからシャルロットのほうは、北側のノルマンディーとイングランドとの関係を調整する役目を任された――婚姻の意味はそういうことなのだろう。
連なる葡萄畑が、さっきから延々と続いている。
やがて村も畑も無くなり、山脈が荒涼とした風景に変わった頃、北東の空を黒雲が覆い始めた。
「なんだか、雲行きが怪しくなってきたみたい」
「もうすぐだよ。大丈夫、雨になる前には着けるから」
摩天楼……、フランス北西部の山岳地にそびえるその山は、緑の育たない乾燥した土地に、山脈からぽつんと孤立して盛り上がる山だという。
「どうしてそんな辺鄙なところに住んでるの? その人は」
「住んでるわけじゃないよ」
「ああ、そうだったわね。隠れているように言われたんだった? お告げで」
彼女は唇をきりりと結んで前を向いた後、彼に決意表明するような口調で言った。
「それでは、聖ミカエルさまは、あなたがたを裏切って、わたくしの味方をなさったわけね。だって、あの人に身を隠すよう警告されながら、わたくしには場所を教えてくださったんですもの」
彼女はわざと冷たい態度をとる。
――うん、わかってる、本心から言ってるんじゃないってことは。昔からそういう時は声が落ち着きをなくすんだ、君って。
ジャン=ピエールは、そんなシャルロットの憎まれ口が、なんだか可愛らしくて仕方がなかった。心の奥底では、もっとひどいことを言いたいと思っているのだ。少なくともアンボワーズの城を出た時は、戦を覚悟して軍隊を率いてきた。本当に戦うつもりはないにしても、十五歳の女の子には相当な決心だっただろう。なのにこれが、シャルロットの精一杯の悪口なのだから。
――感情よりも、社交を優先するようになったんだね。君を誇らしく思う。ほんの少し淋しい気もするけど、……でもやっぱり喜ばしく感じるべきなんだろうな。
幼い頃から彼が見守ってきた王女さまは、少女から大人へと、今変身を遂げている。
一行はさらに山の奥へと進む。山脈に沿って道がカーブしている、その最後の山が途切れた向こうに、それは悪魔のごとく姿を現した。
異様な風景に、馬は脚をすくめて急に立ち止まってしまう。後方で監視しながら隊を進めていたギヨームたちも、ル・グラット・シエルの放つ脅威を感じていた。
地面が意志を持って空へ伸びたのかと思うほどの勢いで、天にも届かんと立つ急勾配の山……。
その高さは、尖塔の上までがわずか一五〇メートルというモン=サン=ミシェルの比ではない。おそらくその五倍以上はあるだろう。もっと不気味で、ずっと荒々しかった。
幾度もこの道を辿ったジャン=ピエールでさえ、何回見ても空恐ろしく感じる。
モン=サン=ミシェルを発ってから十二日後のことだった。彼女は目の前に立ちはだかる丘陵を見上げると、手綱を強く握りしめ直す。
そこだけが異空間のように、周りの山やまから離れて突出していた。
高い頂上に切り開かれた台地は、神の仕業だとしか思えない。その平らな部分は視認できるが、建物の詳細は、ここからは見えなかった。
行く手に突如、鋭い雷光が走る。
彼らは登り口まで馬を進めた。
まさに「摩天楼」という名にふさわしい、未知の世界の何者かが空からやってきて創りあげたような、天への登り道……。
山道はつづら折りではなく、螺旋状に山を取り巻いていた。先頭の兵士の馬が登り道にさしかかろうとしたところで、ジャン=ピエールが呼び止める。
「そっちは、下り専用なんだ。登り道は向こう側」
彼は山の反対の端を指差した。
「二重の螺旋構造の道なの?」
「そうだよ」
「どうしてそんな重労働を、わざわざしたのかしら」
「あのねシャルロット、人間が切り開いたわけじゃないんだ。自然の岩の層が、もともとこの山に二筋のスパイラルを刻んでいたらしい。人はそれを、安全に行き来できるよう補正しただけだから……」
登りだけに使われる道と下りのみの道がある……などと、まるで戦の砦にうってつけではないか。思わずゾクゾク胸を昂ぶらせたのは、シャルロット一人ではなかった。
「それじゃここで、二隊に分かれましょう。わたくしたちはこっちを、あなたたちは向こうの道を登って」
シャルロットはオーギュストに命じる。
「聞いてなかったの? こっちは降りる専用だって」
「だから二手に分かれて、逃げ道を塞ぐのよ」
「誰が逃げるんだよ?」
「これは、戦の基本なのです」
「お、おい待てよ」
構わず登り始めたシャルロットを、ジャン=ピエールは追いかけ始めた。
さすがに道は狭いため、二列の隊は一列になり、岩肌に沿ってゆっくり進まねばならなかった。木の柵も馬の膝までの高さしかない。振り落とされたら、命がない。
「ぅうっわっ!」
その刹那だ。大きな影が頭上をかすめて行った。ジャン=ピエールは体を伏せて体当たりを避ける。
巨大な羽根を広げた黒鷲だ。敵は上昇した。寸前で獲物に向きを変えられたのに、勢い余って岩に激突することもなく、ぎりぎりで自らも方向転換した。
すかさずシャルロットが剣を抜く。
切っ先を天に向け、意識を集中させる。刃の先に、集められる光……、
呼応するように、黒鷲の目がきらめいた。
――来る。
空を切って突き進んできた鷲に、一瞬身を低くして彼女はそれをかわす……と見せかけ、敵の軌道をとらえ剣を強く振り下ろした。
慌てて鷲が、羽ばたきを止めようとする。が、王女の剣は獲物を引きつけ、思い切り腕を伸ばすと斬撃を放った。
鋼が空を切り裂く鋭い音が、耳の横を駆け抜けた。
黒い羽根は灰のごとく舞い落ちる。鷲の体が、左に傾くかに見えた。だが体制を立て直し、宙に止まってこっちを睨み返してきた。
ひらりと刃を返すシャルロット。
――もう一度……来る? 違う! 今度は……。
敵の狙いは王女ではなかった。
「ジャン=ピエール!」
勢いつけて彼に体当たりしてきた。馬にしがみついたジャン=ピエールは、なんとか持ちこたえるも、大切なものを地面に落としたことには気づかなかった。
敵はそのまま旋回して回り込み、地面から何かを掴み取る。浮上する鷲の骨ばった手に掴まれた、光るもの……それは。
「ああっ! 鍵いっ……」
ジャン=ピエールの声と、ギヨームが素早く短剣を投げたのは、ほぼ同時だった。
見事命中し、敵の手から鍵が零れ落ちてくる。
「よくやったギヨーム!」
「でも……」
もしそのまま下に落下すれば、間違いなく手すりの外だ。
「そうは、させるか」
空気をかきよせるように、宙に鞭を振るうジャン=ピエール。
絡め取られた鍵は、ぎりぎり道の端に落ちた。馬から飛び降りたギヨームが、すかさずそれを掴む。
その様子を眺めていた黒鷲だったが、公太子の手の中にしっかりと握られた鍵を認め、諦めて向きを変えた。傷ついた翼を広げ、ふわりと浮上したかと思うと、みるみる高度を上げ、またたく間に遥か遠くに消え去った。
完全に姿が見えなくなるのを待って、ギヨームはジャン=ピエールにそれを差し出した。
それは銀色に輝き、持ち手の部分に四つ葉のクローバーのような形をした青い石――ラピスラズリの飾りが付いた鍵だった。
「聖ペドロの鍵……」
シャルロットが、ぽつりとつぶやいた。
ヴァティカンの紋章には、教皇のかぶる三重冠の下に交差した二つの鍵が描かれている。
一つは金製で天の国における権威、そしてもう一つは、神がペドロに与えたとされる銀の鍵……。その紋章の銀の鍵に、とてもよく似た形をしていたのだ。
「いや、『天国への鍵』とかってそんな大層なものじゃないよ。ル・グラット・シエルの頂上にある、遺跡の中から拾っただけ」
「だったら、すごく大事なものじゃない!」
「僕のせいじゃなくて、どっちかといえば鳥のせいだろ?」
「これが……、狙いだったんですね、さっきの鳥……」
神に対する厳粛な畏敬のパワーよりも何倍も恐ろしい不気味な何かを、その鍵は放っていた。
それきり誰も、そのことについて触れなかった。何となく話題にしてはいけないような空気に包まれ、一行は口をきかず頂上にたどり着く。
反対側から登ってきたオーギュストの隊に出迎えられたが、そこにオルレアン公爵の兵士はただの一人もいなかった。
「護衛たちは中だよ。といっても侍女を含めても十人くらいだけど」
こっちは行軍を率いてきたというのに、相手があまりにも無防備で、王女はなんだか気が抜けてしまったのだが、自分の荒唐無稽な行為に恥じ入ることさえ忘れさせてしまうくらいに……、脅威に満ちた景色は感動的だった。
摩天楼の頂上には、遠く紀元前の古代の神殿が建っていた。
下界から切り放たれた、天空の神殿……。ギリシャ建築のその建物は、半壊状態ではあるが、白い大理石の円柱が列をなして並び、ファサードの三角破風だけでなく屋根もほぼ全体を覆っている。内側にも十二本の列柱が部屋を作って風雨から守られていた。
そして隣には、ロワール河畔のシャンボール城によく似た住居棟が、屋根に無数の塔を頂いて建っていた。
出迎えた兵士らに馬を預け、王女一行は高い天井を見上げながらその城の中へと入っていった。
「ようこそ、お越しくださいました。シャルロット殿下」
高すぎるほどの天井の玄関の間……。そこに跪く女性は、シャルロットに頭を深くたれた。
袖の膨らんだドレス……、豪華に波打つシルクの裾……、華やかではあっても決して絢爛たる華美ではなく、その女性を知的に見せている。
ゆるやかに顔を上げた時、シャルロットへ向けられた瞳があまりにも落ち着き払っていたことは予想外だった。だが、王女はあらかじめ心に決めていた通り、会心の笑みを彼女に返した。
「新年祝賀会でお会いして以来ね。ほんとうにお久しぶりですこと、マダム・ドルレアン」
天を擦る地――ル・グラットシエル――摩天楼に向けて、ジャン=ピエールの案内で馬を進めていく。
「シャルロット、いったい……なんのために国王は、ブルゴーニュを訪ねる経緯に?」
「だって諸国へ赴くことが、君主の仕事みたいなものでしょ」
「つまり、視察というわけですね」
ギヨームの答えた通り、絶対王政の確立する前――つまりヴェルサイユ宮殿が築かれるまでは、基本的に国王は移動に次ぐ移動がお役目のようなものだった。
ディジョンを首都とするフランドル地方が、昔はフランスよりもパリよりも、ヨーロッパで最も文化の先進地域だったことは、王女も学んでいた。音楽教師とダンス教師がフランドルから呼び寄せられていたため、そういう恐れ多い事実も王室の耳に入ってしまうのだ。
ブルゴーニュは羊毛取引の盛んな地方で、資産家ぞろいだ。彼らが芸術家のパトロンとなり、学校やギルドが発展していった。もともとフランドルの冬は厳しく、雨や雪の多い影響で人びとはおもに室内で過ごす。そこに貿易による資産が加われば、高度な技術を持つ職人や芸術家たちも、自然に集まってくる。
ブルゴーニュの職人にシャルロットを模して作らせたビスクドールは、幼児期まで遊んでいたから彼女もよく覚えている。
「そういえばシャルロットって、小さい頃ブルゴーニュ公のまねをして金羊毛騎士団のフランス版とか作ってなかったっけ?」
「あ、それ入団させられました。私もポール王太子も」
「リシャール!」
「あの金の羊がぶら下がった首飾りを、宮殿の職人に作らせようとして陛下に止められ……」
「ちょっと、おしゃべりが過ぎてよ! リシャール」
金羊毛騎士団とは、ブルゴーニュ公フィリップ三世によって、一四三〇年に創立された騎士団のことだ。猫のように吊るされて、どことなくユーモラスな金の羊の首飾りや勲章を騎士団員は全員身につけている。
それまで笑いを噛み殺していたギヨームが、我慢できず口を挟んだ。
「いいではありませんか。あの騎士団には皆憧れているのですから。私だって騎士団長の勲章は欲しいですし、きっと父エドワールも……。いえそればかりか恐れ多くも国王陛下が、同じ物を作らせようとしたシャルロットさまを止められたのは、おそらく……」
「おそらく?」
「たぶん本物を、いずれ手に入れるお心づもりがあるから……なのでは?」
「天才かよ」とジャン=ピエールのギヨームを見つめる目は言っていた。もちろん認めたくはなかったが。
「そうなの? ではやはりスペイン王も現在ブルゴーニュに?」
「そういうことになるでしょうね。たくさんある爵位の一つはブルゴーニュ公なのですし、都会を好む人なのだから、生まれ故郷に頻繁に帰ってきても何の不思議もありません。もっともブルゴーニュは、昨今の洗練されたパリにかなわなくなって、悔しがっていると聞きました」
――父上と、カルロス一世の会見?
近年スペイン国王になったばかりのこのハプスブルク家の青年君主は、神聖ローマ皇帝マクシミリアンと最後の女ブルゴーニュ公マリーを父方の祖父母に、そしてアラゴン王フェルディナンドとカスティーリャ女王イザベルを母方の祖父母に持つというヨーロッパの広きに渡る土地の君主だった。
ところが……だ。父フィリップが神聖ローマ皇帝を継ぐ前に亡くなってしまったこの期に及んで、ローマ皇帝の選帝侯たちは突然、ハプスブルク家から皇帝を選ぶ世襲制をやめようと言い出したのだ。カルロスにとってはとんでもない災難だが、この選帝侯たちが対立候補に挙げているのが――何を隠そうシャルロットの父、フランス王だ。
ルイ王のブルゴーニュ訪問は、囲まれた国ぐにからの圧力を牽制するためだった。だが旅立つ前に、そんな不安の種を子供たちの耳に入れたりなど彼がするはずもなく、シャルロットは当然聞かされていない。
西と南は父が……、だからシャルロットのほうは、北側のノルマンディーとイングランドとの関係を調整する役目を任された――婚姻の意味はそういうことなのだろう。
連なる葡萄畑が、さっきから延々と続いている。
やがて村も畑も無くなり、山脈が荒涼とした風景に変わった頃、北東の空を黒雲が覆い始めた。
「なんだか、雲行きが怪しくなってきたみたい」
「もうすぐだよ。大丈夫、雨になる前には着けるから」
摩天楼……、フランス北西部の山岳地にそびえるその山は、緑の育たない乾燥した土地に、山脈からぽつんと孤立して盛り上がる山だという。
「どうしてそんな辺鄙なところに住んでるの? その人は」
「住んでるわけじゃないよ」
「ああ、そうだったわね。隠れているように言われたんだった? お告げで」
彼女は唇をきりりと結んで前を向いた後、彼に決意表明するような口調で言った。
「それでは、聖ミカエルさまは、あなたがたを裏切って、わたくしの味方をなさったわけね。だって、あの人に身を隠すよう警告されながら、わたくしには場所を教えてくださったんですもの」
彼女はわざと冷たい態度をとる。
――うん、わかってる、本心から言ってるんじゃないってことは。昔からそういう時は声が落ち着きをなくすんだ、君って。
ジャン=ピエールは、そんなシャルロットの憎まれ口が、なんだか可愛らしくて仕方がなかった。心の奥底では、もっとひどいことを言いたいと思っているのだ。少なくともアンボワーズの城を出た時は、戦を覚悟して軍隊を率いてきた。本当に戦うつもりはないにしても、十五歳の女の子には相当な決心だっただろう。なのにこれが、シャルロットの精一杯の悪口なのだから。
――感情よりも、社交を優先するようになったんだね。君を誇らしく思う。ほんの少し淋しい気もするけど、……でもやっぱり喜ばしく感じるべきなんだろうな。
幼い頃から彼が見守ってきた王女さまは、少女から大人へと、今変身を遂げている。
一行はさらに山の奥へと進む。山脈に沿って道がカーブしている、その最後の山が途切れた向こうに、それは悪魔のごとく姿を現した。
異様な風景に、馬は脚をすくめて急に立ち止まってしまう。後方で監視しながら隊を進めていたギヨームたちも、ル・グラット・シエルの放つ脅威を感じていた。
地面が意志を持って空へ伸びたのかと思うほどの勢いで、天にも届かんと立つ急勾配の山……。
その高さは、尖塔の上までがわずか一五〇メートルというモン=サン=ミシェルの比ではない。おそらくその五倍以上はあるだろう。もっと不気味で、ずっと荒々しかった。
幾度もこの道を辿ったジャン=ピエールでさえ、何回見ても空恐ろしく感じる。
モン=サン=ミシェルを発ってから十二日後のことだった。彼女は目の前に立ちはだかる丘陵を見上げると、手綱を強く握りしめ直す。
そこだけが異空間のように、周りの山やまから離れて突出していた。
高い頂上に切り開かれた台地は、神の仕業だとしか思えない。その平らな部分は視認できるが、建物の詳細は、ここからは見えなかった。
行く手に突如、鋭い雷光が走る。
彼らは登り口まで馬を進めた。
まさに「摩天楼」という名にふさわしい、未知の世界の何者かが空からやってきて創りあげたような、天への登り道……。
山道はつづら折りではなく、螺旋状に山を取り巻いていた。先頭の兵士の馬が登り道にさしかかろうとしたところで、ジャン=ピエールが呼び止める。
「そっちは、下り専用なんだ。登り道は向こう側」
彼は山の反対の端を指差した。
「二重の螺旋構造の道なの?」
「そうだよ」
「どうしてそんな重労働を、わざわざしたのかしら」
「あのねシャルロット、人間が切り開いたわけじゃないんだ。自然の岩の層が、もともとこの山に二筋のスパイラルを刻んでいたらしい。人はそれを、安全に行き来できるよう補正しただけだから……」
登りだけに使われる道と下りのみの道がある……などと、まるで戦の砦にうってつけではないか。思わずゾクゾク胸を昂ぶらせたのは、シャルロット一人ではなかった。
「それじゃここで、二隊に分かれましょう。わたくしたちはこっちを、あなたたちは向こうの道を登って」
シャルロットはオーギュストに命じる。
「聞いてなかったの? こっちは降りる専用だって」
「だから二手に分かれて、逃げ道を塞ぐのよ」
「誰が逃げるんだよ?」
「これは、戦の基本なのです」
「お、おい待てよ」
構わず登り始めたシャルロットを、ジャン=ピエールは追いかけ始めた。
さすがに道は狭いため、二列の隊は一列になり、岩肌に沿ってゆっくり進まねばならなかった。木の柵も馬の膝までの高さしかない。振り落とされたら、命がない。
「ぅうっわっ!」
その刹那だ。大きな影が頭上をかすめて行った。ジャン=ピエールは体を伏せて体当たりを避ける。
巨大な羽根を広げた黒鷲だ。敵は上昇した。寸前で獲物に向きを変えられたのに、勢い余って岩に激突することもなく、ぎりぎりで自らも方向転換した。
すかさずシャルロットが剣を抜く。
切っ先を天に向け、意識を集中させる。刃の先に、集められる光……、
呼応するように、黒鷲の目がきらめいた。
――来る。
空を切って突き進んできた鷲に、一瞬身を低くして彼女はそれをかわす……と見せかけ、敵の軌道をとらえ剣を強く振り下ろした。
慌てて鷲が、羽ばたきを止めようとする。が、王女の剣は獲物を引きつけ、思い切り腕を伸ばすと斬撃を放った。
鋼が空を切り裂く鋭い音が、耳の横を駆け抜けた。
黒い羽根は灰のごとく舞い落ちる。鷲の体が、左に傾くかに見えた。だが体制を立て直し、宙に止まってこっちを睨み返してきた。
ひらりと刃を返すシャルロット。
――もう一度……来る? 違う! 今度は……。
敵の狙いは王女ではなかった。
「ジャン=ピエール!」
勢いつけて彼に体当たりしてきた。馬にしがみついたジャン=ピエールは、なんとか持ちこたえるも、大切なものを地面に落としたことには気づかなかった。
敵はそのまま旋回して回り込み、地面から何かを掴み取る。浮上する鷲の骨ばった手に掴まれた、光るもの……それは。
「ああっ! 鍵いっ……」
ジャン=ピエールの声と、ギヨームが素早く短剣を投げたのは、ほぼ同時だった。
見事命中し、敵の手から鍵が零れ落ちてくる。
「よくやったギヨーム!」
「でも……」
もしそのまま下に落下すれば、間違いなく手すりの外だ。
「そうは、させるか」
空気をかきよせるように、宙に鞭を振るうジャン=ピエール。
絡め取られた鍵は、ぎりぎり道の端に落ちた。馬から飛び降りたギヨームが、すかさずそれを掴む。
その様子を眺めていた黒鷲だったが、公太子の手の中にしっかりと握られた鍵を認め、諦めて向きを変えた。傷ついた翼を広げ、ふわりと浮上したかと思うと、みるみる高度を上げ、またたく間に遥か遠くに消え去った。
完全に姿が見えなくなるのを待って、ギヨームはジャン=ピエールにそれを差し出した。
それは銀色に輝き、持ち手の部分に四つ葉のクローバーのような形をした青い石――ラピスラズリの飾りが付いた鍵だった。
「聖ペドロの鍵……」
シャルロットが、ぽつりとつぶやいた。
ヴァティカンの紋章には、教皇のかぶる三重冠の下に交差した二つの鍵が描かれている。
一つは金製で天の国における権威、そしてもう一つは、神がペドロに与えたとされる銀の鍵……。その紋章の銀の鍵に、とてもよく似た形をしていたのだ。
「いや、『天国への鍵』とかってそんな大層なものじゃないよ。ル・グラット・シエルの頂上にある、遺跡の中から拾っただけ」
「だったら、すごく大事なものじゃない!」
「僕のせいじゃなくて、どっちかといえば鳥のせいだろ?」
「これが……、狙いだったんですね、さっきの鳥……」
神に対する厳粛な畏敬のパワーよりも何倍も恐ろしい不気味な何かを、その鍵は放っていた。
それきり誰も、そのことについて触れなかった。何となく話題にしてはいけないような空気に包まれ、一行は口をきかず頂上にたどり着く。
反対側から登ってきたオーギュストの隊に出迎えられたが、そこにオルレアン公爵の兵士はただの一人もいなかった。
「護衛たちは中だよ。といっても侍女を含めても十人くらいだけど」
こっちは行軍を率いてきたというのに、相手があまりにも無防備で、王女はなんだか気が抜けてしまったのだが、自分の荒唐無稽な行為に恥じ入ることさえ忘れさせてしまうくらいに……、脅威に満ちた景色は感動的だった。
摩天楼の頂上には、遠く紀元前の古代の神殿が建っていた。
下界から切り放たれた、天空の神殿……。ギリシャ建築のその建物は、半壊状態ではあるが、白い大理石の円柱が列をなして並び、ファサードの三角破風だけでなく屋根もほぼ全体を覆っている。内側にも十二本の列柱が部屋を作って風雨から守られていた。
そして隣には、ロワール河畔のシャンボール城によく似た住居棟が、屋根に無数の塔を頂いて建っていた。
出迎えた兵士らに馬を預け、王女一行は高い天井を見上げながらその城の中へと入っていった。
「ようこそ、お越しくださいました。シャルロット殿下」
高すぎるほどの天井の玄関の間……。そこに跪く女性は、シャルロットに頭を深くたれた。
袖の膨らんだドレス……、豪華に波打つシルクの裾……、華やかではあっても決して絢爛たる華美ではなく、その女性を知的に見せている。
ゆるやかに顔を上げた時、シャルロットへ向けられた瞳があまりにも落ち着き払っていたことは予想外だった。だが、王女はあらかじめ心に決めていた通り、会心の笑みを彼女に返した。
「新年祝賀会でお会いして以来ね。ほんとうにお久しぶりですこと、マダム・ドルレアン」
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