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いい子には
しおりを挟む質素倹約を旨とするセィムの荷物は少ない。
シァルが手伝ってくれたら、あっという間に荷造りは終わってしまった。
手配してくれたのは白い幌のついた荷馬車だ。
ちょっとよい馬車だけれど、目立たない。
救国の英傑が乗るにしては質素すぎるが、セィムの引っ越しには、ちょっと奮発した感じに仕上がっている。
さすがシァルだ。
「俺が持つよ」
微笑んで荷を持ってくれるシァルが、箱をひとつじゃなくて、セィムの荷をすべて積みあげて持とうとするのを、慌てて止めた。
「天井に、つっかえますから!」
照れたようにシァルが荷を下ろす。
「ごめんね、はやく引っ越して、ふたりきりになりたくて。つい」
ほんのり朱く染まるまなじりで、きゅ、と手を握ってくれたら、噴火するしかない。
「…………っ!」
セィムは思わず鼻を押さえた。
鼻血を噴かなかった鼻の血管を、全力でほめた。
──よくやった、セィム!
シァルさまの前で鼻血とか、真剣に泣いちゃうから……!
鼻をさすさすしたセィムは、今日は自分を二度もほめたことに気がついた。
今まで『自分をほめよう』なんて思ったこともなかったし、そんなことがあるとさえ想定していなかったのに『よくやった!』自分をほめるたび、くしゃくしゃに小さく縮こまって歪んでいた自分が、ふわふわあたためられ、やわらかに舞いあがるみたいだ。
……干した海藻が戻るみたいに?
この間、市場で初めて見て冒険する気もちで購入した海藻が、めちゃくちゃ硬かった小さな塊が、水に入れてしばらく置いておくと、ぶわんとやわく膨れあがったのにびっくりしたことを思いだした。
おんなじ海藻でも、ちいさく硬くも、大きくやわくもなるみたいに。
おんなじ人間でも、どんなに仕事ができなくても、小さく硬く縮こまるんじゃなくて、胸を張ってやわらかに生きていってもいいのかな……
そんなことを、はじめて思ったことに、気がついた。
ぼんやり考えながら馬車に荷を積みこむセィムに、見送りにきてくれた大家が吐息する。
「セィムちゃんが、いなくなっちゃうなんて、さみしくなるよ」
まだ若くみずみずしかった頃から16年、家賃を滞納なく払いつづけたからこそ惜しんでくれるのだろう。
ありがたく思いながらセィムは微笑む。
「すぐ戻ってきます」
となりのシァルの透きとおる空の瞳が、凍てつく氷の瞳になった気がするけれど、近くの路地裏に悪漢がいたので睨みをきかせてくれたのだと思う。
どんなささいな悪事も見逃さず、起きる前に抑止することができるだなんて、さすが救国の英傑だ。
「すごいです、シァルさま」
うっとり尊敬のまなざしで見あげたら
「……え……? いや、俺は何もしていないよ」
微笑んで謙遜するところも、さすが救国の英傑です!
前の大家さんが、たゆたゆのお腹がぷるぷるするほど真っ青な気がするけど、気のせいだと思うな。
「ほいじゃあ、出しますぜ!」
御者のおじさんが手をあげてくれる。
馬が、ゆっくり、ひづめをあげた。
「げ、元気でな! セィムちゃん!」
手を振ってくれる大家に、馬車の荷台からセィムは手をあげる。
ずっと死ぬまで暮らしてゆくのだと、いつからか信じていた部屋が、あっという間に遠くなる。
ふしぎだった。
シァルが隣にいてくれる。
ただそれだけで、見えるものが、変わってゆく。
考えることが、変わってゆく。
シァルの隣にいる。
ただそれだけで世界が、一瞬で、変わってゆく。
「料理、しないんですか」
荷馬車に揺られながら聞いたセィムに、隣のシァルは堂々と胸を張った。
「できない」
セィムはしずかに眉をひそめる。
「それは『やらない』と同義です。
自炊すると驚くほど節約できます。しなきゃならないなら、できるようになるんです」
思わず突っこんだセィムは『救国の英傑になんてことを──!』あわてて平身低頭しようとしたけれど、止めたのはシァルだ。
「敬語」
ぷっくりシァルがふくれているのは、セィムが敬語を使ったからで、反論したからではないらしい。
「俺の食費は限られているので、市場で買った野菜で適当に作って食べてもいいですか」
セィムの口からなめらかに流れでる言葉に、シァルの凛々しい眉がさがる。
「どうしたらセィムは敬語をやめてくれるのかな?」
セィムは顔をおおった。
「だってシァルさま、まぶしい──!」
真実を告げた。
存在自体が、輝いてる。
顎に手をあてて考えるシァルも、勿論きらきらだ。
町ゆく人が、荷馬車で揺られてゆくシァルを覗きこんでは拝んでる。セィムも一緒に拝んだ。
ものすごく自然に、まるで当たり前のように、存在を前にするだけで拝みたくなる人と一緒に暮らすとか、絶対絶対絶対絶対絶対絶対夢だ──!
また頬を引っ張ろうとしたセィムの手を、シァルの指が止める。
「じゃあ、敬語を使うたびに、口づける、というのは?」
「………………は…………?」
セィムの顎が、落ちそうだ。
「恋人なんだから、当然だろう?」
「(仮)です──!」
噴火するセィムの指に、シァルの指が、からまった。
「次、敬語を使ったら、ちゅうするから」
輝くようにシァルが笑う。
耳まで燃えて、ささやいた。
「……それは、俺に敬語を使えとおっしゃっているのと、同義です」
馬車が、揺れる。
空の瞳が、まるくなる。
「あぁ、じゃあだめだな」
シァルの輝くかんばせが、近づいた。
ちゅ
ふわふわの、やわらかなくちびるが、セィムの頬にふれて、はなれてく。
「じゃあ、今度敬語を使ったら、二度と、ちゅうしてあげない」
ぎゅ
つながる指を、にぎられる。
シァルのくちびるが、自分の頬にふれてくれたなんて夢みたいで、なのにすがるようにシァルの指をにぎった。
「……わかった」
燃える頬でうなずいたら、シァルが微笑む。
「いい子には、ごほうび」
ちゅ
やわらかなくちびるが、まなじりにふれる。
発火しそうなセィムは、シァルの指を握った。
ぎゅうぎゅう、にぎった。
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