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38. 白との再びの通話
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ふわり、ふわり、と浮わついた気持ちのまま、私は1人でホテルの廊下を歩く。私の右手は、空っぽだ。
エレベーターが菊地さんの宿泊階に止まった時、私の右手は熱を失った。驚くほどに心地よい熱を。その熱を取り戻そうと手を伸ばしたときには時既に遅しで、鉄の扉が閉ざされ、熱に浮かれた私だけが、箱のなかにしばし閉じ込められた。
自分の宿泊階で箱から放たれた私は、1人でゆっくりと廊下を歩く。
なんとなく浮き足だったまま、自動販売機の横を通りすぎようとして、立ち止まる。なぜだかは分からない。いつもの私なら、絶対にしない行動だ。それなのに、数分後には缶チューハイが手の中に収まっていた。
ようやく自分の部屋にたどり着いて、電気をつけて、そのままベッドにふにゃり、と座り込む。頬が妙に火照っている気がして、冷たい缶をそっと押し当てる。その冷たさが気持ち良いということは、やはり頬が熱を持っているという証拠だ。
たった1杯の日本酒が原因だろうか。
それとも……。
自然と浮かぶ菊地さんの表情に、再び身体と頬が熱を帯びる。思わず両手で頬を押さえると、パサリ、という音と共に小さな重みが消えていく。
菊地さんのジャケット、そのまま持ってきちゃったんだ。
それをぎゅっと抱きしめたい衝動を抑えて、私はゆっくりと立ち上がるとハンガーにそれを掛けた。シワにならないようにしないと。そう思いつつも、どうしても我慢できずに、一瞬だけ軽い力でそれを抱きしめてから、ラックに掛ける。仄かに香った菊地さんの匂いに、脈が早くなる。
スマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開く。1番上にある、皓人さんからのメッセージを開くべきか、指が迷ったものの、1度それを無視して、私は菊地さんからのメッセージを開いた。
ただ数字だけが打ち込まれた、いたってシンプルなそのメッセージに、思わず頬が緩んでしまう。
『俺は、いつでも中谷を待ってるから』
熱を帯びた瞳で放たれた言葉の破壊力は、計り知れない。
1度、大きく深呼吸をしてから、私はデスクの椅子に座る。
冷静に、ならないと。
今は衝動的に行動すべきタイミングじゃない、はずだ。自分を落ち着かせようと、私は缶のプルタブを押し上げた。缶を口許に運びながら、あまりにも矛盾している自分の言動に、思わず笑いが洩れた。
スマートフォンのメッセージアプリに視線を戻し、バックキーを押してから、1番上に表示されているメッセージを開いた。
「もう戻った?」
「まだ外にいるの?」
珍しくこちらの様子を窺うメッセージが続く。皓人さんは別に心配性ではないはずなのに。なんとなく、違和感を覚える。
「ホテルに戻ったら電話して」
という、最新のメッセージは受信してから30分以上が経過している。
ゴクリ、とアルコールを喉の奥に押し込んでから、私はそのまま通話ボタンを押す。
コール音を聞きながら、通話をスピーカーモードにし、ちらり、と鏡に映る自分を見た。酔っているのだろうか。なんだか自分らしくない緩んだ表情が気に食わなくて、顔に力を入れた。
鳴り続くコール音に、タイミングが悪かったかな、と諦めかけた瞬間、スピーカーからいつもよりも騒がしい音が聞こえた。
「もしもし、茉里ちゃん?」
いつもよりも高い皓人さんの声が耳に入るなり、妙に苦い気持ちが胸の中に広がっていく。
「もしもし。ホテルの部屋に戻ったから電話したんだけど、タイミング悪かったかな?」
「ううん、大丈夫」
答える皓人さんの後ろから聞こえる騒がしい音とは正反対に、私の部屋は静寂そのものだ。
「なんか、盛り上がってるね」
嫌味を言ったつもりはなかったのに、口から飛び出した言葉にはどこかトゲがあって。そのトゲは何故か私の心にチリリと痛みを与えた。
「あ、ごめん、うるさいよね。ちょっと場所移動するわ」
言いながら、皓人さんが立ち上がったような音が微かに聞こえた。
「あ、電話ですか?」
遠くから聞こえた声に、再び胸がチリリと痛む。
そりゃ、そうだよね。外池さんも、一緒だよね。同じ業界にいるんだもんね。仕方がないことだと分かっていても、思わず下唇を噛み締めてしまう。
「うん、ちょっとね」
そう答える皓人さんの言葉にも、嫌気がさす。「ちょっとね」って。電話の相手が私だと、わざわざ言う必要がないのは分かる。けれども、外池さんになら私だと伝えたっていいのに。なんだかモヤモヤする。
「お待たせ」
場所を移し終えたのか、皓人さんの後ろに聞こえる声が、一気に静かになった。
「町の散策は楽しめた?」
いつも通りの優しい声が問いかける。
その声を聴くだけで癒される私は、もういない。
その声を聴くだけで全てのモヤモヤが消えていく私は、もういない。
確かにあったはずのあの煌めきは、もうすっかり色褪せてしまったようだ。1人静かにその事実に気付き、鼻の奥がツンとなる。
「うん。ホテルの近くに市場があって、そこを見てきたの。この時間でもやってるお店があって、夕飯も済ませてきちゃった」
心の内を見せないように、私は何事もなかったように話す。
「ふーん。何、食べたの?」
「海鮮丼。やっぱり市場に行ったら海鮮食べたくなっちゃって」
努めて明るい声で、私は答える。
菊地さんと一緒だったことは、言わない。
言えない。
それに、私が何も言わなければ皓人さんも追求しないことを、私は知ってしまっている。
「そっか。茉里ちゃんが楽しめたなら、良かった」
皓人さんの言葉は優しいはずなのに、どこか距離を感じる。この人は本当に私に興味があるのだろうか、という今まで何度も隠してきた疑問を私はもう無視できない。
「そっちは、どう? 業界の人たちと一緒なんでしょ? なんか、豪華そうだよね。私には、想像もできないや」
乾いた笑いを漏らしながら、鏡の奥の自分を見つめる。引きつったニセモノの笑顔が、痛々しい。
「まあ、茉里ちゃんが普段接している世界とはちょっと違うもんね」
何気なく放たれた言葉だったのだろうけれども、私はこう感じてしまった。
線を引かれた、と。
どんどんと皓人さんとの心の距離が開いていくのを感じながらも、私には何も出来なかった。
「豪華っていうか、煌びやかだったり派手イメージだったりはするかな。たまに来る分には悪くないけど、おれはあんまり得意じゃないかなあ」
笑いながら、皓人さんは言う。
「そんなこと、そこでは言わない方がいいんじゃない?」
「なんで? 大体みんな知ってることだし、別に気を遣う必要ないでしょ」
クスリ、と笑いながら話す彼は、本当にそう思っているようだ。皓人さんの飄々としたところは、相変わらずだな。そんな彼が、感情的になることなんて、あるのだろうか。
例えば、涙を流す、とか。
皓人さんが泣く姿なんて、私には想像できない。
皓人さんのことで私が涙を流すことはあるけれど。
そう心のなかで独り言ちながら思い出すのは、先ほどの菊地さんの手の感触だ。あの体温を思い出すかのように私はそっと、彼が触れた左の頬に手を当てる。ゆっくりと瞳を閉じれば、すぐにあの瞬間を再生できる。
「名前と顔しか知らないような他人とさ、酒飲んで、気を遣って、つまらない話に笑って、社会人には必要なことたって分かってるけど、やっぱり分かんないや。茉里ちゃんと過ごしてた方が、楽だわ」
皓人さんとしては、甘い言葉のつもりだったのかもしれない。少なくとも、彼にとっては本心なんだろう。けれども、「楽な相手」だという言葉は、私の耳を伝って心にトゲとなって刺さる。もしかして今までも、彼はこういった場への出席を断る口実として、私を使ってきたのだろうか。「楽な相手」だから。
「久しぶりだし、たまにはいいかなって思ったんだけどね」
カラカラという笑い声が、私の頭のなかで空虚に響く。
「あ、末田君、やっと見つけたよ!」
皓人さんの後ろから、歳を重ねた男性の声が聞こえた。
「ご無沙汰してます」
スマートフォンを下ろしたのだろうか、だんだんと皓人さんの声が遠くなっていく。
「ちょうど君と話したいことがあったんだが、申し訳ない、取り込み中だったかな」
大分声は遠くなったものの、まだ内容は十分に聞き取れるほどだった。
「いえ、大したことじゃないので」
相手が目上の人だから、謙遜しているのだろうことは分かる。分かっているのに、やはり皓人さんの言葉は私の心に痛みを与える。
「でも、恋人との電話だったんじゃないかい?」
「そんなんじゃないですよ」
ギュッ。
皓人さんの遠い声は、私の心臓を握り締めた。
聞きたくない。
これ以上はもう、聞きたくない。
本能でそう思ったのに、指が動かせない。
「ただの、知り合いです」
グッ。
心臓にかかる圧力が増す。
思わず、右手を伸ばして自分で自分の胸のあたりを擦る。
通話を終わらせよう。
そうすれば、もう聞かないですむ。
私は震える左手をスマートフォンへと伸ばした。
通話終了を押せばいい。
そうすれば、この痛みも終わるはずだ。
「彼女なんていませんし」
終わった。
痛みが、終わった。
皓人さんの声を遠くに聞きながら、なんだかすべてがバカらしく思えた。先ほどまで痛かった心臓は妙に静かで、私自身も妙に冷静だった。
「電話が終わったら、すぐに伺うので」
妙に礼儀正しい皓人さんの言葉を聞きながら、冷たいなにかが血管を通っていくのを感じた。
「ごめん、ごめん。ちょっと、声かけられちゃって」
まるで何事もなかったかのように、皓人さんは言った。いや、「まるで」じゃない。きっと、皓人さんにとって、今の会話は何事でもないんだろう。皓人さんにとって今の言葉は、なんでもないことなんだろう。その言葉が私の心にどれだけのダメージを与えたのか、彼には理解できないのだろう。
それが、皓人さんだ。
「ううん、気にしないで」
なんて答える私の声は、やはり妙に冷静だ。まるで、心と身体が解離してしまったかのようだ。自分が自分なのに自分じゃない。
「待たせちゃ悪いし、もう戻ったら?」
気持ち悪いぐらいに明るい私の声を、皓人さんが疑うことはない。その訳を訊ねることもない。
「別に、もう少し待たせたって、向こうは気にしないと思うけど」
いつものマイペースな皓人さんの言葉に、私は心の奥で盛大なため息を付いた。
めんどくさい。
今まで皓人さんに対して思ったことのない言葉が、頭に浮かぶ。
「私が気になるの。それに、私も今日はちょっと疲れちゃった。早めに寝られるように、支度を始めようかな」
驚くほどにすらすらと、思ってもいない言葉が出てくる。自分が自分でないみたいで、気味が悪い。
「そう? じゃあ、また後で連絡するね」
「うん。バイバイ」
別れの言葉を言い捨てるように吐き出して、私は通話終了ボタンを押した。
空虚だ。
まだ明るいスマートフォンの画面を、ただ呆然と眺める。
終わってしまった。
そう悟っても、もはや取り繕うことすら、私は出来なかった。しなかった。修復しようとも、すがり付こうとも、思えなかった。
ただ、終わった。
何が終わったのか、自分でははっきりと言葉にできない。ただ、終わったのだ。
スマートフォンの画面が暗くなった瞬間、突然、感情の波が一気に押し寄せてくる。
終わってしまった。
もう、取り返しが付かない。もう、無理なのだ。
自然と、涙が一気に溢れだした。言葉にならない嗚咽が、1人の部屋に響く。ゆっくりと膝から力が抜けて、椅子から床へと身体が落ちていく。
終わった。
声にならない叫びが、口から漏れ出る。
どうすれば良いのだろう。
どうすれば良かったのだろう。
一瞬、真っ白になった頭のなかで疑問符が増殖していく。
『どこで選択を間違えたんだろうな』
記憶のなかで、ゆらりゆらりと、透明なグラスのなかを深紅の液体が渦を巻く。
どこで間違えたんだろう。
どこから間違いだったんだろう。
どの選択をすれば、この胸の痛みを回避できたんだろう?
ヨロヨロと立ち上がった私は、チューハイの缶へと手を伸ばした。中身を一気に呷りながら、鏡を見つめる。
ひどい顔。
無意識に、手がティッシュペーパーへと伸びる。涙を拭い、頬に残る涙の跡も拭う。もともと化粧が濃くないせいか、泣いたことは分かるものの、パレットの上ですべてがグシャグシャになったほどではない。
机の上のスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。上から2番目のチャットに表示された数字を、頭のなかで何度も反芻する。そのままベッドにそれを放り投げると、私はそっとカードキーを握った。
行く場所はもう、決まっている。
私の心が、向かう場所だ。
エレベーターが菊地さんの宿泊階に止まった時、私の右手は熱を失った。驚くほどに心地よい熱を。その熱を取り戻そうと手を伸ばしたときには時既に遅しで、鉄の扉が閉ざされ、熱に浮かれた私だけが、箱のなかにしばし閉じ込められた。
自分の宿泊階で箱から放たれた私は、1人でゆっくりと廊下を歩く。
なんとなく浮き足だったまま、自動販売機の横を通りすぎようとして、立ち止まる。なぜだかは分からない。いつもの私なら、絶対にしない行動だ。それなのに、数分後には缶チューハイが手の中に収まっていた。
ようやく自分の部屋にたどり着いて、電気をつけて、そのままベッドにふにゃり、と座り込む。頬が妙に火照っている気がして、冷たい缶をそっと押し当てる。その冷たさが気持ち良いということは、やはり頬が熱を持っているという証拠だ。
たった1杯の日本酒が原因だろうか。
それとも……。
自然と浮かぶ菊地さんの表情に、再び身体と頬が熱を帯びる。思わず両手で頬を押さえると、パサリ、という音と共に小さな重みが消えていく。
菊地さんのジャケット、そのまま持ってきちゃったんだ。
それをぎゅっと抱きしめたい衝動を抑えて、私はゆっくりと立ち上がるとハンガーにそれを掛けた。シワにならないようにしないと。そう思いつつも、どうしても我慢できずに、一瞬だけ軽い力でそれを抱きしめてから、ラックに掛ける。仄かに香った菊地さんの匂いに、脈が早くなる。
スマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開く。1番上にある、皓人さんからのメッセージを開くべきか、指が迷ったものの、1度それを無視して、私は菊地さんからのメッセージを開いた。
ただ数字だけが打ち込まれた、いたってシンプルなそのメッセージに、思わず頬が緩んでしまう。
『俺は、いつでも中谷を待ってるから』
熱を帯びた瞳で放たれた言葉の破壊力は、計り知れない。
1度、大きく深呼吸をしてから、私はデスクの椅子に座る。
冷静に、ならないと。
今は衝動的に行動すべきタイミングじゃない、はずだ。自分を落ち着かせようと、私は缶のプルタブを押し上げた。缶を口許に運びながら、あまりにも矛盾している自分の言動に、思わず笑いが洩れた。
スマートフォンのメッセージアプリに視線を戻し、バックキーを押してから、1番上に表示されているメッセージを開いた。
「もう戻った?」
「まだ外にいるの?」
珍しくこちらの様子を窺うメッセージが続く。皓人さんは別に心配性ではないはずなのに。なんとなく、違和感を覚える。
「ホテルに戻ったら電話して」
という、最新のメッセージは受信してから30分以上が経過している。
ゴクリ、とアルコールを喉の奥に押し込んでから、私はそのまま通話ボタンを押す。
コール音を聞きながら、通話をスピーカーモードにし、ちらり、と鏡に映る自分を見た。酔っているのだろうか。なんだか自分らしくない緩んだ表情が気に食わなくて、顔に力を入れた。
鳴り続くコール音に、タイミングが悪かったかな、と諦めかけた瞬間、スピーカーからいつもよりも騒がしい音が聞こえた。
「もしもし、茉里ちゃん?」
いつもよりも高い皓人さんの声が耳に入るなり、妙に苦い気持ちが胸の中に広がっていく。
「もしもし。ホテルの部屋に戻ったから電話したんだけど、タイミング悪かったかな?」
「ううん、大丈夫」
答える皓人さんの後ろから聞こえる騒がしい音とは正反対に、私の部屋は静寂そのものだ。
「なんか、盛り上がってるね」
嫌味を言ったつもりはなかったのに、口から飛び出した言葉にはどこかトゲがあって。そのトゲは何故か私の心にチリリと痛みを与えた。
「あ、ごめん、うるさいよね。ちょっと場所移動するわ」
言いながら、皓人さんが立ち上がったような音が微かに聞こえた。
「あ、電話ですか?」
遠くから聞こえた声に、再び胸がチリリと痛む。
そりゃ、そうだよね。外池さんも、一緒だよね。同じ業界にいるんだもんね。仕方がないことだと分かっていても、思わず下唇を噛み締めてしまう。
「うん、ちょっとね」
そう答える皓人さんの言葉にも、嫌気がさす。「ちょっとね」って。電話の相手が私だと、わざわざ言う必要がないのは分かる。けれども、外池さんになら私だと伝えたっていいのに。なんだかモヤモヤする。
「お待たせ」
場所を移し終えたのか、皓人さんの後ろに聞こえる声が、一気に静かになった。
「町の散策は楽しめた?」
いつも通りの優しい声が問いかける。
その声を聴くだけで癒される私は、もういない。
その声を聴くだけで全てのモヤモヤが消えていく私は、もういない。
確かにあったはずのあの煌めきは、もうすっかり色褪せてしまったようだ。1人静かにその事実に気付き、鼻の奥がツンとなる。
「うん。ホテルの近くに市場があって、そこを見てきたの。この時間でもやってるお店があって、夕飯も済ませてきちゃった」
心の内を見せないように、私は何事もなかったように話す。
「ふーん。何、食べたの?」
「海鮮丼。やっぱり市場に行ったら海鮮食べたくなっちゃって」
努めて明るい声で、私は答える。
菊地さんと一緒だったことは、言わない。
言えない。
それに、私が何も言わなければ皓人さんも追求しないことを、私は知ってしまっている。
「そっか。茉里ちゃんが楽しめたなら、良かった」
皓人さんの言葉は優しいはずなのに、どこか距離を感じる。この人は本当に私に興味があるのだろうか、という今まで何度も隠してきた疑問を私はもう無視できない。
「そっちは、どう? 業界の人たちと一緒なんでしょ? なんか、豪華そうだよね。私には、想像もできないや」
乾いた笑いを漏らしながら、鏡の奥の自分を見つめる。引きつったニセモノの笑顔が、痛々しい。
「まあ、茉里ちゃんが普段接している世界とはちょっと違うもんね」
何気なく放たれた言葉だったのだろうけれども、私はこう感じてしまった。
線を引かれた、と。
どんどんと皓人さんとの心の距離が開いていくのを感じながらも、私には何も出来なかった。
「豪華っていうか、煌びやかだったり派手イメージだったりはするかな。たまに来る分には悪くないけど、おれはあんまり得意じゃないかなあ」
笑いながら、皓人さんは言う。
「そんなこと、そこでは言わない方がいいんじゃない?」
「なんで? 大体みんな知ってることだし、別に気を遣う必要ないでしょ」
クスリ、と笑いながら話す彼は、本当にそう思っているようだ。皓人さんの飄々としたところは、相変わらずだな。そんな彼が、感情的になることなんて、あるのだろうか。
例えば、涙を流す、とか。
皓人さんが泣く姿なんて、私には想像できない。
皓人さんのことで私が涙を流すことはあるけれど。
そう心のなかで独り言ちながら思い出すのは、先ほどの菊地さんの手の感触だ。あの体温を思い出すかのように私はそっと、彼が触れた左の頬に手を当てる。ゆっくりと瞳を閉じれば、すぐにあの瞬間を再生できる。
「名前と顔しか知らないような他人とさ、酒飲んで、気を遣って、つまらない話に笑って、社会人には必要なことたって分かってるけど、やっぱり分かんないや。茉里ちゃんと過ごしてた方が、楽だわ」
皓人さんとしては、甘い言葉のつもりだったのかもしれない。少なくとも、彼にとっては本心なんだろう。けれども、「楽な相手」だという言葉は、私の耳を伝って心にトゲとなって刺さる。もしかして今までも、彼はこういった場への出席を断る口実として、私を使ってきたのだろうか。「楽な相手」だから。
「久しぶりだし、たまにはいいかなって思ったんだけどね」
カラカラという笑い声が、私の頭のなかで空虚に響く。
「あ、末田君、やっと見つけたよ!」
皓人さんの後ろから、歳を重ねた男性の声が聞こえた。
「ご無沙汰してます」
スマートフォンを下ろしたのだろうか、だんだんと皓人さんの声が遠くなっていく。
「ちょうど君と話したいことがあったんだが、申し訳ない、取り込み中だったかな」
大分声は遠くなったものの、まだ内容は十分に聞き取れるほどだった。
「いえ、大したことじゃないので」
相手が目上の人だから、謙遜しているのだろうことは分かる。分かっているのに、やはり皓人さんの言葉は私の心に痛みを与える。
「でも、恋人との電話だったんじゃないかい?」
「そんなんじゃないですよ」
ギュッ。
皓人さんの遠い声は、私の心臓を握り締めた。
聞きたくない。
これ以上はもう、聞きたくない。
本能でそう思ったのに、指が動かせない。
「ただの、知り合いです」
グッ。
心臓にかかる圧力が増す。
思わず、右手を伸ばして自分で自分の胸のあたりを擦る。
通話を終わらせよう。
そうすれば、もう聞かないですむ。
私は震える左手をスマートフォンへと伸ばした。
通話終了を押せばいい。
そうすれば、この痛みも終わるはずだ。
「彼女なんていませんし」
終わった。
痛みが、終わった。
皓人さんの声を遠くに聞きながら、なんだかすべてがバカらしく思えた。先ほどまで痛かった心臓は妙に静かで、私自身も妙に冷静だった。
「電話が終わったら、すぐに伺うので」
妙に礼儀正しい皓人さんの言葉を聞きながら、冷たいなにかが血管を通っていくのを感じた。
「ごめん、ごめん。ちょっと、声かけられちゃって」
まるで何事もなかったかのように、皓人さんは言った。いや、「まるで」じゃない。きっと、皓人さんにとって、今の会話は何事でもないんだろう。皓人さんにとって今の言葉は、なんでもないことなんだろう。その言葉が私の心にどれだけのダメージを与えたのか、彼には理解できないのだろう。
それが、皓人さんだ。
「ううん、気にしないで」
なんて答える私の声は、やはり妙に冷静だ。まるで、心と身体が解離してしまったかのようだ。自分が自分なのに自分じゃない。
「待たせちゃ悪いし、もう戻ったら?」
気持ち悪いぐらいに明るい私の声を、皓人さんが疑うことはない。その訳を訊ねることもない。
「別に、もう少し待たせたって、向こうは気にしないと思うけど」
いつものマイペースな皓人さんの言葉に、私は心の奥で盛大なため息を付いた。
めんどくさい。
今まで皓人さんに対して思ったことのない言葉が、頭に浮かぶ。
「私が気になるの。それに、私も今日はちょっと疲れちゃった。早めに寝られるように、支度を始めようかな」
驚くほどにすらすらと、思ってもいない言葉が出てくる。自分が自分でないみたいで、気味が悪い。
「そう? じゃあ、また後で連絡するね」
「うん。バイバイ」
別れの言葉を言い捨てるように吐き出して、私は通話終了ボタンを押した。
空虚だ。
まだ明るいスマートフォンの画面を、ただ呆然と眺める。
終わってしまった。
そう悟っても、もはや取り繕うことすら、私は出来なかった。しなかった。修復しようとも、すがり付こうとも、思えなかった。
ただ、終わった。
何が終わったのか、自分でははっきりと言葉にできない。ただ、終わったのだ。
スマートフォンの画面が暗くなった瞬間、突然、感情の波が一気に押し寄せてくる。
終わってしまった。
もう、取り返しが付かない。もう、無理なのだ。
自然と、涙が一気に溢れだした。言葉にならない嗚咽が、1人の部屋に響く。ゆっくりと膝から力が抜けて、椅子から床へと身体が落ちていく。
終わった。
声にならない叫びが、口から漏れ出る。
どうすれば良いのだろう。
どうすれば良かったのだろう。
一瞬、真っ白になった頭のなかで疑問符が増殖していく。
『どこで選択を間違えたんだろうな』
記憶のなかで、ゆらりゆらりと、透明なグラスのなかを深紅の液体が渦を巻く。
どこで間違えたんだろう。
どこから間違いだったんだろう。
どの選択をすれば、この胸の痛みを回避できたんだろう?
ヨロヨロと立ち上がった私は、チューハイの缶へと手を伸ばした。中身を一気に呷りながら、鏡を見つめる。
ひどい顔。
無意識に、手がティッシュペーパーへと伸びる。涙を拭い、頬に残る涙の跡も拭う。もともと化粧が濃くないせいか、泣いたことは分かるものの、パレットの上ですべてがグシャグシャになったほどではない。
机の上のスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。上から2番目のチャットに表示された数字を、頭のなかで何度も反芻する。そのままベッドにそれを放り投げると、私はそっとカードキーを握った。
行く場所はもう、決まっている。
私の心が、向かう場所だ。
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