灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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39. 黒の所へ

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 ホテルの廊下がぐにゃりと歪む。おぼつかない足取りで、私はよたよたとエレベーターに乗り込んだ。鉄の箱が下降するのと一緒に、みぞおちの辺りがズーンと重くなる。
 ああ、珍しくお酒なんて飲むんじゃなかった。
 そんな後悔、今更したってもう遅い。それに、もしもお酒を飲んでいなかったら、今みたいな行動ができたと思う?
 自問して、ゆっくりと首を振る。きっと、お酒の力がなければ私はこんな大胆な行動に出られなかっただろう。それが正しいのか間違っているのかは、分からない。けれども、無謀だとしても、自分らしくない行動を取らないと、前に進めない気がした。

 ぐるぐると頭の中で、皓人さんの言葉が渦を巻く。
 
『ただの、知り合いです』

 そう、彼にとって私は、ただの知り合い。恋人でも、好きな人でもない、ただの、知り合い。だから、私は彼に対して罪悪感を覚える必要はない。
 お互いを求めあった、あの瞬間たちは、一体なんだったのだろうか。唇を重ねたことも、身体を重ねたことも、彼にとってはすべて些細な出来事で、特別な意味などなかったのか。簡単に心を許した自分が、愚かだった。
 思い返せば彩可だって、何度も警鐘を鳴らしてくれていたのに、私はそれを聞こうとしなかった。本当に、大馬鹿者だ。

『どこで選択を間違えたんだろうな』

 みんなが寝静まった深夜に、1人でワインを片手にお父さんが呟いていた。優しかったお父さんの顔つきは、突然の母の病死を機にどんどんと険しくなっていった。目尻の笑いじわが、いつの間にか眉間のしわに置き換わった。善かれと思った行動が裏目に出て、必死にもがき苦しむお父さんを見るのは、辛かった。
 棺に収まったお父さんの最期の姿を見たとき、本能的に思った。正しい選択をしなければならない、と。なのに、それなのに……。結局のところ、私もお父さんのように選択を間違えてしまったんだ。

 つかみ所があるようでない、雲のような人。
 気まぐれで予測不能な、猫のような人。
 そんな皓人さんを理解するのは難しいと、分かってはいた。でも、私のことを大切に想ってくれている。それだけは確かだと、思っていたのに。

 雨のような口づけを降らせたのと同じ唇で、彼は私をただの知り合いだと呼んだ。
 優しい言葉を紡いできたその声で、私をただの知り合いだと言った。
 結局のところ彼にとって私は、ただの暇つぶしの相手だったということだろう。
 皓人さんの住む世界と私の住む世界は違う。皓人さんの世界に私を招き入れたくせに、入り口で閉め出された、そんな気持ちだ。
 彼が見せてくれた私たちの世界はまやかしで、きっと実在なんてしていなかったんだ。あれはすべて、幻だったに違いない。
 だから、そんな皓人さんに対して、罪悪感を抱く必要なんてない。

 足元がふらつく中、私はゆっくりと停止したエレベーターから足を踏み出す。
 傷ついてボロボロになった心をどうにかしてくれるのは、彼しかいない。心に空いた穴を埋めてくれるのは、彼だけだ。皓人さんとのことが終わった今、この足を止めるものは何もない。

 教えてもらった部屋番号の書かれた扉を目の前にして、スーッと大きく息を吸い込む。
 このインターフォンを押したら、きっと私はもう戻れない。
 私たちは、もう戻れない。
 もう1度、冷静になってこの状況について考え直す?
 これが正しい選択かどうか、もう1度考えるべき?
 頭に浮かぶ疑問符を、ただ菊地さんに会いたいと叫ぶ私の心がなぎ倒していく。心の中も、頭の中も、私のすべてを、菊地さんで満たしたい。

 私は震える指でそっと、インターフォンを押した。少しの沈黙を経てガチャリ、と開いた扉の隙間から顔を出した菊地さんを見た瞬間、私の心の防波堤が決壊した。すべての感情が1度に溢れ出てくる。

「どうした?」

 一瞬だけ驚いた表情を見せた菊地さんは、優しい声でそう問いかける。何も言えない私は、ただ黙って彼を見上げた。ツーッと、頬を涙が伝っていくのを感じる。

「部屋を間違えたって訳じゃ、なさそうだな」

 困ったように目尻を下げる菊地さんに、私は何の答えも渡せなかった。ただただ、私は目の前の温もりに触れたかった。菊地さんがここに実在していることを、ただ確かめたかった。彼が現実なんだと、感じたかった。
 私を招き入れるように、彼は扉を大きく開いた。彼の部屋の中へと、私はゆっくりと足を進めていく。
 もう、後戻りはできない。

 菊地さんが背後で扉を閉めた気配を感じながら、私は足を止めた。
 バクバクと、心臓が大きな音を立てている。慣れないことをしているせいだろうか。

「中谷?」

 菊地さんの私を気遣う声に合わせて、私は顔を上げた。すぐさま、私を見下ろす菊地さんの瞳とかち合う。
 視線が、絡まる。
 一歩、また一歩と、菊地さんが私に近づく。もともとほとんどなかった私たちの間の距離が、ゼロになる。触れ合っていないのに、彼の体温を全身で感じる。
 まるで夕食の時の続きみたいに、再び彼の右手が私の左頬へと優しく添えられる。

「また泣いてる」

 そう言いながら、菊地さんは親指の腹でそっと私の波だの跡を拭う。たったそれだけの簡単な動作なのに、私の身体はいやに熱くなってしまう。
 目の前にいるのに、なんだか焦れったくて。もっと先に進めたくて。私は菊地さんの右手に自分の左手を重ねる。そのままじっと彼の瞳を見つめれば、再び視線が絡み合った。彼の瞳の奥に滲む欲の色に、身体の奥がもっと熱くなる。
 ゆっくり、彼の顔が私の顔へと近づいてくる。額同士が合わさるのと比例するように、お互いが瞳を伏せる。彼の吐息が私の顔を撫でていく。それだけでもう、クラクラしてしまいそうだ。

「いいのか?」

 今までに聞いたことのないほどに低い声で、菊地さんは囁くように問いかける。こんな状況でも言葉を発することが出来るなんて、私には信じられなかった。少なくとも、私はもう言葉を紡ぐことなんて出来なかった。思考することすらも、ままならなかった。
 小さく頭を縦に揺らせば、お互いの鼻が擦れ合った。もう1度、互いに視線を絡ませ合ってから、私たちはどちらともなく瞳を閉じる。
 
 そしてついに、お互いの唇が重なった。
 
 初めは、ゆっくりとお互いの唇の感触を味わうように。
 1度、唇が離れると、次はもっと深く。その次はもっともっと深く。だんだんと2人のリズムが出来上がって、お互いの吐息を交換し合う。

 気付けば私の身体は壁に押し付けられていて、私は両腕を彼の首の後ろへと回し、菊地さんを自分の方へと引き寄せていた。何度目か分からない口づけの後、彼の唇がゆっくりと私の頬を伝って、そのまま首筋へと移動していく。脈打つ箇所を吸い上げられれば、思わず声が漏れるのと同時に、腕にも力が入ってしまう。
 最初は私の頬に添えられていたはずの彼の右手は、背中を通っていつの間にか腰の辺りを蠢いていて、左手は太ももを撫でるように降りていき、膝裏にたどり着けばそのまま彼の身体の方へと引き寄せられた。ゆっくりと、私の右足が床から離れていくのを感じて、ますます腕に入れる力が強くなる。

 再び私の唇へと彼の唇が帰還すれば、そのまま私は唇を開いて彼の舌を歓迎する。間近な水音に照れている間に、右足から靴が消え去っていた。再度、彼の唇が離れていったかと思えば、なぜか私は彼を見下ろす体勢になっていて、頭のなかで何が起きたのかを考えようとするも、まるで私たちの熱い吐息で記憶が曇ってしまったように、思い出すことができない。
 お互いに息が上がっていて、菊地さんの額にはうっすらと汗が滲んでいる。それすらも色っぽく感じてしまった私は、もう末期だ。
 
 ニヤリ、と唇の片方だけ吊り上げて笑う彼の顔を、たまらず私は引き寄せた。菊地さんの吐息を喰らう勢いで、私は彼の唇を自分のそれで塞ぐ。すると、途端に身体がふわりと宙に浮いた。バカになった私の脳みそはその状況をうまく処理できず、どうやら菊地さんに抱き上げられたらしいと気付いたときには、私の両ひざが柔らかいなにかとぶつかった。それがベッドだと認識する頃には、私は彼の上に座っていて。その体勢が恥ずかしくて思わず身を引こうとするも、彼の顔が追いかけてきて、簡単に唇を捕らえられてしまう。
  私の息が上がったところで、彼の唇が私の喉を貪り始める。初めての経験に、ゾクゾクとした感覚が背中を這っていったかと思うと、それを彼の右手が追いかけていく。思わず漏れた大きめな声に、菊地さんは満足げな笑みを見せた。その表情に誘われるように、私は両手で彼の顔を挟み込むと、そのまま彼の唇を啄んだ。
 しばらくして、菊地さんの唇の動きが止まった。そっと私の唇から離れていく彼の唇を名残惜しげに見つめていると、私たちの唇の間を、銀色の糸がつないでいるのに気付く。気恥ずかしさに今更ながら頬を赤らめれば、彼の親指が優しく私の下唇を撫でる。
 そっと瞳を閉じて、合わさったままの額から、菊地さんの熱を感じる。その心地よさに酔いながら、ゆっくりと瞼を押し上げて彼を見下ろす。

「何があった?」

 静かに、菊地さんは問いかけた。
 私は一瞬、その言葉の意味が分からず、パチリ、パチリと瞬きを繰り返した。ようやくその言葉が理解できた瞬間、唐突に頭に冷や水を浴びせられたかのように身体の熱が引いていった。

「別に、何も」

 そう答えている間も、菊地さんは私の瞳の奥を探るようにじっと見つめる。すべてが見透かされている。そんな気がして、瞳を逸らそうと思っても、あまりにもまっすぐに瞳を射貫かれているせいでそれが出来ない。

「彼氏か?」

 菊地さんの言葉に、胸がピリリと痛む。
 ドクドクと、心臓が嫌なスピードで刻まれていく。押し潰されるような胸の痛みが戻ってきて、堪らずに菊地さんの肩を掴んだ。まるで、すがり付くみたいに。

「彼氏じゃ、ないです」

 ただの、他人です。
 そう口が発しそうになるのを、胸に走った痛みが止めた。自分でその言葉を発するほどの勇気は、まだない。

「さっき電話で、彼が他の人にそう説明してるのを聞きました。だから、彼氏じゃないんです」

 それだけ言って、もう話を終わらせてしまおう、と、性急に彼の唇に自分のそれを重ねる。けれども、菊地さんは口づけを返してはくれなかった。
 唇を離して、彼の瞳を覗き込む。感情の読み取れない視線に、なんとなく感情のやり場を失って俯いた。そんな私の頬に、菊地さんの手の甲が触れる。

「俺と別れた後に、酒、飲んだ?」

 彼の言葉に、私はゆっくりと頷いた。

「そっか」

 菊地さんはそれだけ言うと、静かに頷きながら、私をそっと抱きしめた。トクン、トクン、という彼の鼓動を聴きながら、私はゆっくりと瞳を閉じた。
 こんな風に始めたい訳じゃなかった。
 こんな、慰めてもらうためだけみたいに、菊地さんに迫りたくなかった。
 私、きっとまた間違えたんだ。
 トン、トン、と優しく背中を叩かれて、またも私の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「今日は、ここで止めておこう」

 耳元で囁かれた言葉に、私の心は落胆する。

「動揺してる中谷を、抱きたくない」

 ストレートな言葉から感じる菊地さんの言葉に、私はただ頷くことしか出来なかった。
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